constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

(中国)異質論の現在性

2008年04月29日 | nazor
3月の中国政府によるチベット暴動の弾圧は、人権侵害との非難や抗議を招き、奇しくも世界各地で行われる聖火リレーが中国のオリンピック開催資格を改めて問う格好の機会となり、各地で混乱を引き起こしている。オリンピックは、とりわけ1964年の東京や1988年のソウルのように、非ヨーロッパ地域で開催される場合、あえて帝国主義時代の言葉を使えば、国際社会において新たに登場した国家に対する「文明国基準 standard of civilization」という意味合いを持っている。

オリンピックを開催運営する上でそれなりの経済力が不可欠であることは、まさに経済成長の只中にあった1960年代の日本や1980年代の韓国、そして高い成長率を示し、グローバル資本にとって市場価値が増している現在の中国を見れば明らかであろう。しかし中国のオリンピック開催が世界各地で大きな注目を集め、その資格が問題視される背景には、冷戦が終焉した「長い21世紀」に特有の事情が作用している。すなわちあらゆる問題が東西対立の文脈に還元され、理解される傾向が強かった冷戦期と比較するならば、現代国際社会において人道主義あるいは民主主義が国家の正統性を証明する条件とみなされるようになり、人道的介入や人間の安全保障、あるいは「保護する責任」といった国家主権ならびに内政不干渉原則を相対化する新たな言説や規範が先進諸国を中心に拡がり、定着しつつある。このような国際社会の構成原理の転換をめぐる認識に関して先進諸国と中国との間の決定的なズレが、チベット暴動・弾圧ならびに聖火リレーに際しての混乱をもたらしたといえる。

現在の中国は現存国際社会にとって異質な存在であり、それゆえに脅威感を掻き立てる国家である。つまり民主政が統治体制の世界標準として(すくなくとも国際規範を作り出す力を持つ先進諸国を中心に)認知されている状況にあって、あくまで共産党体制の堅持を表明する点で中国は現存国際社会の構成規範から逸脱した存在である。おそらく統治体制の異質性だけでならば、多くの途上国を見れば明らかなようにそれほど問題とならないだろうが、国土の広さと人口の多さにおいてすでに大国の要件の一部を有しているうえに、改革・開放路線によって急速な経済発展を遂げている中国は、現存国際社会にとって決して無視し得ない存在となっている。経済的な魅力をもつ中国市場への参入およびそこからの利益に大きな期待が寄せられる一方で、冷戦後の国際社会において浸透・定着したルールや規範をいかに中国政府に理解・遵守させるかという問題が浮上する。同時に中国側から見れば、経済発展により国際社会において一定の地位を占めるだけの基盤を得たという(主観的)認識にもかかわらず、現存国際社会からそれに相応しい承認を得られない状況は心理学でいう認知的不協和を引き起こす。中国の政治指導層はこうした認識のズレを理解しているだろうが、それが国民一般にまで共有されているかといえばかなり怪しい面があり、むしろ愛国主義という名の過激なナショナリズムとして現出し、その扱いに苦慮する事態が生じているといえる。

したがって現在の中国問題は国際関係一般に見られる異質論の最新版とみなすことができる。1990年、高坂正堯は「国際関係における異質論」という論文を発表し、19世紀から20世紀にかけての世紀転換期に登場したドイツおよびアメリカについての異質論を考察した(『高坂正堯外交評論集――日本の進路と歴史の教訓』中央公論社, 1996年所収)。執筆の背景には「安全保障をアメリカに依存し経済発展に専心してきた日本こそ真の冷戦の勝者」とする見方が台頭し、1980年代のアメリカ覇権衰退論争ならびにチャルマーズ・ジョンソンに代表される「日本異質論」と共鳴しながら、冷戦終焉後の新たな脅威対象として日本の存在が浮上してくる状況があったことは明らかだろう。高坂は、異質性が問題とされる理由や時代背景を検討することで1990年代の国際関係への含意を引き出そうとする。高坂によれば「異質論は先発国が後発国の挑戦の重大性に気がつき始めるときに現れる」(292頁)。まず自国の優越的な立場が脅かされているのではないかという認識と、それに対する軽視ないし蔑視の反応を経て、つぎに後発国のルール破りすなわち「不公正競争」との批判が出てくる。さらに自国とは異質かつ強力なシステムの登場が認識されるとき異質論が現出するが、そのシステムを模倣あるいは採用することを躊躇う感情がいっそう異質論を強化する。高坂の言葉を借りれば「異質論は深刻なジレンマ、それ故、分裂的な感情によって特徴づけられる。強弱の差こそあれ、競争、とくにより大きな勢力を求めての競争がある以上、人間は対抗意識を燃やすし、それに負けないためには挑戦者の新しい、強力な方法を取り入れなくてはならない。しかし、そうすることは旧来の美徳を弱め、傷つける故に、容易ではない」(297頁)。

