constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

夢の鍵

2005年05月30日 | samomluva
もう少しで届きそうなところまで
幼いころから夢見た憧れが
君を引き寄せていく
見守り続けてきた背中
素直に喜びを分かち合いたい

抱き続けた夢
目の前の困難なんか
悲しみを背負って
生きてほしくないから

まだ開かれていない扉に
鍵を入れれば
君の夢は叶うから
辿り着くまでの出会いが
現在を変えてくれる

もう少しで掴みかけたはずなのに
ちょっとした迷いに揺れた心
僕を引き離していく
見つめ返してきた瞳に
心が締め付けられそうなほどに

羨まし気な眼で
すべてを知っている素振り
悲しみを背負って
生きてほしくないから

まだ見たことのない世界へ
足を踏み出せば
君の夢は叶うから
辿り着くまでの苦しみ
乗り越えていける

ここから伸びていく道を
歩き出していけば
君の夢は叶うから
辿り着いた先にあるはず
諦めてはいけない

君の夢は叶うから
信じてきた先にあるはず
その手を離さずに

悲しみを背負って
生きてほしくないから
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16年後の答え

2005年05月27日 | hrat
ロッテ3度目5連勝 一発なしも打ち勝つ(『スポーツニッポン』)
ロッテ強い!G3タテ!若手の今江&西岡が工藤を攻略(『サンケイスポーツ』)

いくら12球団一の投手陣とはいえ、清水と渡辺(俊)抜きの裏ローテの巡り合わせで、3連敗を喫した試合内容は、「巨人はロッテよりも弱い」という加藤哲郎(近鉄@1989年日本シリーズ)の発言が「真実」であることを図らずも証明してしまったと解せる。

楽天14人攻撃 初の3連勝達成(『スポーツニッポン』)
楽天初の3連"笑"!「全球団負け越し」だけはなくなった(『サンケイスポーツ』)
15点“楽勝”初3連勝 球団新19安打(『スポーツ報知』)

一方、楽天は、交流戦の最下位決定戦で、中日を3タテ。ただ、ドイツの諺 "Einmal ist keinmal"(1度は数のうちに入らない)を思い起こせば、この「3連勝」が偶然の産物にすぎなかったと後に語られることにならないためにも、今日からの阪神戦が大きな意味を持ってくる。たとえ今日を落としたとしても、2戦目を勝って連敗モード突入を回避することができれば、2度目の「3連勝」もありえる。

ところで、『週刊ベースボール』によれば、楽天・高村は故障中で、1軍に上がれるとしても後半戦からということらしい。
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ウルティマ・ラティオ

2005年05月24日 | hrat
田尾監督が交流戦利用しセに補強直談判(『日刊スポーツ』)
戦力補強は田尾監督がやる フロント主導は「厳しいかも」(『スポーツ報知』)

岩隈が防御率6点台と投手成績最下位に沈み、一場が先発ローテーションから外れるなど、上昇の兆しがまったく見えないなか、セリーグ球団に「泣きつく」という最終手段に打って出るらしい。

4月中に動いていれば、キャプラー起用で、ベンチでくすぶっていた清水獲得という可能性もあったはずだが、交流戦に入ってからの清水の活躍を見ると、今ではムリな話だろう。

ぼろぼろの投手陣にしても、まだ1軍で登板していない川尻や高村といったベテランをうまく使えば、金田のようにある程度試合を作ってくれるのではないだろうか。ただファームでの成績を見ると、川尻は6試合登板で1勝1敗、防御率5.60、高村にいたっては、登板の記録がなし(故障中?)、と期待に沿うのは難しいとも思える(2005東北楽天ゴールデンイーグルス・個人投手成績(イースタン・リーグ))。
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欲望のミドルパワー

2005年05月22日 | knihovna
添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交――戦後日本の選択と構想』(筑摩書房, 2005年)

60年代終わりに高坂正堯が提起し、80年代に永井陽之助がドクトリンとして昇華・定式化させた「吉田ドクトリン」に対する「修正主義」的視座を代表するのが、講和条約交渉過程における吉田の稚拙さを批判し、その背後に天皇の存在を嗅ぎ取ろうとする豊下楢彦『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』(岩波新書, 1996年)であった。豊下の議論から、吉田の選択を「現実主義」に立脚したものであるとする認識自体が現実を見失わせることになったという「現実主義」思考のパラドクスが提起された。

