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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

冷静と情熱の東方政策

2011年09月08日 | knihovna
妹尾哲志『戦後西ドイツ外交の分水嶺――東方政策と分断克服の戦略、1963-1975年』(晃洋書房, 2011年)

冷戦の終結を彩る劇的な光景として、思い浮かぶのが、1989年11月9日に起きたベルリンの壁開放であり、そして壁によじ登り、歓喜し、またハンマーで壁を叩き壊す人々の姿であった。そのベルリンの壁が建設された1961年8月から半世紀が経過した現在、改めて壁の建設がもたらした分断の苦難、そしてそれを乗り越えようとした人々の行動に想いを馳せることは単なる郷愁に浸る以上の射程を持っている。

ベルリンの壁は、ドイツの人々、そしてヨーロッパの人々に対して分断という現実を象徴的にだけでなく、物理的な意味においても突きつけ、再認識させる一方で、分断および対立の恒久化に対する懸念を生じさせ、その克服に向けた取り組みの必要性を痛感させることにもなった。その意味で、ヨーロッパ冷戦史における分岐点だといえるだろう。そして緊張緩和および分断克服の動きの中で、もっとも注目を集めたのが、当事者であった西ドイツの東方政策であったことは言うまでもない。東方政策を担った中心人物であるヴィリー・ブラントが、1961年当時、西ベルリン市長としてベルリンの壁建設の現場に居合わせたことは、東方政策を根底で支える国際政治認識を示唆している。

そしてベルリンの壁建設は、アデナウアー政権の「力の政策」およびエアハルト政権(とくにシュレーダー外相)の「動の政策」の限界を印象付け、それに代わる新しい外交理念とそれを実行に移す政治指導者の登場が求められていた。このような西ドイツ外交の停滞を打開し、分断の克服へ向けた構想を提示し、外交政策として具体化していったのが、1969年に成立したブラント政権であった。「東方政策/東方外交 Ostpolitik」の名で知られるようになるブラント政権の外交は、一種の外交革命とみなすことができ、本書のタイトルが示すように、西ドイツ外交における「分水嶺」であった。

東方政策に関しては、同時代において強い関心を集め、日本でも佐瀬昌盛や高橋進の研究を通じて、その概要を知ることができたが、冷戦の終結およびドイツ統一という現実政治の変化、および30年ルールによる外交文書の解禁が、東方政策をめぐる研究環境を飛躍的に改善した。ここで取り上げる本書は、ドイツやイギリスを中心に一次史料を渉猟し、近年の研究成果を踏まえた上で、次の二つの観点、すなわち「ドイツを主体として扱うヨーロッパ冷戦史」(10頁)および「ヨーロッパの『中央部(Mittellage)』に位置し、東西の狭間で展開されるドイツ外交」(11頁)の観点から、東方政策にアプローチする。以上の観点に基づいて、本書の主眼は、ブラント外交の時系列的な再現ではなく、「その構造を構成する諸要素を各章毎に析出し、ほかの要素との関連を念頭に置きながらそれぞれを検討する」(233頁)章立てを採り、東方政策の「多層性の解明」(13頁)に据えられる。すなわち東方政策の機軸であるソ連や東ドイツとの交渉過程の検討に加えて、西側諸国との関係および国内政治の動向にも注意を向け、また二国間から多国間へと拡張される東方政策の射程の長さまで視野に入れた議論が展開される。

西ドイツの東方政策を取り上げる研究と聞いたとき、まさにソ連をはじめとする東側諸国との関係改善をめぐる外交交渉が考察の中心的なテーマになると考えるのが普通であろう。戦後の西ドイツ外交における政策の大転換であるがゆえに、東方政策の持つ画期的・革新的な意義に関心が向けられ、その実態に迫ろうとすることは十分に考えられることである。本書においても、ブラントの側近エゴン・バールの構想を取り上げた第1章、1969年のブラント政権による対ソおよび対東ドイツ交渉過程を検討した第2章、および1975年のCSCE開催に至る政治過程を通じて東方政策の「多国間化」が対象となる第6章が、東方政策とは何であり、それがどのように遂行され、さらにドイツの、そしてヨーロッパの分断状況克服にいかなる影響を与えたのかという論点に答えている。

以上の側面が東方政策の「表」だとすれば、本書の特色であり、多くの紙幅を割いて考察されているのが、同時並行的に展開していた米英仏をはじめとする西側諸国との意見調整をめぐる交渉過程である(第3章および第4章)。それは「東西の狭間で展開されるドイツ外交」という本書の分析視角が持つ有効性を示すものである。先行研究において指摘されるように、東方政策に対して当時から、東側との関係改善に傾注し、西側諸国との関係を等閑にしたという批判が提起されている。西側諸国との関係を考察対象として設定する本書は、こうした批判がどの程度妥当するのかについて一つの解答を提供するものである。本書で再三強調されているように、ブラント政権の東方政策は、「東側との関係改善を成就させるためには西側結束が不可欠である」(128頁)という認識に基づいて進められていったのである。それは、ヨーロッパ統合に関しても「東方政策とヨーロッパ統合の両立」(149頁)が図られ、CSCEに至る東方政策の「多国間化」の試みでも西側諸国との意見調整のもつ重要性が指摘される(218頁)。まさしく西側との緊密な関係が「東方政策成功の基礎」(121頁)にあったのであり、「東方政策は西方政策であり、西方政策はまた東方政策」(242頁)であると評されるように、その相互補完的な関係に注意を向けることで、東方政策の多層性が提起される。

また東方政策が一時の熱狂に駆られた情念過多の政策ではなく、東西関係各国の利害を見極め、譲歩を引き出すための外交カードとして利用するだけの巧妙さを備えていたことも明らかにされる。たとえば、それは、当時の国内政治を検討した第5章の議論に看取できる。東方政策をめぐる野党やメディアによる厳しい批判が引き起こした国内論争は、交渉過程や条約の批准に影響を与えた。そして交渉者バールは、ソ連に対しても、またアメリカに対しても、国内の批判に言及し、東方政策が失敗に帰してしまう可能性を示唆することで、譲歩や支持を獲得するのである(162-163、168-169頁)。あるいはこれとは逆のパターンも見られる。東西ドイツ問題で強硬な姿勢を崩さない野党を説得するために、CSCE準備会合の開始時期と関連付ける(189頁)。要するに、「国内政治基盤が不安定であったことが、かえって国際交渉における立場を強化した」(240頁)わけで、これは西ドイツ外交の主体性を示すエピソードだといえるだろう。

以下、本書から得られる含意について敷衍する形で若干の議論を展開してみたい。第1に、近年、日本のヨーロッパ冷戦史研究は、イギリス外交史研究の興隆に促される形で、次第に大陸ヨーロッパ諸国にまで対象領域を広げている。その結果、冷戦期の西側諸国の同盟政治について新たな知見を得ることが可能となっている(たとえば、最近の研究成果として、山本健『同盟外交の力学――ヨーロッパ・デタントの国際政治史 1968-1973』勁草書房, 2010年)。本書もまた、ドイツ外交の視点からヨーロッパ冷戦構造の変容過程に関する知見を提供してくれる。他方で西側同盟政治の解明に関する研究の進展は、いっそう「鉄のカーテン」の向こう側で繰り広げられるもうひとつの同盟政治(ソ連=東欧関係)について興味を喚起する。たとえば、本書で取り上げられている東西ドイツ首脳会談をめぐるソ連と東ドイツの関係において、東側同盟政治の特徴の一端が垣間見える。つまり首脳会談が流れることを危惧したソ連が東ドイツ指導部に対して開催場所の選定を含め開催を促す一方で(69頁)、エアフルト会談の結果に不安を覚えると、交渉継続に意欲を見せるウルブリヒトに対して交渉の中断を指示するというように(73頁)、ソ連の影響力の強さが示唆されている(166頁も参照)。西側同盟との対比において東側同盟の特質を権威主義的な垂直的関係に見出すとするならば、たしかにソ連の影響力の強さを考慮に入れた「モスクワ第一主義」はリアルな現状認識に基づいていたといえる。また対ポーランド交渉が本書の考察対象から外れていることもあり、簡単に言及される程度にとどまるが、東側諸国との関係改善の争点の一つであるポーランドとの国境問題(オーデル・ナイセ線)は、東側同盟政治の観点に立ったとき、西ドイツとポーランド間に加えて、東ドイツとポーランドとの間で国境をめぐってどのような駆け引きがあったのか、そこにソ連の立場はいかなるもので、同盟関係にある二国の紛争に対してどのような動機に基づいて介入し、収拾しようとしたのかが興味深い論点として浮かび上がってくるだろう(前史に関する研究として、Sheldon Anderson, A Cold War in the Soviet Bloc: Polish-East German Relations, 1945-1962, Westview Press, 2000.がある)。本書の表現を借りれば、東側同盟政治の研究は、「全欧」の視座から叙述されたヨーロッパ冷戦史研究に不可欠な視座であるといえる。

第2に、内政と外交の関係、あるいは外交と民主主義というお馴染みの論点に関してである。本書では第5章で条約の批准をめぐ国内政治が検討されているが、前述したように、国内の政治対立を外交カードとして利用し、譲歩を引き出す強かさを持っていた。この巧妙な外交戦術は、外交舞台に政争を持ち込まない「超党派外交」の確立に失敗したことによる副産物でもあったが、別の観点に立つならば、野党やマスメディアの批判を考慮に入れながら交渉に臨まなくてはならない現代外交の特質を示している。水面下で秘密裏に進められるバールの交渉姿勢に対する不満が、「バール文書」のスクープを契機に噴出するなど、与野党の深刻な対立がこの時期の外交路線を規定したといえる。また東方政策の実施段階において、通常の外交ルートとは別に非公式の「バックチャンネル」が重要な役割を果たした点も見逃せない(63、96頁など)。またこの点は、沖縄返還交渉における「密使」若泉敬の例が示すように、ニクソン=キッシンジャー外交に見られる特質の観点からアプローチすることもできるだろう。いずれにしても、国内政治の影響から遮断された外交ルートの介在とその重用は、外交に対する民主的統制が一般化した現代において、停滞していた交渉の突破口として、一定の意義を有していることが看取できる。

第3の論点として指摘できるのが理論研究との接点である。本書は一次史料を駆使した外交史アプローチから東方政策に迫る研究であるが、国際政治学の分析枠組みを用いた研究へ射程を拡げる可能性についていくつかの示唆を与えている。そのひとつが二層ゲーム論による考察であり、それは、何度か言及したように国内政治の動向が外交交渉に与える影響という視点である(171頁および174頁注37)。また米ソ中心の冷戦史観に内在する「国際政治構造」の重視傾向に対して、西ドイツの東方政策は、緊張緩和という冷戦構造の変容によって空いた外交地平を捉え、構造の変革可能性を包含した政策と理解することもできる(243頁注6)。さらにいえば、ブラントやバールが提唱した東方政策を個人的信条や国際政治認識が反映された政策理念として捉えたとき、それは理念・規範・アイデンティティなどの観念的要素を重視するコンストラクティヴィズムにとって格好の事例となる(たとえば、Joost Kleuters, "Between Continuity and Change: Ostpolitik and the Constructivist Approach Revisited", German Politics, vol. 18, no. 4, 2009.)。この意味で東方政策をめぐる研究は複合的なアプローチによる研究の進展が期待できるテーマだといえるかもしれない。

第4に、本書が扱う時期を越えた1975年以降の東方政策の展開、そして冷戦の終結およびドイツ(再)統一との関連についてである。東方政策は「構想者」バールと「推進者」ブラントによるブラント=バール外交と理解される傾向が強いが、「生みの親」であるブラントやバールの手を離れた東方政策はどのような運命を辿ったのか。東方政策の中身については、野党CDU/CSUはもちろんのこと、連立相手のFDP、さらにはSPD党内でも反対ないし慎重論が聞かれたことは本書でも指摘されているが(38頁)、ブラント退陣後に政権を担ったシュミット、コール、あるいはゲンシャーは東方政策に全面的に賛同していたわけでなく、西側との結束重視の傾向が強かった(233頁)。換言すれば、バールの提起した段階的アプローチの第3段階、すなわち「新たな安保体制の構築による『ヨーロッパ平和秩序』の創出」およびその中での東西ドイツの統一実現(37頁)が描いた長期的な展望とは異なる経過を辿ったことを考えると、この時期に東方政策の変容もしくは分岐が生じたと捉えることもできるだろう。そして冷戦の終結およびドイツ統一をめぐる論争に対する視座とも関連付けるならば、その比重を西側に移しつつも東方政策それ自体が否定されることがなかったことは、現実化・穏健化に帰結し、ある意味で東方政策のアデナウアー路線への吸収を意味し、それは「拡大西ドイツ」といわれる統一の形式に見られるように、東方政策よりもアデナウワー路線の貢献を重視する見方につながる。他方で、政権内での発言力を低下させていたバールが、1980年代に入ると「パルメ委員会」の活動を通じて「共通の安全保障」の体系化に尽力し、それがゴルバチョフの新思考外交に影響を与えた点に注目すると(234頁)、モスクワを経由したドイツ統一に至る道筋が浮かび上がり、それは「ゴルバチョフ・ファクター」をめぐる議論と結びつく論点でもある。

最後の論点として、比較冷戦史の視点から1970年代の国際政治を眺めたとき、米ソあるいは米中間の緊張緩和というグローバル次元の変化がどのような影響を各地の冷戦にもたらしたのかが問われてくる。当然のことながら、アジア冷戦との比較が真っ先に思い浮かぶが、それはヨーロッパとアジアにおける緊張緩和および冷戦終結過程の差異を含み、21世紀の地域政治を規定している意味で、すぐれて今日的な意義を内包した論点である。アジアにおいて、米中デタントは、「七四南北共同宣言」のように南北間の対話の機運を醸成したが、南北朝鮮双方の国内体制の権威主義化(維新体制/唯一体制)という反応をもたらし、分断の克服というよりもむしろ現状の強化あるいは再制度化につながったとされる(李東俊『未完の平和――米中和解と朝鮮問題の変容 1969-1975年』法政大学出版局, 2010年)。朴正熙は西ドイツの東方政策を魅力的な研究材料として注目していたというが(99頁)、こうしたユーラシア大陸の反対側において、東方政策の含意がどのように受け止められたのかという点もまた今後の研究課題といえるのではないだろうか。さらにいえば、西ドイツの東方政策にソ連が応じた要因に、中ソ対立の深刻化に伴う脅威認識の変化が介在したことは本書でも先行研究を引く形で指摘されているが(58頁)、ヨーロッパ冷戦史における、いわゆる「中国ファクター」の意味合いもまた重要な論点として指摘できるだろう。

生政治の彼岸へ

2010年02月20日 | knihovna

伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房, 2008年)

約一年前(3月20日)に他界した伊藤計劃のデビュー作『虐殺器官』の文庫版が刊行されたことに気づき、またニジェールのクーデタ、健康増進法に基づく公共施設の全面禁煙化の動きといった最近のニュース、そして「風の谷のナウシカ」のTV放映などが触媒となって、連想されるのが彼の遺作『ハーモニー』の主題である。

「アメリカっていう当時は世界一強くて儲かってた国の隅々を、誰も起こると思ってなかった大暴動が覆っちまった。ヒスパニック、コリアン、アフリカン……民族虐殺が横行した。皆が皆、虐殺するための器官を生得的に持っているかのように精力的な虐殺ぶりだよ」(159頁)や「アメリカ合衆国に端を発し、英語圏を中心に広がった、戦争と虐殺の時代」(189頁)といった文章から、『虐殺器官』の世界との連続性が容易に推察できるが、『虐殺器官』を規定するのが世界内戦状況の到来に象徴される戦争様式(warfare)をめぐる問題系、すなわちカール・シュミットの系譜だとすれば、『ハーモニー』は、規律権力および生権力に見られる身体をめぐる権力作用の転換を軸とした福祉(健康)社会(welfare)をめぐる問題系というミシェル・フーコーの系譜にあるといってよいだろう。

北米を中心とする英語圏での大暴動に端を発する2019年の「大災禍(ザ・メイルストロム)」によって核に汚染された世界の跡に出現したのは、病気そのものの駆逐を目指す医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)、通称「生府(ヴァイガメント)」を基本単位とした高度な医療福祉社会であった。この医療社会を支えるイデオロギーが生命主義(ライフイズム)、すなわち「命はみんなの所有物」という観念であり、(1)充分にネットワークされた恒常的健康監視システム(WatchMe)への成人の組みこみ、(2)個人用医療薬精製システム(メディケア)に代表される安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、(3)将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供から構成される人間の尊厳の最低条件を通じて具現化されている(55頁)。と同時に、医療記録の経歴などの個人情報は生府の地域倫理委員会が付与する社会評価点(SA)として反照されることによって、健康を尺度とした身体の規律化を促していく。その結果、人は老衰や不慮の事故を別とすれば病気で命を失う可能性が限りなく減少し、またその容姿においても極端な肥満や痩せが根絶され、標準化された、ある意味で個性を失った人々からなる社会が出現することになったのである。

そのような社会の風景をいくつか本書の文章や登場人物の台詞から引いてみよう。「健康状態を主とする個人の信用に関する様々な情報を、パブリックに晒すことがモラルとされる生命社会」(125頁)、「わたしたちは皆、世界に自分を人質として晒しているんだね」(128頁)、「自分自身を自分以外の全員に人質として差し出すことで、安定と平和と慎み深さを保っているんだよ」、「自分を律することの大半は、いまや外注に出されている」(138頁)。身体に対するリソース意識が格段と高まり、もはや公共的身体となっている意味で、まさしくポスト身体主権の社会がそこに見出せる。それは、一方で「医療と思いやりと慈しみに溢れていて、さらに隣人が苦しんでいるさまも放っておけない」(54頁)世界であるが、他方では「優しさのテクノロジーの大量動員」あるいは「慈母によるファシズム」(80頁)が行き渡った「真綿で首を絞めるような、優しさに息詰まる世界」(15頁)、「天国の紛い物のような世界」(134頁)でもある。

こうした世界観にフーコーの生権力・生政治の議論が大きな影響を与えていることは言うまでもないだろう。本書の世界観を想起させる文章をフーコーの講義録から容易に引いてくることができる。たとえば、「生きた存在からなる人口に内在する偶発性のまわりに安全のメカニズムを配置し、生命の状態を最適化しなければならない」(『ミシェル・フーコー講義集成(6)社会は防衛しなければならない――コレージュ・ド・フランス講義1975-76』筑摩書房, 2007年: 245-246頁)、あるいは「万人の日常的健康は…、内政にとっての恒常的な配慮と介入の対象となっていく」(『ミシェル・フーコー講義集成(7)安全・領土・人口――コレージュ・ド・フランス講義 1977-78』筑摩書房, 2007年: 401-402頁)。しかし、フーコーの影響がより明示的に見られるのが次の場面である。すなわち本書の語り部である霧慧トァンは、少女時代に友人の御冷ミァハから、同じく友人の零下堂キアンと3人で一緒に自殺することを提案されるが(結局ミァハのみ自殺)、その際、ミァハが以下のフーコーの言葉(の概略)を口にしている。「死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も『私的な』点である。…。それ[自殺]は、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ」(『性の歴史(1)知への意志』新潮社, 1986年: 175-176頁)。

死に対する権利の行使であるところの自殺。自らの手で命を絶つ行為の持つ衝撃度は、生命に至高の価値を置く医療福祉社会において計り知れない。それゆえに本書のストーリーは、2073年に起きた6582人が一斉に試み、そのうち2796人が死亡した世界同時自殺、そして「一週間以内に、誰かひとり以上を殺す」という犯行声明、すなわち生命社会へのテロをひとつの基点として展開していく。このとき生命権の保全や健康的で人間的な生活保障の査察を任務とし、生命主義の尖兵とも形容されている世界保健機関螺旋監察事務局の監察官であったトァンもまたその場面を眼前で目撃することになる。つまりニジェール停戦監視団の任務を解かれ、一時帰国した空港でトァンを出迎えた友人キアンとの食事中に、キアンがテーブルナイフを喉許に突き刺して自殺した現場に居合わせたことによって、この世界同時自殺の捜査に関わっていくことになる。そして自殺者の中でキアンだけが残した遺言「うん、ごめんね、ミァハ」を手がかりにして、トァンは、13年前(2060年6月12日)に結局一人だけ自殺したはずのミァハの存在、そして彼女が事件解明の鍵を握っていることに気づく。5日間という限られた時間の中で、巨大医療資本の集積する都市であり、「医学のドバイ」と言われるバグダッドから、最終的にチェチェンへつながるミァハの影を追い求める旅を通じて、トァンは、人の意識を制御し、調和の取れた意志の形成を促すハーモニー・プログラムの存在を知るとともに、このプログラムにおいて、実は戦災孤児であり、意識を生み出す遺伝子の欠如した民族の子孫であるミァハが鍵を握っていることが明らかとなる。コーカサスの山奥でミァハと対峙することになったトァンが最終的に下した判断は、ある意味で『虐殺器官』の主人公クラヴィスのそれと共通する。トァンの判断がいかなるものなのかを理解したとき、本書の至る所に張られたタグ(etml言語)の意味もまた明らかになり、読者自身もトァンの選択した世界に生きる一人であることが分かる仕掛けが施されている。その意味で本書のテーマは一読しただけで把握することは困難だといえるだろう。