さらに付け加えれば、新たに台頭した国家をいかに既存の国際社会に包摂するかという問題は、レイモン・アロンやスタンリー・ホフマンがすでに論じているように、国際関係の性質とその安定性をめぐる問題と関連している(Raymond Aron, Peace & War: A Theory of International Relations, Transaction Publishers, 2003、仏語初版1962年刊行: Stanley Hoffmann, The State of War: Essays on the Theory and Practice of International Politics, Praeger, 1965)。すなわち国際社会を構成する国家体制が同質的であればその国際関係は平和的で、異質であれば不安定になり、戦争や革命が生じやすいという議論である。いうまでもなくそのポスト冷戦版は「民主主義の平和論」であるが、国際関係の安定と国内体制がどの程度関係しているのかをめぐっては議論の余地がある。共通の政策概念や価値を持った国家からなる国際社会において、ある一国の体制が革命によって打倒され、異なるイデオロギーや理念を掲げる体制が樹立されるとき、つまり同質性が失われ、国際社会が異質化するとき、革命国家を排除し、あるいは転覆する対抗運動は同質性を理由にして正当化される。国際秩序や平和の維持には共通の原理やイデオロギーに依拠した国内体制をもつ諸国がつくる同質的な国際社会が必要だという観念は、異質な国家に対する不寛容を助長し、同質化に向けた圧力が強まっていく。同質性の問題を動態的に捉えたとき、平和や安定との関係は正の相関を示すとは言いがたい。

このような同質性の観念の両義性を示す歴史的な事例のひとつが、1789年のフランス革命に対する干渉戦争であり、そして同質性の論理を明白に主張して干渉戦争を正当化したのがイギリスの思想家エドマンド・バークだった。バークは、キリスト教、ゲルマン・ローマ法の遺制、君主政、共通文化の点で同質的なヨーロッパ体制共同体(Commonwealth of Europe)という概念を持ち出し、ヨーロッパの同質性を革命フランスの異質性に対して対置する。しかし坂本義和が指摘するように、同質性の措定という文化的な論理の背後には権力政治の論理、すなわち異質なものを排除する力学が存在している(「国際政治における反革命思想――エドマンド・バーク」『坂本義和集(1)国際政治と保守思想』岩波書店, 2004年: 163-175頁)。したがって国際社会の同質性と異質性が平和や秩序と関連する程度は実際のところ経験的に確定した議論とはいえない。その意味でヘドリー・ブルの指摘は重要な示唆を含んでいる。つまり「イデオロギー上同質的な主権国家システムが、単一のイデオロギーにもとづいて、イデオロギー衝突を発生させないゆえに、より秩序だっているであろうという考え方は、そのような主権国家システムが、その拠って立つ特定のイデオロギーが国家間の利益衝突を逓減・除去するゆえに、より秩序だっているであろうという考え方とは区別すべきである。後者の考え方は、問題とされるイデオロギーがどのようなものであれ、なんらかの強力な異議にさらされる可能性がある」(『国際社会論――アナーキカル・ソサイエティ』岩波書店, 2000年: 295頁)。

異質な政治体制を持ち、急速に発展する国家である中国とどのような関係を築くべきかが現代日本(外交)にとって重要な政策課題であることは明らかであろう。その地理的および文化的近接性ゆえに中国と関係を持たざるをえない状況におかれているものの、いわゆる「西洋の衝撃」による東アジアの国際関係の転換以降、日本は、対等な相手として中国と向き合う経験を欠いてきた。すなわち「明治以来日本人が接してきた中国は、弱く、分裂し、混乱していた。だから、われわれは強大で、尊大なまでに自己主張をおこなう中国を身をもって体験していないのである」(高坂正堯『海洋国家日本の構想』中央公論新社, 2008年: 117-118頁)。日本がヨーロッパ国際社会の一員として参画した19世紀後半の中国はヨーロッパ列強の帝国主義が展開される「草刈場」であり、そこに対等な外交関係を切り結ぶだけの主体としての中国を見出すことができなかった。また戦後もアメリカの対中政策に大きく規定されることによって、国共内戦を経て成立した北京政府と国交を結ぶことなく、1970年代まで「外交不在」の状態が続いた。日中国交回復の時期がちょうど中国の改革・開放路線の開始と軌を一にしていることは、日本の対中外交が大国としてのアイデンティティを意識し始めた中国を対象としなくてはならないことを意味し、また経済的グローバリゼーションの影響も加味されて、いわば外交の不在から外交の過剰(あるいは外交の内政化)へと関係水準が一気に上昇し、その運営においてはすぐれて高度な政治外交手腕が求められる。他方で中国の(経済的)台頭とバブル崩壊の後遺症による日本の低迷が重なったこともあり、まさに中国脅威論に典型的に見られる「異質論」が反中ナショナリズムとなって顕在化している。

