constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

戦いの鐘

2005年03月29日 | knihovna
本屋で目に留まった本。

福井晴敏『月に繭地には果実』(幻冬舎)

文庫版からハードカバーという通常とは反対のプロセスで刊行。表紙はディアナとキエルで、各章の扉絵は、ハルキノベルスとは別ヴァージョン。ただ大幅な加筆修正はないようなので、購買意欲を掻き立てるほどではない。

村上龍『半島を出よ(上・下)』(幻冬舎)

今日の『朝日新聞』で村上龍が語っていた。『希望の国のエクソダス』に通じる雰囲気という印象。

三崎亜記『となり町戦争』(集英社)

以前『日経エンターテイメント』で紹介されていて、気になっていたが、なぜか本屋に行ったたびに、チェックするのを忘れていた本。内容の一部は『すばる』に掲載されているそうで、まずそっちのほうを読んでから、今後の方針を確定することになるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とび色と青色

2005年03月28日 | knihovna
いつものように『ガンダム・エース』連載の「機動戦士ガンダム・ジ・オリジン」を立ち読み。

まだ「シャア・セイラ編」。はやく本編に戻ってほしいと思う一方で、本編につながる数々の伏線が張り巡らされた前史をそれなりに興味深い。

今回の舞台は、テキサス・コロニー。シャア・アズナブルというのは、架空の人物ではなく、物語中の実在の人物で、目の色をのぞけば、妹のアルテイシアも見間違えるほど似ているという設定。キャスバルがシャアとしてサイド3に戻り、士官学校に入ることも、ありえないことではないと思わせる流れ。ただほぼ瓜二つということであれば、キャスバルがマスクをする意味はほとんどないような気もする。キャスバルの用心深さをあらわしているのか、単なる趣味として片付けられるということか。

その一方、本物のシャアのその後はどうなったのかも気になるところ。テキサス・コロニーに帰省中にルウム戦役に巻き込まれたということであっけなく記憶の穴に放り込まれるのだろうか(富野由悠季だったらやりかねない)。それとも「ターンAガンダム」のディアナとキエルの関係のような「とりかえばや物語」的ストーリーへと発展していくのか(ますますアニメ版とは異なる展開になりそうだ)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈落の底へ

2005年03月27日 | hrat
ロ26-0楽(27日)ロッテが球団新の26得点(共同通信)

今日のスコアが、楽天の真の実力ということだろうか。開幕前の各紙評価で一様に「貧打が課題」といわれていたロッテにここまで打たれるとは…。これでは、岩隈が一人がんばったとしても、シーズン100敗という数字が現実にありえるかもしれない予感。

他方、オリックスも、去年と変わらず、大量失点で敗北(西11-7オ(27日) 西武6回に9点)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナッツのために…

2005年03月24日 | knihovna
"WAR is 'We Are Right'."

「恐竜家族」。ドラマの基調自体がアメリカ社会の風刺であるが、そのエピソードのひとつ「ナッツ戦争」で二足恐竜側が唱導したスローガンは、まさにアメリカ社会を取り巻く思想状況の一端を鋭く抉り出している。以下で、この言葉を手がかりとして、アメリカ社会の風景をめぐる書誌的マッピングを試みたい。

先の大統領選挙において、赤と青の鮮やかな対照性が見られたアメリカ社会は、「正しさ」を掲げる争いが起こっている空間であり、それは、市場化を通じて構築された戦場でもある。言い換えれば、ネオリベラリズムに基づく経済原理が全面的な浸透する「市場の社会的深化」によって、従来は市場の外部だった領域が消滅しつつある現代社会では(テッサ・モーリス=スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店, 2004年を参照)、市場と戦場は同じ空間を表象する言葉であり、その区別は限りなく曖昧化している。

