今年のノーベル賞(物理学・化学)に「日本」の研究者が選ばれたこと、そしてそれに沸き立つメディアや国民の姿勢は、ちょうど就任5日で辞任した中山成彬前国交相の「失言」と密接に関わる興味深い論点を示唆しているように思われる。
まず「日本は単一民族だ」という「失言」に通底するのが、すでに指摘されているように、物理学賞を受賞した南部陽一郎(シカゴ大学名誉教授)を「日本人」と表象することである(たとえば、「『ノーベル物理学賞日本人3人が独占』欧米では『米国人1人、日本人2人』」J-CASTニュース2008年10月8日)。このことは、ある人の帰属を判断する際に、「国民」ではなく「民族」を基準とする思考様式が深層意識において強く作用していることを意味している。ある人が「…人」であるかを最終的に決定付ける基準として「国民」よりもむしろ「民族」が重視されることによって、たとえば南部教授はアメリカ国籍の保持者であっても「日本人」だと判断されるし、他方で日本国籍を取得していたとしても在日コリアンは、「日本人」というカテゴリーの外側に留め置かれたままにある。
そして在日コリアンの例が示すように、「日本人」の境界線は、先に挙げたJ-CASTニュースの取材に対する朝日新聞社広報部の回答にあるような「日本で教育を受け、日本に自宅がある」といった理由ではなく、もっと深い、本質(主義)的なレベルにおいて刻印されているとみなすべきだろう。すなわち国籍の離脱や取得によって変更可能である「国民」に比べて、両親をはじめとする先祖から受け継いだ「血」を介して結ばれた集団という認識に依拠する「民族」はアイデンティティの拠り所として、その変更不可能性ゆえに強固で、揺るぎのない、そして本質的なものとみなされる。
こうして社会的な存在としての「国民」と自然的な存在としての「民族」が対置され、さらに「民族」と「国民」を同一視する認識が、戦後日本において広く浸透したことによっていわゆる「単一民族神話」が作られ、「国民」自体の自然化が進んでいくことになる。このため、「国民」を構成する主体の多様性に対する自覚が著しく欠如した思考様式が根強く、さしたる疑問も抱かれずに政治家などによって定期的に公言される状況が生じている。また先ごろ発足した観光庁は、2020年までに2000万人の外国人観光客の来日を掲げているが、一方で外国人の宿泊や食事、あるいは入居などを断る「ジャパニーズオンリー」が一定数報告されていることも、「単一民族」神話の派生効果といえるかもしれない(「『外国人泊めたくない』ホテル・旅館3割 07年国調査」『朝日新聞』10月9日)。
その意味で今回の南部教授のノーベル賞受賞が「日本人」の範囲を改めて考えさせる契機になるだろうし、実際この点を問題化する報道が見られることは「中山失言」の時代錯誤性を示しているといえるだろう。
もうひとつ「中山失言」に関わる点が「日教組の組織率と学力テストの結果の関係」についてである。この発言に関しては、中山前国交相の印象論ないし思い込みレベルの域を出ない根拠のない、まさしく「妄言」の類に属することは明らかであるが、日教組憎しの感情に駆られて、この「妄言」を実証しようとしたのが『産経新聞』10月8日の記事「組合と学力に関連性はあるか?低学力地域は日教組票多く」である。関連性があるという結論を導こうとしたいがために、得票率ではなく得票数を使うといった都合のよい変数によって実証する倒錯的な内容が全国紙の紙面を飾るという事態は、すくなくとも一定程度の学力と学歴のある新聞記者が基本的な科学的思考能力を欠いていることを物語っている。数字を挙げるなど「科学的な」体裁をとりつつ実証に失敗している『産経』の記事は「第二種疑似科学」の典型例だろう(池内了『疑似科学入門』岩波書店, 2008年)。ついでに「擬似/ニセ科学」に関連していえば、その代表的な例である「水からの伝言」をめぐって、その問題点が広く指摘されている一方で、最近になっても「関東地区公立小・中学校女性校長会総会・研修会」で「水からの伝言」の著者が講演したように、科学的思考を育む教育の場においてそれを蝕む言説が受け入れられている状況がある。