あるいはナウシカの影響について言えば、核汚染された土壌をひまわりなどの植物によって浄化する植物利用環境修復(ファイトレメディエーション)や、ニジェール停戦監視団の一員だったトァンが生府生命圏の外側で暮らすトゥアレグ族との間で嗜好品の違法取引を行う場面、すなわちトゥアレグ族の指導者ケル・タマシェクが「蒼き衣をまといて黄金の野から現れる」(35頁)といったように、明示的に見出される。さらに言えば、トァンの選択に関しても、漫画版『ナウシカ』のラストにおけるナウシカの選択と比較することもできるだろう。つまり「火の七日間戦争」後、腐海の毒に耐性を持つように改造された人類にとって、清浄な空気こそ毒であり、浄化が完了した世界で生きるために清浄な空気に適応する身体に戻さなくてはならないわけであるが、この事実を知ったナウシカは、トァンと同様に、ユートピアの実現を目の前にし、その扉を開く役割を任された者であり、そして両者の選択のどちらもが一概に否定できないものである。

転移した癌との闘病生活の中での執筆作業という生権力/生政治の最前線に身を置かざるをえない状況が伊藤をして医療福祉社会の現実化した世界を構想することを可能にしたともいえるわけであるが、それゆえにこそ生政治のユートピアとして立ち現れる世界の両義性に対する鋭い感性も同時に培われたことによって、ユートピアの終着点、換言すればディストピアへの入り口のひとつの在り様を提示しているのが本書であろう。


冷戦(史)像の拡散と収斂

2009年07月03日 | knihovna
マイケル・L・ドックリル/マイケル・F・ホプキンズ『冷戦 1945-1991』(岩波書店, 2009年)

「ヨーロッパ史入門」と題したシリーズに冷戦を主題とする一冊が加えられたとき、読者はどのようなイメージや期待を抱いて本書を手に取るのであろうか。おそらく、ヨーロッパという地理的空間を舞台として、ヨーロッパ諸国の外交(ならびに内政)の営みが冷戦の形成と定着において果たした役割や、あるいはより平和的で安定した秩序を目指して、冷戦を問い直し、超克していく過程が叙述されるというイメージではないだろうか。換言すれば、主体に関しても構造に関してもヨーロッパ(諸国)が主役として語られる冷戦史が想定されるといってよいだろう。

しかし本書を読み進めていくうちに、こうした期待(あるいは先入観と言ってもよいだろう)は見事に裏切られることになる。本書は、たしかに旧共産圏の公文書に基づいた研究を大いに活用している点で「新しい冷戦史」という研究潮流に位置づけられるかもしれないが、ヨーロッパは米ソの利害が対立する場にすぎず、アクターとして登場する場合にも脇役以上の地位が与えられていないなど、「米ソ冷戦史観」どころか「アメリカ冷戦史観」から一歩も出ていない点で「旧さ」を漂わせている。

あくまでアメリカの視点から見た冷戦史であることは、内容以前に、なによりも章立てに典型的に表れているし、また訳者にアメリカ外交史の研究者を起用したことや、「日本語文献案内」でも「冷戦史・アメリカ外交史一般」と一括りに扱われていることによっていっそうその印象が強められる。その意味で戦後冷戦の時期を対象とした概説書のなかに類書を探すとすれば、「ヨーロッパ」とタイトルに掲げた渡邊啓貴編『ヨーロッパ国際関係史――繁栄と凋落、そして再生[新版]』(有斐閣, 2008年)ではなく、アメリカ歴代政権による時代区分に基づいた構成など共通する点が多い佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史[新版]』(有斐閣, 2009年)になるだろう。

もちろんアメリカの視点に基づいているからといって、冷戦に関わる事象を目配りよく取り上げ、ひとつの歴史として叙述する概説書としての本書の価値が損なわれるものではない。しかしヨーロッパ史における冷戦という意識が全面に出ているとは到底いえず、したがって以下に述べるように「訳者解説」の評価についても首肯しかねる点がある。

「訳者解説」によれば、冷戦の終結をめぐる論争に関して、レーガンよりもゴルバチョフの役割を重視する本書の解釈は「冷戦の緊張緩和がヨーロッパ主体で進んできたという著者らの立場を反映するもの」であること、そして「ヨーロッパ諸国が冷戦構造の構築や変容、そして終結において果たした役割を重視している」ことが本書の特徴のひとつだとされる(259頁)。たしかにそれまでアメリカの政権交代にしたがって区分してきた章立てが、7章ではゴルバチョフの登場した1985年が基準となっていることからも、いわゆる「ゴルバチョフ・ファクター」を重視していることが判る。しかしながらゴルバチョフの役割を重視していることが、直ちにヨーロッパ重視という評価と結びつくわけではなく、むしろ「アメリカ冷戦史観」から「米ソ冷戦史観」へと分析の射程が拡がったにすぎず、そこからヨーロッパ冷戦史へは依然としてかなりの距離がある。

さらにいうならば、ヨーロッパ戦後史を語る上で欠かせないヨーロッパ統合の展開についての言及が皆無であることは、著者がイギリス人だからかもしれないが、ヨーロッパ重視という本書の評価に疑問を投げかける。山本健が論じるように、すくなくとも冷戦構造が形成され、確立される1950年代において、シューマン・プランの受容やローマ条約の成立において冷戦(およびドイツ問題)が大きく作用しており、「ヨーロッパ統合の制度的起源と冷戦とはきわめて密接な関係にあった」(「冷戦の緊張緩和とヨーロッパ統合」田中孝彦・青木人志編『〈戦争〉のあとに――ヨーロッパの和解と寛容』勁草書房, 2008年: 221頁)。その一方で「ヨーロッパのデタントは、ヨーロッパ統合の問題を迂回しながら進んだ」(223頁)という山本の指摘は、ヨーロッパ統合の動きがあくまでも西ヨーロッパに限定されたものであることを示唆している。したがってヨーロッパにおける緊張緩和から冷戦構造の解体へに至る経緯を論じるにあたって、「鉄のカーテン」を横断する形で展開した動きに注意を向ける必要がある。その最有力候補である欧州安全保障協力会議(CSCE)の役割、とりわけ「ヘルシンキ効果」の意義について本書もある程度の紙幅を割いているが、掘り下げた考察がなされているとはいえない。また「鉄のカーテン」をこじ開ける決定的な場面を演出したヨーロッパ・ピクニック計画が言及されていないように、トランスナショナルな社会運動の役割に対する認識が不十分な点を見ても、ヨーロッパの役割に正面から取り組んだと必ずしもいえない。

また本書におけるデタントの用法について、訳者は4章のタイトルが「危機からデタントへ」となっていることに注意を促し、アメリカ外交史研究における使用方法とは異なるデタント理解であり、そこにヨーロッパの視座が看取できると指摘する(259-260頁)。しかし危機の時代から緊張緩和の時代へと移行する過渡期を対象とした4章のタイトルにデタントが使われたのは、この時期にヨーロッパにおいて緊張緩和の試みが模索されてきたことを強調するためであると解釈できる一方で、1969年以降の本格的な緊張緩和に至る助走期間の意味合いを込め、この過渡期の終着点にデタントが待っていたという認識から始点と終点を示す形容として危機およびデタントの用語を使ったとみなすほうが素直な理解であり、それは別段、アメリカ外交史研究の慣習から逸脱した使用法でもない。本書のヨーロッパ的視座を強調したいがための訳者の牽強付会に近く、もし訳者が指摘するような意味をデタントに持たせているとすれば、本書の時期区分との齟齬を露呈させる。それゆえデタントの扱いは本書の特徴というよりもむしろ本書がアメリカ/米ソ冷戦史観に囚われている証左として批判的に捉えられるべき点であろう。

冷戦構造が崩壊したことによって、ひとつの完結した物語として冷戦を叙述することが可能になる一方で、冷戦を通して把握される戦後史の語り口自体を問題化する議論も提起されている。たとえば日本国際政治学会編『日本の国際政治学(4)歴史の中の国際政治』(有斐閣, 2009年)に所収されている佐々木卓也「米ソ冷戦史――アメリカの視点」、山本健「ヨーロッパ冷戦史――ドイツ問題とヨーロッパ・デタント」、宮城大蔵「戦後アジア国際政治史」を読み比べると、冷戦の多義的様相は明らかであり、戦後史を一口に冷戦で語ることがいかに乱暴な行為であるかが判る。そのことは戦後アジアについてあえて冷戦史を使用しなかった宮城の問題関心に端的に見出せる。宮城によれば、「冷戦という枠組みのみによって、この戦後アジアの変容とダイナミズムを捉えることは困難であろう。…。植民地支配からの独立とその後に続く国民国家建設の模索は、まさに戦後においてプロセスとして進行したのである。その動的なエネルギーこそが、戦後アジアが冷戦という静的な状態にとどまらず、常に変化を遂げ続けた根底にあった」(宮城: 153頁)。冷戦に加えて、革命・独立・開発といった複数の要素が絡み合う形で戦後史が展開してきた地域のほうが大部分であり、戦後史を理解するうえで冷戦の占める意味合いは一般に認識されるよりも低い。すくなくともキューバ危機後の1960年代に入って冷戦の拘束性は、冷戦とは別の基軸動因が台頭してきたヨーロッパや東アジアのような地域もあれば、時差を伴って冷戦の力学が波及したアフリカもあるというように、空間的に多様化していったのであり、それは冷戦を下部構造とするような還元主義では捉えきれない現象である。

このように冷戦の拘束性が時間的にも空間的にも強弱を孕むものである点は、あらためて冷戦の本質をめぐる問題を浮かび上がらせる。おそらく冷戦が一定程度の割合で継続的に国家の外交政策や内政に影響を与え続けたのは、まさに冷戦の主役であったアメリカとソ連といえるだろう。そして米ソ両国が冷戦の主役だということが意味するのは、もちろん両国が核兵器に象徴される圧倒的な軍事力と普遍的魅力を備えたイデオロギーを掲げ、世界各地を舞台に対峙したからだけでなく、時間の経過とともに、米ソ以外のアクターが、冷戦という舞台から退場し、そして冷戦の物語とは別様の台本に基づく物語が比重を増していくにつれて、最終的に冷戦という演目を演じ続けたのは米ソだっただけのことであり、それは脇役のいない二人芝居であるがゆえに、必然的に米ソは主役を担わざるをえなかったにすぎない。そしてこの見方は、冷戦の終焉とされる1989-1991年という指標の普遍性について疑問を投げかけることにもなり、冷戦を基準とした20世紀史の時代区分の再検討を促す。

こうした視点に立つならば、冷戦を考察するに当たって、その焦点は、米ソ以外のアクターの主体性に注意を促す「新しい冷戦史」の潮流に反して、アメリカ(およびソ連)に再び設定されなくてはならない。しかしこれは単なる「米ソ冷戦史観」への回帰ではない。むしろ冷戦の本質を理解するうえで、アメリカ(ないしソ連)の外交文化や歴史的アイデンティティの影響を視野に入れることは不可欠である点を示唆している。とりわけヨーロッパ国際政治との距離感でいえば、ソ連よりもアメリカの冷戦外交が議論の中心となってくる。いうなればアメリカニズムとしての冷戦論である(もちろんアメリカの特殊性・例外性に力点を置く議論はアメリカ史研究者にとっては特段目新しくはないだろう)。さて外交とアイデンティティの関係についてデヴィッド・キャンベルは次のように論じている。つまり国家が行う政策としての外交(Foriegn Policy)と、他者性を抽出して、差異化ないし排除によって内部のアイデンティティを構築する実践・様式としてのメタ外交(foreign policy)に区別され、そして前者は、後者を通して構築されたアイデンティティを再生産し、また確立されたアイデンティティに対する挑戦を封じ込める役割を担っているのである(David Campbell, Writing Security: United States Foreign Policy and the Politics of Identity, rev. ed., University of Minnesota Press, 1998:68-69)。そしてアイデンティティ形成における外交の二重機能が最もよく作動しているのが、自由や民主主義といった理念を国家/国民アイデンティティの形成ならびに維持の中核に据える「典型的な想像の共同体 Imagined Community Par Excellence」アメリカであり、自己と他者の境界線が揺らいだり、侵されたりすることへの怖れ、それが醸成する脅威認識の強さは、他国との(平和的であれ敵対的であれ)関係構築に際して従来の外交作法とは異なる意味合いを与える。

アメリカニズムとしての冷戦という把握の試みがすでに永井陽之助によって着手されていることは言うまでもない。中山俊宏が「永井流アメリカ論」の一つと評す永井の『冷戦の起源――戦後アジアの国際環境』(中央公論社, 1978年)がそれである(「鼎談・追悼永井陽之助――『平和の代償』の衝撃」『外交フォーラム』2009年5月号: 21頁)。とりわけ第1章「冷戦思想の疫学的起源」と第2章「冷戦論争のアメリカ的性格」において、アメリカの外交文化がいかに冷戦という特異な抗争形態を作り上げていったのかが見事に描かれている。たとえば「世界史上、大陸型海洋帝国へと脱皮する過渡的段階における米国民の深層心理に探査の針を入れることによってのみ、何故に、コミュニズムのイデオロギーをもつ革命国家たるソ連の方が伝統的な現実主義外交の型にしたがって比較的限定された戦略目的を追求し、慎重に行動したと見られるのに対して、アメリカの方がグローバルな使命観に燃えたつ『イデオロギー国家』であるかのような振る舞いに終始したか、そして、何故にヨーロッパとは異なり、アジアにおいて、朝鮮戦争からヴェトナム戦争にいたるまで、熱戦段階への拡大をともなったか、という冷戦史における最大の謎に答えうるであろう」(永井『冷戦の起源』: 36頁、強調原文傍点)との指摘に象徴される。

現在において、アメリカニズムとしての冷戦論の視点を明示的に提起しているのは、アンデルス・ステファンソンであろう(たとえば、"Cold War Origins", in Alexander DeConde, Richard Dean Burns, and Fredrik Logevall eds., Encyclopedia of American Foreign Policy, vol. 1, 2nd ed., Charles Scribner's Sons, 2002.参照)。ソーカル事件の舞台となった『ソーシャル・テキスト』誌の編集に関わった経験があり、冷戦史研究のジャーゴンに擬えれば「新修正主義者」ともいえるステファンソンの議論が、思想的に相容れない永井のそれと共鳴している点は興味深い。ステファンソンは、ヨーロッパ国際政治システムに対するアンチテーゼとして国際舞台に登場してきたアメリカの国際社会観および外交思想に冷戦の本質的特徴を求める。安全保障や国益といった戦略的な観点を重視するポスト修正主義学派と異なり、アメリカのイデオロギーという理念的側面に着目する視座は「新しい冷戦史」と共通する。しかしステファンソンは、冷戦の生成および展開におけるイデオロギーの作用を的確に理解するにあたって、「戦略目的に対する修辞的な手段という純粋に道具的なイデオロギー理解」にもとづく「新しい冷戦史」の知見は不十分であると批判する。換言すれば、米ソ以外のアクターを付け加えたり、対象領域を広げたり、機密解除された公文書の利用によって、より完全で真の冷戦を叙述しようとする「新しい冷戦史」の方向性とは正反対の視座から、「冷戦とは何か」という根本的問いに接近する。

そして(1)戦争以外のあらゆる手段によって遂行される擬似戦争的な敵対状況、(2)軍事的思考および戦争形態に対する外交の従属、(3)熾烈なプロパガンダ戦による敵対者の正統性の否定、(4)世界規模に浸透した国際政治構造の二極化、(5)激しい軍事競争、(6)国内の反体制派の抑圧、を特徴とする冷戦は、いわゆる勢力均衡が作用する国際関係とは異なり、むしろ17世紀にヨーロッパ国家体系が進展した以前の宗教戦争に特徴的な絶対的な敵対性と憎悪、救世主主義への回帰といえる特異な時代であった。田中孝彦の表現を借りれば、ヨーロッパが培ってきた古典外交を批判し、新外交を掲げ、20世紀国際政治に参入してきたアメリカが冷戦の主役となったことは、「歴史の転倒」をもたらしたのである(「冷戦秩序と歴史の転倒――古いアメリカと新しいヨーロッパ」田中・青木編『<戦争>のあとに』所収)。

すくなくとも米ソ間で冷戦を熱戦化させず、冷戦たらしめたのは、核兵器という物質的な要因だけでなく、アメリカ(史)に特有の戦争/平和観ないし自由/隷属観に求められる。それゆえにステファンソンは冷戦をアメリカの「イデオロギー・プロジェクト」と形容するのである。冷戦の性格や論理の原型は、フランクリン・D・ルーズヴェルト政権期に形成され、戦争終結の方式として提示された無条件降伏概念に集約的に現れている。無条件降伏は、その起源が南北戦争にあることから明らかなように、従来の国家間戦争とは異なる戦争観にもとづく降伏の方式であった。無条件降伏を国際社会に適用するとき、侵略者や独裁者との和平は一時的な休戦にすぎず、彼らが排除されるまで戦争状態は継続する。また侵略者に対する完全な勝利と普遍的権利の獲得という目的を達成するために、戦争に対する制約は取り払われ、限りなく正戦論に近づいていく。第二次大戦後、このようなアメリカの世界観が対ソ政策に投影されていく。戦後秩序に対する米ソの構想の違いが明らかになるにつれて、ソ連を友人ではなく、絶対的な敵とみなす認識上の変化が生じた。自由と隷属の二項対立の図式は、自由と全体主義のそれにすんなりと転位し、ソ連との「交渉は適切な力関係が達成され、ソ連が受容可能な領域に引き込まれるまで延期される」という一種の「無外交」が基軸となった。その根底にあるのは、異質な他者の正統性を承認せず、国際社会から排除される敵として認識する外交拒絶主義(diplomatic rejectionism)の論理である。またそれは第二次大戦から得られた教訓、すなわち独裁者に対して譲歩ではなく明白な力で臨むこと、そして孤立主義から脱却し、世界において主導的役割を担うべきだという2つの教訓に起因するものでもあった。

アメリカの歴史や世界観に起因する外交拒絶主義、あるいはアメリカ的戦争様式(American way of war/conflict)に着目して、冷戦が特殊アメリカ的な敵対関係であったことを明らかにした点にステファンソンの議論の意義がある。それは、ヨーロッパ国際政治の文法とは異なるアメリカ特有の外交文化を視野に入れる重要性に注意を促し、「長い21世紀」に入って超領域的な権力主体として世界政治の動向に影響力を与え続けているアメリカの将来を理解するうえで一つの鍵を提供してくれる。

最後に訳について。キッシンジャーの略歴を述べた箇所で「ナポレオン戦争後の議会制度についての研究で博士号を取得し」(146頁)とあるが、「議会制度」は明らかな誤訳だろう。原書を確認していないので原語は不明だが「会議外交」を意味する用語(the Conference System?)だと思われるが、曲がりなりにも外交史の研究者がこのような基礎知識レベルの誤訳を犯すのはいただけない。また本書の初版刊行が1996年とされているが(251頁)、これは1988年の誤りである。さらに「日本語文献案内」で吉川元の読みを「よしかわ」とみなされリストアップされているのも初歩的なミスの類である。

ポスト「アイゼンハワー修正主義」の地平

2008年06月13日 | knihovna
佐々木卓也『アイゼンハワー政権の封じ込め政策――ソ連の脅威,ミサイル・ギャップ論争と東西交流』(有斐閣, 2008年)