あらゆる境界線を無意味化してしまう趨勢の最先端を体現しているのがファストフード産業に範を求めたシステムであろう(エリック・シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』草思社, 2001年)。市場が提供できないサービスであった社会保障もいまや商品化され、「金を生み出す」産業であり(ティモシー・ダイアモンド『老人ホームの錬金術』法政大学出版局, 2004年)、学校教育の現場もまた企業にとって有望な市場として捉えられ、マーケティングの対象となる(ナオミ・クライン『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』はまの出版, 2001年)。さらにL・アンドルーズ&D・ネルキン『人体市場――商品化される臓器・細胞・DNA』(岩波書店, 2002年)の書名が物語るように、人間が作り出したモノだけでなく、人間を構成する組織自体が市場の対象となっている。もちろん今まで経済領域とされてきたところでも、労働形態の変化が人間の行動型式に影響を与えている(ジル・A・フレイザー『窒息するオフィス――仕事に強迫されるアメリカ人』岩波書店, 2003年)。そして戦場と市場の交叉状況を表象している極北形態は、近年興隆著しい民間軍事会社だろう(P・W・シンガー『戦争請負会社』日本放送出版協会, 2004年)。

こうして、まさしく「外部はどこにもない」状況が生まれ(ネグリ&ハート)、すべてを包含する帝国の出現を目の当たりにする。その意味で、飽食社会アメリカを「デブの帝国」と形容するのもあながち誤りではないだろう(グレッグ・クライツァー『デブの帝国――いかにしてアメリカは肥満大国となったのか』バジリコ, 2003年)。

そして、こうしたネオリベラリズムが推し進める市場主義の趨勢の帰結のひとつがいわゆる「文化戦争」である(トッド・ギトリン『アメリカの文化戦争――たそがれゆく共通の夢』彩流社, 2001年)。文化戦争の開戦を求めるとすれば、すくなくとも1960年代のジョンソン政権が唱導した2つの戦い、つまり「貧困との戦い」と「ヴェトナム戦争」が指摘できるだろう。この時期を境に、国内的にはニューディール連合、対外的には冷戦コンセンサスによってその一体性を保持してきたアメリカに亀裂が生じ始めた。そして価値観をめぐる対立でもあった冷戦が終焉を迎えつつあった時期に、アメリカ社会は、冷戦の論理を内部に移植した。あるいは冷戦という対立様式こそがアメリカ特有のそれ、つまりアメリカの論理を対外的に投影したといえるかもしれない(1950年代の反共主義の猛威はその典型例だろう)。

文化戦争の戦線は、アメリカ社会のあらゆる側面に及んでいる。アンダークラスの創出と彼らを取り締まる警察行動の恒常化に伴って前景化した「要塞都市」は「不平等の建設」を推し進める。「要塞都市」を取り囲む地帯で、「ボディ・ウォーズ(中絶)」、「ガン・ウォーズ(銃規制)」、「エコ・ウォーズ(環境)」、「モンキー・ウォーズ(動物実験)」といったさまざまな戦闘が繰り広げられ、戦争に関連する言説で満ち溢れている。たとえば、これらの争点を扱った荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会――身体をめぐる戦争』(岩波書店, 2001年)デボラ・ブラム『なぜサルを殺すのか――動物実験とアニマルライト』(白揚社, 2001年)が、キーワードとして「戦争」を使っていることは示唆的である(ブラムの原題は、The Monkey Wars. である)。戦場は、こうした社会問題を超えて、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」という形でアカデミズムの領域にも拡大している。

冷戦終焉後、アメリカの戦う対象は、明確な外敵から、不明瞭な内/外の境界線を超越するものへと変容した。奇しくも冷戦の終焉の年として記憶される1989年に起こったパナマ侵攻とノリエガ将軍の逮捕は、「麻薬戦争」のひとコマであったが、それは同時に、アメリカ国内の社会問題と対外行動の融合が一段と進んだことを示唆するものであり、論理および実践の面において、「テロとの戦い」の前哨戦という意味合いも帯びていたといえるだろう。