それに対し、田中明彦『安全保障――戦後50年の模索』(読売新聞社, 1997年)坂元一哉『日米同盟の絆――安保条約と相互性の模索』(有斐閣, 2000年)は、当時の国際環境から判断すれば、吉田のとった選択は妥当であり、豊下が指摘する政策の実現可能性はきわめて乏しいものだと論じる。「ポスト修正主義」とも形容できる立場であり、従来の主張を公文書によって補強する点で、「正史プラス公文書(orthodox plus archive)」という冷戦史研究の冷笑的なジャーゴンに擬えることもできる。

「吉田ドクトリン」をめぐる近年の論争は、当初「堂場肇文書」として、後に「平和条約の締結に関する調書」(「西村調書」)として公開された一次史料の検討・解釈を足場として展開されてきた。その意味で、戦後の日本外交に対する視座が、対外的には冷戦の、国内的には55年体制の束縛から解放された、生産的な論争という性格を有している。

こうした文脈において、添谷『日本の「ミドルパワー」外交』は、議論の大枠において田中や坂元の主張を踏襲する点で、「正史」の系譜に連なるものである。その上で、著者が提起しようとするのは「吉田ドクトリン」を「ミドルパワー」という視点から読み替えることによって切り開かれる選択と構想の可能性であると整理できるだろう。

であれば、本書の評価は、「ミドルパワー」の視角が戦後日本外交を論じる有効な視座として機能しているかという点に集約される。しかし、その試みが所期の目的を十分に達成したといえる印象は残らなかったというのが率直な感想である。左の平和主義と右の国家主義の双方を拝しての中庸の選択を「ミドルパワー」と読み替える積極的意義はいったい何だろうか。終章で提起される「ミドルパワー外交の構想」にしても、その内実として列挙されている人間の安全保障にしろ、東アジア共同体にしろ、わざわざ「ミドルパワー」という言葉を使わなければならない必然性は乏しい。穿った見方をすれば、二重の外交アイデンティティーを止揚するよりも、むしろ凍結させてしまう形で現実から目を逸らさせるスローガンの域を出ていないともいえる。

言い換えれば、戦後日本外交を分析する概念としての「ミドルパワー」と、外交実践のシンボルとしての「ミドルパワー」が明確に区別されないままになっていることに起因する問題ともいえる。このことは、政府の懇談会「21世紀日本の構想懇談会」に携わる中で「ミドルパワー」概念を提唱してきたという出自にも関連している。つまり「知/治」の関係をめぐる問題を図らずも示唆している点で、吉見俊哉が『万博幻想――戦後政治の呪縛』(筑摩書房, 2005年)で論じた、万博をめぐる「政治」と知識人の関わりが、外交という別の領域で展開された事例とみなすことができる。シンボルとしての「ミドルパワー」で含意する構想がどれだけ日本外交の実践に活かされているのかと考えた場合、日本外交の3本柱(日米関係、国連、アジア)が、正三角形を描くのではなく、日米関係が突出した、底辺の狭い二等辺三角形となっている動きに対して、「ニッチ外交」と規定された「ミドルパワー」外交は総じてアメリカの機嫌を損ねない、あるいはアメリカの関心が低い分野で活動する下請けの意味合いしか帯びないのではないだろうか。

シンボルとしての「ミドルパワー」論に関する積極的意義を提示できていないといえる本書であるが、戦後外交を分析する視点としての「ミドルパワー」論については、検討に値する価値を持っている。その意味で類書から本書を際立たせているのが、中曽根個人および彼の外交政策を論じた4章「非核中級国家論の実践」であろう。吉田が敷いた保守本流から外れた、異端として描かれることが多い中曽根を、「吉田ドクトリン」の継承者に位置づけなおす視座は、国内政治史における「正史」に対する「修正主義」であると同時に、米中和解に見られる1970年代のアジア国際政治の転機、あるいは冷戦対立の「部分的終焉」をどのように理解するかという問題とも通底する。教科書的理解による冷戦期と冷戦後の区分によって不可視化されてしまうアジア冷戦の特異性を考慮したとき、中曽根の登場と彼の政策が、そうした転機と軌を一にし、湾岸戦争後に台頭した国際貢献論など「ポスト冷戦」的状況を先取りした形で展開していったと見ることができる。

