constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

生政治の彼岸へ

2010年02月20日 | knihovna

伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房, 2008年)

約一年前(3月20日)に他界した伊藤計劃のデビュー作『虐殺器官』の文庫版が刊行されたことに気づき、またニジェールのクーデタ、健康増進法に基づく公共施設の全面禁煙化の動きといった最近のニュース、そして「風の谷のナウシカ」のTV放映などが触媒となって、連想されるのが彼の遺作『ハーモニー』の主題である。

「アメリカっていう当時は世界一強くて儲かってた国の隅々を、誰も起こると思ってなかった大暴動が覆っちまった。ヒスパニック、コリアン、アフリカン……民族虐殺が横行した。皆が皆、虐殺するための器官を生得的に持っているかのように精力的な虐殺ぶりだよ」(159頁)や「アメリカ合衆国に端を発し、英語圏を中心に広がった、戦争と虐殺の時代」(189頁)といった文章から、『虐殺器官』の世界との連続性が容易に推察できるが、『虐殺器官』を規定するのが世界内戦状況の到来に象徴される戦争様式(warfare)をめぐる問題系、すなわちカール・シュミットの系譜だとすれば、『ハーモニー』は、規律権力および生権力に見られる身体をめぐる権力作用の転換を軸とした福祉(健康)社会(welfare)をめぐる問題系というミシェル・フーコーの系譜にあるといってよいだろう。

北米を中心とする英語圏での大暴動に端を発する2019年の「大災禍(ザ・メイルストロム)」によって核に汚染された世界の跡に出現したのは、病気そのものの駆逐を目指す医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)、通称「生府(ヴァイガメント)」を基本単位とした高度な医療福祉社会であった。この医療社会を支えるイデオロギーが生命主義(ライフイズム)、すなわち「命はみんなの所有物」という観念であり、(1)充分にネットワークされた恒常的健康監視システム(WatchMe)への成人の組みこみ、(2)個人用医療薬精製システム(メディケア)に代表される安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、(3)将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供から構成される人間の尊厳の最低条件を通じて具現化されている(55頁)。と同時に、医療記録の経歴などの個人情報は生府の地域倫理委員会が付与する社会評価点(SA)として反照されることによって、健康を尺度とした身体の規律化を促していく。その結果、人は老衰や不慮の事故を別とすれば病気で命を失う可能性が限りなく減少し、またその容姿においても極端な肥満や痩せが根絶され、標準化された、ある意味で個性を失った人々からなる社会が出現することになったのである。

そのような社会の風景をいくつか本書の文章や登場人物の台詞から引いてみよう。「健康状態を主とする個人の信用に関する様々な情報を、パブリックに晒すことがモラルとされる生命社会」(125頁)、「わたしたちは皆、世界に自分を人質として晒しているんだね」(128頁)、「自分自身を自分以外の全員に人質として差し出すことで、安定と平和と慎み深さを保っているんだよ」、「自分を律することの大半は、いまや外注に出されている」(138頁)。身体に対するリソース意識が格段と高まり、もはや公共的身体となっている意味で、まさしくポスト身体主権の社会がそこに見出せる。それは、一方で「医療と思いやりと慈しみに溢れていて、さらに隣人が苦しんでいるさまも放っておけない」(54頁)世界であるが、他方では「優しさのテクノロジーの大量動員」あるいは「慈母によるファシズム」(80頁)が行き渡った「真綿で首を絞めるような、優しさに息詰まる世界」(15頁)、「天国の紛い物のような世界」(134頁)でもある。

こうした世界観にフーコーの生権力・生政治の議論が大きな影響を与えていることは言うまでもないだろう。本書の世界観を想起させる文章をフーコーの講義録から容易に引いてくることができる。たとえば、「生きた存在からなる人口に内在する偶発性のまわりに安全のメカニズムを配置し、生命の状態を最適化しなければならない」(『ミシェル・フーコー講義集成(6)社会は防衛しなければならない――コレージュ・ド・フランス講義1975-76』筑摩書房, 2007年: 245-246頁)、あるいは「万人の日常的健康は…、内政にとっての恒常的な配慮と介入の対象となっていく」(『ミシェル・フーコー講義集成(7)安全・領土・人口――コレージュ・ド・フランス講義 1977-78』筑摩書房, 2007年: 401-402頁)。しかし、フーコーの影響がより明示的に見られるのが次の場面である。すなわち本書の語り部である霧慧トァンは、少女時代に友人の御冷ミァハから、同じく友人の零下堂キアンと3人で一緒に自殺することを提案されるが(結局ミァハのみ自殺)、その際、ミァハが以下のフーコーの言葉(の概略)を口にしている。「死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も『私的な』点である。…。それ[自殺]は、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ」(『性の歴史(1)知への意志』新潮社, 1986年: 175-176頁)。