たしかにアメリカだけを見ていては世界はわからないかもしれないが、現代世界が抱えている多くの問題群が如実に現出しているのがアメリカであることも確かである。それは、ある意味でアメリカが有しているソフト・パワーの一種なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロスト・ダンス

2005年03月23日 | nazor
YMO 「SOLID STATE SUVIVOR」を聴いた。
何気なく、歌詞カードを手に取った。

Chris Mosdell という名に目が止まった。

どこかで見た覚えがある。
しばし記憶の糸を手繰る。

FENCE OF DEFENSE 「2235 ZERO GENERATION」が思い浮かぶ。
「でんじゃらす・おぺら・びぎんず…」と囁くヴォイス。

YMOとFODの接点。
今頃 発見。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

list10

2005年03月23日 | hudbeni
THE MAD CAPSULE MARKETS / OSC-DIS
Sinead O'Connor / UNIVERSAL MOTHER
KAI FIVE / LOVE JACK
LED ZEPPELIN / LED ZEPPELIN III
FENCE OF DEFENSE / punk tang edges
ends / ADVENTURE 48
CROSBY, STILLS, NASH & YOUNG / DEJA VU
TOTO / TAMBU
SOFT BALLET / DOCUMENT
甲斐バンド / 虜
北島健二 / ギター犯罪美学

今回の目玉ともいうべきは、CROSBY, STILLS, NASH & YOUNG。おそらく、21世紀になってから、一度も聞いていないはず。何度、ブックオフ行きの宣告が下されかけたことだろう。ツェッペリンのサードとの組み合わせで選択。

FODのニューアルバムは別枠扱い。「薔薇のダイヤを胸に」と「DESPERATION」は入っていないようだ。アルバム収録が判明するまで購入を留保していたのだが、この2枚も入手することが決定。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧の中の歩み

2005年03月22日 | samomluva
賑やかな歓声
すべてを流してしまう雨音

華やかな雰囲気
日常の中の一瞬の輝き

歩み出したあなたは
振り返ることもないだろう

踏み出せない僕は
引き止めることもできず

開いていく距離
記憶を曖昧にする静寂

後ろ向きの感傷
もう戻れない過去との戯れ

霧の中の歩みは
あなたを惑わせるだろう

いつか振り返るとき
微かに見えた足跡

動けない僕は
霧の中の向こう側
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ジャイアン w/o ドラえもん」の世界

2005年03月20日 | knihovna
最上敏樹『国連とアメリカ』(岩波書店, 2005年)

著者は、国際法を専門としつつも、片足を国際政治に突っ込んでいるため、法学的思考や文体に違和感を持つ者にもすんなりと読める。

20世紀は、「アメリカの世紀」であると同時に「国際機構の世紀」でもあり、主権国家システムの関数であった国際機構が独自の慣性を持ち始める時期であったことを考えると、国連とアメリカの関係の歴史的展開に考察の射程を広げることが求められる。

そうした視座から、本書は、国連などの国際機構に内在する原理「多国間主義/マルチラテラリズム」が、アメリカの外交思想およびその行動指針と折り合いの悪いこと、言い換えれば、17世紀半ば以降、徐々に制度化されてきた主権国家システムに対するアンチテーゼでもあるアメリカという国の紆余曲折した歴史を、国連という「多国間主義」の文脈で論じる。どうしてこれほどまでにアメリカと国連の関係は複雑化したのか、という疑問が、国際連盟発足にまで遡り、アメリカが、次第に苛立ちを抱き、距離を置き、それを迂回する形で、国際政治の方向性に影響を与えようとしていく過程が丹念に叙述されていく。国連/国際機構を主題としながらも、同時に「アメリカ問題」をめぐる議論への国際機構論的介入ともなっている。