したがって本書は、構想としての「ミドルパワー」ではなく、選択としての「ミドルパワー」の視点にその意義がある。別言すれば、2つの「ミドルパワー」の間に適切な均衡解を見出すことが困難であることを示すものでもある。
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白旗

2005年05月21日 | hrat
礒部10号も空砲に…楽天は今季7度目の3連敗(『サンケイスポーツ』)

チーム勝利数より先に、磯部のHR数が2桁に到達。昨日は、いい感じで先制したにもかかわらず、先発ラスが踏ん張りきれず、ぼろぼろの投手陣の中で防御率0点台と孤軍奮闘していた福盛が決勝点を与えてしまうという後味の悪い敗戦だった。

テレ東6・8の巨人戦中継は午後8時から(『日刊スポーツ』)

テレビ東京は貧乏くじを引かされたということだろうか。いっそのこと中継をやめて、得意のアニメ番組で固めたほうが、そこそこの視聴率を期待できると思われるが、プロ野球(巨人)信仰は依然として根強いことを裏付けるニュースでもある。
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輝きの果て

2005年05月20日 | samomluva
グラスに残る氷がゆっくり溶けてゆく
眠気を振り払ってしまうほどの冷たさ
まどろみに慣れきった体
指先から滑り落ちていく
もうその輝きは取り戻せない

一人で生きていけると言い聞かせて
あなたの存在を忘れさせてくれるもの
それが確かにあるはずと言い聞かせて
突きつけられた現実から目を背けたまま

いつまでも心の中を占有している
美しさのなかに憂いを感じ取って
何度もつかみ損ねた果てに
空虚な思い出ばかりが
あなたとの記憶に刻まれていく

二人で育んでいたはずの時間
僕らの関係を壊してしまったのは
それを愛だと偽っていたから
聞こえてくる真実に耳を塞いだまま

一人で生きていけると言い聞かせて
二人の関係を封印してしまったのは
それが愛だと気づいていたから
突きつけられた言葉を胸に受け止めて

それが別れと感じていたから
聞こえてくる言葉の意味を受け止めて
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貯金シリーズ

2005年05月16日 | hrat
岩隈でも勝てず…楽天の借金25に(『スポーツニッポン』)

交流戦に入っても、各チームにせっせと白星を献上している楽天。昨日の阪神戦は、岩隈が「魔の6回」に逆転を許したのが痛かったが、それよりも5回の攻撃で、飯田のタイムリーに続くチャンスでクリーンアップに回ってきたにもかかわらず、追加点を奪えなかったことが、楽天の「今」を物語っていた。

ブルペンが貧弱なため、どうしても先発を引っ張りたくなり、そしてその先発が痛打を浴びるという悪循環が解消される気配はなかなかないようだ。「田尾監督 阪神に"投手ください"」という『デイリースポーツ』の記事も哀れみを感じさせる。12日の『スポーツニッポン』によれば、「楽天が横浜の斎藤隆獲りに乗り出す」らしい。抑えの経験もある点で、実現すればそれなりの戦力になりそうだが、付け焼刃に終わる可能性も捨てきれない。

アイスホッケーの世界選手権はチェコが優勝したそうだ(アイスホッケー=世界選手権、チェコが優勝「ロイター」)。
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チノパンとポロシャツの兵士たち

2005年05月13日 | nazor
ほとんど情報が入ってこない日本人拘束事件であるが、民間軍事会社(PMCs)の認知度が一気に高まったことだけは明らかなようだ。

たしかにその存在自体は冷戦終結後の1990年代からジャーナリズムなどで言及されていたのも確かで、アフリカ地域を専門とする研究者が、アンゴラやシエラレオネ内戦におけるPMCsの活動を取り上げてもいた(たとえば武内進一編『現代アフリカの紛争――歴史と主体』アジア経済研究所, 2000年)。

こうした1990年代のPMCsをめぐる状況を総括する意味合いを持っていたのが2002年12月に放送されたNHKスペシャル「紛争ビジネス・知られざる民間軍事会社」だった。番組では、実際に戦闘に従事するPMCsとして、必ず取り上げられるエクゼクティヴ・アウトカムズや、兵士の訓練や作戦立案といった軍事コンサルタントを主な職務とするMPRI社の活動を通じて、その実態に迫っていた。また既存の国際法ではPMCsを規制できない点や、イギリス政府などはPMCsを国連PKOに活用することを検討していることなど、PMCsを取り巻く現況を的確に整理するものであった。