アメリカ外交史研究において、いわゆる「アイゼンハワー修正主義」と呼ばれる研究潮流の登場によってアイゼンハワー(政権)の評価が一変したことは共通理解となっているといえるだろう。すなわち「『ゴルフとまぬけさだらけの8年間』と痛烈に揶揄された当時から、十数年後には、『巧みな手腕で自らの政権を舵取りした、知性的で、決断力に満ち、明敏かつ強力な指導者であり、あの冷戦の厳しい8年の期間中、自らの国を平和に導いた大統領』へと、アイゼンハワーおよびその政権の評価は、文字どおり、コペルニクス的転換を遂げた」のである(李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会, 1996年: 4頁)。李鍾元によれば、すくなくともアイゼンハワーの指導力に対する積極的評価、合理的計算に基づいた自己抑制的な対外政策の評価、そして「米国自身および同盟国の経済的安定と発展の問題を冷戦戦略の一つの柱として重視したこと」に「アイゼンハワー修正主義」の特質が見出せる(5-6頁)。

冷戦戦略の基軸であった封じ込め政策を強化する必要性が生じた1950年代のアイゼンハワー政権の外交・安全保障政策を考察することを目的としている本書も「アイゼンハワー修正主義」が提起した論点を受け継ぎ、発展させた研究といえる。この時期に注目するのは、ソ連の脅威が軍事面だけにとどまらず、経済およびイデオロギーにも及ぶ複合的な性格を有しており、そしてソ連の攻勢に対して問われていたのが「アメリカの体制、生活様式そのもの」であったことが、アイゼンハワー政権の対応をいっそう困難なものにしたからである(ii頁)。こうした困難に対処するアイゼンハワー政権の政策を考察するうえで、本書は、第1にこれまであまり注目されてこなかった東西交流計画に焦点を当てることによって、封じ込め政策の多様性を明らかにすること、第2にソ連の脅威が高まり、国内においても軍備増強の声が上がる状況にあって、アイゼンハワー大統領およびダレス国務長官が抑制的かつ冷静な態度をとった背景には対ソ交流への配慮があったことを強調する。言い換えれば、「アイゼンハワー政権は冷戦の変容とソ連の新たな脅威に、東西交流を含めた多様な手段で対処し」、「ソ連との軍拡競争の激化を避け、国際的な緊張緩和を辛抱強く進めることで、ソ連が外に開き始めた門戸を閉ざすことなく、西側との人的・文化的交流を続ける外的環境の形成、維持を試みた」(iii-iv頁)ことを明らかにする。

まず封じ込めの新たな手段としての東西交流についてである。アイゼンハワーが大統領に就任した1953年は冷戦史におけるひとつの転換期に当たる。冷戦の前線がヨーロッパ/軍事から第三世界/経済・文化に移り、経済成長の高さやイデオロギー的な魅力を競い合う体制間抗争の様相を帯び始め、さらに巻き返し政策に見られる軍事力による体制転換が非現実的であることが明らかになった。そこでアイゼンハワー政権は、非軍事的手段によるソ連圏の段階的変革を目指すことを企図し、その手段として重視されたのが宣伝・広報活動と東西交流である。1958年に締結された米ソ文化・技術・教育交流協定、1959年にモスクワで開催のアメリカ国家博覧会、フルシチョフの訪米などに代表される両国間の交流は拡大・深化していき、「ソ連の新たな脅威に対応して、非軍事的な方法によってソヴィエト体制の変容を漸進的に進めることをはかった、封じ込めの一環」(64頁)としての機能を十分に果たしたといえる。しかし「この領域での成果をアメリカ国民に声高に喧伝することはできなかった。ソ連の警戒を招いて、計画の縮小につながる危険があった。しかも、その成果は長期的に期待できるものであり、すぐに具体的な形となって表れることはなかった」(173頁)というジレンマをアイゼンハワー政権が抱えたことは東西交流の限界を示すものであった。

一方、ソ連の脅威に対するアイゼンハワー政権の抑制的な態度はアイゼンハワー自身の信念と、U2偵察飛行によるソ連の軍事情報についての正確な認識から導かれた。「冷戦は長期的な闘争であるがゆえに、過度の軍事支出によりアメリカの政治・経済体制を損なってはならない」(52頁)あるいは「冷戦を戦う過程で、過剰な軍事支出の累積によってリベラルな政治・経済体制を損ない、アメリカ的生活様式を変える愚をおかしてはならない」(108頁)という信念を持って、「健全な経済と強い軍事力との間に『大いなる均衡』をはかること」(12頁)を優先課題としていたアイゼンハワー政権の安全保障政策は、しかしながら、アメリカ国内において十分な理解を得られたとは言いがたい。むしろソ連のICBM実験やスプートニク打ち上げの成功が引き起こしたミサイル・ギャップ論争が示すように、財政保守主義の観点から軍事費抑制の立場をとるアイゼンハワー政権を批判し、大幅な軍事費の増額を求める声が国防総省や民主党を中心とした議会内で高まっていった。こうした要求を集約したのがアイゼンハワー政権の対ソ政策の全面的な見直しを提起したゲイザー委員会の報告書(1957年)であった。こうした批判を受けながらも、アイゼンハワーが軍事費の増額にあくまで否定的であった理由の一つは、先述したように、U2偵察飛行によってソ連の軍事的脅威の実情を把握していたことが指摘できる。それは抑制的かつ冷静な態度につながるものであったが、議会や国民の間で共有される認識までには至らなかった。偵察飛行から得た情報を積極的に開示することに難色を示したため、議会および国民の不満や危惧は解消されず、ミサイル・ギャプの神話は一人歩きし、党派的な批判を浴び、いくつかの譲歩を強いられる結果を招いたのである。

「兵営国家」への変質を回避するというアイゼンハワーの信念と、冷戦の変容という国際環境の変化は東西交流に見られる封じ込め政策の多様化を進める素地を提供した。「1950年代後半以降のソ連の脅威の性格の変化、さらにはスターリン後のソ連社会の新たな潮流に対応して、ソヴィエト体制の変容を促す新たな封じ込めの手段」(212頁)として東西交流を重視するアイゼンハワー政権の方針は、フルシチョフ外交のように、華々しいものではないが着実な成果をもたらし、その後の歴代政権にも引き継がれていく。その意味でアイゼンハワー政権が進めた東西交流は1975年のヘルシンキ宣言を先取りするものであった。他方で佐々木は、ミサイル戦力の大規模な強化の決定、公民権政策への消極的態度、インドネシア・キューバ・ヴェトナムなどの第三世界政策において負の遺産を残したと指摘する(213-214頁)。このことは、「アイゼンハワー政権が米ソ相互の外交的譲歩による冷戦構造の弛緩、そして終結を射程においた柔軟な外交を展開する用意があることを意味するものではなかった。…彼らは顕著な軍備増強による封じ込めの一層の軍事化は拒絶したものの、ソ連に対する外交的歩み寄りによる冷戦構造の緩和は考えていなかったのである」(134-135頁)という評価に通底する。

以下、本書が提起する論点について印象論的に議論を展開してみたい。大量報復戦略や巻き返し政策、瀬戸際外交といった「力による外交」のイメージで語られる傾向の強いアイゼンハワー政権の封じ込め政策において等閑視されてきた米ソ間の人的・文化的交流が果たした役割を明らかにしたところに本書の特色および意義があり、それは特殊な抗争形態としての冷戦の特質を照射する射程を持っている。しばしば冷戦は権力政治上およびイデオロギー上の二重対立状況であるといわれるが、1950年代半ばに入って対立の争点および手段において軍事的なものから、非軍事的なそれの比重が増し、より「理念をめぐる戦争」あるいは「体制間抗争」の意味合いを強めていった。「核戦力への依存と通常兵力の縮減による国防費の削減、核兵器行使の用意を打ち出しただけではなく、健全な経済の維持、同盟国との緊密な関係、同盟国の地上軍に依拠する局地侵略への対応、宣伝・秘密工作、心理作戦を中心とする新たな戦略」(14頁)を打ち出すことが要請された理由がここに見出せる。まさに永井陽之助による有名な冷戦の定義を構成するところの、「武力の直接的行使をのぞく、あらゆる有効な手段(イデオロギー、政治・心理宣伝、経済制裁、内乱、各種の謀略、秘密工作等)を駆使して相手側の意思に直接的圧力を加える行為の交換――いいかえれば、『非軍事的な単独行動』(non-military unilateral actions)の応酬」が米ソ間関係の性質を「冷戦」たらしめたのである(『冷戦の起源――戦後アジアの国際環境』中央公論社, 1978年: 8頁)。

このように軍事力の直接的行使以外の手段が動員される点に特徴がある冷戦期において、人的・文化的交流もまた外交政策を構成する重要な手段とみなされた。アイゼンハワー政権が採った文化交流の戦略的位相を強調する本書は、冷戦期の文化外交研究を構成する事例研究のひとつとみなすことができるだけでなく、冷戦という時間的およびアメリカという空間的条件を超えた可能性、別言するならば文化外交に関する研究の未開拓な水脈の存在を示唆している。そのひとつが戦後アメリカ外交における文化交流の位置づけに関する通時的な研究である。本書「おわりに」で言及されているように、アイゼンハワー政権が開始した東西交流は、ケネディ・ジョンソン政権に受け継がれていった。そしてソ連圏との人的・交流が「1975年の全欧安保協力首脳会議(CSCE)のヘルシンキ宣言の採択、とりわけこの宣言で約束された人と情報の自由な移動がソ連社会に対する西側諸国の価値観の浸透を可能ならしめ、最終的に冷戦の終焉に向かう重要な媒介となった」(214-215頁)という指摘は、人的・文化交流を中心に位置づける戦後アメリカ外交/冷戦史の語り方が成立することを示している。たしかに「アイゼンハワー政権が始めた対ソ交流がその後、順調に拡大し、直線的にヘルシンキ宣言に結実したと主張するものではない」(216頁)かもしれないが、文化交流が辿った紆余曲折で複雑な過程を解明する作業は研究対象として十分に魅力的なものである。

またアメリカ以外の諸国がどのような文化外交を展開したのかを検証し、そうして蓄積された個別の研究成果を比較検討することで文化外交の多面性を明らかにする方向性も考えられる。アメリカ以外の文化外交に注目した研究としてすでにイギリスやソ連を対象とした研究が日本語で読める。同盟国のイギリス政府が、外務省所管のブリティッシュ・カウンシルおよびその下部機関であるソ連関係委員会(SRC)を通じて展開した対ソ文化外交は、「旧共産諸国を相手にイギリス文化の普及を意図的かつ積極的にめざしており、なかでもSRCを中心にソ連に対して行われた文化交流活動は、政治外交が国際文化交流を利用したひとつの象徴的事象」であった(渡辺愛子「イギリスによる対ソ連文化外交戦略 1955-1959――ブリティッシュ・カウンシルを中心に」『国際政治』134号, 2003年: 122頁)。あるいは文化交流の戦略的利用という点では、本家ともいえるソ連も、とくにスターリンの死後、文化交流を積極的に外交手段の一つとして展開していった。たとえば、日ソの文化交流に関する半谷史郎の研究によれば、国交回復後の日ソ文化交流には「日米離間に益する親ソ世論の獲得」という政治的思惑が付きまとっており、「文化交流を通じて対ソ交流拡大を望む日本の世論を盛り上げて、対ソ関係に消極的な日本政府への圧力にしようとする」意味で外交と切り離すことができない(「国交回復前後の日ソ文化交流――1954-61年、ボリショイ・バレエと歌舞伎」『思想』987号, 2006年: 47-48頁)。また最近刊行された山本正編『戦後日米関係とフィランソロピー――民間財団が果たした役割 1945-1975年』(ミネルヴァ書房, 2008年)も文化外交研究の一例といえるだろう。

さらに付け加えれば、自国の文化を世界に発信していくことによって、国家イメージを高め、国家利益の拡大に結びつける考えは、冷戦という時代状況に限定されない。むしろ冷戦終焉後、その意義はいっそう高まっているといえる。ジョセフ・ナイのソフトパワー論はこうした文化外交の有効性に理論的な根拠を与えるものであろうし、広報外交(public diplomacy)という言葉が人口に膾炙し、市民権を得るようになっている(金子将史・北野充・ 小川忠編『パブリック・ディプロマシー――「世論の時代」の外交戦略』PHP研究所, 2007年)。また文化外交を担う機関としては、ブリティッシュ・カウンシル(イギリス)やゲーテ・インスティテュート(ドイツ)がよく知られているが、現代世界でその存在感を高めている中国も孔子学院を設立し文化外交の領野に参画していることは、外交戦略としての文化交流のもつ今日的重要性を示している。

他方で、外交戦略としての文化交流に収まりきらない多様な交流の形態が存在し、国際関係の展開に影響を与えてきたことも事実である。それは国家主導の文化外交に批判的で鋭い緊張関係を孕む面を有している。入江昭によれば、「いったん文化が国の関心事項となるや、その自律性が損なわれる恐れが生じるし、また政府が後援する文化プログラムは、必ずしも一般人や民間組織が重要だと思うものだとは限らないということもあり得る。逆に、民間からの働き掛けが、政府の文化方針にうまく適合しないこともあるかもしれないし、あるいは対外政策に有害とされることすらもあるのである」(『権力政治を超えて――文化国際主義と世界秩序』岩波書店, 1998年: 141頁)。別の著書で、入江は「1950年代の歴史を語る上で、政府間国際組織やNGOに焦点をあてるならば、冷戦という緊張関係にもかかわらず国際秩序を維持しようとした努力が存在し、米ソ間および同盟国間での対立ではなく協調関係を生み出そうとする努力が脈々と生きづいていた」と指摘し、国家間関係に集約されない文化交流などのトランスナショナルな動きに注意を促している(『グローバル・コミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部, 2006年: 83-84頁)。それは東西に分断され固定化して「動かない」冷戦構造が、人・情報・理念の移動・交流によって「動かされ」、冷戦構造を融解させる役割を担った点を明らかにする(ただし冷戦構造を「動かす」ことは、逆方向への動き、つまり「熱戦」化を招来する可能性を秘めていることに注意すべきである)。あるいは次のように整理することができるかもしれない。すなわち冷戦構造を所与とした上で展開される文化交流と、冷戦構造を問題化し、その変革を何らかの形で目指した文化交流という二つの流れが戦後の国際関係において交叉し反響していたのである。

文化交流を純粋に善良な意図に基づくものと解釈することが実態を見ない観念論であるとすれば、文化交流をあくまで政治の従属変数とみなすこともまた「国家からなる社会」という観念論に依拠した還元主義にほかならない。文化のもつ自律性や対抗性といった変革の潜在力を考慮に入れ、政府によって統制された文化交流の限界や問題点を認識した上で、外交戦略としての文化交流の役割を評価することが求められる。「権力政治を下敷きとする国際システムという観点からではなく、文化的に規定された世界秩序という観点からとらえること」によって(入江『権力政治を超えて』: 226頁)、二つの文化交流がときにぶつかり合い、ときに相互補完的に冷戦構造を揺るがす過程が見えてくるだろうし、その結果、アイゼンハワー政権の進めた文化交流に対する理解も深められるだろう。

最後に、本書が強調する第2点目であるアイゼンハワー(政権)の「抑制的で冷静」な態度に関して検討を加えてみたい。ミサイル・ギャップが実態に基づかない「神話」であることを十分に認識していたからこそ、アイゼンハワーは「穏健で、抑制的で、ドマラティックな色彩を排除した」(109頁)政策を維持することができたわけであるが、そうした認識が政権内部だけでなく、議会や国民の間で共有されなかったことは、いわゆる外交と民主主義の関係にかかわる論点を提起する。ミサイル・ギャップの神話が暴露された現在から見れば、ソ連の脅威を声高に叫ぶ主張に与することなく軍備増強に否定的だったアイゼンハワーの態度は「抑制的で冷静」と評価することができるかもしれないが、それはいくぶん「歴史の後知恵」という印象を抱かせる。むしろ問題とされるべきは、政治指導者と国民の認識に生じた乖離であり、「抑制的で冷静な対処」を支える説得的な根拠を国民に提示することを躊躇わせ、阻む内政と外交の関係であろう。「ソ連政府を刺激することを恐れ、偵察結果の公表を避けた」(115頁)ことは、国家間関係の文脈に位置づけたとき、当然の判断といえるが、それによって安定した外交政策を遂行する上で不可欠な国内政治に党派的対立をもたらしてしまい、外交政策を遂行するに当たっての自由度を失うことになった。ミサイル・ギャップを喧伝した人々を批判することは容易いが、正確で多くの情報を持ち、判断を下せる立場にあるアイゼンハワー政権が国民を説得できず、ミサイル計画の強化といった譲歩を繰り返したことを考えた場合、「抑制的で冷静な対処」という姿勢は狭い範囲でしか共有されなかった意味で、その評価はかなり限定的に理解されるべきではないだろうか。また本書の対象から外れるが、CIAによる秘密工作に依拠したアイゼンハワー政権の第三世界政策にまで分析の射程を広げれば、「抑制的で冷静な対処」の限界がいっそう浮き彫りになる。こうした点を踏まえることによってはじめてアイゼンハワー政権の外交・安全保障政策の全体像が見えてくると思われる。

虐殺のヌートピア

2008年01月15日 | knihovna
伊藤計劃『虐殺器官』(早川書房, 2007年)

「短い20世紀」と「長い21世紀」を区分する指標のひとつとして、戦争形態の変容、すなわち圧倒的な数の大量破壊兵器を保持した超大国同士による「世界戦争」から、権力資源や手段、および抗争主体間の非対称性が顕著であり、かつ前線と銃後、国内と国際、政治と経済などの既存の境界線を無意味化する形で進む「世界内戦」への移行が指摘できる。あるいは日常性を基準とするならば、これまでの(国家間)戦争が戦時/平時という時間観念の切り替えに基づいている点で非日常の領域に属すものである一方で、「対テロ戦争」という呼称が物語っているように、日常生活に浸透し、その内部からの撹乱・転覆を志向するテロリズムが非日常性を喚起する戦争と結びついている点で従来の日常/非日常あるいは戦時/平時の区分は通用しない。したがって外部領域の存在しえない世界において戦われる抗争は不可避的に「内戦」の様相を呈していく。

そのような状況にあって、平穏で安全をもたらしてくれる日常を得ようとするならば、自分たちの領域の外側に非日常性を見出し、分節することが必要となってくる。しかし発見され、措定された非日常性は不安定性を内在し、それゆえ絶えずその意味を固定化しておくことが要請される。言い換えれば非日常性を分節することによって担保されたはずの日常性はつねに侵食される不安を抱えた流動的なものでしかない。その不安感あるいは脅かされているという感覚は日常性の領域それ自体を縮小し否定しかねない状況をもたらす。この非日常性の全面化ともいうべき現象は9.11以後の世界において監視社会という形で顕在化している。しかもその場合、少数(権力者)が多数(一般市民)を監視するパノプティコン型ではなく、多数が少数(テロリストなどの逸脱者・不審者)を監視するシノプティコン型であることが特徴として挙げられる(テッサ・モーリス=スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店, 2004年: 3章)。

冷戦の終結は米ソ/東西/二極といった慣れ親しんだ世界表象がもはや無効となったことを意味し、その結果、一種のアイデンティティー喪失状態が生じた。「長い21世紀」の最初の10年間、いわゆる「名もなき90年代」はまさしく冷戦に代わる新たな拠り所を探求する過程だといえる。代表的なのはフランシス・フクヤマの議論に見られる「ポスト歴史世界/歴史世界」であり、それにデモクラティック・ピ-ス論を加味した「平和圏/紛争圏」という世界表象だろう。こうした漂流状態にあったアイデンティティーを再編し、固定化していくひとつの方向性を与えたのが9.11とその後の「対テロ戦争」であり、それに伴って加速度的に新たな境界線の設定に進み、定着しつつある。

