服部龍二『幣原喜重郎と20世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣, 2006年)
本書は、近代日本外交を語る上で欠かせない幣原喜重郎の生涯に20世紀(前半)の日本が歩んだ歴史を重ね合わせる。そして「あとがき」で述べられているように、「単純な比較や類推」に対して慎重な姿勢を示しつつも、「外交と民主主義の緊張関係という古典的命題」(iii頁)に関する何らかの示唆を引き出すことを狙いとしている。以下では服部が「横糸」と呼ぶ課題である「外交と民主主義」に焦点を絞って議論を進めていきたい。
幣原が外交官としてのキャリアを歩み始め、対外観や人脈を形成していった時期、すなわち世紀転換期から第一次大戦にかけての時期は、外交の領域において古典外交(旧外交)から新外交へという革命的変化が生じていた。ヨーロッパ国際関係の経験に依拠した古典外交、とりわけその中核原理であった勢力均衡が成立する条件は、各国においてナショナリズムと民主主義が浸透することによって、次第に失われていった。その趨勢を顕在化させたのが第一次大戦であったことはいうまでもない。予想外の長期化に伴って総力戦の様相を帯びた第一次大戦の惨禍を目の当たりにした世界は、その原因の一端を秘密主義に毒された旧外交に求め、外交の民主的統制を軸とした新外交に期待をかけた。ヨーロッパ国際関係の圏外に位置したアメリカとロシアが新外交の代表的な主唱者であったこともまた旧外交から新外交への転換を象徴する意味で示唆的である(A・J・メイア『ウィルソン対レーニン――新外交の政治的起源 1917-1918年』岩波書店, 1983年)。
しかし新外交が旧外交の世界に慣れ親しんだ者にとって総じて不評であったことは、ハロルド・ニコルソンの著書『外交』を一読すれば明らかであろう。ニコルソンは、「対外政策の基礎は、不変の国家的帝国的必要に基づくものであり、したがって、党争の圏外にあるものだ」(『外交』東京大学出版会, 1968年: 2頁)という前提に対する郷愁を隠さない。それゆえに、民主的な外交の必要性を認めながらも、有権者が外交政策と外交交渉との峻別を理解することを求め、外交の専門職業的な側面を強化し、その基盤を拡大すること、そしてこれまでの外交慣行を通して育まれた良識と経験の一般的諸原則に即した公衆の教育が必要だと説く(『外交』: 96-97頁)。その意味で、ニコルソンが理想として掲げる外交(官)の資質(誠実・正確・平静・忍耐など)は、民衆の熱狂に左右されやすい新外交の時代にこそ求められているといえるだろう。幣原もこのようなニコルソンの新外交に対する見方ないし懐疑をある程度共有していたことは本書の議論からも垣間見える。細谷雄一の言葉を借りれば、ニコルソンと同じく「外交とは国家の威信にかかわるものである」(290頁)と考えていた幣原もまた「古典外交の黄昏」を生きた外交官であったといえるかもしれない(『大英帝国の外交官』筑摩書房, 2005年: 第2章)。もちろん古典外交の黄昏という時代状況が古典外交に対する郷愁と直接的に結びつくわけではない。むしろニコルソンも幣原も新しい時代状況に即した外交態様を模索したというべきだろう。
「外交と民主主義」をめぐるアポリアに対して幣原が示した回答は、「霞ヶ関正統派外交」、すなわち「内政から外交を分離することで対外政策の一貫性」(iii頁)を維持することであった。その課題は、戦間期の外相時代とは国際・国内環境が一変した戦後期において幣原が目指した、「外交を政争の具にしない」(263頁)ことを要諦とする超党派外交にも反映されている。まさしく外交と民主主義の緊張関係に取り組むことは幣原の「ライフワーク」(117, 291頁)であった。このような外交の一貫性を求める心性は、外政機構の拡充と関連づけて考える必要があるだろう。外政機構の整備は、外政家あるいは豪傑型外交官に代わって官吏型外交官の台頭を促した。外交案件の事務処理の増加に伴う外政機構の制度化は新外交の到来と軌を一にしていたが、他方で外交の民主的統制という新外交の要請に反する状況、すなわち外交のさらなる「専門化」と「非政治化」をもたらした。その点で、「対外政策の一貫性」を強く希求した幣原が外政機構の制度化を象徴する「外交官試験の申し子」(85頁)であったことは示唆的である。いわば幣原は、それまでとは異なる新しいタイプの外交指導者であり、外政家というよりも(官吏型)外交官の系譜に位置づけられる。ここに「幣原を特徴づけるのはある種の弱さではなかろうか」(ii頁)という問いが発せられる理由の一端を看取することができるだろう。