そこで印象的なのは、MPRI社員が戦闘服ではなく、緑のポロシャツにチノパンという格好で、派遣先諸国の兵士たちの教練に当たっている点だろう。そこに「民間」であって、軍隊ではないという彼らなりの一線を引いているわけである。

戦争行為に参加する者と民間人に境界線を引くことによって、近代社会における戦争が一種の制度として機能していた。イギリスの国際政治学者ヘドリー・ブルが国際社会における秩序維持の一つとして戦争の役割に言及したのはこうした背景を踏まえてのことであった(『国際社会論』岩波書店, 2000年)。20世紀前半の「総力戦」やヴェトナム戦争に典型的なゲリラ戦といった戦争様態の変容に伴って、こうした境界線の維持やそれに即した戦争観にズレが生じてきた終着点がPMCsであろう。

その意味で、昨年4月のイラク人質事件の際に、「オールナイトニッポン」で、ナインティナイン岡村隆史が「自衛隊はあんな迷彩服なんか着ているから狙われるんです。チノパンを履けばいいんです」という趣旨の発言をしたのは、無意識的に現代の戦争をめぐる前提の転換を言い当てたものだったとみなすこともできる。

ただし、MPRI社員が戦闘服を着ないかというとそういうわけではない。参照頻度が高まったP・W・シンガー『戦争請負会社』の英語原書の表紙を飾るのは、クウェートで活動中のMPRI社員である(P. W. Singer, Corporate Warriors: the Rise of the Privatized Military Industry, Cornell UP, 2003)。
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氷上の戦争

2005年05月12日 | hrat
主要全国紙のスポーツ面でほとんど報じられることがないのが、現在オーストリアで開催中のアイスホッケーの世界選手権。約1年前、月9で放送されたドラマ「プライド」が多少なりともアイスホッケーの認知度の向上に貢献したといっても、その印象は、主題歌に使用されたクイーンの人気再上昇の影に隠れてしまった感が否めない。マイナースポーツに纏わりつく呪縛の強さともいえる。

現在、「アイスホッケー=世界選手権、スウェーデンなど準々決勝進出」(ロイター通信)らしく、しかも今季のNHLが労使交渉の決裂で開催中止になったため、各国代表チームがほぼオールスターチーム編成になっているそうだ。

しばしばサッカーを国家同士の戦争の代替制度、あるいはナショナリズムの発現空間とみなすことがあるが、アイスホッケーも同様にその時々の国際政治の文脈において解釈される。

たとえば長野五輪のアイスホッケー決勝カード「チェコ対ロシア」などはその典型だろう。ちょうどソ連率いるワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻した1968年から30年目にあたる1998年に決勝で対決するというめぐり合わせもあって、どうしても政治的・歴史的背景に注意が向けられた。

さらにいえば、その軍事侵攻から約半年後の1969年3月にスウェーデンで開催されたアイスホッケー世界選手権で、チェコスロヴァキアがソ連に2連勝したことは、その当時、事実上ソ連の軍事占領下にあったチェコスロヴァキア国民にとって鬱憤をはらす契機となった。ただ街頭へ繰り出した国民の一部が暴走し、ソ連関連施設に投石するに及んで、なんとか指導的地位にとどまっていたドゥプチェクをはじめとす改革派に対するソ連の圧力がいっそう強まり、4月にドゥプチェクが辞任し、改革の芽を完全に摘まれるというアイロニカルな結果を招くことになった。その意味でもドラマ性がある出来事であった。

この当時の関係者たちの声を拾ったルポタージュとして、曽我部司『ホッケー'69――チェコと政治とスポーツと』(TBSブリタニカ, 2000年)がある。アンチNHLの匂いが濃く、チェコなど東欧のアイスホッケー文化を神聖化するような素朴な二元論の視座が若干気になるところだが、入り口としては十分だろう。
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親米保守の罠

2005年05月11日 | nazor
「邦人拘束 救出とテロ阻止に全力を」『産経新聞』社説
「産経抄」『産経新聞』

日本人拘束事件について、各紙が大きく報じている中、違った立ち位置を取るのが『産経』である。さらに異彩を放つ点は、その視点が今回の事態、そして事件を取り巻く構造を見事なまでに理解していないことである。