「スパイと兵士のハイブリッド」組織であるアメリカ情報軍特殊検索群i分遣隊所属のクラヴィス・シェパード大尉を主人公とする本書は、こうした9.11以後の世界表象に依拠し、その延長線上に語られる物語である。サラエボでイスラム原理主義者が手製の核爆弾を使用したことによっていわゆる「核の禁忌」が解かれた近未来の描写は「長い21世紀」を特徴付ける意匠が至る所に散りばめられ、今後の政治的な重層的な(非)決定次第では現出する可能性を排除できない潜勢力に満ちている。現代紛争の特色であるところの戦争/暴力の私有=民営化については、民間軍事会社ユージン&クルーノブスがソマリアやインドなどで実質的な平和維持活動に関与し、「戦争はもはや国家が振るう暴力から、発注し委託されるもの」(63頁)となった世界が描かれる。あるいは小説世界において最新テクノロジーである人工筋肉の生産拠点がアフリカのヴィクトリア湖周辺にあり、その利権をめぐって「ヴィクトリア湖沿岸産業者連盟」と周辺諸国の間で紛争が生じている様子は、いうまでもなくドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を想起させるし、一方の紛争当事者が企業連合である点などはかつての東インド会社の系譜に連なり、暴力の多元化を示唆するものであろう(東インド会社については、羽田正『興亡の世界史(15)東インド会社とアジアの海』講談社, 2007年参照)。このように現実とフィクションの距離はそう離れていないところに小説世界が成り立っていることを読者に強く印象付ける。

さらにいうならば、民間情報セキュリティ会社(インフォセック)が提供する、生体認証技術などに基づいた情報管理は、犯罪者やテロリストの特定・追跡を容易にし、安全を保障してくれるとともに、嗜好に応じた消費行動を促す意味で消費者の利便性を飛躍的に向上させる。しかしそうした情報管理社会の恩恵は、行動を束縛される感覚と引き換えにもたらされる逆説性を持っていることは昨今の監視社会をめぐる議論からも明らかである(たとえばデイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視――〈監視社会〉と〈自由〉』明石書店, 2004年)。ネットワーク上で流通する情報に一義的な意味が付与されることで、物理的な身体に対するヴァーチャルな情報の優位が常態化していくが、それを逆手に取ることによって、身分を偽装することも可能となる。その拠点、すなわち「追跡可能性ゼロ」の「人間の消える町」としてプラハが舞台となっていることは興味深い(93頁)。20世紀の全体主義を象徴するソ連とナチスからの亡命者が集った戦間期のプラハは、全体主義に抗う空間としての表象を纏い、また記憶化されている(篠原琢「プラハ――亡命者の交差点」荒このみ編『7つの都市の物語――文化は都市をむすぶ』NTT出版, 2003年)。個性が脱色され、平準化される形で(テクノ)全体主義の傾向が情報管理社会に内在しているとすれば、そこからの亡命者たちを受け入れる空間としてプラハはまさしく適所だといえる。

あるいはポスト植民地ないしポスト共産主義国家で生じた人道危機とそれに対応する形で断続的に実施される介入のサイクルは、メディアを通じて「紛争圏」の表象構築を促し、「平和圏」に住む人々のヒューマニズムと恐怖が入り混じった反応を呼び覚ます。つまり「紛争圏」で起こっている危機が喚起する、危険に晒されている人々への同情、共感そして憐みは、「平和圏」という境界線の内側にいる安心感と表裏一体であり、また「紛争圏」の危機や混乱が「平和圏」へと波及してこない方策として人道的介入による危機の封じ込めが行われる。人道危機と介入が「紛争圏」を転移していく限り、その行為は「平和圏」の人々にとって一種の見世物として提示され、平和な日常におけるカタルシスの役割をも担う。

皮肉にもノーム・チョムスキーをモデルにしたと思われる「内戦を渡り歩く旅行者」ジョン・ポールの認識を支えているのは、このような心性だろう。言語学の教授であったジョン・ポールは、ペンタゴンの研究プロジェクトに関わる中で、「内戦というソフトウェアの基本仕様」(53頁)となった虐殺に共通する文法、すなわち「虐殺文法」を見つけ出す。サラエボで爆発した核兵器によって妻子を失ったポールは文化宣伝顧問などの肩書きで世界各地の紛争地域に入り込み、「虐殺文法」を実証していく。その根底にあるのは、彼自身の言葉に倣えば「彼らの憎しみがこちらに向けられる前に、彼ら同士で憎みあってもらおうと。彼らがわれわれを殺そうとする前に、彼らの内輪で殺しあってもらおうと。そうすることで彼らとわれわれの世界は切り離される。殺し憎しみあう世界と、平和な世界に」(264-265頁)という論理であり、また「愛する人々を守るため」(262頁)という論理で補完されている。

「愛する人々」と「殺し憎しみあう世界で生きる人々」を分けるのは身体感覚といってよい。「虐殺文法」の実験地で起こる死はヴァーチャル空間における平準化した情報と同じく無味乾燥なものであり、身体あるいは感情に直接作用するだけの痛みを伴わず、情報として消費される記号でしかない。人の死に対する格付けはたしかに嫌悪感を覚えさせるが、「わたしは命を天秤にかけた。わたしたちの世界の人間の命と、貧しく敵意の影がさす国の人間の命。わたしは目を見開いたまま、完全に正気で、その選択をした」(272頁)とジョン・ポールが語る選択を否定するだけの論拠は乏しいのもまた事実である。それは「何百万という人類の滅亡よりも、自分の小指のけちな痛みのほうが心配なものだ」という格言と通底する意味で、人間本性に根ざしているのではないかと首肯させるほどの説得力を持つ。

命の格付けをめぐる葛藤は、物語り全体に流れるテーマであり、主人公クラヴィス・シェパードを縛り付けている。任務として幾多の暗殺を実行してきたクラヴィスであるが、それが罪の意識や人格崩壊につながらずにいられるのは、CEEP(幼年兵遭遇交戦可能性)などを考慮した痛覚マスキングや戦闘適応感情調整によって保護されているからに過ぎない。しかし交通事故で脳死状態に陥った母親の延命処置を拒否すること、つまり安楽死の選択は、クラヴィスを悩ませ、彼の心に重い影を落とす。「たっぷりの銃とたっぷりの弾丸で、ぼくはたくさんの人間を殺してきたけれど、ぼくの母親を殺したのは他ならぬぼく自身で、銃も弾丸もいらなかった」(11頁)と述懐するように、いっけん殺人行為とはいいがたい延命拒否同意のサインがクラヴィスに強い罪の感覚を生じさせる。それまで任務として奪った無数の命に比べて延命拒否という形で母親の命を奪った決断は死の意味合いにおいてまったく異なり、それゆえに殺人意識を具体的な感覚として生じさせていく。

したがってクラヴィスがジョン・ポールの言い分を非難することはできず、むしろ日常性の領域にある母の死と非日常性の領域で遂行された暗殺任務を区分する境界線が疑問視され、相対化される。平和で安全な日常性の領域を守るため、世界各地で暗殺任務に携わってきたクラヴィスは自明の前提、あるいは自らの存在理由を失ってしまう。そしてアメリカ以外の命を背負うことを引き受けたのがジョン・ポールだとすれば、その責任を反転させて、つまり「アメリカ以外のすべての国を救うため」、クラヴィスは「虐殺文法」の物語を「平和圏」に向けて語り出す。「エピローグ」で語られるように、公聴会におけるクラヴィスの証言は、「平和圏」と「紛争圏」を分ける境界線を無効にする効果をもたらす。「虐殺文法」で綴られる物語は「紛争圏」に留め置いておくことができない、言い換えれば深層文法である「虐殺文法」はそもそも外部性を必要としない遍在性を有している点で、「平和圏」という名のユートピア/ヌートピアは擬制でしかない。あるいは「虐殺文法」によって生まれる「紛争圏」を構成的外部として措定する作業を通じてのみ成立する束の間のユートピア/ヌートピアと見るべきかもしれない。

「ヨーロッパ構築」史への序奏/助走

2007年10月23日 | knihovna
川嶋周一『独仏関係と戦後ヨーロッパ国際秩序――ドゴール外交とヨーロッパの構築 1958-1969』(創文社, 2007年)

グローバリゼーションが進展し、9.11テロとそれに続く「新しい戦争」が展開する21世紀において、「ポスト冷戦」という時代認識は色褪せ、後景化してしまった感があるが、学問的には「冷戦とは何だったか」という問いかけはいっそう重要な課題と認識されている。酒井哲哉によれば、「冷戦終焉後の国際秩序への問いが、冷戦構造変容期であるこの時期[1960年代]に再度関心を向けさせる一因となっている」(「濃密な国際関係の中で生きること――川嶋周一『独仏関係と戦後ヨーロッパ国際秩序――ドゴール外交とヨーロッパの構築 1958-1969』を読む」『創文』499号, 2007年: 1頁、[]内引用者)。一方の当事者であるソ連(およびソ連ブロック)が解体したことによって、冷戦はアメリカ(と西側諸国)が勝利したという見方が一般に浸透している。その結果、冷戦勝利言説が冷戦の起源まで遡って投影され、善と悪を体現した米ソ(東西ブロック)の対立状況という単純な冷戦観が強い影響力を持つようになっているのもまた、冷戦と冷戦後の連関性を示している。しかしより詳細に冷戦期を見れば明らかなように、冷戦は「生成、発展、成熟、そして崩壊という段階を踏んで変容する『歴史的システム』ともいえるような特色を持った事象」として捉えるのが適切であろう(田中孝彦「冷戦構造の形成とパワーポリティクス――西ヨーロッパvs.アメリカ」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(1)構想と形成』東京大学出版会, 1998年: 217頁)。冷戦期と呼ばれる20世紀後半の世界政治の流れを理解するために、それぞれの地域や時期において冷戦がどのような形態をとり、展開し、そして終焉したのか(あるいは残存しているのか)を考慮に入れる必要がある。

冷戦の最前線であり、まさしく主戦場でもあった戦後(西)ヨーロッパに関して、二種類の相容れないヨーロッパ像が並存している。すなわち安全保障領域では、冷戦の論理に力点が置かれ、超大国アメリカとの関係を軸とした大西洋同盟の視点から戦後のヨーロッパが描かれる。他方、経済(社会)領域において、冷戦の論理を批判・否定する契機を内包したヨーロッパ統合の試みが注目を集め、統合プロセスの展開に即した形で戦後ヨーロッパの歩みが語られる。換言すれば、安全保障を重視するリアリズムと経済的相互依存や不戦共同体の形成に着目するリベラリズムがそれぞれ異なる戦後ヨーロッパ像を提示し、一種の棲み分けが成立していたことによって、相互の連関性が看過される傾向が強い。

しかしながら、その鮮やかなまでの対照性は戦後ヨーロッパに対する画一的で、分裂したイメージを付与し、定着させることにもつながり、実際において複雑かつ錯綜した戦後ヨーロッパ国際秩序の理解を妨げてしまう危険性を持っている。ヨーロッパ国際関係は、単なる二国間関係の総体ではなく、それに還元できない多国間関係の位相を包含している。したがって、その実態を的確に把握し、理解するためには、多大な労力と困難の伴う作業が要請される。その意味で「1960年代におけるヨーロッパ国際秩序の構造変容を、冷戦とヨーロッパ統合の両側面から検討することで、歴史的な視座から戦後のヨーロッパ国際政治を捉え直そうとする試み」(3頁)である本書は、英独仏の3ヶ国語の一次史料を渉猟し、それらに基づいてドゴール外交に軸足を置きながら1960年代のヨーロッパ国際政治の動きを再現して見せることによって、この課題に正面から取り組んだ意義の大きい研究だといえるだろう。

川嶋は、次の3点を論点として設定する(4-5頁)。すなわち(1)国際環境との相互作用を通じて動的に展開する外交と把握されるドゴールのヨーロッパ政策がどのように60年代のヨーロッパ国際秩序の変容と関わっているのか、(2)60年代の変容を戦後秩序から脱冷戦後(?)秩序へと至る過程に位置づけ、冷戦構造の解体をもたらすメカニズムが形成される過程と捉える、(3)ヨーロッパ戦後秩序の多層性に留意しながら、安全保障秩序とヨーロッパ統合それぞれの文脈がどのように連関していたのかを分析する。いわば強烈な個性を持った稀代の外交指導者であり、1960年代の「ヨーロッパ国際政治の主役」(7頁)であったドゴールに焦点を定めながら、時間的には冷戦の「55年体制」として固定化していたヨーロッパ秩序に変化をもたらし、それが1970年代のデタントおよび1980年代の冷戦構造の解体へとつながっていく過程を考察し、空間的にはドゴールのヨーロッパ認識の変転に即してNATOに象徴される安全保障空間とEECに象徴される経済(社会)空間の二重性が絡み合う複合的な「場」として「ヨーロッパ」空間の生成が論じられる。それぞれ個別の論点だけでも一冊の研究書を著すことができる魅力的なテーマであるが、それをコンパクトに纏め上げている。ともすれば散漫で冗長な印象を与えかなねいテーマ設定にもかかわらず、そうした印象を受けないのは、構造(ヨーロッパ国際秩序)の変容と主体(ドゴール)の行動がバランスのとれた形で分析・叙述されているからであろう。

具体的には、「特定の路線を確定せず、常に複数の選択肢を模索して実現可能性が高くなるとその選択肢を主張するという点」(23頁)に特徴があるドゴールの外交指導を二つの時期に分けて、個々の論点が考察される。第一部では米英仏の三頭体制を目指した再編構想が挫折し、エリゼ条約に見られる独仏協調に帰結する過程が考察される。戦後秩序の変革を射程に入れたドゴールの大構想は、英仏を軸としたユーラフリックから、アメリカを巻き込んだヨーロッパ共同体と大西洋同盟をまたいだ秩序構築を経て、独仏協調へと流れていく。その過程でドゴール外交は秩序変革の駆動力となり、率先する形でヨーロッパ秩序の構築に関わっていく。続く第二部では、ドゴールのデタント政策およびNATOやEECにおける危機、つまるところの「フランス問題」の浮上とその解決過程が対象となる。1963年を境にドゴール外交は行き詰まりを見せ始め、秩序変革の作用よりも攪乱要因とみなされ、大西洋同盟およびヨーロッパ共同体における危機を招来することになる。NATOもEECも「フランス問題」の解決を通じて、機構としての新たなアイデンティティを再定義することに成功し、冷戦という環境要件が取り払われた後でも存続することができる素地が作られたのである。

このように「戦後ヨーロッパにおける安全保障と経済統合の二つの磁場を、国際秩序の一体的な作用として把握しようとする多国間関係史研究を志す」(17頁)本書はきわめて錯綜したヨーロッパ国際関係の諸相を「ヨーロッパ構築」の視座から立体的に描き出す。「ドイツ問題の対処のために生まれた、NATOに体現される米欧一体の安全保障秩序と、ヨーロッパ統合を基盤とする欧州国際政治経済上の緩やかな求心圏とが組み合わさって成立した」(6頁)ヨーロッパ国際秩序は、安全保障においては、西側諸国の外交による交渉空間の拡大をもたらし、それが後のデタントや東西関係の変革につながっていき、ヨーロッパ統合の文脈では、共同体の機構的深化が進み、超国家的な統合でも政府間機構でもない中間的な路線が採られ、「政策を共有する行政共同体」の誕生という方向で変容したのである(248頁)。

対象自体が複合的であるため、川嶋の試みは今後さらなる精緻化と実証研究の蓄積が求められるが、「試論」の水準は十分にクリアしているといえる。以下ではいくつか本書から触発された形で発展的な議論の素描を試みたい。

第1に、本書が主唱する「ヨーロッパ構築」(史)に関わる点である。外交史の復権が喧伝される昨今にあって、国際関係(政治)史と衣替えした新しい研究潮流がその対象としたのがヨーロッパ統合であり、「ヨーロッパ統合史は、絶滅しかけていた外交史を国際関係史として再生させた」と称される(川嶋周一「前を向きながら過去を遡ること/後ろ向きに未来の中に入ること――ヨーロッパ統合史研究の射程と課題に代えて」『創文』499号, 2007年: 7頁)。そしての統合史とほぼ等値され、「統合という枠組に限らず、ヨーロッパという枠組を意識して展開される国際関係の史的研究」(8頁)であるヨーロッパ構築史の射程を考えるとき、川嶋は秩序の多層性と政治空間化、国際秩序の空間形成と認識、広域秩序としての欧州共同体の3点を取り上げる。すなわち層ごとの厚みが異なる複数の政治空間が並存しているとともに、各層が持つ「ヨーロッパ」観念が相互に影響を及ぼしあい、国際秩序の空間形成と認識を作り上げる。こうして形成されたヨーロッパの国際秩序は、「複数の統治体制を内包しつつもその広がりには何らかの境界をもつ国際秩序」(8頁)を意味する広域秩序としての性格を併せ持っている。こうして「ヨーロッパ」を構成する複数の政治空間それぞれの展開過程を考察すると同時に、それら政治空間を包み込む形で存在する「ヨーロッパ」空間を総体的に把握する視座として提起される「ヨーロッパ構築」史の潜在性はきわめて魅力的である。

しかしながら「ヨーロッパ構築」史の時間的射程が冷戦期を包含するものであるとすれば、そこで誕生した「ヨーロッパ」という国際秩序は、冷戦のもう一方の主体であるソ連およびその衛星国である東欧諸国の存在によって大きく規定されていたともいえる。「分断という動かしがたい事実の上に形成された、アメリカを引き込み、西独を封じ込め、フランスを安心させるための体制」(247頁)である戦後ヨーロッパの国際秩序は、いうまでもなく「ロシア(ソ連)を締め出す」体制でもあった。ソ連ブロックの国際関係が社会主義的国際主義で結ばれた「社会主義共同体」という独自の国際関係観で把握されてきたことを考えると、「鉄のカーテン」の向こう側でも同時期に別様の「ヨーロッパ構築」が試みられたと理解することもできるだろう。しかしその試みは、秩序の多層性を志向するのではなく、ソ連を頂点とする一元的な階層性によって特徴付けられる点で、対照的なものであった。冷戦は社会体制間の対立でもあるといわれるが、それに倣うならば、「ヨーロッパ構築」をめぐる対立としても捉えることができる。他方で、CSCEのような地域機構の創設や1970年から80年代にかけて東欧諸国の反体制派知識人たちによって積極的に唱えられた「中欧」論のように、二つの「ヨーロッパ」の競合状況を乗り越える発想や試みが媒介となって、それぞれ「ヨーロッパ」の意味内容が変化し、一方はより多様な政治空間からなる秩序へと変貌を遂げ、他方はその存在を消滅させてしまうことになった。

それゆえ、川嶋は「地域の概念が形成される固有の歴史的文脈性や定義そのものが持つ恣意性といった問題からは一端距離を取る」(序章註38)という禁欲的な態度を表明しているが、それでもやはり「『ヨーロッパ』という概念自体が歴史的な形成物であり、かつその内容は他者によって確定されるものにすぎない」(250頁)以上、「ヨーロッパ構築」(史)の地平を切り開き、より豊かなものにするうえで、今後の研究において他者として措定されるロシア(ソ連)/東側諸国、あるいは現在におけるトルコの側からの逆照射が必要となってくると思われる。またより長期的なヨーロッパ(外交)史の文脈に位置づけるならば、いわゆる古典外交の華やかな18・19世紀においてヨーロッパがひとつの共同体あるいは連邦として観念されていたように、きわめて同質性の高い政治空間が(エリート間に限定されていたが)存在していた。と同時にナショナリズムや共和主義といった同質的な空間に亀裂を生じさせる動きに対する脅威認識もこうした「ヨーロッパ」意識の形成に大きな役割を果たしていたとすれば、どうしても異質な他者や理念との関係性を包摂した形で分析の射程を広げていくことが求められる。さらにいえば、本書第1章などでも論じられている点でもあるが、イギリスとフランスの場合、植民地の独立に伴う帝国秩序の解体が進行した時期として戦後を把握することができる。植民地という「劣位の他者」を切り離すことによって、新たな「ヨーロッパ」の意識や観念が醸成されたとするならば、このような脱植民地化の位相もまた「ヨーロッパ構築」の関連において考察されなければならないだろう。

第2に、ヨーロッパ国際秩序の「多層性」という表現をめぐるものである。「変容が問題となるのかということは、戦後ヨーロッパ秩序が多層的なものだったことと深く関わっている」(5頁)と述べられているが、高橋進が指摘しているように、「戦後秩序の『多層性』という表現がでてくるが、それは層が重なりあっていることを意味するのであろうか、それであれば変化することもあると思うが、何が基層で何が表層であるのかを明らかにする必要があるのではなかろうか」とう疑問が浮かんでくる(「戦後ヨーロッパ外交研究の地平――川嶋周一著『独仏関係と戦後ヨーロッパ国際秩序――ドゴール外交とヨーロッパの構築 1958-1969』を読んで」『創文』499号, 2007年: 12頁)。たしかにその意味内容は明らかであるとは言えず、また「多層的」と「重層的」といった類似の表現が相互互換的に使われていることを考えると、層とはいったい何を指すのかという点が明らかにされなくてはならない。