あらためて高坂の言葉を引くならば、「こうした異質論の登場は奇妙な現象である。というのは、通常は国際社会を構成する諸国はそれぞれに異なることが自明とされている。外交を学ぶものが諸国家の政治の特質や外交の民族的特性を学ぶべきであるとされるのは、そのことを示している。そうした相違をこえて国際社会を運営するのが外交の任務と考えられているのである」(「国際関係における異質論」: 282頁)。外交の役割を問い直し、新しい外交の姿を追求することが求められている理由の一端をここに看取できる。
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冷戦史(研究)の「旧さ」と「新しさ」

2008年04月26日 | nazor

かつてE・H・カーは『危機の20年』で平和的変革(peaceful change)、すなわち「国際政治において、そのような[平和的]変革を戦争によらないでいかに実現するか」について検討を加えた(『危機の20年 1919-1939』岩波書店, 1996年: 378頁)。そして「平和的変革の諸方法を確立することは…国際道義と国際政治との基本問題である」(398-399頁)と指摘し、力と道義の妥協ないし折衷にもとづく平和的変革のあり方を探求した。平和的変革の問題は、第二次大戦前夜の緊迫した状況下に生きたカーにとって、一章分を割いて考察するだけの価値がある課題であった。しかしながら第二次大戦後の世界が冷戦に移行するにしたがって、力の役割を重視する現実主義の古典としてカーの『危機の20年』が受容される一方、カーの言う平和的変革が宥和政策と同義であった点も影響して、米ソの厳しい対立状況である冷戦において、交渉や妥協を伴う平和的変革は現実的な選択肢とは認識されず、真剣に考慮されることは皆無であった。

その平和的変革に改めて注目を向けさせたのが1989年の東欧諸国における共産党体制の雪崩式崩壊現象である。ルーマニアを除いて体制転換が非暴力的かつ民主的に成し遂げられたことは、まさしくカーが言うところの戦争によらない変革の実現であった。もし冷戦の終焉から導き出される教訓を挙げるとするならば、それは、平和的変革が現実的に達成可能であり、新たな秩序の構築の要件として戦争が必ずしも不可欠ではないことが明らかになったことであろう。しかし冷戦後の「名もなき90年代」を通して冷戦の終焉をめぐって、とくにアメリカ国内において平和的変革ではなく力による平和によって冷戦が終わったという解釈が支配的になっていく。つまり「1988年以前には冷戦に勝ったという解釈はまれであり、冷戦は『終わる』存在として考えられていたのに対し、90年以後、ことに91年の後は、冷戦はただ終わるのではなく、ソ連側に勝つという、勝利の問題に変わって」しまったのである(藤原帰一「冷戦の終わり方――合意による平和から力の平和へ」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(6)機能と変容』東京大学出版会, 1998年: 275頁)。こうして平和的変革としての冷戦の終焉という見方は次第に後景に退いていき、代わって冷戦の勝利を謳う言説が拡がっていった。

現象として終焉したとされる冷戦(的思考)が言説上では依然として強い魅力を放っていることは、2001年のアメリカ同時多発テロ、およびブッシュ政権が主導する対テロ戦争に際して飛び交う「文明/野蛮」的な二分法の世界観が、1947年のトルーマン・ドクトリンを容易に想起させることからも明らかである。そして2003年のイラク戦争の目的がフセイン政権の打倒、つまり体制転換にあったことはいまや公然の事実であるが、力の行使による体制転換が政策として現実的だと認識された背景にはアメリカの勝利と解釈される冷戦の終焉観から導かれた教訓が存在することは想像に難くない。したがって「冷戦、そして冷戦の終焉をめぐる歴史認識が、現在のアメリカ外交に与えている影響は小さくない」ことを考えると(西崎文子「ポスト冷戦とアメリカ――『勝利』言説の中で」紀平英作・油井大三郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境(5)グローバリゼーションと帝国』ミネルヴァ書房, 2006年: 288頁)、「冷戦とは何だったのか」という問いは、「冷戦がどのように理解されているのか」という問いと切り離せない。とりわけ「歴史として」冷戦を叙述することが可能になったポスト冷戦状況にあって、冷戦史研究は、実証面で著しい進捗が見られる一方で、「理論的争点自体にはほとんど無知に等しい状態」と評されるように(フレッド・ハリディ『国際関係論再考――新たなパラダイム構築をめざして』ミネルヴァ書房, 1997年: 240頁)、その理論的・概念的位相に関しては十分な考察がなされているとは言い難く、旧来の冷戦像を再確認ないし再生産する点で新しさというよりもむしろ旧さを感じさせる。カーの言葉に準えれば、冷戦史もまた「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』岩波書店, 1962年: 40頁)としての歴史の一例であるとすれば、冷戦をめぐる問いはすぐれて今日的意味を持っているといってよいだろう。

1989-91年にかけてソ連ブロックの崩壊は現実の国際関係に限らず、学問の世界においてもさまざまな衝撃を与えた。とりわけ旧共産圏の公文書が相次いで解禁されたことによって、アメリカ外交から見た冷戦像に偏重していた観のある既存の冷戦史研究に決定的な転機がもたらされた。いわゆる「新しい冷戦史」と呼ばれる研究の潮流が登場し、従来の冷戦像に対して大幅な修正を迫っている。 その特徴は、次の3点にまとめることができるだろう。

第1に解禁された公文書を駆使してソ連やその衛星国、および中国やキューバなどの政策決定や国家行動の要因を分析することによって、鉄のカーテンの向こう側からみた冷戦およびその内部で繰り広げられた同盟政治の実情が明らかにされた点にある。それまで推測の域に留まっていた仮説や主張を公開史料と照らし合わせる作業は、冷戦史研究の実証性における飛躍的な向上をもたらすとともに、冷戦の双方の当事者を包括する全体構図を把握することができるようになった。換言すれば、史料の「新しさ」による冷戦史の書き換えが進んでいる点に求められる。

第2の特徴として、「冷戦史=アメリカ外交史」ともいうべきアメリカ中心史観が支配的であった従来の研究と比較した場合、視点や対象が大幅に拡大された点が指摘できる。冷戦期でもイギリスやフランスなど西欧諸国の視点を取り込んだ研究が1970年代後半から出てきていたが、冷戦の終焉はこうした流れをさらに推し進め、マルチ・アーカイブによる国際関係史あるいはグローバル・ヒストリーとして冷戦を捉えなおす地平を切り開いた(田中孝彦「冷戦史研究の再検討――グローバル・ヒストリーの構築にむけて」『変動期における法と国際関係――一橋大学法学部創立50周年記念論文集』有斐閣, 2001年)。たとえば、アジア地域における冷戦の現出・展開・終結についてみると、グローバルレベルにおける米ソ冷戦や、ヨーロッパの地域冷戦とどこまで共通性・関連性をもち、どれくらい独自の冷戦ゲームが繰り広げられたのか、つまり「米ソ以外の地域を含めた冷戦期の国際秩序をどこまで米ソ間の権力政治に還元」できるのかという問題が重要視されるようになり(藤原帰一「アジア冷戦の国際政治構造――中心・前哨・周辺」東京大学社会科学研究所編『現代日本社会(7)国際化』東京大学出版会, 1992年: 328頁)、地域的な差異を視野に入れた多層的な冷戦像が提示されている。また軍事戦略面に偏っていた冷戦史に加えて、経済史や社会史の観点を取り込んだ研究も現れ、国際関係だけでなく国内社会を貫くトランスナショナルな性格が分析の射程に組み込まれるようになっている。とりわけ文化論として冷戦を考察ないし把握するアプローチは、次に取り上げるイデオロギーや理念の役割を重視する潮流と大きく共鳴する流れといえるだろう。

米ソ両国による直接の軍事衝突ではなく、むしろ互いの信条体系の衝突であったところに冷戦の特質がある。すなわち、理念や価値の伝達・浸透が重要な抗争手段であった意味で「理念をめぐる戦争 war of ideas」として冷戦を理解する視座が第3の特徴である。国際関係学(IR)における(ネオ)リアリズムの興隆と歩調をあわせるように、国益や安全保障を重視する一方、イデオロギーや信条といった観念的要素に副次的な意味しか見出さなかった1980年代の研究動向とは対照的に、解禁された公文書の調査・読解を通して、政策決定、とりわけスターリンや毛沢東など東側諸国のそれにおいてイデオロギーが果たした役割に対して関心が高まり、冷戦史を叙述する上で重要な争点とみなされるようになった。

さて「新しい冷戦史」を象徴する研究としてまず思い浮かぶのが、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦――力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会, 2004年)である。冷戦史研究におけるポスト修正学派の代表格として学界を牽引してきたギャディスは、ソ連/スターリンの対外行動におけるイデオロギーの役割とその重要性を再確認し、米ソがともに冷戦帝国(Cold War Empire)という点で共通性を持っていたと指摘する。また冷戦帝国を規定する秩序原理および行動様式の違い、すなわち同盟内政治において民主主義が優れた運営能力を示す一方で、ロマン主義に彩られた権威主義支配の硬直性が冷戦の最終的な帰結を左右したと論じる。また誰が冷戦を始めたのかという責任論について、「スターリンがソ連を統治する限り、冷戦は不可避であった」(475頁、強調原文)という結論を提示した。この立場は冷戦の終結までカバーした『冷戦――その歴史と問題点』(彩流社, 2007年)にも受け継がれていることからも明らかなように、善悪の対決として冷戦を描くことにギャディスの冷戦論の特質がある。

ギャディスの研究は、旧東側公文書の第一次解禁ブームから生まれた研究を総括するものであったが、冷戦の本質をソ連/スターリンの存在や世界観に帰する結論自体に目新しさを看取できない。むしろこれまでギャディスが表明してきたポスト修正主義の立場から後退し、冷戦の責任をソ連に課す正統学派へ回帰したといえる。あるいは1970年代に、イデオロギーに囚われない、一次史料の解釈に基づき、正統学派および修正主義学派の一方通行的な論争状況の止揚を意図したのがポスト修正主義であったが、当初からその一見「中立的」な姿勢は、基本的な点において正統学派の主張を公文書によって客観的な装いに包んだ「正統学派プラス公文書 orthodox plus archives」にすぎないのではないかと揶揄されていた。そして「今や知っている」立場から冷戦期を省みれば、一方の当事者であるソ連(とそのブロック)の解体という結末によって、アメリカの冷戦政策、とくにその基軸となった封じ込め戦略の有効性が証明されたと解釈することは正統学派の主張と共鳴し、説得力を持って違和感なく受け止められる素地があるところに、冷戦史研究の「権威」ギャディスがお墨付きを与えた形となったといえる。

こうしたギャディスの主張は多くの研究者によって批判の的となっている。たとえば、冷戦史研究においてギャディスと双璧をなすメルヴィン・レフラーは、その書評論文で、「冷戦後に冷戦を著す際に、われわれはその終焉を起源および進展と混同してはならない」と論じ、「ギャディスの『歴史としての冷戦』は、われわれ同時代の文化に行き渡る勝利主義と共鳴し、そして多くの点でそれはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』と対の関係にある学術的な外交研究である」と指摘する(Melvyn P. Leffler, "The Cold War: What Do 'We Now Know'?," American Historical Review, vol. 104, no. 2, 1999: 523-524)。またアンデルス・ステファンソンによれば、ギャディスの『歴史としての冷戦』は「新しい事実に関する著作ではなく、イデオロギーに関するイデオロギー的な著作であり、善と悪の抗争としての冷戦というお馴染みの叙述を復唱し、…善と悪の相対立する原理および1950年代の正統学派を再発明する」ものだと批判する(Anders Stephanson, "Rethinking Cold War History," Review of International Studies, vol. 24, no. 1, 1998: 121-122)。いずれも結末から逆算して叙述する、いわゆる「転倒した経路依存」をギャディスの冷戦論に見出す点で共通している。さらにソ連外交史家のジョナサン・ハスラムは、スターリンという一個人に冷戦を還元するギャディスの見方を問題視する。すなわちスターリンの外交政策をその国内政策の単なる延長と捉えるギャディスの立場は、国内政治と国際政治の質的な差異(集権的/分権的)を軽視しているため、1930年代および第二次大戦中の協調的なスターリン外交がなぜ可能となったのかを説明できないと批判し、また主に回顧録を中心にソ連側の史料を一瞥しただけでも、ギャディスのようにスターリンをロマン主義の革命家とみなすことは問題だと指摘する(Jonathan Haslam, "The Cold War as History," Annual Review of Political Science, vol. 6, 2003)。

たしかに「冷戦史=アメリカ外交史」という従来の学問的特徴を考えると、ソ連をはじめとする東側諸国や途上国の視点を取り入れることによって多面的な冷戦像が提示されることは歓迎すべき傾向である。しかし「歴史として」冷戦を叙述するとき、またソ連ブロックの解体という「一方だけの崩壊」、つまり共産党体制の崩壊とソ連解体の共時性に象徴される冷戦の終焉自体をめぐって、実証/理論面で活発な論争が巻き起こっていることを視野に入れた場合、ギャディスの研究に見られる傾向は言外に冷戦をアメリカの「成功した勝利の物語」として描き出す可能性を潜在させているように思われる。別言すれば、イデオロギーの役割が重要だとされるとき、それは主に共産主義を指し、ジュニア・パートナーの代表格として毛沢東、カストロ、金日成の行動や思想が取り上げられることは、暗黙裡にある特定の冷戦像を浮かび上がらせる。その冷戦像は、繰り返して言うならば、事実関係において詳細を極める一方で、冷戦という事象の把握や解釈の点で旧来の視座を再考するよりもそれを無批判に受容・補強する傾向が強い。

「冷戦とは何だったのか」および「冷戦はどのように終焉したのか」をめぐる解釈の変化は、過去についての歴史研究に属する問題に留まらず、現代世界の行末を左右する超領域的な権力主体であるアメリカの外交政策と関連している実践的な問題である。「それ[冷戦]に代わる新秩序の樹立ではなく、それまでの封じ込め政策と、武力行使の正当性を確認する、旧秩序の勝利として終わった」(藤原「冷戦の終わり方」: 301頁)という冷戦の終焉認識は、独裁者や侵略者に対して有効な手段は対話や交渉ではなく、武力の行使であるという教訓に正当性を付与する役割を担う。グローバリゼーションによって情報の伝達量や速度が飛躍的に高まる一方で、多くの情報はすぐに消費期限を迎え、忘却の穴に捨てられていく。高速化していく「長い21世紀」の世界で生じる速度と忘却の弁証法を通して、複数形の「過去」から単数形の「現在」が作り出されていく。冷戦(の終焉)をめぐる認識もまた速度と忘却による縮減過程で「アメリカの勝利」という物語に沿った形で整序され、繰り返し叙述されることによって、共有された記憶ならびに学知となる。このことは、反対に冷戦を叙述する行為はその意味内容を書き換える可能性がつねに残された開かれた過程であることを意味している。圧倒的な量の史資料と向き合うと同時にそれらに向けられる眼差しをめぐる問いが「新しい冷戦史」研究において要請されているといえるだろう。

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一日天下?

2008年04月04日 | hrat
楽天7連勝!4年目初の単独首位だ(『スポーツニッポン』)
無敵すぎてどーもすいません!楽天4年目で初の単独首位(『サンケイスポーツ』)
楽天7連勝初単独首位「負ける訳ないな」(『日刊スポーツ』)
楽天首位!山崎武連発、通算300&301号(『デイリースポーツ』)
楽天7連勝4年目ついに初首位!ノムさん「どーもすいません」(『スポーツ報知』)

開幕4連敗でこのまま借金生活が続くかに見えたが、そこから一気に7連勝で貯金生活に突入し、ついでにソフトバンクに代わって単独首位に躍り出た楽天。4連敗したといっても、先発陣は(一場を除けば)安定した投球内容でその責任を果たしていたし、打線もフェルナンデス(18打点)と山崎(9打点)ら中軸をはじめ好調である点を考えると、シーズン前から不安視されていたリリーフ陣も青山がなんとか使える目処が立ったこともあって、7連勝という結果もたんなる偶然と一蹴できないだろう。

しかし3連勝ないし4連勝あたりで単独首位に立ったのであれば、勢いに乗じてしばしその余韻に浸れることもできるだろうが、そろそろ好調の波が下降局面に入りそうな時期なだけに「一日天下」となってしまうこともありえる。
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空虚なヨーロッパとその構成的外部

2008年04月02日 | nazor
第二次世界大戦後、米ソ対立の激化に伴って、ヨーロッパは、一方でアメリカ合衆国との明示的・黙示的同盟関係に組み込まれた「西欧」と、他方でソ連の影響下で共産党体制を布いた「東欧」に二分された。あらゆる側面において政治・経済・社会体制の対照性をもつ国家およびそれら諸国の集合体(ブロック)同士が厳しい対立関係にある場所として戦後の歴史空間に登場してきた。しかしながら分断された戦後のヨーロッパ認識は等分に「ヨーロッパ的なるもの/ヨーロッパ性」を差配するのではなく、「西欧」がほぼ排他的にヨーロッパの名称を語ることに一定の正当性を与えた。それゆえ共産党体制崩壊後のポスト共産主義政治は「ヨーロッパへの回帰」を軸に展開し、EUあるいはNATOといったヨーロッパ地域機構への加盟をめぐる競争がポスト共産主義諸国の国内政治を規定した。EU加盟基準をクリアするために国内の法体系や経済システムを改革することが「ヨーロッパ化」と呼ばれるように、戦後共産党体制下にあった「東欧」は、ヨーロッパ未満の地域、あるいはこれからヨーロッパ的な理念や制度が浸透していく未開拓の地域と措定される。その意味でヨーロッパの拡大過程は、民主主義や法の支配、あるいは市場経済といった普遍的な理念を掲げつつ、それら理念が投企される対象を規律化する「眼差しの政治」の要素を色濃く帯びていることは明らかである。

こうして「東欧」を非ヨーロッパ化したうえで、「西欧」を参照基準として再ヨーロッパ化する形でヨーロッパ統合・拡大が進展している。それは、事実上西ドイツが東ドイツを吸収合併することで達成されたドイツ統一をヨーロッパ規模で実施しているとみなすこともできるだろうし、また時間軸を大きく拡げるならば、16-17世紀に成立した主権国家体制と資本主義経済を両輪とする「ヨーロッパ近代」の拡大が、20世紀後半の冷戦体制によって一時的な停止を余儀なくされたものの、再始動しているともいえる。したがって現在のヨーロッパ統合・拡大の論理にかつての帝国主義/植民地主義的な匂いを嗅ぎ取ることはそれほど困難ではない。とはいえ、かつての帝国主義/植民地主義的実践が再び繰り返されているとみることはいささか短絡的な理解であろう。

帝国主義/植民地主義が負のイメージで語られ、人民の自決権に普遍的で正当な規範として認められているポスト帝国主義/植民地主義時代における統治理性は、その帝国性を考慮するならば、鈴木一人が論じる「規制帝国」として把握されるべきものである(「『規制帝国』としてのEU――ポスト国民帝国時代の帝国」山下範久編『帝国論』講談社, 2006年)。鈴木によれば、「規制帝国」は、市場活動などに関する規制を外部に位置する諸国に受け入れさせる際に、規制を普遍的な規範として提示することによって、物理的な権力を直接行使することなく、むしろ規制を受ける側の自発性を前提としている意味で(47-51頁)、帝国(主義)に纏わりつく暴力性の位相は限りなく不可視化されている。

しかし「規制帝国」の慈悲が及ぶ範囲は、ヨーロッパへの同一化を希求する地域に限定される。換言すれば、ヨーロッパという地域的に領域化された制約のため、ヨーロッパにおいて成立した「規制帝国」は局所的なものにとどまり、普遍性を獲得することに困難を抱えている。再び鈴木の議論を引くならば「ユーラシア大陸の西端と北アフリカ大陸北部に限定された『地域帝国』として存在するしかない」(71頁)とすれば、ヨーロッパの範囲、ならびに外部との間に引かれるべき境界線の問題について最終的な着地点を定めておくことが求められる。そのとき重要な論点となるのがロシアの扱いであることは間違いないだろう。

たしかにヨーロッパ統合・拡大をめぐる議論において、すでにNATO加盟国であるトルコの扱いも重要な論点であることは明らかであるが、すくなくとも世俗化されているとはいえイスラーム文化圏の影響が色濃いトルコは、英国学派のジャーゴンに従えば、ヨーロッパ「国際社会」の構成主体ではなく、「国際システム」次元において関係を切り結んでいたに過ぎない。他方で、ロシアの場合、正教圏に属している点でヨーロッパ性の暗黙の指標であるところのキリスト教共同体と深いつながりがあり、また18世紀後半以降、勢力均衡を担う主要な大国として認知されていたことが示すように、ヨーロッパ「国際社会」を支える価値や制度を共有していた。その意味で、ロシアの「ヨーロッパ性」を完全に否定することは困難であり、まさしく境界線上に位置するロシアの存在はヨーロッパにとっても、また当のロシアにとっても安定したアイデンティティを保証するものではなく、つねにアイデンティティ危機を招来するアポリアだといえよう。

ロシア国内では、19世紀における「西欧派/スラブ派」の思想潮流が存在し、ソ連解体後には「大西洋主義/ユーラシア主義」として再定式化され、とりわけエリツィン政権時代には外交政策上の重要な論争点となったことはよく知られている(伊東孝之「ロシア外交のスペクトラム――自己認識と世界認識のあいだで」伊東孝之・林忠行編『ポスト冷戦時代のロシア外交』有信堂高文社, 1995年参照)。他方でロシアの「ヨーロッパ性」に対する懐疑が先鋭的に現出するのが、「ヨーロッパをめぐる言説は、ヨーロッパの中心においてより、その周縁でもっとも活発に生産される」と述べられるように(篠原琢「地域概念の構築性――中央ヨーロッパ論の構造」家田修編『講座スラブ・ユーラシア学(1)開かれた地域研究へ――中域圏と地球化』講談社, 2008年: 139頁)、ロシアと境界を接し、またその統治下にあった歴史を有する中央ヨーロッパである。共産党体制下の東欧諸国における反体制運動が提起した重要な概念・理念のひとつである「中央ヨーロッパ」論がヨーロッパの構成的外部としてのロシアを抜きにして成立しないことはその端的な例である。

たとえば、「中央ヨーロッパ」論の代表的な論考である「誘拐された西欧――あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(『ユリイカ』304号, 1991年)におけるミラン・クンデラの議論は、中央ヨーロッパの特質を抽出するに当たって、まずロシアとの差異を浮き彫りにし、そこに絶対的な断絶が存在することを指摘する。すなわち「もともと画一的なロシア、さらに一切を画一化し、中央集権化していこうとするロシアほど、中央ヨーロッパと、その多様性への情熱に無縁なものはなかった」(66頁)、あるいは「反西欧としてのロシアが、他のどこよりも強く感じられるのは、西欧の東の辺境においてである」(66頁)、さらに「ロシア全体主義の文明は、近代初頭に誕生したところの西欧――思考し、懐疑する自我を基盤とし、この独自で比類のない自我の表現としての文化的創造を特徴とする西欧近代の、ラディカルな否定」(76頁)と述べられているように、ロシアは中央ヨーロッパとは異質な、相反する文明圏として把握されている。クンデラによれば、冷戦期のソ連の東欧支配とは、中央ヨーロッパという「最小限の空間に最大限の多様性」に対するロシアという「最大限の空間に最小限の多様性」の支配であり、それは中央ヨーロッパにとってまさに悲劇であった。そしてロシア(ソ連)への抵抗が意味するのが「そのアイデンティティを擁護すること、つまりはその西欧性を擁護すること」(67-68頁)である点で、論考のタイトルに示唆するように中央ヨーロッパは「誘拐された西欧」なのである。

しかしながら、ロシアを徹底的に他者化し、中央ヨーロッパを西欧と等置するだけでなく、西欧の「ヨーロッパ性」の内実に批判的な眼差しを向けるところにクンデラの議論の特徴が垣間見れる。すなわち中央ヨーロッパの悲劇のもうひとつの本質は中央ヨーロッパが西欧の地図から消滅してしまったことにある。「ひとつの国家ではなく、ひとつの文化、あるいはひとつの運命」(69-70頁)であると言われるようにクンデラは中央ヨーロッパを文化(論)の位相で理解する。そしてヨーロッパ(近代)史において統一性を担保してきた「至高の価値が実現される領域」(75頁)としての文化が保持されてきたのが中央ヨーロッパであり、ロシアによる中央ヨーロッパの支配はそうした文化空間の縮小および消滅を意味した。それにもかかわらず、「ヨーロッパ性」を象徴する文化、そしてその文化が花開く空間であるところの中央ヨーロッパの存在ないしその消滅が西欧によって認識されることなく、忘却されてしまったことは、「ヨーロッパそのものが、もはや文化的に一体のものとして、自分の統一性を感じなくなっていたか」(73頁)を物語っている。ヨーロッパの存在理由ともいうべき文化的統一性の喪失に加えて、担い手である西欧がその喪失を自覚できない意味で、それは二重の悲劇といえよう。つまりクンデラの言う「中央ヨーロッパの悲劇」とは、ロシアによって「誘拐された西欧」であることばかりでなく、文化を共有しているはずの「西欧」が誘拐された事実、さらにいえばそもそも誘拐されたのが「西欧」であることすら理解できないことだといえるだろう。

ヨーロッパ分断状況に基づく冷戦構造への異議申し立てとして提起された「中央ヨーロッパ」論は、ロシア/ソ連の全体主義を拒絶するだけでなく、西欧の資本主義イデオロギーがもたらす負の側面に対する批判をも内包していた。しかしながらポスト共産主義の政治過程およびその展開を外部から規定するヨーロッパ統合・拡大過程において、「中央ヨーロッパ」論者がその「ヨーロッパ性」を託した寛容・民主主義・多様性といった政治的価値は、経済的価値に従属し、新自由主義的な市場経済に基づく制度構築が優先的な課題とされた。西欧と東欧に二分された歴史空間としての戦後ヨーロッパの自明性に疑問を突きつけた「中央ヨーロッパ」論は、その批判力に比して、ポスト冷戦時代のヨーロッパ再編に向けた政策理念・制度構想として十分に結晶化されずに後景化してしまう。それに代わって「中央ヨーロッパ」論が批判した西欧によってヨーロッパの表象が独占的に所有され、それを基準とした新たなヨーロッパの歴史空間形成が21世紀のヨーロッパ国際関係の基軸となっている。ヨーロッパ統合、とりわけその拡大過程が臨界点に達しようとしている現在、その「ヨーロッパ性」の内実が改めて問われている。
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