圧倒的な軍事力と経済力、そして良きにつけ悪しきにつけ世界の人々を魅了するソフトパワーを有する現在のアメリカにとって、国連やそれに付随する正当性などに頼らずとも、その政策目標を達成できる。しかも多くの場合、国連は、アメリカの行動の自由を縛る厄介な機構として立ち現れてくる。こうした状況下において、アメリカの意に沿う国連へと変えていく試みよりも、国連の枠外に、自らの望むルール・規範を構築することが求められていく。本書でほとんど触れられていないが、1970年代以降、先進国サミットや世界経済フォーラムのように、国連の外側で、アメリカの世界観に適合する別様の「多国間主義」が登場し、実質的なガヴァナンス・システムとなっていることも、国連からの離反という方向性の一例であろう。

いわば、2種類の「多国間主義」が並存・角遂する状況が現在である。しかも、アメリカは国連型「多国間主義」だけでなく、別様の「多国間主義」からも距離を置き、行動の自由を確保しようとする。イラク戦争の開戦過程において、「有志連合」という名の「多国間主義」がとられたが、その内実は、著者の用語を借りれば、「偽装多国間主義」であり、限りなく「単独主義」に近いそれでしかなかった。「多国間主義」に対する「体質的な」違和感をもつアメリカの対外行動はいっそう「自己例外主義」の様相を強めていく。そのようなアメリカがいる世界を、藤原帰一は「ボスのいる世界」と形容したが(藤原帰一『デモクラシーの帝国』岩波新書, 2002年)、自分の気に入らないルールに従わず、独自のルールを設定する「自己例外主義」的態度をより的確に表現しているのは、ジャイアンの名言「俺のものは俺のもの、お前(のび太)のものも俺のもの」だろう(「ジャイアニズム」という造語があるらしいし、最近のアメリカにジャイアンを重ね合わせる発想は「ドラえもん」に触れたことがあれば別段違和感はないだろう)。

とはいえ、国連が正当性調達の場としてそれなりに機能しているのも現実である。その意味で、国連への期待など幻想に過ぎないと容易く切って捨てることはできないだろう。また「多国間主義」に対する懐疑性が根底にあるアメリカがサミットや「有志連合」のような「多国間主義」とも袂を分かつ可能性を持っている。今後の行く末を考えたとき、あえてアメリカを「多国間主義」に連れ戻し、つなぎとめておくことは無益な試みかもしれない。国連を毛嫌いするアメリカと、アメリカを厄介と感じる諸国が多数を占める国連との関係解消こそ、すっきりしたものに思われる。

しかし、著者が言うように、逆説的であるが、関係解消という選択よりも、あえて関係を維持するという困難な作業を引き受けることが求められる。国連型「多国間主義」から離脱していくアメリカは、先に述べたように別様の「多国間主義」を作り出すであろうし、それに失敗したとしても、アメリカという国家自体が、連邦国家という政体原理からも明らかなように、「多国間主義」の一種であるとすれば、「多」から離反するのは、そのアンチテーゼたる「単」ではない。アメリカが活動するのは、現存の「多国間主義」とは異なる空間ではなく、グローバル化した世界という棲み分け不能な、国連型「多国間主義」が先住している空間であることに変わりはない。つまり、必然的にアメリカと国連は関係を結び付けなくてはならない構造的条件が存在している。

「ドラえもん」のメタファーを使えば、国連がドラえもんになれないとしても、のび太たちと協力して、困難を切り抜ける、映画版のジャイアンのように、そんなアメリカへの期待を抱き続けることは、「多国間主義」を掲げる側の責務となるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「リアリスト」ケナンの置き土産

2005年03月19日 | nazor
対ソ「封じ込め」政策提唱、ジョージ・ケナン氏が死去(『読売新聞』)
「封じ込め政策」考案のジョージ・ケナン氏死去(『朝日新聞』)
ジョージ・ケナン死去(『毎日新聞』)

冷戦史の生き証人ともいえるケナンといえば、戦後アメリカ外交の理論的支柱である「封じ込め政策」の提唱者として、歴史に名を残す人物であり、また第二次大戦までのアメリカ外交の特質を「法律家的・道徳的アプローチ」として批判し、それに「現実主義アプローチ」を対置したことで知られている。