「多層」あるいは「重層」という表現は、複合的なヨーロッパの国際関係を描写するときにきわめて有用であるが、層という言葉が醸し出す意味合い、そしてそれら層がいくつも存在し、重なっている状態を想像した場合、どうしても高橋が言うように「表層」と「基層」あるいは「深層」というような垂直的な関係がイメージされる。そこからどの層が重要なのかという重要性の優劣をめぐる問いが生じてくる。また「多層/重層」から連想されるのはまず先に何らかの層が存在し、それら複数の層が幾重にも関係している構図が思い浮かぶ。しかし複数の層の存在を指摘しただけでは多層性や重層性の意味を把握したことにはならない。換言すれば、重なり合う状態によって層の内部にどのような影響が生じ、層の構成原理にどのような変化がもたらされるのかという点まで踏み込むことが求められる。この点について、川嶋は別の論考でいくつかの手掛かりを与えてくれている。すなわち「重要なのは、層の厚さは不均等である」、「多層的な世界における各層間のダイナミックな動き」(「前を向きながら…」: 8頁)といった表現で、層内部の変容可能性を示唆している。今後この点をさらに深めた方向で多層性や重層性の意味を確定していく必要があるだろう。

あるいは高橋の言うように「多層性」より「多次元性」という表現のほうがうまく事象を掴まえているかもしれないし、あえて層のイメージに拘るとすれば、そして各層間の相互作用や相互関係ではなく相互浸透の意味合いを強調する点を考慮に入れて、「貫層性」という表現のほうがより的確ではないだろうか。その意味で山影進の以下の指摘は示唆に富むものであり、ひとつの方向性としてさらに深められるべきだろう。「地域の重層性を認識するだけでは不十分であり、重複性を含まなくてはならないのである。形式的には、樹状構造ないし同心円構造に置き換えることのできる地域構造ではなく、『すぐ上と下』の関係をさまざまな地域の間で考えることのできる『束』構造に親しむ必要がある」(『対立と共存の国際理論――国民国家体系のゆくえ』東京大学出版会, 1994年: 303頁)。

最後に、高橋進も本書の難点のひとつとして挙げているが(「戦後ヨーロッパ外交研究の地平」: 11-12頁)、デタントをどのように捉えるかという点にかかわる問題である。デタントをめぐる研究は、公文書の解禁によって実証面で著しい進展が望まれ、実際に本書もそうした流れに位置づけられる。他方で「デタントとは何か」というより根源的な概念ないし理論的な探求はそれほど進んでいない。R・W・スティーヴンソン『デタントの成立と変容――現代米ソ関係の政治力学』(中央大学出版部, 1989年)が依然として参照され、その定義が採用されていることは、スティーヴンソンの定義が有用性にすぐれたものであることに拠るとはいえ、むしろデタントそれ自体の意味を探求する重要性が十分に認識されていない点にも起因するのではないだろうか。その結果、デタント一般の特徴と冷戦期デタントのそれが曖昧なまま残され、デタントを概念化する作業は停滞した状態にある。

1958年の第二次台湾海峡危機に始まり、第二次ベルリン危機を経て、1962年のキューバ危機につながる「危機の時代」が米ソ両国の政治指導者に戦争の危険性を突きつけ、共存の道を模索する方向へと政策転換を促すことになった。その意味で1963年という年は冷戦史における重大な転換点であり、それ以降さまざまなレベルや形をとったデタントが試みられた。すくなくとも1963年を起点とする米ソ間のデタントがあり、またヨーロッパでは本書の考察対象であるドゴールのデタント政策が始まった。さらに時代を下ると、1960年代末期から米ソおよびヨーロッパのデタントは新たな段階に入っていくとともに、アジアにおいては米中間のデタントが始まる。こうして「デタントの時代」と称される1970年代を迎えるわけであるが、一連のデタントと一括して呼ばれる政策および状態の異同ならびに相互の関係性を視野に入れた形でデタントを論じること、川嶋の表現に擬えて言い換えるならば、デタントの多層性をどのように描き出すかが問われる。また冷戦とデタントの関係についても整理が必要となる。すなわちデタントは冷戦を代替する秩序構想の一種とみなすことが可能なのか、それとも冷戦に代わって構想される秩序への橋渡しとしての役割を担うものなのかという点も明確にされる必要があるだろう。そしてデタントと冷戦の終焉はどの程度(因果的および相関的に)関係しているのかという問題として捉え返すこともできる意味で、冷戦(史)の叙述においてデタントの考察は不可欠であるといえる。

「ヨーロッパ構築」史の試みは、以上のような論点について考えをめぐらせるだけの魅力を持った、きわめて興味深い研究潮流だといえる。本書の議論を起点として、さらなる「ヨーロッパ構築」史関連の研究が生み出されることが期待される。

陰謀論との危険な関係

2007年09月11日 | knihovna
2003年のイラク攻撃をめぐる過程で現実主義の立場から反対の論陣を張ったジョン・J・ミアシャイマーとスティーヴン・M・ウォルトが2006年3月にアメリカン外交(とくに中東政策)における政策の自由度を狭め、柔軟性に欠けたものにしている規定要因としてイスラエル・ロビーの存在を指摘した論考("The Israel Lobby and U.S. Foreign Policy.")を発表し、英米圏のメディアでその主張の賛否をめぐって激しい論争が起こったことは記憶に新しい(『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』での論争)。またアメリカにおける論調に対して些か過敏症気味の日本でも追随するかのように、類似(便乗?)本が刊行されている(たとえば、佐藤唯行『アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか――超大国に力を振るうユダヤ・ロビー』ダイヤモンド社, 2006年)。

そして先ごろ、ミアシャイマーとウォルトが、自らの主張をより精緻化し、補強するとともに、論争を通して投げかけられた批判に対する反論を含める形で著した『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(講談社, 2007年)がほぼ世界同時刊行された。当初からミアシャイマーとウォルトの議論に対して、欧米世界における一種のタブーに切り込んだこともあって、反ユダヤ主義という批判がなされている。こうした批判は欧米における反ユダヤ主義の根深さを想起させ、ホロコーストに帰着することになる反ユダヤ主義の暴力性を否定/忘却する議論や風潮に対する防波堤として機能している。しかし反ユダヤ主義という批判は、自らに都合の悪い主張を否定し、生産的な議論の可能性を封じ込めてしまうドグマ化の危険性を抱えており、自由で冷静な議論によって導かれる公論空間それ自体の縮小をもたらすことになる。その意味でミアシャイマーとウォルトの著書は、その読解に際して格別の注意を要するものである。

こうした背景を考慮した場合、日本語訳の訳者が副島隆彦であることはミアシャイマーとウォルトの意図とは異なる文脈で読まれる可能性を生み出しかねない。周知のように、副島は、人類の月面着陸を捏造だと主張した『人類の月面着陸は無かったろう論』(徳間書店、2004年)が2005年度「日本トンデモ本大賞」を受賞するなど陰謀論に魅せられる傾向がある。それゆえ翻訳者としての副島の資質がいかに優れたものであっても、彼に纏わりつく(あるいは彼自身が作り上げた)陰謀論者のイメージが、ミアシャイマーとウォルトの主張を飲み込み、ユダヤ陰謀論の磁場に引き寄せてしまう懸念がある。おそらく、このことは副島自身の問題というよりもむしろ、翻訳者の選定における問題であり、その点で講談社編集部の判断には疑問を抱かざるをえない。

・追記(10月20日)
第2巻の「訳者あとがき」を読む限り、副島の単独訳ではなく、「監訳者」としての立場にあるとみなしたほうが適切なようだ。良くも悪くもネームバリューのある副島を前面に出すことによって消費者の注意を惹きつけるという商業的配慮が大きく作用した結果だといえる。

インテリジェンス研究の余白に

2007年06月23日 | knihovna
小谷賢『日本軍のインテリジェンス――なぜ情報が活かされないのか』(講談社, 2007年)

冷戦後の世界において情報が重要な力の源泉となり、核の傘に代わって情報の傘によって安全が保障される時代の到来を指摘したのはジョセフ・ナイであったが(「情報革命と新安全保障秩序」『中央公論』1996年5月号)、それから10年遅れで日本においても本格的に情報(力)、あるいはより広義にインテリジェンスの重要性についての認識が深まり、一般言語として流通するようになってきた。政策実務レベルで情報あるいはインテリジェンス基盤の整備を求める提言が出される一方で、元外交官の佐藤優に代表されるように、インテリジェンスを売りにした肩書きが市民権を得るようになり、いくつかの論壇誌も積極的に特集を組んでいる。インテリジェンス研究の必要性を早くから説いていた中西輝政の論考を筆頭に、『インテリジェンス――武器なき戦争』(幻冬舎, 2006年)の共著者である佐藤優と手嶋龍一の対談などによって構成された『中央公論』2007年7月号の「インテリジェンスという戦争」は、現時点でのインテリジェンス研究の姿を映している。

とはいえ、インテリジェンス(論)を取り巻く状況に関しては、政策実務面での関心が先行する傾向があり、それに比べて学術的な研究が立ち遅れているという需給バランスの悪さが目立つ。その要因の一端はインテリジェンス研究に纏わりつく胡散臭さにあることは確かだろう。イギリス留学を経て、インテリジェンス研究の必要性を痛感した中西輝政に対する彼の指導教官であった高坂正堯の忠告、すなわち「君のそのインテリジェンスとやらは防諜やスパイの研究を前提にしているから、いまの日本の学界の風潮を大きくはみ出している。そんな研究をしたら、君は学者としてはキワモノとみなされて、せいぜいスパイ小説を出している出版社から本を出せる程度にしかなれないよ」(「ウルトラ、ヴェノナ、エシュロン、マスクすら知らない日本でいいのか」『諸君』2007年2月号: 221頁)はそうした雰囲気を伝えている。しかしながら、マーティン・ワイトが述べているように、スパイあるいはインテリジェンス組織は、情報手段であるだけでなく、広くコミュニケーション手段のひとつであり、それは「相互依存の暗黒面(the dark underside of mutual interdependence)」という国際システムのもう一つの像を映し出しているとするならば(Systems of States, Leicester University Press, 1977: 30)、近代ヨーロッパで成立し世界大に広まった「国際社会」の歴史を理解する上で、インテリジェンス活動の実態を明らかにする学術的な作業は不可欠であろう。

こうした要請にもかかわらず、インテリジェンスに関する研究はなかなか進展しなかった。いくつか原因が考えられるが、そのひとつにインテリジェンス活動自体が高度な機密性を有しているため、その内実を実証的・科学的な手続きに基づいて明らかにする学問的基準に合致しないという判断が働いていることが指摘できるだろう。いわば学術性という観点に照らし合わせたとき、インテリジェンス研究はその資格を満たしていないとみなされ、ディシプリンの枠外に位置づけられる。こうした学術的・科学的尺度による排除に加えて、スパイ小説や映画などと関連付けられて主にフィクションの領域に限定されたり、あるいは通俗的な陰謀論の亜種として学術的に研究する価値が見出されないといった(残念ながら中西輝政の一部言動がこうした認識形成に寄与した感は否めない)、ディシプリンとして確立するうえでインテリジェンス研究は多くの困難を抱え、その資格について疑問符が付いて回った。

このような先入観に縛られた状況にあって、インテリジェンス研究を学術的な研究対象として成立させる取り組みのひとつが、既存のディシプリンが要求する実証性や科学性に基づいた形でインテリジェンスの実態を論じる方法であり、具体的には各国情報機関の公文書を渉猟することによって政治外交史研究の一種として提示する方法である。中西の下で学び、博士論文を基にした『イギリスの情報外交――インテリジェンスとは何か』(PHP研究所, 2004年)で、第二次大戦初期のイギリスの対日情報戦の実態を明らかにした小谷賢の研究は、歴史研究の領野に軸足を置きながら、インテリジェンスをめぐる議論状況の現在に対する何らかの含意を引き出すことをその視野に入れている。

その問題意識は二作目となる本書にも引き継がれており、米英との共時的比較ではなく、戦前の日本との通時的比較を通じて、日本におけるインテリジェンスをめぐる議論に対してどのような「歴史の教訓」が汲み取れるのかが主題として論じられている。また戦前の日本が情報戦で米英に完敗したという通説に対して、日本軍部が情報を収集・分析・利用していた実際の過程を一次史料と照らし合わせて検証することによって、日本軍部の情報能力が一定の水準に達していたことが明らかにされる。しかしながら副題が示唆するように、情報をどのように活用するかという認識の欠如とともに、円滑かつ有意義な情報利用を可能とするような制度的な基盤が十分に整っていなかったなどの問題点を抽出し、現在のインテリジェンスをめぐる言論への含意を導き出している。

陸軍および海軍の情報収集活動を検討した2・3章から明らかになった問題点は、情報収集活動に極端な偏りが見られたことにあった。陸軍は、暗号解読などで一定の成果を挙げたものの、対ソ重視/対米軽視の方針が維持されたため、来るべき対米戦争への準備不足を露呈することになった。他方で海軍は対米戦争を念頭に置きながらも、それに見合うだけの十分な人員や資金を投入せず、また防諜対策が不十分な状態にあった。情報分析にかかわる問題点としては、収集された情報を総合的に分析する部門および分析官が絶対的に不足していたことに加えて、インテリジェンスをインフォメーションと同一視する軍上層部の認識によって、的確な情報分析が困難となる状況にあった。さらに本来情報部が行うべき分析作業が作戦部で行われるといった情報部と作戦部の非対称的関係など制度上の問題点も指摘される。そして情報の利用に関しては、短期的・戦略的な側面では有効に機能したが、長期的・戦略面に目を移すと、政策決定者の主観的なイメージや判断に左右される利用が顕著となり、「情報の政治化」が進んでいった。楽観主義や希望的観測に満ちた戦略策定の原因は、政策決定者の間にインテリジェンスを求める思考が欠如していた点に求められる。

以上の日本軍による情報収集・分析・利用過程の検討から浮かび上がってくる問題点は、(1)情報部の低い地位、(2)情報集約機関の不在、(3)長期的運用意識の低さ、(4)情報リクワイアメントの不在、の4点に整理される。要約するならば、「日本がインテリジェンスを組織的、戦略的に利用することができなかったという組織構造や、対外インテリジェンスを軽視するというメンタリティー」(217頁)が戦前の日本軍部の情報活動を大きく制約していた。そして以上の考察から導かれた「歴史の教訓」は、上記4つの問題点に加えて防諜の不備とセクショナリズムを是正するとともに、一般国民の世論、言い換えればインテリジェンス・リテラシーの涵養の必要性が説かれる。

このように豊富な一次史料の読解を通じて、インテリジェンス活動が学術的観点からアプローチできる研究対象であることを示している。言い換えれば、本書はインテリジェンスという特異な対象に対してオーソドックスな方法論で切り込むことによって、インテリジェンスに対する先入観を正し、学術研究として十分に成立することを明らかにしている。

以下では、小谷の研究がインテリジェンス研究が今後採るべきひとつの方向性を提示していることを認識した上で、それとは異なる視座からインテリジェンスを論じる思潮の存在を念頭に置いてインテリジェンス研究が持っている多声性の位相を簡単に素描してみたい。しばしば「スパイは売春婦に続いて二番目に古い職業」といわれ、また「情報活動は、いわば『性の営み』にたとえることができよう。つまり、それなしには種の存続がありえないように、情報活動なくして国家の存続はありえない。ただし、情報活動は、性の営みと同様、それに淫すると有害な結果を招くことになる」(中西輝政「大英帝国、情報立国の近代史――民主主義国のインテリジェンス・リテラシーとは」『中央公論』2007年7月号: 34頁)と指摘されるように、スパイと売春婦、あるいはインテリジェンスとセクシュアリティの相同性に目を向けるならば、主流派の(ネオ)リアリズムやリベラリズムの認識論・存在論的基盤を問題化し、徹底的に批判した1980年代後半のポスト実証主義論争との関連性が見えてくる。この論争を通じて、それまで国際関係論(IR)において等閑視されてきた主体(売春婦をはじめとする女性全般やスパイ/インテリジェンス組織)、およびそれらが織り成す関係に着目し、積極的に論じられるようになったことは単なる偶然とは言えないだろう(前者の代表的な文献は、シンシア・エンロー『戦争の翌朝――ポスト冷戦時代をジェンダーで読む』緑風出版, 1999年、後者の例は言うまでもなくJames Der Derian, Antidiplomacy: Spies, Terror, Speed, and War, Blackwell, 1992 である)。

中西や小谷に代表される現在の研究潮流が既存のIRの中にインテリジェンスの存在を位置づけることを目指しているとするならば、ジェームズ・ダーデリアンの研究は、これまでのIRにおいてノイズとしてしか認識されてこなかったインテリジェンスに光を当てることによって、ディシプリンとしてIRを枠付けている境界線や、国際と国内を峻別することに伴うさまざまな機能分化(戦争/平和、男性/女性、アナーキー/秩序など)を問い直す。この点に関してインテリジェンス活動と表裏一体の関係にある外交を例に考えてみるならば、『オックスフォード英語辞書OED』の定義、すなわち「交渉による国際関係の処理であり、大公使によってこれらの関係が調整され処理される方法であり、外交官の職務あるいは技術」を引照枠として「簡単ではあるが正確な形で、何が外交であり、何が外交ではないか」を明らかにすることを意図したハロルド・ニコルソンの議論は、外交を主権国家の関係、あるいは国家の政策(statecraft)の領分に限定することで、議論の明確さを担保している(『外交』東京大学出版会, 1968年: 6-7頁)。マーティン・ワイトの言葉を借りれば、ニコルソンはその著書で「あたかもそれが唯一の外交の型であるかのように『外交』と呼べるものを記述した」のである(International Theory: the Three Traditions, Leicester University Press, 1991: 180)。しかしながら、ニコルソンがOEDの定義の一項目のみを引いて、それを外交の(唯一の/正統な)定義として提示したことは、外交に関わる主体の資格を国家やそれを代表する使者に排他的に与え、彼らによって構成される制限された領域として外交を把握する思考を定着させる作用を伴う(Costas M. Constantinou, On the Way to Diplomacy, University of Minnesota Press, 1996: 73-74)。外交と外交ならざるものとの間に境界線を引き、そして外交を国家の政策領域に(特権的に)位置づけることによって、外交の意味内容が固定化される。こうした点を捉えて、外交の多義性/多声性を明らかにしたのが、疎外によって創造/想像された他者との仲介の一種として外交を読み替え、その系譜を辿ったダーデリアンの研究(On Diplomacy: A Genealogy of Western Estrangement, Blackwell, 1987)、そして国家政策としての外交(Foreign Policy)の前提にアイデンティティの政治としてメタ外交(foreign policy)が作動していることを指摘したデヴィッド・キャンベルの研究である(Writing Security: United States Foreign Policy and the Politics of Identity , rev. ed., University of Minnesota Press, 1998)。

同様の「境界線の政治」が、現在のインテリジェンス研究においても看取される。すなわち最初に「何がインテリジェンスであり、何がインテリジェンスでないか」という主題の範囲を確定する作業がなされ、その後イギリスあるいは日本の情報活動の実態が考察される論理展開は、ある意味でインテリジェンスの学術的資格を満たすために必要な作業であるといえるが、他方で国家政策のひとつとしてインテリジェンスの意味を固定化する結果をもたらし、インテリジェンス研究がその政策的有意性の観点からのみ捉えられる政策科学(あるいは御用学問)としてみなされる可能性を持っている。それはかつての地政学が歩んだ道であり、現在でも地政学に対する偏見が根強いことを考えると、権力との距離のとり方は難しい課題であり(佐藤優・手嶋龍一「情報機関を『権力の罠』から遠ざけよ」『中央公論』前掲)、そこに現在のインテリジェンス研究にとっての陥穽があるといえる。たとえば小谷が日本軍のインテリジェンスの問題点として、情報の政治化が進み、インテリジェンス・サイクルがうまく機能しなかったことを指摘しているが、政策サイドの主観的判断が問題とされる一方で、情報サイドの主観性はあまり問題とされていない。情報の需給関係がまさしくサイクルを形作っているとすれば、政策決定者からのリクワイアメントに対し、客観的な情報を、時に不都合な真実といえるような情報を上げることが可能かどうかは疑問のあるところである。言い換えれば情報サイドが行政の論理に基づいて合理性を優先させることができるのに対し、政策サイド、とくに政治指導者は国民の目をはじめとしてさまざまな制約に縛られているが、その決定や判断をめぐる正統性に関しては情報サイドに比べて政策サイドの方が高いため、両者の関係はどうしても非対称的になってしまう。その意味で情報サイドの地位向上は民主主義の形骸化に結びつく可能性があり、また国民のインテリジェンス・リテラシーの向上に関しても、その内実は民主的統制の及ばない情報サイドの活動を是認するものに過ぎないのではないだろうか。