救出のために、自衛隊の強化、あるいは特殊部隊の創設を求める発想は、軍事の民営化という現象に対する無知/無理解を前提としなければ、出てこないものである。正規軍でさえも、その多くの任務を民間軍事会社に頼らざるをえない状況において、あえて自衛隊に正規軍の体裁を求めることは、『産経』が常日頃冷笑してやまない「一国平和主義」の思考と同じ地平に立つものであり、すくなくとも「民営化」に向かう世界の趨勢と逆行するような自衛隊の格上げ・強化は、「日本の常識は世界の非常識」と言われても仕方のない選択ではないだろうか。

ここに『産経』が標榜する思想に内在する矛盾が看取できる。親米保守路線を掲げ、アメリカの行動に協力することが日本の国益になるはずだという命題を普遍/不変の公理とする一方で、「日本」の伝統や歴史へのノスタルジックな感情に酔いしれる態度は、現実世界の現実をありのままに直視せずに、自分が見たいものだけが「現実」であると理解する思考の典型例であろう(土佐弘之「『現実主義』は現実を切り捨てる」『世界』2005年6月号を参照)。

そこから、あらゆる既存の境界線を液状化させていく「グローバル化の時代」といわれる現代にあって、理念/観念としてしか存在しえなかった主権国家の幻想に囚われた世界認識が見えてくる。言い換えれば、自衛隊を強化しなければならないという強迫観念の根底には、世界はいまだに「国家からなる社会」によって構成されているという視角だけが世界を見る際の唯一のレンズになっていることがあり、日本を取り巻く環境の変化にもかかわらず、その変化を見ることに対する怖れがそうした発想をもたらすように作用している。

「こういう事態だから自衛隊が必要だ」というよりも「こういう事態だからますます自衛隊に見られる正規軍の存在意義がなくなっている」と説くべきところを『産経』社説がそうならない背景は、国際情勢の変化を認識する以前に、先験的に埋め込まれている「(産経的)保守」思考にある。国家の体裁に拘る「保守」思考は、主権国家の根幹とも言うべき軍の保持を禁止されている9条の思考(あるいは戦後左翼一般のそれ)に対するアンチテーゼによって自らの基盤を担保してきたがゆえに、軍の民営化/外注化という流れもまた、国家の独占領域に対する挑戦としてしか認識できなくしてしまう。この点はまさに「保守」の面目躍如といったところだが、それがアメリカが志向する秩序編成において時代錯誤的なものであることに一種の捩れが生じてくる。

『産経』に代表される親米保守の限界を如実に知らしめた点にこそ、今日の『産経』社説の意義があると思われる。
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転倒する警備対象

2005年05月10日 | nazor
またイラクで日本人拘束事件が起こったわけだが、今回の場合、これまでの拘束事件とは幾分異なる側面を含んでいるといえる。

これまで拘束された日本人は、イラクの子供たちへの支援活動や、フリーのジャーナリスト、あるいは「自分探し」の旅人であった点で、「民間人」という範疇で捉えることができた。だからこそ、その成否にかかわらず、解放に向けた交渉過程で「彼らは無関係だ」という主張が一定の正当性を持ちえた。

しかし、今回の拘束事件においては、「メディアや企業を警備 斎藤さん雇用のハート社」(共同通信)と報じられているように、現在その存在が脚光を浴びると同時に、問題視されてもいる民間軍事/警備会社(PMCs)の所属というグレーゾーンである点で、「彼は民間人なので、無関係だ」という言明は説得力を持ちにくい状況にある。

はやくもPMCs研究の古典と評されるP・W・シンガー『戦争請負会社』(日本放送出版協会, 2004年)の区分によれば、ハート・セキュリティ社は、軍務コンサルタント企業か軍務支援企業に該当する。たしかに戦闘行為に直接かかわっていない点で、これらの企業は、一般的な意味で「民間企業」であるが、戦争が国際領域の現象であり、政府/国家の専権事項であるという国際政治の大前提が後景に退きつつある現在において、軍隊の任務と民間企業のそれの線引きは限りなく曖昧化されている。

さらに今朝のラジオニュースでは、民間企業であるハート社は、米軍/英軍の警備を担当していると報じられているように、暴力の行使を専門とし、独占しているはずの軍隊が、自らの防衛を民間企業に委ねるという転倒が生じている。加えて、移行政府が成立したといっても、現在のイラクが国際政治学が仮定する主権国家としての体裁に程遠い状態にあり、国家による暴力の独占やその正当な行使が整っていないことは、公と民の区分が不十分であることを示している。

その意味で、米英軍によるイラク攻撃という古典的な戦争様式で始まった「イラク戦争」は、その始まりの条件を彼方に追いやり、ウェストファリア体制の機能不全を凝縮した空間を創出した点にこそ歴史的な意味を見出すことができるといえるではないだろうか。
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復活劇

2005年05月10日 | nazor
「トリック」ドラマスペシャル版&映画復活

昨日、『スポーツ報知』が報じた「トリック」の話題。

たまたま今朝ラジオから鬼束ちひろの曲「Sign」が流れていたので、「トリック」復活となれば、レコード会社との契約が切れ、一部週刊誌などで「激ヤセ」報道もあった鬼束ちひろも同時に復活ということになるのだろうかと、ふと思った。
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君のいない明日

2005年05月07日 | samomluva
別れの言葉を曖昧なままにしていたのは
恋の甘さに対する期待を抱いていたから

君への返事にはっきりと応えなかったのは
恋の終わりに対する恐れを感じていたから

眠りにつくとき 
今日と同じ明日が来ることを疑わず
目を覚ましたとき 
昨日と違う今日の訪れを知らないで

二人の時間をしっかりと過ごさなかったのは
君の優しさに対する甘えに委ねていたから

振り向いたとき
今日と同じ明日がないことに気づいて
追いかけたとき
昨日と違う視線の厳しさに立ちすくみ

眠りにつくとき
君のいない明日が来ることに気づかず
目を覚ましたとき
君のいない今日の訪れに戸惑う
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サヨナラの重さ

2005年05月02日 | samomluva
サヨナラと言いかけた口元
その言葉の意味を分からずに
いつものように応じようとして
翳りを覗かせた瞳に映る戸惑いの表情

あなたの過去を知ること
あなたの自由を奪うこと
そんなことも知らないまま
一方通行だった愛情に溺れて

同じ速さで歩こうとして
見失ってしまった違いは
いつの間にか埋め切れないほどに
憂いを滲ませた瞳に映る悲しげな表情

二人の現在を重ねて
二人の時間を過ごすこと
そんなこともできないまま
差し出した手から零れていくあなたの想い

独り善がりの恋を履き違えて
本当の愛を失って
あなたに応えることもできず

二人の現在を引き裂き
あなたの現在が過去になる
そんな愛へのサヨナラ
受け止めることさえもできない言葉の重さ
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リバタリアン・パラドクス

2005年05月02日 | knihovna
何気に手に取った森村進編『リバタリアニズム読本』(勁草書房, 2005年)に、笠井潔『国家民営化論』(光文社, 2000年)を発見。リバタリアニズムの中でも極北型ともいえる無政府資本主義の立場に当たるそうだ。

リバタリアニズムといえば、「市場万歳」という経済至上主義で、政治的なるものの意味を考えていないという予断が働いていたのだが、どうもそんなステレオタイプ化された理解よりも奥が深い。アメリカの歴史的経験に内在する権力(=政府)に対する悲観主義がこの思想潮流の根底にあることは明らかで、その点で、昔ながらの共同体を先見的に定位する「保守主義」と市民社会という別様の共同体に期待を寄せる「サヨク」との対立構図は、リバタリアンからすれば同じ穴のムジナということだろう。

しかし、大澤真幸『帝国的ナショナリズム――日本とアメリカの受容』(青土社, 2004年)によれば、国家の役割を最小化するリバタリアニズムの論理は、皮肉にも安全保障国家(national security state)という形の最大国家を要請してしまうパラドクスがあるという。リバタリアンにとって、正当で、一義的な国家の役割とはセキュリティの提供である点から否応なく導かれるそうだ。たしかに、レーガン以降の共和党政権は、国内では最小国家路線を走りつつも、対外的には「帝国」化を邁進する道を歩んでいると理解できる。

「左翼リバタリアニズム」という潮流もあるそうで、その多義性を見ると、すくなくとも思想的にはリバタリアニズムの潜在力は大きいといえそうだ。
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