大学改革によって外部資金に依存した即席の研究成果が求められる風潮が強まっている状況において、基礎研究の軽視や、よりよい研究環境を求めて研究者の海外流出が日本の科学者業界の空洞化をもたらすとすれば、そして他方で基礎学力を養う場において科学的思考能力の育成が蔑ろにされ、「擬似/ニセ科学」に騙されてしまう素地が一定程度出来上がっているとすれば、今回のノーベル賞受賞を単純に喜んでばかりはいられないだろう。むしろ科学分野のノーベル賞において「純粋日本の」研究成果が選ばれる可能性はきわめて限られてくるのではないだろうか。今年のノーベル賞受賞が後に振り返ったとき「過去の栄光」として記憶されることになることは十分考えられるだろう。
・追記(10月16日)
「ノーベル賞の南部さん、文科省の集計では『米国人』」『朝日新聞』
「ノーベル賞:物理学賞・益川氏と小林氏は京大出身?」『毎日新聞』
「『ノーベル賞の京産大』アピール『益川研究所』の設立も検討」『京都新聞』
ノーベル賞受賞狂騒曲も一段落が着き、あとは年末の十大ニュースなどで取り上げられるまで一般的には忘却の穴に放り込まれた状態になると思われる。そのノーベル賞狂騒曲の後日談ともいえるニュース。受賞者をどのカテゴリーに差配するかをめぐって、国家レベルと大学レベルのそれぞれで悩ましい問題が提起された物理学賞の受賞者たちであるが、南部氏については文部科学省は国別集計上「アメリカ人」とすることで一応の妥協点を見出したといえる。その一方で益川・小林両教授(の研究成果)の出自をめぐって「生まれの名大」と「育ての京大」との間で認知騒動と呼べそうな状況にある。しかしながら、この点に関しては京大側を悩ませている問題であり、一方通行的な求愛だといえそうである。それに加えて益川教授が現在所属する京産大もその名を冠した「益川研究所」の設立に乗り出すとなれば、こじれた三角関係の構図が出来上がってくる。
まず「日本は単一民族だ」という「失言」に通底するのが、すでに指摘されているように、物理学賞を受賞した南部陽一郎(シカゴ大学名誉教授)を「日本人」と表象することである(たとえば、「『ノーベル物理学賞日本人3人が独占』欧米では『米国人1人、日本人2人』」J-CASTニュース2008年10月8日)。このことは、ある人の帰属を判断する際に、「国民」ではなく「民族」を基準とする思考様式が深層意識において強く作用していることを意味している。ある人が「…人」であるかを最終的に決定付ける基準として「国民」よりもむしろ「民族」が重視されることによって、たとえば南部教授はアメリカ国籍の保持者であっても「日本人」だと判断されるし、他方で日本国籍を取得していたとしても在日コリアンは、「日本人」というカテゴリーの外側に留め置かれたままにある。
そして在日コリアンの例が示すように、「日本人」の境界線は、先に挙げたJ-CASTニュースの取材に対する朝日新聞社広報部の回答にあるような「日本で教育を受け、日本に自宅がある」といった理由ではなく、もっと深い、本質(主義)的なレベルにおいて刻印されているとみなすべきだろう。すなわち国籍の離脱や取得によって変更可能である「国民」に比べて、両親をはじめとする先祖から受け継いだ「血」を介して結ばれた集団という認識に依拠する「民族」はアイデンティティの拠り所として、その変更不可能性ゆえに強固で、揺るぎのない、そして本質的なものとみなされる。
こうして社会的な存在としての「国民」と自然的な存在としての「民族」が対置され、さらに「民族」と「国民」を同一視する認識が、戦後日本において広く浸透したことによっていわゆる「単一民族神話」が作られ、「国民」自体の自然化が進んでいくことになる。このため、「国民」を構成する主体の多様性に対する自覚が著しく欠如した思考様式が根強く、さしたる疑問も抱かれずに政治家などによって定期的に公言される状況が生じている。また先ごろ発足した観光庁は、2020年までに2000万人の外国人観光客の来日を掲げているが、一方で外国人の宿泊や食事、あるいは入居などを断る「ジャパニーズオンリー」が一定数報告されていることも、「単一民族」神話の派生効果といえるかもしれない(「『外国人泊めたくない』ホテル・旅館3割 07年国調査」『朝日新聞』10月9日)。