また、既存の境界線を横断する試みとしてインテリジェンス研究を捉えるならば、インテリジェンスに対して持たれていた先入観も克服すべきものではなく、積極的に利用できる研究素材となる。すなわちフィクションと現実の境界線が曖昧化され、たとえばスパイ小説や映画の読解を通して、実際の国際関係がどのように表象され、理解されているのか、そしてそうした表象が現実に対してどのような影響を持っているのかが考察の対象となってくる。ポップカルチャーを題材にして国際関係を論じることはポスト構造主義に属する研究者たちにとって馴染みの深いものである(Jutta Weldes ed., To Seek Out New Worlds: Science Fiction and World Politics, Palgrave, 2003Daniel H. Nexon and Iver B. Neumann eds., Harry Potter and International Relations , Rowman & Littlefield, 2006)。それこそイアン・フレミングやジョン・ル・カレなどの典型的なスパイ小説が冷戦の展開によってどのような影響を受け、またその読者がそれらのスパイ小説を通じてどのような国際関係認識を抱くようになったのかを明らかにする作業は、高次の政治と低次の政治あるいは国家と社会といった区別を前提とするIRに対する批判的視座を提供する。たとえば、架空の防衛庁情報局(通称ダイス)に関わる人物が主人公となっている福井晴敏の一連の小説は、エンターテイメント性の高さとともに、防衛関係者の間でも広く読まれたことを考え合わせると、2000年代の日本を取り巻く国際環境に対する一定のイメージを与えているといえる。そこで取り上げられる日本の安全保障論や脅威対象としての北朝鮮の表象について作品ごとの変化を追っていくことによって政治的無意識の位相にまで切り込んだ洞察が得られるだろう。

さらに付け加えれば、「主権者の居場所、不浸透な国境線や厳密な地政学によって規定された領域から、加速化する流れ、異議申立てを受ける国境線、そして流動的な時政学の場へと移行しつつある」(ジェームズ・ダーデリアン「国際関係の(時)空間」『現代思想』30巻1号, 2002年: 156-157頁)現代の国際関係では、戦争自体がスペクタクル性を帯び始め、イメージ戦争の様相を呈している。別の論考でダーデリアンが論じているように、従来の軍事と産業の結びつきに加えて、戦争を報道するメディア、そしてメディアによる演出や伝えられる映像のゲーム的相似形など娯楽的な要素が絡み合う形で(MIME-NET)、戦争をめぐる現実性とフィクション性の融合が進んでいる(「脅迫――9.11の前と後」K・ブース&T・ダン編『衝突を超えて――9.11後の世界秩序』日本経済評論社, 2003年)。そしてこうした戦争形態を可能にしている要因が、通信情報技術の発展にあることは言うまでもなく、それらに依拠したテキント(TECHINT)がインテリジェンス活動において中心的な役割を果たすようになっている。たしかに、テキントの信頼性はイラク戦争に至る過程でブッシュ政権が提示した「証拠」の欠陥から明らかなように十分とは言えず、小谷が指摘するように(42頁)、テキントをヒューミント(HUMINT)で補完して情報分析を行う必要性があるが、理論上あらゆる場所に存在し、対象を監視し、客観的で詳細なデータを迅速に伝達するテキントは、高度に情報化した現代社会の要請に沿うものであるともいえる。その意味で、インテリジェンス研究は情報社会/監視社会をめぐる問題圏と重なり合う面があり、国家政策の域に限定されない射程を有している。

インテリジェンス研究の必要性や意義が唱えられ、研究対象として確立されつつある過程で、曖昧で多義的なインテリジェンスの意味が整理されていくことは当然の成り行きであるといえる。このような境界画定としてのインテリジェンス(研究)に対して、既存の境界を揺さぶり、横断する主体あるいは対象としてインテリジェンスを把握する視座が存在する。あるいはミハイル・バフチンに倣って言うならば(『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』せりか書房, 1973年: 序論)、グロテスク・リアリズムとしてのインテリジェンス(研究)の可能性を視野に入れておく必要がある。

幣原外交の射程

2007年05月23日 | knihovna
服部龍二『幣原喜重郎と20世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣, 2006年)

本書は、近代日本外交を語る上で欠かせない幣原喜重郎の生涯に20世紀(前半)の日本が歩んだ歴史を重ね合わせる。そして「あとがき」で述べられているように、「単純な比較や類推」に対して慎重な姿勢を示しつつも、「外交と民主主義の緊張関係という古典的命題」(iii頁)に関する何らかの示唆を引き出すことを狙いとしている。以下では服部が「横糸」と呼ぶ課題である「外交と民主主義」に焦点を絞って議論を進めていきたい。

幣原が外交官としてのキャリアを歩み始め、対外観や人脈を形成していった時期、すなわち世紀転換期から第一次大戦にかけての時期は、外交の領域において古典外交(旧外交)から新外交へという革命的変化が生じていた。ヨーロッパ国際関係の経験に依拠した古典外交、とりわけその中核原理であった勢力均衡が成立する条件は、各国においてナショナリズムと民主主義が浸透することによって、次第に失われていった。その趨勢を顕在化させたのが第一次大戦であったことはいうまでもない。予想外の長期化に伴って総力戦の様相を帯びた第一次大戦の惨禍を目の当たりにした世界は、その原因の一端を秘密主義に毒された旧外交に求め、外交の民主的統制を軸とした新外交に期待をかけた。ヨーロッパ国際関係の圏外に位置したアメリカとロシアが新外交の代表的な主唱者であったこともまた旧外交から新外交への転換を象徴する意味で示唆的である(A・J・メイア『ウィルソン対レーニン――新外交の政治的起源 1917-1918年』岩波書店, 1983年)。

しかし新外交が旧外交の世界に慣れ親しんだ者にとって総じて不評であったことは、ハロルド・ニコルソンの著書『外交』を一読すれば明らかであろう。ニコルソンは、「対外政策の基礎は、不変の国家的帝国的必要に基づくものであり、したがって、党争の圏外にあるものだ」(『外交』東京大学出版会, 1968年: 2頁)という前提に対する郷愁を隠さない。それゆえに、民主的な外交の必要性を認めながらも、有権者が外交政策と外交交渉との峻別を理解することを求め、外交の専門職業的な側面を強化し、その基盤を拡大すること、そしてこれまでの外交慣行を通して育まれた良識と経験の一般的諸原則に即した公衆の教育が必要だと説く(『外交』: 96-97頁)。その意味で、ニコルソンが理想として掲げる外交(官)の資質(誠実・正確・平静・忍耐など)は、民衆の熱狂に左右されやすい新外交の時代にこそ求められているといえるだろう。幣原もこのようなニコルソンの新外交に対する見方ないし懐疑をある程度共有していたことは本書の議論からも垣間見える。細谷雄一の言葉を借りれば、ニコルソンと同じく「外交とは国家の威信にかかわるものである」(290頁)と考えていた幣原もまた「古典外交の黄昏」を生きた外交官であったといえるかもしれない(『大英帝国の外交官』筑摩書房, 2005年: 第2章)。もちろん古典外交の黄昏という時代状況が古典外交に対する郷愁と直接的に結びつくわけではない。むしろニコルソンも幣原も新しい時代状況に即した外交態様を模索したというべきだろう。

「外交と民主主義」をめぐるアポリアに対して幣原が示した回答は、「霞ヶ関正統派外交」、すなわち「内政から外交を分離することで対外政策の一貫性」(iii頁)を維持することであった。その課題は、戦間期の外相時代とは国際・国内環境が一変した戦後期において幣原が目指した、「外交を政争の具にしない」(263頁)ことを要諦とする超党派外交にも反映されている。まさしく外交と民主主義の緊張関係に取り組むことは幣原の「ライフワーク」(117, 291頁)であった。このような外交の一貫性を求める心性は、外政機構の拡充と関連づけて考える必要があるだろう。外政機構の整備は、外政家あるいは豪傑型外交官に代わって官吏型外交官の台頭を促した。外交案件の事務処理の増加に伴う外政機構の制度化は新外交の到来と軌を一にしていたが、他方で外交の民主的統制という新外交の要請に反する状況、すなわち外交のさらなる「専門化」と「非政治化」をもたらした。その点で、「対外政策の一貫性」を強く希求した幣原が外政機構の制度化を象徴する「外交官試験の申し子」(85頁)であったことは示唆的である。いわば幣原は、それまでとは異なる新しいタイプの外交指導者であり、外政家というよりも(官吏型)外交官の系譜に位置づけられる。ここに「幣原を特徴づけるのはある種の弱さではなかろうか」(ii頁)という問いが発せられる理由の一端を看取することができるだろう。

「外交を政争の具にしない」とは、対外問題をめぐって国民大衆、そしてその代理人たる政治家(屋)の介入する余地をできる限りなくすことを意味する。言い換えれば、パトス(情)の位相で議論され、判断されることに抗して、あくまで対外問題はロゴス(理)の位相で処理されるべきだという認識がその根底にある。しかし、ロゴスに基づく外政機構の拡大それ自体が対外問題をロゴスの位相に留めておくことを困難にさせる逆説が生じる。外政機構の拡充による職員の増加は、省内にいくつかの派閥が形成される契機を提供した。そして外交方針をめぐる派閥間の対立は、省内で解消されることができなければ、政治家や軍部など省外の介入を招く。また幣原の政策決定スタイルが一部の信頼できる部下との協議に基づくものであったことは「閉ざされたエリート主義」(114頁)という批判を惹起した。こうして本来忌避していたはずの外交が政争の具となる「政治化」が生じていく。

さらにいうならば、内政からの影響をなるべく排することによって外交政策の一貫性を維持することは達成困難な試みであった。外交の自律という理想は具現化されるどころか、ますます内政の従属変数と化していった。幣原外交の成否を判断する場合、国内政治との関連性を視野に入れなくてはならないことは明らかである。「大正デモクラシー最大の悲劇は、政党による外交指導が制度化されないままに満州事変を迎えてしまったことにある」(116, 291頁)と述べられているように、国内基盤が脆弱な状態のままでは外交政策の一貫性は望むべくもない。戦前の政党政治が十分に制度として定着せず、時の首相の個人的資質に左右される面が大きかったことは、幣原の進めた外交路線が容易に覆されてしまう要因でもあった。排日移民法成立に際しての外交文書公開に見られるように、幣原は民主主義の浸透する時代状況を十分に視野に入れていたが、内政と外交との間に引かれた境界線を強固にする方向に動いていたために、皮肉にも自ら課題とした外交政策の一貫性を達成困難なものにしてしまったのではないだろうか。そこに「(官吏型)外交官」幣原の限界が垣間見えるように思われる。

翻って21世紀の今日に目を移すならば、「外交と民主主義の緊張関係」はいっそう喫緊の課題として顕在化している。その格好の素材を提供してくれるのが小泉政権の外交政策だろう。「首相支配」と呼ばれる政権基盤の強化によって、強い政治指導力を発揮する制度的条件に加えて、ロゴスよりもパトスに依拠した小泉の政治は多くの論者の関心を引いている(たとえば、内山融『小泉政権――「パトスの首相」は何を変えたのか』中央公論新社, 2007年)。外交と民主主義、とりわけ世論との関係は、小泉外交において両義的である。対北朝鮮外交では総じて拉致被害者に対する同情と反北朝鮮という国民感情を十分に汲み取ったのに対して、イラク戦争の支持をめぐっては次のように述べて世論に対して距離を置く態度を示した。「世論は世論であります。尊重しなけりゃならないと思いますけれども、世論の動向と日本全体の利益を考えてどう判断すべきかというのは、政治の責任に当たる者として十分配慮しなきゃいけないと思っています。世論の動向に左右されて正しいかというのは、歴史の事実を見ればそうでない場合も多々あるわけであります。…/私は、そういう面におきまして、世論が、ある場合は正しい場合もある、ある場合は世論に従って政治をすると間違う場合もある。それは歴史の事実が証明しているところであります」(参議院予算委員会2003年3月5日: 参議院会議録情報第156回国会予算委員会第6号)。

ここにおいて外交の民主的統制という新外交はその本質において大きく変容していることは明らかだろう。民主主義を構成する要素であるところの世論が外交政策を「統制」する役割を担うのではなく、政策に対する支持調達手段として機能している。時の政権が求める結果が得られなかったとき、先に引用した小泉の発言が示すように、世論の意向は省みられず、国家的必要あるいは国家理性の名において政策が正当化される。世論が主体的に政策に影響を与える可能性は先験的に排除され、外交の民主的統制が目指していた状況とは正反対の状況が生まれている。いわゆる外交のポピュリズム化現象は、世論の動向に対する配慮を示しつつも、政府が提起した争点を受容・消費するだけの消極的な主体の形成を促す。幣原がライフワークとした「外交と民主主義」の緊張関係はその態様を変えて今日においても取り組まなくてはならない課題として提起されている。

デタント史の前途

2006年12月26日 | knihovna
齋藤嘉臣『冷戦変容とイギリス外交――デタントをめぐる欧州国際政治 1964-1975年』(ミネルヴァ書房, 2006年)

近年、日本のイギリス外交史研究では、若手研究者による質の高い研究成果が相次いで生み出されている。君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年)や、細谷雄一『外交による平和――アンソニー・イーデンと20世紀の国際政治』(有斐閣, 2005年)は、その一例である。またモノグラフとして刊行されていないものの、脱植民地化過程からイギリス帝国の終焉を考察している半澤朝彦の一連の研究(たとえば「国連とイギリス帝国の消滅 1960-1963」『国際政治』126号, 2001年)もイギリス外交史の充実ぶりを示すものである。

このような活況を呈しているイギリス外交史研究の一翼を担う本書は、歴史研究としては「新しい過去」である1960年代から1970年代のヨーロッパ地域における冷戦構造の変容に焦点を定める。一般に「デタント」と呼ばれる1960年代および1970年代の国際環境において、ドゴールやブラントのような強烈な個性を持つ政治指導者によって率いられたフランスや西ドイツの役割をめぐる議論が中心となってきた(たとえば、西ドイツの東方政策については、高橋進「西欧のデタント――東方政策試論」犬童一男他編『戦後デモクラシーの変容』岩波書店, 1991年)。他方で、大陸諸国から距離を置いてきた外交的伝統やアメリカとの「特別な関係」という事情もあって、デタントの成立において果たしたイギリスの役割に対する関心は等閑視されてきたといえる。こうした研究上の盲点に着目し、イギリス外交の視座からデタントの成立、とくにヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)開催をめぐる政治過程を考察し、「冷戦の終わりの始まり」としてのデタント史の構築を展望するのが本書の目的とされる。

イギリスのデタント政策の特徴は、東側諸国との関係改善の重要性を十分に認識しながらも、確実な成果につなげるために西側同盟内部での緊密な連携と調整を重視していた点にある。著者の言葉を借りれば、イギリスの貢献は「フランスのデタント政策に挑戦し、西ドイツの東方政策を支持し、CSCEの交渉過程では超大国デタントの論理とは別の論理を構築すること」に求められる(14頁)。西側同盟の維持と結束を重要視するイギリスにとって、調整の場となったのがNATOである。米ソ関係が安定期に入り、またフランスの独自路線によって「正統性の危機」に直面していたNATOは1967年のアルメル研究を通じて、新しい役割を担うように変貌していく。このNATOの存在理由の転換はイギリスがデタント政策を推進するための足場となっていく。さらに通時的に見た場合、1968年に起きたソ連のチェコスロヴァキア侵攻を契機にイギリスの姿勢は大きく転換することになる。本書の言葉を引用するならば、「1960年代中期から後半にかけて、デタントのダイナミズムを形成し、同盟を維持することで西ドイツ東方政策の基盤を提供するが、1970年代にデタントが大きく花開いた時に、同盟の団結を目的としてデタントの言説を利用する」ようになる(11頁)。

本書の議論からは多くの示唆を汲み取ることができるが、ここでは冷戦史研究の文脈に関わる論点をいくつか検討しておきたい。序章「デタント史の構築」における問題設定から明らかなように、本書はいわゆる「新しい冷戦史」研究に属する。この研究潮流にとって最大の利点は冷戦を「始まりと終わりを持つ一つの完結した時代」(2頁)と把握することによって、冷戦の複合的性格を分析する地平が開かれたことにある。その結果、本書が軸足を置くイギリスのように米ソ以外の主体が冷戦の展開においてどのような役割を果たしたのか、また東西の対立関係だけでなく、同盟内部の協調と対立の錯綜した相互作用を射程に入れた研究が可能となっている。

他方で、冷戦の終焉という結末が明らかになったことは、歴史叙述の問題を重要な論点として浮かび上がらせる。旧東側諸国公文書の第一次解禁ブームの成果ともいえるジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦――力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会, 2004年)の原書タイトルが端的に象徴するように、「われわれは今や知っている We Now Know」立場から、冷戦史を叙述することができる。それによって同時代においては不明確であった数々の事象に関して正確な理解が得られるようになる。

しかしながら、「冷戦が終わった」という事実は、冷戦の複合性をありのままに把握する視座を提供する一方で、複合性を縮減してしまう方向性も併せ持っている。すなわち冷戦を勝ち負けの次元で捉え、その終焉を西側、とくにアメリカの勝利と同一視する観点に立つならば、冷戦史は最終的に勝利に帰結する単線的な過程として描かれることになる。とくに冷戦体験が同時代性を失い、歴史の範疇に組み込まれるようになるにしたがって、画一的な冷戦像が浸透していく。この点がもっとも如実に顕在化したのが近年のアメリカ外交、とくにイラク戦争に至る過程で聞かれた言説だろう。冷戦とは米ソの対決であり、アメリカの勝利によって終わったもの、換言すれば戦後対ソ政策の基本原則であった「封じ込め政策」の成就として捉える見方、あるいは「力による平和 peace through strength」政策こそが冷戦終結の決定的要因であったという理解が一定の説得力を有している。その背景には、藤原帰一が論じるように、冷戦の終結に至る過程(Cold War Endgame)において「合意による平和」から「力の平和」へと冷戦終結観が変化し、冷戦に「代わる新秩序の樹立ではなく、それまでの封じ込め政策と、武力行使の正当性を確認する、旧秩序の勝利として終わった」という認識がかなりの説得力を持っていることを示している(「冷戦の終わりかた――合意による平和から力の平和へ」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(6)機能と変容』東京大学出版会, 1998年: 301頁)。

このことは、冷戦史研究が単なる過去の研究に留まらないことを意味している。すなわち「過去を支配する者は未来まで支配する」というジョージ・オーウェルの言葉に擬えて(『1984年』早川書房, 1972年:47頁)、ケン・ブースは「冷戦期の国際関係史を支配する者はポスト冷戦期の国際政治まで支配する」と述べたように("Cold Wars of the Mind," in Booth ed., Statecraft and Security: the Cold War and Beyond, Cambridge University Press, 1998: 36)、「冷戦とは何だったのか」という問いはすぐれて今日的な意味あいを持っている。またブースが指摘する冷戦的思考の持続力についていえば、同時多発テロ後にブッシュ大統領が描き出した「文明か野蛮か」と二項対立的構図が、二つの生活様式の選択を突きつけた1947年のトルーマン・ドクトリンを容易に想起させたように、現在の国際政治において冷戦の体験、そこからの教訓、そして記憶と忘却の力学は重要な政治要因として作用している。さらに付言するならば、『諸君』2007年2月号の特集「『冷戦』は終わっていない!」で展開される中西輝政たちの安直な反共主義的言説に冷戦的思考の残影を看取することは困難なことではない。

西側/アメリカの勝利物語として冷戦史を叙述する限り、本書が注目する1970年代のデタントは1980年代の新冷戦状況に至る「小休止」に過ぎず、冷戦構造に対する衝撃度は表面上のものであり、その重要性が省みられることはない。その一方で現代世界を表象する言葉であるグローバリゼーションを考慮に入れたとき、1970年代の国際関係は地殻変動の只中にあると理解することができる。この点を敷衍するならば、1945年以降の戦後秩序における冷戦の拘束力、言い換えると戦後史をどこまで冷戦史として語ることができるのかという問題へとつながっていく。20世紀後半の世界を冷戦時代と見ることは間違いではないが、同時にそうした見方はあらゆる事象を冷戦と関連付ける一種の還元主義、あるいは米ソ関係の従属変数とみなす単純化した歴史観をもたらす。冷戦の終焉を知っている現時点から改めて冷戦史を振り返るとき、戦後史との差異や乖離を念頭におく必要があるだろう。冷戦を「アメリカのイデオロギー的プロジェクト」と把握するアンデルス・ステファンソンの挑発的な問題提起を受け止めるならば("Fourteen Notes on the Very Concept of the Cold War," in Gearoid O Tuathail and Simon Dalby eds., Rethinking Geopolitics, Routledge, 1998.)、冷戦の終焉は米ソ間で交渉可能性が認識された1963年に求められる一方で、一般に冷戦の終結過程である1989年から1991年は、第二次大戦の戦後処理として凍結状態にあったドイツ統一問題が解決し、東欧諸国からのソ連軍の撤退が開始されたことが物語るように、戦後(秩序)の終焉を象徴する年として理解されるべきだろう。

以上の冷戦の時期区分をめぐる問題を踏まえると、デタントの位置づけも微妙な修正を受ける。単なる「小休止」と見るデタント観も、あるいは「冷戦の終わりの始まり」と見るデタント観も、冷戦構造を所与としている点で共通性を持っている。しかし戦後秩序との乖離に注意を払った場合、1970年代の国際関係に脱冷戦的な兆候を見出すことができるのではないだろうか。この点で、歴史として冷戦を眺めることができる現時点の研究者よりも、同時代史として1970年代を生きていた研究者たちのほうが鋭い洞察力を持っていたといえる。たとえば、ソ連のアフガニスタン侵攻によってデタントが崩壊し、「新冷戦」という言説が広まっていた1980年に、高坂正堯は「米ソの対立の激化が事実であり、それが世界政治に影響を与えることも確実であるとしても、冷戦の再来という言葉で捉えることは、誤った判断を生むだけである」と指摘し、デタントを経た後の「新冷戦」を安易に「冷戦」への回帰と見る考えに対して、イデオロギーの後退、闘争の多元化、米ソの内政上の問題という3点において文脈的な違いの存在を挙げて異論を唱えた(「再熱した米ソ対決の見落とせぬ性格」『高坂正堯外交評論集――日本の進路と歴史の教訓』中央公論社, 1996年: 168頁)。同様に永井陽之助も、「西側諸国とソ連との関係は力を背景とした、いかにきびしいものであっても、冷戦時代のように『単独行動の応酬』ではなく『交渉可能性の相互期待』がある以上、かるがるしく『冷戦の復活』等の語をもちいるべきではない」と論じている(『冷戦の起源――戦後アジアの国際環境』中央公論社, 1978年:10頁)。あるいは「米ソ首脳部が冷戦の終わりを語り、アジアの局地紛争にも終止符が打たれた1970年代こそ、新たな国際秩序の概念を作り出すべき絶好の機会であった」と述べる入江昭の指摘を(『20世紀の戦争と平和』東京大学出版会, 1986年: 193頁)、藤原帰一は「卓見」と評し、「覇権にも競合にも依存しない国際協調を基礎においた秩序を形成するためには、70年代の中葉は貴重な機会だった」と1970年代を位置づけている(『デモクラシーの帝国――アメリカ・戦争・現代世界』岩波書店, 2002年: 113頁)。

「冷戦の中のデタント」からデタント史を構築する作業は、1970年代の国際関係の特徴に照らし合わせたとき、当初の問題枠組みを超えたものとなる。冷戦構造を所与としたデタント認識はあくまで冷戦的思考の圏内にあり、戦後史との交叉領域を視野に入れたデタントに向けた一種のパラダイムシフトが求められるといえるだろう。そのために必要となるのが、第1に英米、英仏、独仏のような二国間関係の考察を積み上げると同時に、西側同盟関係を総体として立体的に捉える作業だろう。この問題意識は萌芽的に本書においても看取できるが(また川嶋周一「冷戦と独仏関係――二つの大構想と変容する米欧関係の間で 1959年-1963年」『国際政治』134号, 2003年も参照)、多言語による公文書の比較読解作業が必須となるため、複数の研究グループによる包括的な作業とならざるをえないことは確かだろう。

第2に、西側同盟内部の政治過程を検証する作業は、対抗関係にある東側の同盟政治に焦点を当てた研究によって補完されることで、ヨーロッパ冷戦の全体像を把握する地平に導かれる。しかしながら米ソ冷戦史観から西側同盟内政治へと分析の射程を広げつつある日本の冷戦史研究において、冷戦期のソ連外交は、下斗米伸夫の研究に代表されるように、主としてアジア冷戦史の文脈で著しい進捗が見られるが、東欧諸国との関係、すなわち東側の同盟政治、およびワルシャワ条約機構やコメコンなどの制度に関する研究は、ほとんど手付かずの状態にある(例外として、ちょうど今年が50年目にあたる1956年のハンガリー革命を考察した荻野晃『冷戦期のハンガリー外交――ソ連・ユーゴスラヴィア間での自律性の模索』彩流社, 2004年がある)。日本における冷戦/戦後国際関係史の成果としては、文部省(当時)特定研究「国際環境に関する基礎的研究」から生まれた「叢書国際環境」(中央公論社)が思い浮かぶが、その中で現在まで未刊行になっているのが伊東孝之が担当予定の『ソ連外交と東欧』であることから推察されるように、ソ連および東欧諸国関係が日本の冷戦史研究における空白地帯となっている状況には長い(悪しき)伝統がある。

以上の議論とは別の文脈で本書のもつ今日的意義を挙げるとするならば、デタント成立に向けたイギリスの取り組みは、アメリカとの緊密な同盟関係やユーラシア大陸の縁に位置する地政学的状況から、日本にとって、北朝鮮問題に象徴される東アジアの秩序形成に関して多くの示唆を与えてくれる。もちろんヨーロッパ/アジアという空間的、および1970年代/2000年代という時間的な差異を念頭におく必要があるが、六カ国協議などの場において、日本政府の影が薄い状況を改善するうえで、イギリスの事例は大いに参照されるべきだろう。日本の目指すべき国家モデルとしてイギリスを挙げる外交担当者や評論家が多い中で、現実には東アジアにおいてアメリカ以外の友好国が皆無という、中東におけるイスラエルを想起させる孤立状況にある点を考えたとき、改めてイギリス外交の叡智に学ぶことは重要だろう。安易に北朝鮮の脅威や異質性を叫ぶだけの「無外交」から脱却し、北朝鮮の核開発や半島の分断状況の解決に貢献する外交を展開する場合、CSCE開催に向けた交渉過程でイギリスが「人的交流」を重視し、後に「ヘルシンキ効果」と形容される形で東側諸国の体制基盤の侵食に一定の影響を与えたことに注目すべきだろう(宮脇昇『CSCE人権レジームの研究――「ヘルシンキ宣言」は冷戦を終わらせた』国際書院, 2003年を参照)。

懐古/回顧される1980年代

2006年11月17日 | knihovna
大塚英志『「おたく」の精神史――1980年代論』(講談社, 2004年)を嚆矢として、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(日本放送出版協会, 2005年)から、原宏之『バブル文化論――「ポスト戦後」としての1980年代』(慶應義塾大学出版会, 2006年)宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房, 2006年)と続き、一種のブームとなっている「1980年代論」の潮流に、村田晃嗣『プレイバック1980年代』(文藝春秋, 2006年)が加わる。

文藝春秋のHPにある宣伝文句などを読む限り、それまでの「1980年代論」に見られるような思想的洞察が期待できそうもなく、同時代を生きた村田の懐古(回顧)趣味を加味した、表層的な記述に終始する予感が付き纏う。既存の「1980年代論」が社会学、あるいはアンダーグラウンド周辺の視点から照射されたものであることを念頭に置いて、村田の「1980年代論」を好意的に解釈すれば、たとえば1980年代の文化空間の深奥から見た大塚の議論とはまったく対照的な、それこそ「軽チャー」と揶揄されるような通俗的な1980年代のイメージを再提示してくれる意味で、ひとつの研究素材としての価値を持っているかもしれない。

終わらない南北戦争

2006年11月04日 | knihovna
佐藤賢一『アメリカ第二次南北戦争』(光文社, 2006年)

巽孝之による書評(『朝日新聞』10月22日)で興味を抱き、また同時期に読んでいた鈴木透『性と暴力のアメリカ――理念先行国家の矛盾と苦悶』(中央公論新社, 2006年)の議論と反響するところが多々あり、フィクションでありつつも、すぐれて今日的な含意を持つ小説といえるだろう。

マクギル大統領(女性)の暗殺事件後、副大統領から昇格したムーア大統領(黒人)が打ち出した銃規制に対する反発は、女性あるいは黒人という彼らの刻印と絡み合って、南西部諸州の白人社会において激化し、2013年、これらの諸州は「アメリカ連合国」を結成し、独立を宣言したことによって第二次南北戦争が始まる。小説は、その2年後、連合国と合衆国の間で停戦が合意された2015年、日本政府から派遣された森山悟の(日記風)調査レポートの体裁を採っている。森山、日本人義勇兵の結城、イタリア系アメリカ人のヴェロニカの3人が、ロサンゼルス(合衆国)からヒューストン・ダラス・ニューオーリーンズ(連合国)へ向かう行程は、「アメリカなるもの」の深奥へと入り込んでいく過程であり、コンラッドの『闇の奥』あるいはそれを下敷きにしたコッポラの「地獄の黙示録」と重なり合う。またときおり章の後に挿入される解説・論評文において、学者やジャーナリストの見解を織り交ぜることによって、アメリカの歴史や社会、文化の特異性を際立たせると同時に、現実のアメリカと結びつけることを容易にし、小説のリアリティを高める役割を果たしている。

アメリカが再び2つに分かれて戦火を交えるという発想は、近年の、とりわけ冷戦終結以降のアメリカ政治・社会情勢に目を向けたとき、単なるフィクションとして片付けられない。分裂そして内戦に向かうアメリカというシナリオの歴史的背景を概略的に整理すれば、1968年を頂点にした反戦・公民権・学生・女性運動がもたらしたアメリカ社会のリベラル化に対する危機意識がその根底にあることは明らかであろう。またワシントンのエリート主義的政治や肥大化する連邦政府に対する不信感は、ヴェトナム戦争の泥沼化やウォーターゲート事件によって決定的になり、80年代に入ってレーガンの登場をもたらした反エリート意識に根ざしたポピュリズムの下地を作り出した。こうして国内的には、アメリカの一体性を担保していた「冷戦/ニューディール・コンセンサス」は1970年代にすでに消え去り、「文化戦争」の時代に突入していっていたわけであるが、冷戦構造の解体という国際環境の変容がこうした趨勢をさらに推し進めることになる。文化戦争の交戦主体であるキリスト教右派の観点に基づけば、国内では依然として世俗的快楽主義が、国際的には非道徳的な政治勢力が蔓延っている現代の状況を考えれば、「戦いは終焉したどころか、これからが本番だ」という認識になる(古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』岩波書店, 2004年: 5章参照)。

1990年代以後のアメリカ政治・社会の軌跡は、アメリカの一体性を揺さぶり、ひいては分裂を引き起こすのではないかという予想を現実化する方向に進んでいるように思われる。2004年の大統領選挙において共和党(ブッシュ)と民主党(ケリー)の支持地域が見事なまでに赤と青で色分けされたことは、存在するのが1つのアメリカではなく、2つのアメリカであり、分裂という時限爆弾がすでに動き始めている印象を抱かせる。「2つのアメリカ」は、11月7日に投票予定の中間選挙において民主党が過半数を獲得したとしても、あまり影響を受けないだろう。むしろES細胞研究の推進を訴えるマイケル・J・フォックスのCMへの賛否、ヒスパニック系移民の投票に対する脅迫行為などや、また中間選挙と同時に全米37州で実施される住民投票の争点(同性愛や中絶容認の是非)に見られるように、「アメリカとは何か」というアインデンティティーの(再)確認作業、あるいはその決定権をめぐる争奪戦としての色彩が強く反映されている。

そしてこのような些か常軌を逸したようなアイデンティティーに対する欲望が時として暴力化する物質的条件が、アメリカ社会に氾濫する銃の存在であるならば、理念的条件として指摘できるのが連邦(中央)政府に対する懐疑主義、すなわち共和主義の伝統だといえる。小説においても、連邦政府が進める銃規制に対する反発が第二次南北戦争の開戦理由の1つであり、中央政府の恣意的な権力行使に対する自衛手段として銃の保有が権利として認識されていることは、紛争が生じた際に暴力手段による解決の衝動に駆られる背景を構成している。それは、超法規的な暴力行使としてリンチが紛争解決において一定の機能を担ってきたことに関係している(鈴木『性と暴力のアメリカ』、土佐弘之「世界内戦化とリンチ的暴力――『市民的』不服従のアソシエーションへ」『現代思想』32巻9号, 2004年: 175-181頁)。こうした近代の法規範の外側にリンチという別種の裁きが位置づけられ、20世紀に入っても公然と行われていたことは、「超歴史的/脱歴史的な近代啓蒙国家」(古矢: 215頁)でありつつも、近代の啓蒙主義の理念を否定するアメリカの特異性を浮き彫りにする。

また鈴木透の問題意識との関連で言えば、ニューオーリーンズを舞台にした小説終盤のストーリーは、性と暴力の交叉を描いた場面として読むことができる。第二次南北戦争のハイライト「ニューオーリーンズの戦い」で、「現代のジャンヌ・ダルク」ジョーン・メロリーの出現によって鼓舞され、合衆国側について最後まで抵抗の意思を示していたニューオーリーンズの戦線は、メロリーが「プレイメイト・ミス・ジュライ」だった過去を暴く写真によって一気に崩れ去る。その結果、連合国側はアメリカ南部をほぼ手中に収める。しかし連合国領内のほとんどが白人で構成される同質的な社会になったのとは対照的に、ニューオーリーンズは、黒人やヒスパニックが居住する多人種社会であり、また合衆国側に共感を寄せる住民も多数いるため、紛争の火種を宿した状態にある。そして森山とヴェロニカ、およびフランス人のファビアンの(意図しない)行為が介在することで、姦通罪で告発されたメロリーに対する宗教裁判当日に起きた爆弾事件が、「ニューオーリーンズの暴動」へと発展し、さらには停戦が破棄され、合衆国と連合国は再び戦争に突入してしまうことになる。とりわけメロリーを姦通罪で告発するニューセイント教団とネオKKKのつながりは、性をめぐる問題が、他者に対する怖れを喚起し、それが暴力の誘惑を掻き立てる循環を示唆している。

またファビアンが形容する「暗黒の中世」(269頁)としてのアメリカ像は、「紛うことなき想像の共同体 Imagined Community par excellence」として近代性の所産であり、その体現者でありながらも、十分に世俗化されていない宗教国家の側面を言い表している。それは、アメリカが近代啓蒙主義の申し子であると同時に、その鬼子でもあることを意味する。別言すれば、アメリカは、(ヨーロッパ)近代性の否定の上に、まったく新しい共同体を創造/想像することを目指していた意味で、建国時点においてすでに近代性の彼方を見据えていたといえる。アメリカを特異な、あるいは規格外の国家と表象したり、またその帝国性に着目する議論が説得力を持っている理由の一端は、ヨーロッパで醸成された近代性に対するアンチテーゼであることにアメリカの一体性、そしてアイデンティティーの源泉を見出すからだろう。また近代性を基準にして理解しようとするならば、アメリカが近代性を超えた存在であると同時に、近代性未満の要素を抱え込んだ存在でもある。この点をまさしく言い当てているのが「アメリカは成功したオウム真理教なのです。アメリカ合衆国というのは、恐ろしく巨大な『カミクイシキ』なのです」というファビアンの言葉だろう(365頁)。

最後に、アメリカ史において南北戦争が「国民国家的統合への戦争」(チャールズ・ビアード; 古矢: 53頁)という性格、つまり「帝国から国民国家へ」というベクトルを持っていたとされる。言い換えれば、南北戦争を契機として、アメリカは特異国家から普通の国家に転換しようとしたのである。しかしその試みはアメリカにおいて血肉化するまでには至らなかった。アメリカが(ヨーロッパ)国際社会に本格的に参画したのが20世紀に入ってからであり、しかも対象である国際社会自体も古典外交が機能する条件を失っていたこと、さらに「理念の戦争」としての様相が色濃い冷戦が到来したことは、ヨーロッパ流の規範に合致するような社会化が十分に作用することなく、アメリカを国際社会に招来することになった。そのため、アメリカは、「帝国への回帰」の衝動を払拭できず、その魅力に抗することに困難を抱えている。もし第二次南北戦争が現実に起こるとすれば、それは(第一次)南北戦争とは反対に、「国民国家から帝国へ」というベクトルが作用する転換点となる可能性がある。それこそ森山が最後に提案するように(439-443頁)、アメリカを5つの主権国家に分割し、ヨーロッパ流の勢力均衡に基づく規範を学習させることが必要かもしれない。

冷戦のアジア的位相

2006年10月19日 | knihovna
下斗米伸夫『モスクワと金日成――冷戦の中の北朝鮮 1945-1961年』(岩波書店, 2006年)

北朝鮮の核実験をめぐる情勢がメディアを賑わせている昨今、共和制を布いている国家では、(アゼルバイジャンを除けば)異例の世襲国家という特異な体制を有する北朝鮮の来歴を改めて省みておく必要があるだろう。「アジアでは冷戦は続いている」という言説が一定の説得力を持って流通していることを考慮すれば、そして北朝鮮の国家建設過程が冷戦構造の定着過程とパラレルな関係にあったことに注意を向けたとき、現代東アジアの国際関係を規定してきた/している冷戦とは何かという問いを発することは重要な意味を持つ。

近年、米ソ冷戦およびヨーロッパ冷戦構造が瓦解したことを受けて、冷戦史研究は活況を呈している。いわゆる「新しい冷戦史」と呼ばれる潮流である。その特色を整理すれば、第1に、旧ソ連圏の公文書が解禁されたことによって、鉄のカーテンの向こう側からみた冷戦、そしてその内部で繰り広げられてきた同盟内政治の考察が可能になった点が指摘できる。第2に、冷戦の多層性あるいは多元性が認識されるようになり、米ソ冷戦の従属変数として、各地域の冷戦を捉えるのではなく、その相互作用を射程に含めるようになっている。第3に、冷戦を政治や軍事戦略領域に収まりきらない、言い換えれば社会生活、あるいは人々の観念や信条に強い影響を与えた複合事象と見る視点が登場してきた。

前著『アジア冷戦史』(中央公論新社, 2004年)と同様に、本書も、以上のような「新しい冷戦史」という潮流を背景にしていることは明らかであり、先の「新しい冷戦史」研究の特色に当てはめるならば、第1と第2の特色を持った研究といえる。つまり、主に解禁されたロシア語史料に基づいて、北朝鮮の建国から、朝鮮戦争を経て、金日成の権力基盤が確立されるまでを、とくにソ連および中国との愛憎半ばの複雑な外交関係を中心に考察している点は、東側同盟内部の政治過程に関するひとつの事例研究となっている。また、北朝鮮が第二次大戦後に建国されたポスト植民地国家であることが示すように、すでに国民国家建設が完了したヨーロッパを舞台にした冷戦とはまったく様相が異なる対立構図、つまり植民地からの独立およびその後の国家/国民建設という内政が容易に国際環境と結びつき、冷戦が熱戦に転化する可能性をつねに孕んだ戦後アジアの「冷戦」を考察対象にしていることである。そしてこの点は、アジアの戦後史を「冷戦」の視座だけで捉えることはどれくらい妥当性を持っているのかという問いにつながっていく。

本書の内容から抽出される興味深い論点をいくつか指摘するならば、第1に、冷戦の起源およびその展開をめぐる通説に対する修正が提起されている点である。すなわち解放ヨーロッパにいかなる秩序を築き上げるかという点をめぐる米ソの戦後構想認識のズレに端を発している点で、あくまで冷戦の主戦場はヨーロッパであり、そのヨーロッパの分断状況が固定化していくに伴い、戦線がグローバルに拡大していったとする従来の説に基づくならば、アジア地域における冷戦は、ヨーロッパ冷戦に先行するものではなく、典型的には1950年の朝鮮戦争勃発によって、冷戦構造が波及したとされる。しかし、本書「はじめに」および『アジア冷戦史』では、「アジアでこそ冷戦の対立が先駆的に生じ…、中でも朝鮮半島はその中心であった」(viii頁)という見解が提示される。そこには、米ソ中心あるいはヨーロッパ中心史観が支配的な既存の冷戦史研究に対する批判という意味合いが込められ、冷戦対立の客体としてではなく、むしろ冷戦を積極的・主体的に構成していた点を強調する。

アジア地域が冷戦の客体ではないという視点を敷衍すれば、米ソの同盟諸国もまた冷戦の客体ではなく、反対に冷戦の拡大・深化・長期化をもたらしていたのではないかというトニー・スミスの周辺国中心主義(pericentrism)の議論と通底する("New Bottles for New Wine: A Pericentric Framework for the Study of the Cold War", Diplomatic History, vol. 24, no. 4, 2000)。 なかなか同意を示さないスターリンに対し、金日成が再三にわたり勝算の見込みを伝え、説得を試みた朝鮮戦争の開戦過程に見られるように、アジア地域の対立において、客体にとどまろうとしていたソ連を北朝鮮が引きずり込んだともいえる。ジョン・ルイス・ギャディスが指摘するように(『歴史としての冷戦――力と平和の追求』慶応義塾大学出版会, 2004年)、ヨーロッパ地域でのアメリカのように、アジア地域においてはソ連が「招かれた帝国 Empire by Invitation」の役割を演じたのである。

また米ソによるグローバルな冷戦の終焉、および米中によるアジア地域冷戦構造が変容したにもかかわらず、「アジアでは冷戦は終わっていない」という言説が説得力を持って繰り返されるのは、冷戦の力学が一方向の単純なものではなく、外来のものであった冷戦が土着化することによって、独自の展開を辿っていった複合現象であることを示している。それは、1956年のスターリン批判が北朝鮮に及ぼした影響からも明らかであり、本書5章で論じられているとおりである。また米中和解、そして米ソ間のデタントが成立した1970年代によってアジア地域の冷戦の(部分的)終焉が、即座に共産党体制の体制転換をもたらさなかったことは、冷戦構造の解体と体制転換がセットになって進んだヨーロッパとの差異を浮かび上がらせる。

第2に、北朝鮮とソ連および中国の同盟関係を「偽りの同盟」と把握する視点である。たしかに北朝鮮の建国過程においてソ連系および中国系朝鮮人が主導的な立場にあり、彼らを通してモスクワあるいは北京の意思が反映されていたとみれば、「傀儡国家」と形容することもできる。しかし、その後の展開が示すように、金日成は、全面的に中ソに従属するというよりむしろ、両国の対立状況を巧みに利用して、自らの権力基盤を固めていった。こうした自律性を確保することができた要因には、ソ連の戦後構想において具体的なアジア、とりわけ朝鮮半島政策が欠けていたことが指摘できる。地政学的重要性があったといえ、それほど死活的ではなかったことから、長期的な視野に基づかない、ある意味で場当たり的な朝鮮半島政策が、金日成をはじめとする国内勢力に「通訳政治」を通してソ連の政策意図を換骨奪胎するだけの空間を与えたといえるかもしれない。そして、それは、1956年のスターリン批判の衝撃を回避し、逆に八月宗派事件によって中国派やソ連派を一掃し、金日成体制を確実なものにすることを可能にした。

また「偽りの同盟」という視座は今日的意味合いも持っている。現在の北朝鮮をめぐる国際関係における主要アクターである六カ国協議参加国のなかで、中国とロシアはともに北朝鮮の「友好国」としての立場から一定の影響力を持っているとみなされているが、冷戦期の中ソと北朝鮮の関係を考慮に入れれば、両国の影響力には大きな限界があることになる。換言すれば、現在の北朝鮮の瀬戸際外交を考える上で、その外交論理が、中ソという大国を相手にした非対称的関係の中で培われ、展開されてきた点を念頭におく必要があることを意味している。この点は、なぜ北朝鮮がアメリカとの二国間交渉を執拗に要求するのかという疑問に対して、まさに圧倒的なまでに非対称的な米朝関係こそが北朝鮮にとって外交を展開する慣れ親しんできたフィールドであるというひとつの糸口を提供する。

第3に、アジアにおける冷戦が、国民国家間の権力政治およびイデオロギー対立に加えて、帝国の解体および共産化、そして脱植民地化の趨勢の中で、展開していったことは、戦後史を冷戦という概念で把握することがどこまで可能なのかという問いを提起する。つまり冷戦の多層性や多元性を強調することは、戦後史における冷戦の比重低下をもたらす。これは、戦後史と冷戦史がどの程度一致し、どの部分で乖離しているのか、あるいは「終わった/終わっていない」とされるのは冷戦なのか、戦後なのかという問題である。「交渉不可能性の相互認識に立った単独行動の応酬」という永井陽之助の定義に基づけば、「交渉の時代」を掲げたニクソン大統領の登場と訪中によって、冷戦を構成する要件が取り払われたとみなすことができる。その後に残ったのは、第二次大戦の帰結あるいはその置き土産であるポスト植民地主義の問題である。いわばアジアにおいて戦後は未完のまま残されている。奇しくも安倍首相が政権の主要課題として掲げた「戦後レジームからの脱却」が日本国内のそれ、占領体制を念頭に置いている点で内向きの言説であることは明らかだが、アジア地域に目を転じてみれば、脱却すべき戦後自体が形成途上にあり、目標として掲げられるべきは「戦後レジームの完成」となる。こうした「戦後」認識の乖離が、昨今の外交不在とされる日中韓の関係の背後に横たわっているのではないだろうか。

文化戦争@図書館

2006年07月31日 | knihovna
有川浩『図書館戦争』(メディアワークス, 2006年)

図書館とメディア良化委員会との武装対立が日常化した正化31年の日本を舞台に、図書館特殊部隊に配属された笠原郁を主人公にした小説である。著者が「あとがき」で「今回のコンセプトは、月9連ドラ風で一発GO!」と述べているように、また著者がライトノベル畑で主に活躍しているということもあって、小説世界の醸し出す雰囲気はそれほど重苦しいものではない。むしろ高校時代に遭遇した運命的な邂逅が原体験になって、図書館防衛隊を志した笠原郁の「暴走」ぶりと、それに振り回される教官や同僚たちというキャラ設定やストーリーの展開はそれこそ「月9」を構成する要素を最大公約数的に抽出したものになっている。

しかし小説の基盤を成す正化31年の日本に、メディア規制法が政治課題として論議され、公論空間の硬直化が進む平成18年の日本を重ね合わせ、そこから何らかの思想的/政治的含意を汲み取ろうとする「読み方」をさせるだけのアクチュアリティが本書にはある。本書の世界像を形作る際に重要な源泉となっているのが「図書館の自由に関する宣言」、恣意的な公権力の行使に対して、思想・信条の自由といった基本的自由権の擁護を宣言するものであることは、図書館という空間あるいは制度に自由主義/共和主義の思想が反映されていると理解することができ、またこのような思想史的文脈に位置づけてみた場合、図書館が武装するという設定もそれほど突飛な発想ではなく、共和主義の伝統であるところの自己武装権の現れとしてみるべきかもしれない。

国際的な冷戦体制が終わろうとしていた1980年代、アメリカ国内で繰り広げられた「文化戦争」は国内冷戦の継続と捉えることができる。マイノリティの排除に依拠した建国というアメリカの「原罪」を告発する動きが先鋭的に顕在化したのが歴史教科書の記述であり、「アイデンティティの政治」およびその政策的産物である多文化主義をめぐる論争が活発化した。「文化戦争」を構成する戦線は多方面に築かれていくとともに、相争う陣営の主張が過激化・硬直化し、その貫徹のために暴力が行使されるまでに至っている(中絶反対派による中絶クリニックの爆破などはその典型である)。

「文化戦争」と形容できるような状況は日本でも看取されるようになっている。アメリカ版「文化戦争」の下地に1970年代の「アメリカ衰退」という国家/国民的アイデンディティ危機があったように、日本版「文化戦争」の前段階として1990年代の、バブル崩壊に起因するいわゆる「失われた10年」を位置づけることはあながち間違いではないだろう。「去勢された」戦後日本の国家/国民意識の支えとなっていた経済成長主義があっけなく打ち砕かれたことは、国論を二分するような対立状況を弁証的に止揚する理念の喪失を意味した。「新しい歴史教科書」やジェンダーフリー論争、あるいは嫌中・嫌韓がクローズアップされ、政治的意味空間において一定の基盤を持つようになる。その主張の多くがマルクス主義/共産主義の陰謀論と変わらず、冷戦的性格から一歩も出ていない点もまた「文化戦争」と形容する理由のひとつである。

「新しい歴史教科書をつくる会」関係者の書籍が廃棄された、いわゆる船橋市西図書館蔵書破棄事件や、福井県でジェンダー関係の図書が撤去された事件(「福井の図書一時撤去問題、書名公開求め提訴へ」『朝日新聞』7月27日)に象徴されるように、自分の思想信条と相容れない主張や解釈を提示する媒体としての書籍が収集・所蔵され、一般市民が自由に借りることを制度化した公共図書館は、当然のことながら「文化戦争」の当事者双方にとって敵を利する思想および書籍が野放しになっている空間と映り、そうした状況の「改善」が戦略目標となる意味で、まさしく戦場と形容するのが相応しい。

イデオロギー的な左右を問わず、共通する病理である善悪や正邪という価値判断に対する盲信、すなわち原理主義がテロなどの暴力行為も辞さないとき、思想・信条・表現の自由を擁護する立場にある者はどのような対応を取るべきだろうか。絶対平和主義の立場からすれば、図書館自体が武装するという選択肢がありえないことだろうが、そもそも「市民と武器の問題は、国家権力と市民の自由という、政治の問題と深くかかわっている」とすれば(村川堅太郎「市民と武器」: 藤木久志『刀狩り――武器を封印した民衆』岩波書店, 2005年: 13頁より再引用)、図書館の自由を守るために武装する決定(そして著者の発想)はすぐれて思想史的な意味を持っている。かつて丸山眞男が、アメリカ憲法修正第2条に含まれた精神、つまり人民の自己武装権に触れ、「ここで一つ思い切って、全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世帯主の責任において管理することにしたら・・・」と提案した真意は、「どんな権力や暴力にたいしても自分の自然権を行使する用意があるという心構え」の涵養にあったことを想起させる(「拳銃を・・・・・・」『丸山眞男集(8)1959-1960』岩波書店, 2003年: ただし秀吉の刀狩りによって非武装化された日本人という丸山の認識に関しては、藤木久志が疑義を呈している)。

たしかに小熊英二が指摘するように(『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制 』慶應義塾大学出版会, 2004年)、自己武装権というアメリカ憲法修正2条に込められた「自由の象徴」という精神は総力戦を経験した現代にあって死文化しており、むしろ全米ライフル協会(NRA)のような団体の既得権益を正当化する根拠となるとともに、その精神が成立しえる条件が存在しない意味で「時代錯誤」となっている(アメリカにおける自己武装権をめぐる歴史的背景や議論については、斎藤眞『アメリカ革命史研究――自由と統合』東京大学出版会, 1992年: 10章、および富井幸雄『共和主義・民兵・銃規制――合衆国憲法修正第二条の読み方』昭和堂, 2002年を参照)。したがって自己武装権を歴史的な文脈を無視して持ち出すことには注意が必要である。しかしながら、「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さないという思想から発しており、同時に国家への異議申し立て能力を確保するという側面」(小熊: 51頁)をもつ自己武装権の思想そのものに注目するならば、自由の根幹である生存が脅かされる状況に遭遇したときに抵抗手段として行使される暴力は、すでに過剰な権力資源を有する政府などの主体が行使する暴力と区別されるべきだろう。

その意味で、抗争を繰り広げるメディア良化委員会の執行組織である良化特務機関と図書館防衛隊の組織的形態の違いが武装や戦略の意味に影響を与えている点は興味深い。法務省管轄下にあるメディア良化委員会の予算は潤沢であり、その装備レベルも高いのとは対照的に、公共図書館は各地方公共団体によって運営されている分権的組織であるために、予算上の制約に縛られ、武装化の程度も見劣りすることは両者の関係に非対称性を帯びさせる。それゆえに図書館防衛隊の基本方針は専守防衛であり、圧倒的な火力を誇る良化委員会に対して防戦一方にならざるをえない状況が小説のクライマクスを飾る「情報歴史資料館」をめぐる攻防戦において描写されている。図書館防衛隊の暴力とはあくまでも「抵抗の暴力」なのである。

とはいえ、自己武装権の理念が「対話の技術やモラルを伴わない暴力を解放し、…無意味な殺し合いを生み出した」(小熊: 60頁)限界を抱えていたことを考慮に入れたとき、図書館防衛隊の行使する暴力をめぐっても、どの程度まで武装化するべきなのかという問題が生じてくる。小説世界において、図書館が武装化する契機となったのが正化11年の「日野の悪夢」と呼ばれる事件である。メディア良化委員会と通じた政治結社による襲撃と、この事態を傍観した警察に対する不信が図書館の使命を擁護するために武器を取ることを選択させた。しかしこうした武装路線が図書館関係者の総意というわけではなく、内部で原理派と行政派の路線闘争が存在することが指摘されている。おそらくこの点は、続編となる『図書館内乱』において主要テーマとして語られることであろう。

危ない子どもたち

2006年07月20日 | knihovna
P・W・シンガー『子ども兵の戦争』(日本放送出版協会, 2006年)

民間軍事会社(PMCs/PMFs)に関する本格的な学術書である『戦争請負会社』(日本放送出版協会, 2004年)で脚光を浴びたシンガーの新刊書。前著を踏襲した装丁から、二匹目のドジョウを狙う出版社側の意図が窺える。また類似点は装丁だけではない。戦争における子どもの位置づけを歴史的に辿りながら、各種データを示しつつ多くの紛争地域で子どもが兵士として徴用されている現状を概観する。このような現状把握を背景にして、なぜ子ども兵という問題が生じてきたのかを探り、最後に「それではどうすればいいのか」という政策的含意の検討が示される議論の構成においても『戦争請負会社』と同じ流れになっている。社会科学の研究手続きに沿った「現状把握→分析→政策提案」という流れが類書の多くに見られがちな事実を列挙する記述とは一線を画した説得力を与えている。

しかしながらその説得力の根拠が「翻訳」を通じて喪失されているのではないかと疑わせる点もある。民間軍事会社にしても子ども兵にしてもその実態を把握するには大きな困難がある。そのため、情報源を明らかにすることは記述の精度と著者の主張の説得性を担保する。しかし多くの読者を獲得するという商業上の理由から前著『戦争請負会社』の場合、著者との了解に基づくとはいえ、注と文献リストが捨象される「配慮」によって、民間軍事会社というテーマの斬新性を補強する学術的な基盤が損なわれることになった。こうした「配慮」が『子ども兵の戦争』についても作用しているように思われる。原書を確認していないのではっきりしたことは言えないが、邦訳において一切の注釈表示はない。訳者による但し書きもないことを考えると、もともと原書にもなかったと判断することもできるが、たとえば化学兵器の使用禁止に関する規範に言及した箇所は、リチャード・プライスの研究(The Chemical Weapons Taboo, Cornell University Press, 1997)に基づいていることが明らかであるように、引用表記があってもおかしくない箇所が散見される。

戦闘員と非戦闘員の区別、なかでも未成年者の保護という規範が侵食されている行為が蔓延っている原因として、シンガーがグローバリゼーションの進展、軽小火器の拡散、戦争形態の変化の3点を指摘している。なかでも子ども兵が重宝される要因のひとつに挙げられている軽小火器の代表格がカラシニコフ(AK47)銃である(カラシニコフについては、松本仁一『カラシニコフ』朝日新聞社, 2004年および『カラシニコフII』朝日新聞社, 2006年を参照)。軽小火器の問題は、北朝鮮やイランの核開発問題に典型的な大量破壊兵器と比べて注目度が低いにもかかわらず、その重大性は無視できないほど大きい。しかし、国際社会における取り組みを見ると、先ごろ開催された国連「小型武器行動計画」再検討会議が最終文書を採択できなかったことからも明らかなように(「国連:小型武器会議、合意できず閉幕・米ライフル協の圧力影響」『毎日新聞』7月9日)、新たな規範形成には程遠い状況である。規範サイクル論に当てはめて考えれば(Martha Finnemore and Kathryn Sikkink, "International Norm Dynamics and Political Change", International Organization, vol. 52, no. 4, 1998)、ある規範が普及し、受容される過程において重要な条件のひとつに、関連する争点に強い影響力を持つ主体の積極的参画がある。小型武器問題についていえば、最大の銃大国であるアメリカ政府および世論がそれにあたるわけだが、肝心のアメリカ国内において、小型武器問題の本質が正確に伝わっておらず、反対に憲法修正第2条の自己武装権の死守を掲げる全米ライフル協会の無用な介入を招き、論点が摩り替わってしまった(「全米ライフル協会:銃規制と誤宣伝、国連に抗議殺到」『毎日新聞』6月24日)。

小型武器の違法取引を規制する規範の整備が停滞する一方で、子どもを兵士として利用する規範は戦場において一定の基盤を持ち始めている。シンガーが第8章「子どもを兵士にさせない」で指摘するように、冷戦後の国際関係論で流行している構成主義が重視する規範は、多くの場合、善い行為を促す準則と捉えられる傾向が強い。しかしこうした規範と倫理を結びつける議論に対して、シンガーは、規範と倫理を切り離し「戦争における社会的行為の暗い面」に注目すべきだと指摘する。子ども兵は、政府軍あるいは反乱軍を問わず、世界の紛争地域で共通に見出される現象である事実は、子ども兵をめぐって2つの規範が競合していることを意味している。先述した規範サイクル論によれば、ある規範が定着するためには、旗振り役となる「規範起業家」の運動が広がり、一定の賛同を得る受容(カスケード)段階に達することが必要であり、この壁を突き破ることができれば、規範の普及は一気に加速化する。数々の国際法上の協定に見られるように、子ども兵を禁止する規範は受容段階を越えて、内面化/制度化の段階に入っている。しかし「道徳規範と、実際の行動やそうした規範の施行とを混同してはいけない」(204頁)とシンガーが注意を促すように、子ども兵禁止規範は十分に定着しているとはいえない。むしろより巧妙な形で子どもの徴用・訓練が行われている。また子ども兵の戦術的有用性に目をつけた大人たちが「規範起業家」の役割を担い、子ども兵の利用を促進する正反対の規範の拡大に一役買っている。こうして少なくとも紛争地域において、子ども兵利用規範は、受容段階に突入しようとしており、禁止規範の正当性に疑問を投げかけるだけの力を持ち始めている。

子ども兵を利用する規範の浸透が示唆するのはある種の軍事化が進展していることである。シンシア・エンローによると、軍事化とは「何かが徐々に、制度としての軍隊や軍事主義的基準にコントロールされたり、依存したり、そこからその価値を引き出したりするようになっていくプロセス」である(「軍事化とジェンダー――女性の分断を超えて」『思想』947号, 2003年: 8頁、強調原文)。従来「聖域」であった子どもが戦場に駆り出されることによって、最も感受性が豊かな時期を軍事を最優先とする環境で過ごすことになる。たとえば、子どもを兵士に育て上げる際に重要な動機付けとして、威圧・報酬・規範が挙げられている(第5章)。その中でも威圧による訓育が大部分を占めることは、人間関係を築き上げる際に、暴力に頼る人間を作り上げてしまう。幼少期からほとんどこうした行動規範に慣れ親しむことで、兵士としての有能さが培われるかもしれない。しかし、戦争が終結した後の社会復帰の段階において軍事化された行動規範しか経験したことのない元子ども兵はまったく異なる世界に直面することになる。軍事的思考や行動規範が染み付いた状態から抜け出すことは容易ではなく、また多くの地域において社会復帰を支援する環境制度が十分ではないことを考えたとき、子ども兵とはポスト紛争社会の抱える問題が凝縮した形で可視化した問題だといえる。