死に対する権利の行使であるところの自殺。自らの手で命を絶つ行為の持つ衝撃度は、生命に至高の価値を置く医療福祉社会において計り知れない。それゆえに本書のストーリーは、2073年に起きた6582人が一斉に試み、そのうち2796人が死亡した世界同時自殺、そして「一週間以内に、誰かひとり以上を殺す」という犯行声明、すなわち生命社会へのテロをひとつの基点として展開していく。このとき生命権の保全や健康的で人間的な生活保障の査察を任務とし、生命主義の尖兵とも形容されている世界保健機関螺旋監察事務局の監察官であったトァンもまたその場面を眼前で目撃することになる。つまりニジェール停戦監視団の任務を解かれ、一時帰国した空港でトァンを出迎えた友人キアンとの食事中に、キアンがテーブルナイフを喉許に突き刺して自殺した現場に居合わせたことによって、この世界同時自殺の捜査に関わっていくことになる。そして自殺者の中でキアンだけが残した遺言「うん、ごめんね、ミァハ」を手がかりにして、トァンは、13年前(2060年6月12日)に結局一人だけ自殺したはずのミァハの存在、そして彼女が事件解明の鍵を握っていることに気づく。5日間という限られた時間の中で、巨大医療資本の集積する都市であり、「医学のドバイ」と言われるバグダッドから、最終的にチェチェンへつながるミァハの影を追い求める旅を通じて、トァンは、人の意識を制御し、調和の取れた意志の形成を促すハーモニー・プログラムの存在を知るとともに、このプログラムにおいて、実は戦災孤児であり、意識を生み出す遺伝子の欠如した民族の子孫であるミァハが鍵を握っていることが明らかとなる。コーカサスの山奥でミァハと対峙することになったトァンが最終的に下した判断は、ある意味で『虐殺器官』の主人公クラヴィスのそれと共通する。トァンの判断がいかなるものなのかを理解したとき、本書の至る所に張られたタグ(etml言語)の意味もまた明らかになり、読者自身もトァンの選択した世界に生きる一人であることが分かる仕掛けが施されている。その意味で本書のテーマは一読しただけで把握することは困難だといえるだろう。

あるいはナウシカの影響について言えば、核汚染された土壌をひまわりなどの植物によって浄化する植物利用環境修復(ファイトレメディエーション)や、ニジェール停戦監視団の一員だったトァンが生府生命圏の外側で暮らすトゥアレグ族との間で嗜好品の違法取引を行う場面、すなわちトゥアレグ族の指導者ケル・タマシェクが「蒼き衣をまといて黄金の野から現れる」(35頁)といったように、明示的に見出される。さらに言えば、トァンの選択に関しても、漫画版『ナウシカ』のラストにおけるナウシカの選択と比較することもできるだろう。つまり「火の七日間戦争」後、腐海の毒に耐性を持つように改造された人類にとって、清浄な空気こそ毒であり、浄化が完了した世界で生きるために清浄な空気に適応する身体に戻さなくてはならないわけであるが、この事実を知ったナウシカは、トァンと同様に、ユートピアの実現を目の前にし、その扉を開く役割を任された者であり、そして両者の選択のどちらもが一概に否定できないものである。

転移した癌との闘病生活の中での執筆作業という生権力/生政治の最前線に身を置かざるをえない状況が伊藤をして医療福祉社会の現実化した世界を構想することを可能にしたともいえるわけであるが、それゆえにこそ生政治のユートピアとして立ち現れる世界の両義性に対する鋭い感性も同時に培われたことによって、ユートピアの終着点、換言すればディストピアへの入り口のひとつの在り様を提示しているのが本書であろう。

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