冷戦がソ連ブロックの解体という結末をもって終結したことは、一般に「封じ込め政策」の正しさを例証したものと理解されているし、「X論文」はソ連崩壊を予言したとまで言われる。しかし、冷戦期のアメリカ外交の方向性(封じ込めの軍事化/グローバル化)とケナンが思い描いていた政策構想には重大な齟齬が存在していたことは、ケナンが50年代半ばで政治の世界から離れ、学究生活に入ったことからも明らかであろう。

ここに、ひとつの評価あるいは可能性として、ケナンが当初描いたような「封じ込め」政策に徹した場合、1989年以前に、世界は冷戦の終焉を見ることができたのではないだろうか、という問いが生じてくる。言い換えれば、現実主義に依拠するケナンの構想は、実際の政策に取り込まれる過程で、特殊アメリカ的な外交観に染まってしまったのではないだろうか。そうであれば、冷戦の終焉を「封じ込め政策」の成功、すなわちアメリカの勝利とみなす歴史観には留保をつける必要があるだろう。

しばしば使われる分類として、軍事的リアリスト/政治的リアリストという区別がある。もちろんケナンは政治的リアリストとみなされ、それがイデオロギーあるいは善悪二元論に走りがちなアメリカ外交に対する批判的な態度をとらせたとされる。この区別を「封じ込め政策」に援用すれば、全面的封じ込め/限定的封じ込めの2つを類別できるだろう(佐々木卓也『封じ込めの形成と変容』三嶺書房, 1993年を参照)。ヴェトナム戦争に典型的に見られるように、あらゆる事象が反共主義的色彩を帯びた形で理解され、その結果、アメリカ政府は世界中に不安定要因を見出し、関与していくことになった。

さらに踏み込むならば、ケナン自身の「封じ込め」構想に内在する問題も考慮に入れなくてはならない。つまり先に挙げた軍事的/政治的あるいは全面的/限定的という形で分類したとき、暗黙のうち、ケナンおよび彼の思想は、批判対象を論駁するための権威に祭り上げられる。そうした過程で、ケナンの思想は、定式化された固定観念と化してしまう。いわば教科書的理解に基づくケナン像が一人歩きすることで、本当のところケナンが提起した「封じ込め」が意味したことは思考の外に追いやられる。ボードリヤール的表現を使えば、オリジナルのケナンが、人口に膾炙した無数のシミュラークルの山に埋もれてしまったともいえる。

こうした点を考慮に入れたとき、実のところ、アメリカの「法律家的・道徳的アプローチ」を批判してやまないケナンの「封じ込め」概念に、アメリカ的思考様式が色濃く反映されていることは重要だろう。すでに永井陽之助がその著書『冷戦の起源』(中央公論社, 1978年)について、「X論文」の原型である「長文電報」を検討し、その思考様式を「疫学的地政学」と指摘した。またヨーロッパで育まれてきた外交実践から逸脱した発想として「封じ込め政策」を捉え返す議論もある(たとえば、Frederik Logevall, "A Critique of Containment," Diplomatic History, 28-4, 2004)。すなわち「封じ込め政策」の根底には、外交の基本であるところの対抗者との「交渉」を拒否すること、そして「交渉」が行われるのは対抗者との関係において、優位性が明らかな場合であるという認識が流れている。であるならば、そこには、ケナン自身/ケナン以後という軸に沿った冷戦およびアメリカ外交という枠では捉えきれない問題が潜んでおり、それゆえに、一見アメリカ的趣きを脱色したはずの「封じ込め政策」の変容(=アメリカ化)が可能になったといえる。