その意味で今回の南部教授のノーベル賞受賞が「日本人」の範囲を改めて考えさせる契機になるだろうし、実際この点を問題化する報道が見られることは「中山失言」の時代錯誤性を示しているといえるだろう。
もうひとつ「中山失言」に関わる点が「日教組の組織率と学力テストの結果の関係」についてである。この発言に関しては、中山前国交相の印象論ないし思い込みレベルの域を出ない根拠のない、まさしく「妄言」の類に属することは明らかであるが、日教組憎しの感情に駆られて、この「妄言」を実証しようとしたのが『産経新聞』10月8日の記事「組合と学力に関連性はあるか?低学力地域は日教組票多く」である。関連性があるという結論を導こうとしたいがために、得票率ではなく得票数を使うといった都合のよい変数によって実証する倒錯的な内容が全国紙の紙面を飾るという事態は、すくなくとも一定程度の学力と学歴のある新聞記者が基本的な科学的思考能力を欠いていることを物語っている。数字を挙げるなど「科学的な」体裁をとりつつ実証に失敗している『産経』の記事は「第二種疑似科学」の典型例だろう(池内了『疑似科学入門』岩波書店, 2008年)。ついでに「擬似/ニセ科学」に関連していえば、その代表的な例である「水からの伝言」をめぐって、その問題点が広く指摘されている一方で、最近になっても「関東地区公立小・中学校女性校長会総会・研修会」で「水からの伝言」の著者が講演したように、科学的思考を育む教育の場においてそれを蝕む言説が受け入れられている状況がある。
大学改革によって外部資金に依存した即席の研究成果が求められる風潮が強まっている状況において、基礎研究の軽視や、よりよい研究環境を求めて研究者の海外流出が日本の科学者業界の空洞化をもたらすとすれば、そして他方で基礎学力を養う場において科学的思考能力の育成が蔑ろにされ、「擬似/ニセ科学」に騙されてしまう素地が一定程度出来上がっているとすれば、今回のノーベル賞受賞を単純に喜んでばかりはいられないだろう。むしろ科学分野のノーベル賞において「純粋日本の」研究成果が選ばれる可能性はきわめて限られてくるのではないだろうか。今年のノーベル賞受賞が後に振り返ったとき「過去の栄光」として記憶されることになることは十分考えられるだろう。
・追記(10月16日)
「ノーベル賞の南部さん、文科省の集計では『米国人』」『朝日新聞』
「ノーベル賞:物理学賞・益川氏と小林氏は京大出身?」『毎日新聞』
「『ノーベル賞の京産大』アピール『益川研究所』の設立も検討」『京都新聞』
ノーベル賞受賞狂騒曲も一段落が着き、あとは年末の十大ニュースなどで取り上げられるまで一般的には忘却の穴に放り込まれた状態になると思われる。そのノーベル賞狂騒曲の後日談ともいえるニュース。受賞者をどのカテゴリーに差配するかをめぐって、国家レベルと大学レベルのそれぞれで悩ましい問題が提起された物理学賞の受賞者たちであるが、南部氏については文部科学省は国別集計上「アメリカ人」とすることで一応の妥協点を見出したといえる。その一方で益川・小林両教授(の研究成果)の出自をめぐって「生まれの名大」と「育ての京大」との間で認知騒動と呼べそうな状況にある。しかしながら、この点に関しては京大側を悩ませている問題であり、一方通行的な求愛だといえそうである。それに加えて益川教授が現在所属する京産大もその名を冠した「益川研究所」の設立に乗り出すとなれば、こじれた三角関係の構図が出来上がってくる。
中山妄言とノーベル賞の関連についての考察興味深く拝読いたしました。
これに関連して、下記のような笑い話のような記事をご紹介したいと思います。
【関連:中山妄言への有力反証】「日教組」の元書記長がノーベル賞をとった!?【blog:土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。】
http://www.asyura2.com/08/senkyo54/msg/514.html
投稿者 傍観者A 日時 2008 年 10 月 08 日 22:39:58: 9eOOEDmWHxEqI
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20081008/1223394762