添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交――戦後日本の選択と構想』(筑摩書房, 2005年)
60年代終わりに高坂正堯が提起し、80年代に永井陽之助がドクトリンとして昇華・定式化させた「吉田ドクトリン」に対する「修正主義」的視座を代表するのが、講和条約交渉過程における吉田の稚拙さを批判し、その背後に天皇の存在を嗅ぎ取ろうとする
豊下楢彦『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』(岩波新書, 1996年)であった。豊下の議論から、吉田の選択を「現実主義」に立脚したものであるとする認識自体が現実を見失わせることになったという「現実主義」思考のパラドクスが提起された。
それに対し、
田中明彦『安全保障――戦後50年の模索』(読売新聞社, 1997年)や
坂元一哉『日米同盟の絆――安保条約と相互性の模索』(有斐閣, 2000年)は、当時の国際環境から判断すれば、吉田のとった選択は妥当であり、豊下が指摘する政策の実現可能性はきわめて乏しいものだと論じる。「ポスト修正主義」とも形容できる立場であり、従来の主張を公文書によって補強する点で、「正史プラス公文書(orthodox plus archive)」という冷戦史研究の冷笑的なジャーゴンに擬えることもできる。
「吉田ドクトリン」をめぐる近年の論争は、当初「堂場肇文書」として、後に「平和条約の締結に関する調書」(「西村調書」)として公開された一次史料の検討・解釈を足場として展開されてきた。その意味で、戦後の日本外交に対する視座が、対外的には冷戦の、国内的には55年体制の束縛から解放された、生産的な論争という性格を有している。
こうした文脈において、添谷『日本の「ミドルパワー」外交』は、議論の大枠において田中や坂元の主張を踏襲する点で、「正史」の系譜に連なるものである。その上で、著者が提起しようとするのは「吉田ドクトリン」を「ミドルパワー」という視点から読み替えることによって切り開かれる選択と構想の可能性であると整理できるだろう。
であれば、本書の評価は、「ミドルパワー」の視角が戦後日本外交を論じる有効な視座として機能しているかという点に集約される。しかし、その試みが所期の目的を十分に達成したといえる印象は残らなかったというのが率直な感想である。左の平和主義と右の国家主義の双方を拝しての中庸の選択を「ミドルパワー」と読み替える積極的意義はいったい何だろうか。終章で提起される「ミドルパワー外交の構想」にしても、その内実として列挙されている人間の安全保障にしろ、東アジア共同体にしろ、わざわざ「ミドルパワー」という言葉を使わなければならない必然性は乏しい。穿った見方をすれば、二重の外交アイデンティティーを止揚するよりも、むしろ凍結させてしまう形で現実から目を逸らさせるスローガンの域を出ていないともいえる。
言い換えれば、戦後日本外交を分析する概念としての「ミドルパワー」と、外交実践のシンボルとしての「ミドルパワー」が明確に区別されないままになっていることに起因する問題ともいえる。このことは、政府の懇談会「21世紀日本の構想懇談会」に携わる中で「ミドルパワー」概念を提唱してきたという出自にも関連している。つまり「知/治」の関係をめぐる問題を図らずも示唆している点で、吉見俊哉が
『万博幻想――戦後政治の呪縛』(筑摩書房, 2005年)で論じた、万博をめぐる「政治」と知識人の関わりが、外交という別の領域で展開された事例とみなすことができる。シンボルとしての「ミドルパワー」で含意する構想がどれだけ日本外交の実践に活かされているのかと考えた場合、日本外交の3本柱(日米関係、国連、アジア)が、正三角形を描くのではなく、日米関係が突出した、底辺の狭い二等辺三角形となっている動きに対して、「ニッチ外交」と規定された「ミドルパワー」外交は総じてアメリカの機嫌を損ねない、あるいはアメリカの関心が低い分野で活動する下請けの意味合いしか帯びないのではないだろうか。
シンボルとしての「ミドルパワー」論に関する積極的意義を提示できていないといえる本書であるが、戦後外交を分析する視点としての「ミドルパワー」論については、検討に値する価値を持っている。その意味で類書から本書を際立たせているのが、中曽根個人および彼の外交政策を論じた4章「非核中級国家論の実践」であろう。吉田が敷いた保守本流から外れた、異端として描かれることが多い中曽根を、「吉田ドクトリン」の継承者に位置づけなおす視座は、国内政治史における「正史」に対する「修正主義」であると同時に、米中和解に見られる1970年代のアジア国際政治の転機、あるいは冷戦対立の「部分的終焉」をどのように理解するかという問題とも通底する。教科書的理解による冷戦期と冷戦後の区分によって不可視化されてしまうアジア冷戦の特異性を考慮したとき、中曽根の登場と彼の政策が、そうした転機と軌を一にし、湾岸戦争後に台頭した国際貢献論など「ポスト冷戦」的状況を先取りした形で展開していったと見ることができる。
したがって本書は、構想としての「ミドルパワー」ではなく、選択としての「ミドルパワー」の視点にその意義がある。別言すれば、2つの「ミドルパワー」の間に適切な均衡解を見出すことが困難であることを示すものでもある。