昨年の「冷戦終結の立役者」というレーガン大統領の死去をめぐる報道や評価とともに、ケナンが構想した「封じ込め政策」を成功と描く評価は、アメリカの勝利としての冷戦解釈を一般化する作用を持つ。そしてそこから導かれる教訓は、アメリカ外交の未来の方向性も規定している。この冷戦観を拡大解釈し、実践に移したのが2年前のイラク戦争であり、現在のブッシュ政権の外交路線であるといえるだろう。

その意味で、ケナンが自身の評伝の執筆者として指名したジョン・ルイス・ギャディスの論考「第二期ブッシュ政権の大戦略を検証する」(『論座』2005年2月号:"Grand Strategy in the Second Term," Foreign Affairs, 84-1, 2005)が「ポスト9・11世界のX論文」の可能性を指摘され、また当のギャディスが、今年1月の大統領就任演説草稿の執筆に関わっていたことは、ケナンの肉体的な退場であると同時に、その思想的退場を象徴しているともいえる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

gundamization of LORELEI

2005年03月17日 | nazor
映画「ローレライ」が順調な興行成績らしい(封切り1週間で10億円突破+観客動員79万人)。
ローレライ公式HP

まだ映画を観ていないし、おそらく観に行かないだろうと思われるにもかかわらず、「ローレライ」について書くという無謀さを以下で、あえて試みたい(なお小説は一昨年夏に読了)。

映画についての感想をいろいろ見てみると、やはり「ガンダム」との類似性/関連性に言及したものが目に付く。登場人物やストーリー展開など様々な点に「ガンダム的なるもの」が散りばめられていることはすでに小説刊行時から言われてきた。この点をどう評価するかは好みの問題になるだろうが、製作者というか、プロモーターの側は、いわゆる「ガンダム」世代を取り込むことを意図しているのも確かだろう。たとえば、『ガンダム・エース』4月号が巻頭特集を組み、古谷徹(アムロ)、池田秀一(シャア)、鈴置洋孝(ブライト)らに映画の感想、そしてガンダムとの共通性を語ってもらうなど、その意図がありありと感じられる。またチョイ役で、ガンダムの生みの親とも言える富野由悠季が出演していることもこうした流れに位置づけられるだろう。

もちろんこれには、小説を執筆した福井晴敏の存在あるいは個性も大きく反映しているといえる。インタビューなどで彼の発言に触れたことがあれば、富野由悠季の小説版『機動戦士ガンダム』に、小説家としての彼の原点があることは周知の事実だろうし、「戦後日本で戦争における人間をきちんと描いてきたのはガンダムに代表されるアニメだった」という発言、さらに『亡国のイージス』などほかの小説作品にも見受けられる「ガンダム的」匂いなどがすぐに思い出されるだろう。

とすれば、「ローレライ」、とりわけその世界観を評価するに当たって、「ガンダム」との共通性や相違点を取り上げるだけでなく、さらに一歩進んで、「ガンダム的なるもの」がどのように吸収・昇華されているのかという点を視野に入れる必要があるのではないだろうか。あるいは、先に述べた福井の発言に倣えば、「ローレライ」が描こうとしている「戦争の中の人間ドラマ」をこれまでアニメというメディアの中で経験してきた世代にとって、実写とアニメという境界線を設定することがほとんど意味を成さなくなっているかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポカリスウェット⇔ポッカコーヒー

2005年03月17日 | nazor
「あぶない刑事」7年ぶり復活(『スポーツ報知』)
「あぶない刑事」復活、7年ぶり映画化(『日刊スポーツ』)

タイトルは「まだまだあぶない刑事」。

これまでの映画版「あぶない刑事」は、どうしてもテレビの2時間スペシャルの域を出ていない印象があって、映画館で見るほどでもないかな、というのが正直なところ(どうせ1年後には日テレで放送されるという打算もある)。

舘ひろしも柴田恭兵も、50過ぎといい年なのだから、あまり「まだまだ俺たち、動ける!」的な感覚で、アクション・シーンを全面に押し出すようなストーリーにならないことを期待したいが、記事を読む限り、釜山ロケやJリーグ公式戦中のロケなど、これまで以上に派手なアクションが売りのようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史のアイロニー