「外交を政争の具にしない」とは、対外問題をめぐって国民大衆、そしてその代理人たる政治家(屋)の介入する余地をできる限りなくすことを意味する。言い換えれば、パトス(情)の位相で議論され、判断されることに抗して、あくまで対外問題はロゴス(理)の位相で処理されるべきだという認識がその根底にある。しかし、ロゴスに基づく外政機構の拡大それ自体が対外問題をロゴスの位相に留めておくことを困難にさせる逆説が生じる。外政機構の拡充による職員の増加は、省内にいくつかの派閥が形成される契機を提供した。そして外交方針をめぐる派閥間の対立は、省内で解消されることができなければ、政治家や軍部など省外の介入を招く。また幣原の政策決定スタイルが一部の信頼できる部下との協議に基づくものであったことは「閉ざされたエリート主義」(114頁)という批判を惹起した。こうして本来忌避していたはずの外交が政争の具となる「政治化」が生じていく。
さらにいうならば、内政からの影響をなるべく排することによって外交政策の一貫性を維持することは達成困難な試みであった。外交の自律という理想は具現化されるどころか、ますます内政の従属変数と化していった。幣原外交の成否を判断する場合、国内政治との関連性を視野に入れなくてはならないことは明らかである。「大正デモクラシー最大の悲劇は、政党による外交指導が制度化されないままに満州事変を迎えてしまったことにある」(116, 291頁)と述べられているように、国内基盤が脆弱な状態のままでは外交政策の一貫性は望むべくもない。戦前の政党政治が十分に制度として定着せず、時の首相の個人的資質に左右される面が大きかったことは、幣原の進めた外交路線が容易に覆されてしまう要因でもあった。排日移民法成立に際しての外交文書公開に見られるように、幣原は民主主義の浸透する時代状況を十分に視野に入れていたが、内政と外交との間に引かれた境界線を強固にする方向に動いていたために、皮肉にも自ら課題とした外交政策の一貫性を達成困難なものにしてしまったのではないだろうか。そこに「(官吏型)外交官」幣原の限界が垣間見えるように思われる。
翻って21世紀の今日に目を移すならば、「外交と民主主義の緊張関係」はいっそう喫緊の課題として顕在化している。その格好の素材を提供してくれるのが小泉政権の外交政策だろう。「首相支配」と呼ばれる政権基盤の強化によって、強い政治指導力を発揮する制度的条件に加えて、ロゴスよりもパトスに依拠した小泉の政治は多くの論者の関心を引いている(たとえば、内山融『小泉政権――「パトスの首相」は何を変えたのか』中央公論新社, 2007年)。外交と民主主義、とりわけ世論との関係は、小泉外交において両義的である。対北朝鮮外交では総じて拉致被害者に対する同情と反北朝鮮という国民感情を十分に汲み取ったのに対して、イラク戦争の支持をめぐっては次のように述べて世論に対して距離を置く態度を示した。「世論は世論であります。尊重しなけりゃならないと思いますけれども、世論の動向と日本全体の利益を考えてどう判断すべきかというのは、政治の責任に当たる者として十分配慮しなきゃいけないと思っています。世論の動向に左右されて正しいかというのは、歴史の事実を見ればそうでない場合も多々あるわけであります。…/私は、そういう面におきまして、世論が、ある場合は正しい場合もある、ある場合は世論に従って政治をすると間違う場合もある。それは歴史の事実が証明しているところであります」(参議院予算委員会2003年3月5日: 参議院会議録情報第156回国会予算委員会第6号)。
ここにおいて外交の民主的統制という新外交はその本質において大きく変容していることは明らかだろう。民主主義を構成する要素であるところの世論が外交政策を「統制」する役割を担うのではなく、政策に対する支持調達手段として機能している。時の政権が求める結果が得られなかったとき、先に引用した小泉の発言が示すように、世論の意向は省みられず、国家的必要あるいは国家理性の名において政策が正当化される。世論が主体的に政策に影響を与える可能性は先験的に排除され、外交の民主的統制が目指していた状況とは正反対の状況が生まれている。いわゆる外交のポピュリズム化現象は、世論の動向に対する配慮を示しつつも、政府が提起した争点を受容・消費するだけの消極的な主体の形成を促す。幣原がライフワークとした「外交と民主主義」の緊張関係はその態様を変えて今日においても取り組まなくてはならない課題として提起されている。
本書は、近代日本外交を語る上で欠かせない幣原喜重郎の生涯に20世紀(前半)の日本が歩んだ歴史を重ね合わせる。そして「あとがき」で述べられているように、「単純な比較や類推」に対して慎重な姿勢を示しつつも、「外交と民主主義の緊張関係という古典的命題」(iii頁)に関する何らかの示唆を引き出すことを狙いとしている。以下では服部が「横糸」と呼ぶ課題である「外交と民主主義」に焦点を絞って議論を進めていきたい。
幣原が外交官としてのキャリアを歩み始め、対外観や人脈を形成していった時期、すなわち世紀転換期から第一次大戦にかけての時期は、外交の領域において古典外交(旧外交)から新外交へという革命的変化が生じていた。ヨーロッパ国際関係の経験に依拠した古典外交、とりわけその中核原理であった勢力均衡が成立する条件は、各国においてナショナリズムと民主主義が浸透することによって、次第に失われていった。その趨勢を顕在化させたのが第一次大戦であったことはいうまでもない。予想外の長期化に伴って総力戦の様相を帯びた第一次大戦の惨禍を目の当たりにした世界は、その原因の一端を秘密主義に毒された旧外交に求め、外交の民主的統制を軸とした新外交に期待をかけた。ヨーロッパ国際関係の圏外に位置したアメリカとロシアが新外交の代表的な主唱者であったこともまた旧外交から新外交への転換を象徴する意味で示唆的である(A・J・メイア『ウィルソン対レーニン――新外交の政治的起源 1917-1918年』岩波書店, 1983年)。
しかし新外交が旧外交の世界に慣れ親しんだ者にとって総じて不評であったことは、ハロルド・ニコルソンの著書『外交』を一読すれば明らかであろう。ニコルソンは、「対外政策の基礎は、不変の国家的帝国的必要に基づくものであり、したがって、党争の圏外にあるものだ」(『外交』東京大学出版会, 1968年: 2頁)という前提に対する郷愁を隠さない。それゆえに、民主的な外交の必要性を認めながらも、有権者が外交政策と外交交渉との峻別を理解することを求め、外交の専門職業的な側面を強化し、その基盤を拡大すること、そしてこれまでの外交慣行を通して育まれた良識と経験の一般的諸原則に即した公衆の教育が必要だと説く(『外交』: 96-97頁)。その意味で、ニコルソンが理想として掲げる外交(官)の資質(誠実・正確・平静・忍耐など)は、民衆の熱狂に左右されやすい新外交の時代にこそ求められているといえるだろう。幣原もこのようなニコルソンの新外交に対する見方ないし懐疑をある程度共有していたことは本書の議論からも垣間見える。細谷雄一の言葉を借りれば、ニコルソンと同じく「外交とは国家の威信にかかわるものである」(290頁)と考えていた幣原もまた「古典外交の黄昏」を生きた外交官であったといえるかもしれない(『大英帝国の外交官』筑摩書房, 2005年: 第2章)。もちろん古典外交の黄昏という時代状況が古典外交に対する郷愁と直接的に結びつくわけではない。むしろニコルソンも幣原も新しい時代状況に即した外交態様を模索したというべきだろう。
「外交と民主主義」をめぐるアポリアに対して幣原が示した回答は、「霞ヶ関正統派外交」、すなわち「内政から外交を分離することで対外政策の一貫性」(iii頁)を維持することであった。その課題は、戦間期の外相時代とは国際・国内環境が一変した戦後期において幣原が目指した、「外交を政争の具にしない」(263頁)ことを要諦とする超党派外交にも反映されている。まさしく外交と民主主義の緊張関係に取り組むことは幣原の「ライフワーク」(117, 291頁)であった。このような外交の一貫性を求める心性は、外政機構の拡充と関連づけて考える必要があるだろう。外政機構の整備は、外政家あるいは豪傑型外交官に代わって官吏型外交官の台頭を促した。外交案件の事務処理の増加に伴う外政機構の制度化は新外交の到来と軌を一にしていたが、他方で外交の民主的統制という新外交の要請に反する状況、すなわち外交のさらなる「専門化」と「非政治化」をもたらした。その点で、「対外政策の一貫性」を強く希求した幣原が外政機構の制度化を象徴する「外交官試験の申し子」(85頁)であったことは示唆的である。いわば幣原は、それまでとは異なる新しいタイプの外交指導者であり、外政家というよりも(官吏型)外交官の系譜に位置づけられる。ここに「幣原を特徴づけるのはある種の弱さではなかろうか」(ii頁)という問いが発せられる理由の一端を看取することができるだろう。
「外交を政争の具にしない」とは、対外問題をめぐって国民大衆、そしてその代理人たる政治家(屋)の介入する余地をできる限りなくすことを意味する。言い換えれば、パトス(情)の位相で議論され、判断されることに抗して、あくまで対外問題はロゴス(理)の位相で処理されるべきだという認識がその根底にある。しかし、ロゴスに基づく外政機構の拡大それ自体が対外問題をロゴスの位相に留めておくことを困難にさせる逆説が生じる。外政機構の拡充による職員の増加は、省内にいくつかの派閥が形成される契機を提供した。そして外交方針をめぐる派閥間の対立は、省内で解消されることができなければ、政治家や軍部など省外の介入を招く。また幣原の政策決定スタイルが一部の信頼できる部下との協議に基づくものであったことは「閉ざされたエリート主義」(114頁)という批判を惹起した。こうして本来忌避していたはずの外交が政争の具となる「政治化」が生じていく。
さらにいうならば、内政からの影響をなるべく排することによって外交政策の一貫性を維持することは達成困難な試みであった。外交の自律という理想は具現化されるどころか、ますます内政の従属変数と化していった。幣原外交の成否を判断する場合、国内政治との関連性を視野に入れなくてはならないことは明らかである。「大正デモクラシー最大の悲劇は、政党による外交指導が制度化されないままに満州事変を迎えてしまったことにある」(116, 291頁)と述べられているように、国内基盤が脆弱な状態のままでは外交政策の一貫性は望むべくもない。戦前の政党政治が十分に制度として定着せず、時の首相の個人的資質に左右される面が大きかったことは、幣原の進めた外交路線が容易に覆されてしまう要因でもあった。排日移民法成立に際しての外交文書公開に見られるように、幣原は民主主義の浸透する時代状況を十分に視野に入れていたが、内政と外交との間に引かれた境界線を強固にする方向に動いていたために、皮肉にも自ら課題とした外交政策の一貫性を達成困難なものにしてしまったのではないだろうか。そこに「(官吏型)外交官」幣原の限界が垣間見えるように思われる。
翻って21世紀の今日に目を移すならば、「外交と民主主義の緊張関係」はいっそう喫緊の課題として顕在化している。その格好の素材を提供してくれるのが小泉政権の外交政策だろう。「首相支配」と呼ばれる政権基盤の強化によって、強い政治指導力を発揮する制度的条件に加えて、ロゴスよりもパトスに依拠した小泉の政治は多くの論者の関心を引いている(たとえば、内山融『小泉政権――「パトスの首相」は何を変えたのか』中央公論新社, 2007年)。外交と民主主義、とりわけ世論との関係は、小泉外交において両義的である。対北朝鮮外交では総じて拉致被害者に対する同情と反北朝鮮という国民感情を十分に汲み取ったのに対して、イラク戦争の支持をめぐっては次のように述べて世論に対して距離を置く態度を示した。「世論は世論であります。尊重しなけりゃならないと思いますけれども、世論の動向と日本全体の利益を考えてどう判断すべきかというのは、政治の責任に当たる者として十分配慮しなきゃいけないと思っています。世論の動向に左右されて正しいかというのは、歴史の事実を見ればそうでない場合も多々あるわけであります。…/私は、そういう面におきまして、世論が、ある場合は正しい場合もある、ある場合は世論に従って政治をすると間違う場合もある。それは歴史の事実が証明しているところであります」(参議院予算委員会2003年3月5日: 参議院会議録情報第156回国会予算委員会第6号)。
ここにおいて外交の民主的統制という新外交はその本質において大きく変容していることは明らかだろう。民主主義を構成する要素であるところの世論が外交政策を「統制」する役割を担うのではなく、政策に対する支持調達手段として機能している。時の政権が求める結果が得られなかったとき、先に引用した小泉の発言が示すように、世論の意向は省みられず、国家的必要あるいは国家理性の名において政策が正当化される。世論が主体的に政策に影響を与える可能性は先験的に排除され、外交の民主的統制が目指していた状況とは正反対の状況が生まれている。いわゆる外交のポピュリズム化現象は、世論の動向に対する配慮を示しつつも、政府が提起した争点を受容・消費するだけの消極的な主体の形成を促す。幣原がライフワークとした「外交と民主主義」の緊張関係はその態様を変えて今日においても取り組まなくてはならない課題として提起されている。
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