2005年03月16日 | knihovna
村田晃嗣『アメリカ外交――苦悩と希望』(講談社, 2005年)

昨年秋に表紙カバーが一新されてから、講談社現代新書で購入した最初の本。

内容は、いたって「常識」的かつ平板。入門の教科書として、これからアメリカ外交を学ぼうかと思う人にとっては適しているかもしれない。逆に言えば、意外性や面白みにかけるとも言える。書店に並ぶ際物じみたアメリカ本を批判対象としている以上、「常識」的な論述となるのは当然の帰結といえるので、しかたのないところ。

ただ一面的なアメリカ「帝国」論ではない、アメリカ像の提示が目的であるにもかかわらず、どうもマイケル・ムーアに代表されるような通俗的な議論が批判対象になっている印象を受けるのは残念である。著者の力量を推し量るならば、藤原帰一『デモクラシーの帝国』(岩波新書)古矢旬『アメリカ――過去と現在の間』(岩波新書)に真正面から挑むような議論を展開できただろうし、そのほうが読み応えがあったように思う。

この点を若干敷衍すれば、1章で提示した分析枠組みあるいは視座が十分に後の行論で生かしきれていないのではないだろうか。国際政治学において「常識」ともいえる3つの分析レベル(システム・国内体制・個人)やパワーの3要素(軍事力・経済力・世論を支配する力)と、アメリカの外交思想の4潮流(ハミルトン・ジェファーソン・ウィルソン・ジャクソン)を組み合わせることで、アメリカ外交の特質を描き出そうとする試みにおいて、視座と事象の関連性が弱いというか、表層的な議論にしか見えない印象を受けた。たとえば、外交思想の軸は、結局のところ、ブッシュは…主義で、クリントンは…主義というように、個人レベルに還元して論じられ、せっかく提示した視座が単純化されてしまっている。

アメリカ建国やその存在自体が、ヨーロッパ国際社会(=ウェストファリア体制)のアンチテーゼ、つまり鬼子であるとすれば、もうすこし特殊アメリカ的対外観をめぐる深い考察が求められるだろう。そこに、アメリカを主権国家ではなく「帝国」という別様の政体概念で論じようとする理由があるのではないだろうか。アメリカを論じることが、否応なく既存の主流派国際政治学の前提を掘り崩してしまう契機を内在させているともいえ、とすれば、「常識」的な論述を試みることは必然的に破綻をきたすことになる。

この点は、著者がアメリカ帝国論の例としてほかの著作と一緒にハート&ネグり『<帝国>』(以文社)を扱った認識にも反映されている。すくなくともハート&ネグリの議論に接していれば、安易に彼らの議論を「アメリカ帝国」論として一括りにはできないはずである。またネットワーク権力としてのアメリカの政体構成の特異性を指摘する議論が提起する含意は、通俗的な議論よりも長い射程を持っている。たしかに「あとがき」で「帝国」論を否定したいがために、議論自体が別の意味で一面的になっているのではないかと著者自身も認めているが、批判対象を安易にカテゴライズしてしまう過ちに対してもっと敏感な姿勢が求められるのではないだろうか。「アメリカ外交」を論じる本書が、現実世界で、「テロとの戦い」を遂行するアメリカが、その手法において、ビン・ラディン/アルカイーダ的なるものを踏襲してしまうパラドクスに陥っている状況とパラフレイズしているのは、まさに皮肉である。

最後に、内容とは別に気になる点を2つ。まず大統領暗殺をめぐる奇妙な符合などの、週刊誌レベルの「トリビア」にページを費やすのはいただけない。また時に映画を例として引いているのは、一般読者をひきつける狙いのほかに、もしかすると藤原『デモクラシーの帝国』を意識しているのだろうか、と思ったりした。

まあ、新書に過度の期待を抱かないほうがいいということだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サトル&アッキー

2005年03月13日 | hudbeni
坂本サトル、アッキーと楽天応援歌リリース

date fm「AIR JAM」から生まれた企画だそうで、「アッキー」とは、宮城ローカルでは、それなりに名の知れた本間秋彦。その昔、「伊集院…」という名前で、深夜に音楽番組(まだFM仙台の頃)を担当していたことを思い出した。同時期に東北放送ラジオで放送していた「男女りすなぁ若者語」(水・木)の雰囲気とのギャップが印象的だった。

・最近気になっている曲のリスト VOL. 1.

オリジナルを持っている「LADY BLUE」「タイムマシンにおねがい」「ラジオスターの悲劇」を除けば、サビなど一部が鮮明に記憶に残っている曲ばかりで、ふとした時にメロディーが浮かんでくる。そのなかで、「恋をとめないで」は、缶コーヒー「WONDA」CMで使用されたためか、ちょくちょくラジオで耳にする機会があった。

アンジー「天井裏から愛を込めて」
カステラ「ビデオ買ってよ」
COMPLEX「恋をとめないで」
JITTERIN’JINN 「にちようび」
高野寛「虹の都へ」
高野寛「べステン ダンク」
NEWEST MODEL「杓子定規」
PUFFY「赤いブランコ」
久松史奈「LADY BLUE」(オリジナル:TOM☆CAT)
browny circus「タイムマシンにおねがい」(オリジナル:サディスティック・ミカ・バンド)
THE MODS「激しい雨が」
ロリータ18号「ラジオ・スターの悲劇」(オリジナル:The Buggles)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

要塞都市へようこそ

2005年03月10日 | knihovna
エドワード・J・ブレークリー, メーリー・ゲイル・スナイダー『ゲーテッド・コミュニティ――米国の要塞都市』(集文社, 2004年)

偶然アマゾンの検索で引っ掛かった。マイク・デイヴィス『要塞都市LA』(青土社)、酒井隆史や渋谷望の議論などに触発されて、都市空間の再編やセキュリティ強化との関連に多少の興味があったのだが、建築関係中心の出版社から刊行されていて、本屋に並んでいたとしてもおそらく建築関係の書棚だろうから、今までその存在を知らずにいたようだ。早速、図書館に入っているかチェックしたが、所蔵しておらず。週末あたりジュンク堂か丸善に出向いて確認することになるだろう。

ちょうど2年前の今ごろ放映された「NHKスペシャル:地球市場・富の攻防」でも、「要塞町の人々」と題して、この話題を取り上げていたことを思い出した。番組自体の主眼は、セキュリティではなかったが、セキュリティ感の変質をもたらす階層/階級による空間の分節化を伴うネオリベラル市場経済の一端を垣間見せてくれるものだった。

物理的な障壁を作らないまでも、メンタル面で、とりわけセキュリティの欠如/セキュリティへの執着に象徴される「過防備都市」(五十嵐太郎の言葉)的状況がここ最近の日本でも感じられるところ。「よき垣根はよき隣人を作る good fences make good neighbors」というロバート・フロストの詩の一節が牧歌的に響く時代が現在といえるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロレタリア・ダンシング

2005年03月07日 | hudbeni
昨夜のFM-802「MUSIC FREAKS」に、THE MAD CAPSULE MARKETS のベーシストTAKESHIが出演。かかった曲は「プロレタリア」と「SCARY」。MCMの存在を知ったのが、当時「OSAKAN HOT 100」で流れた「プロレタリア」だったので、妙なつながりを感じる。

TAKESHIが登場するまでの時間、α-station「PASTIME PARADISE」で倉木麻衣の新曲「ダンシング」と遭遇。曲調は好みに合っていいのだが、歌詞が安っぽさを感じさせる。下手に英語を使うよりもしっかりした日本語で歌ったほうがいいような気がする。そう言いつつも、当分の間、ラジオから流れてくれば、耳を傾けることになりそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする