constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

文化戦争@図書館

2006年07月31日 | knihovna
有川浩『図書館戦争』(メディアワークス, 2006年)

図書館とメディア良化委員会との武装対立が日常化した正化31年の日本を舞台に、図書館特殊部隊に配属された笠原郁を主人公にした小説である。著者が「あとがき」で「今回のコンセプトは、月9連ドラ風で一発GO!」と述べているように、また著者がライトノベル畑で主に活躍しているということもあって、小説世界の醸し出す雰囲気はそれほど重苦しいものではない。むしろ高校時代に遭遇した運命的な邂逅が原体験になって、図書館防衛隊を志した笠原郁の「暴走」ぶりと、それに振り回される教官や同僚たちというキャラ設定やストーリーの展開はそれこそ「月9」を構成する要素を最大公約数的に抽出したものになっている。

しかし小説の基盤を成す正化31年の日本に、メディア規制法が政治課題として論議され、公論空間の硬直化が進む平成18年の日本を重ね合わせ、そこから何らかの思想的/政治的含意を汲み取ろうとする「読み方」をさせるだけのアクチュアリティが本書にはある。本書の世界像を形作る際に重要な源泉となっているのが「図書館の自由に関する宣言」、恣意的な公権力の行使に対して、思想・信条の自由といった基本的自由権の擁護を宣言するものであることは、図書館という空間あるいは制度に自由主義/共和主義の思想が反映されていると理解することができ、またこのような思想史的文脈に位置づけてみた場合、図書館が武装するという設定もそれほど突飛な発想ではなく、共和主義の伝統であるところの自己武装権の現れとしてみるべきかもしれない。

国際的な冷戦体制が終わろうとしていた1980年代、アメリカ国内で繰り広げられた「文化戦争」は国内冷戦の継続と捉えることができる。マイノリティの排除に依拠した建国というアメリカの「原罪」を告発する動きが先鋭的に顕在化したのが歴史教科書の記述であり、「アイデンティティの政治」およびその政策的産物である多文化主義をめぐる論争が活発化した。「文化戦争」を構成する戦線は多方面に築かれていくとともに、相争う陣営の主張が過激化・硬直化し、その貫徹のために暴力が行使されるまでに至っている(中絶反対派による中絶クリニックの爆破などはその典型である)。

「文化戦争」と形容できるような状況は日本でも看取されるようになっている。アメリカ版「文化戦争」の下地に1970年代の「アメリカ衰退」という国家/国民的アイデンディティ危機があったように、日本版「文化戦争」の前段階として1990年代の、バブル崩壊に起因するいわゆる「失われた10年」を位置づけることはあながち間違いではないだろう。「去勢された」戦後日本の国家/国民意識の支えとなっていた経済成長主義があっけなく打ち砕かれたことは、国論を二分するような対立状況を弁証的に止揚する理念の喪失を意味した。「新しい歴史教科書」やジェンダーフリー論争、あるいは嫌中・嫌韓がクローズアップされ、政治的意味空間において一定の基盤を持つようになる。その主張の多くがマルクス主義/共産主義の陰謀論と変わらず、冷戦的性格から一歩も出ていない点もまた「文化戦争」と形容する理由のひとつである。

「新しい歴史教科書をつくる会」関係者の書籍が廃棄された、いわゆる船橋市西図書館蔵書破棄事件や、福井県でジェンダー関係の図書が撤去された事件(「福井の図書一時撤去問題、書名公開求め提訴へ」『朝日新聞』7月27日)に象徴されるように、自分の思想信条と相容れない主張や解釈を提示する媒体としての書籍が収集・所蔵され、一般市民が自由に借りることを制度化した公共図書館は、当然のことながら「文化戦争」の当事者双方にとって敵を利する思想および書籍が野放しになっている空間と映り、そうした状況の「改善」が戦略目標となる意味で、まさしく戦場と形容するのが相応しい。

イデオロギー的な左右を問わず、共通する病理である善悪や正邪という価値判断に対する盲信、すなわち原理主義がテロなどの暴力行為も辞さないとき、思想・信条・表現の自由を擁護する立場にある者はどのような対応を取るべきだろうか。絶対平和主義の立場からすれば、図書館自体が武装するという選択肢がありえないことだろうが、そもそも「市民と武器の問題は、国家権力と市民の自由という、政治の問題と深くかかわっている」とすれば(村川堅太郎「市民と武器」: 藤木久志『刀狩り――武器を封印した民衆』岩波書店, 2005年: 13頁より再引用)、図書館の自由を守るために武装する決定(そして著者の発想)はすぐれて思想史的な意味を持っている。かつて丸山眞男が、アメリカ憲法修正第2条に含まれた精神、つまり人民の自己武装権に触れ、「ここで一つ思い切って、全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世帯主の責任において管理することにしたら・・・」と提案した真意は、「どんな権力や暴力にたいしても自分の自然権を行使する用意があるという心構え」の涵養にあったことを想起させる(「拳銃を・・・・・・」『丸山眞男集(8)1959-1960』岩波書店, 2003年: ただし秀吉の刀狩りによって非武装化された日本人という丸山の認識に関しては、藤木久志が疑義を呈している)。

たしかに小熊英二が指摘するように(『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制 』慶應義塾大学出版会, 2004年)、自己武装権というアメリカ憲法修正2条に込められた「自由の象徴」という精神は総力戦を経験した現代にあって死文化しており、むしろ全米ライフル協会(NRA)のような団体の既得権益を正当化する根拠となるとともに、その精神が成立しえる条件が存在しない意味で「時代錯誤」となっている(アメリカにおける自己武装権をめぐる歴史的背景や議論については、斎藤眞『アメリカ革命史研究――自由と統合』東京大学出版会, 1992年: 10章、および富井幸雄『共和主義・民兵・銃規制――合衆国憲法修正第二条の読み方』昭和堂, 2002年を参照)。したがって自己武装権を歴史的な文脈を無視して持ち出すことには注意が必要である。しかしながら、「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さないという思想から発しており、同時に国家への異議申し立て能力を確保するという側面」(小熊: 51頁)をもつ自己武装権の思想そのものに注目するならば、自由の根幹である生存が脅かされる状況に遭遇したときに抵抗手段として行使される暴力は、すでに過剰な権力資源を有する政府などの主体が行使する暴力と区別されるべきだろう。

その意味で、抗争を繰り広げるメディア良化委員会の執行組織である良化特務機関と図書館防衛隊の組織的形態の違いが武装や戦略の意味に影響を与えている点は興味深い。法務省管轄下にあるメディア良化委員会の予算は潤沢であり、その装備レベルも高いのとは対照的に、公共図書館は各地方公共団体によって運営されている分権的組織であるために、予算上の制約に縛られ、武装化の程度も見劣りすることは両者の関係に非対称性を帯びさせる。それゆえに図書館防衛隊の基本方針は専守防衛であり、圧倒的な火力を誇る良化委員会に対して防戦一方にならざるをえない状況が小説のクライマクスを飾る「情報歴史資料館」をめぐる攻防戦において描写されている。図書館防衛隊の暴力とはあくまでも「抵抗の暴力」なのである。

とはいえ、自己武装権の理念が「対話の技術やモラルを伴わない暴力を解放し、…無意味な殺し合いを生み出した」(小熊: 60頁)限界を抱えていたことを考慮に入れたとき、図書館防衛隊の行使する暴力をめぐっても、どの程度まで武装化するべきなのかという問題が生じてくる。小説世界において、図書館が武装化する契機となったのが正化11年の「日野の悪夢」と呼ばれる事件である。メディア良化委員会と通じた政治結社による襲撃と、この事態を傍観した警察に対する不信が図書館の使命を擁護するために武器を取ることを選択させた。しかしこうした武装路線が図書館関係者の総意というわけではなく、内部で原理派と行政派の路線闘争が存在することが指摘されている。おそらくこの点は、続編となる『図書館内乱』において主要テーマとして語られることであろう。
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解けない方程式

2006年07月27日 | hrat
楽天はサヨナラ負け…ノムさんガックリ“鬼門”で6連敗(『サンケイスポーツ』)

終盤に追いつかれたものの、9回に勝ち越して、福盛投入という勝ちパターンを作りながら、その福盛が誤算となり、後半戦の初戦を落とした楽天。これまで完璧なまでのリリーフを見せていた福盛もさすがに疲れが出てくる時期に入ったのか、セーブがつく場面での登板では、7月11日のソフトバンク戦に続いて失点する状態。

これで7月の成績は2勝10敗。勝ち越した6月は遠い記憶の彼方に沈んでいってしまったようだ。一時期オールスター明けの一軍合流が噂された岩隈の復帰も未定の中(「野村監督、岩隈『まだ無理』…4カ月ぶり視察も昇格見送り」『サンケイスポーツ』7月25日)、厳しい戦いが強いられる状況が続く。
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持続する「神の国」

2006年07月22日 | nazor
A級戦犯合祀に対する昭和天皇の不快感を記したメモが公表され、『朝日新聞』など参拝反対派は勢いづく一方で、『産経新聞』に代表される参拝賛成派は発言の含意をなるべく限定しようとする構図は、従来の皇室に対する両派の姿勢を反転させたものといえる。天皇をはじめとする皇室を「政治利用」してはならないという言明は、それだけ彼らの一言には無視できない重みがあることを意味している。天皇の発言ひとつが政局の流れに影響を与える点で、日本は依然として「神の国」であることを再認識させる出来事である。

このことは戦後日本において天皇制が密教としての役割を担っていたことを示唆している。天皇制の密教的位相については、日米安全保障条約の成立過程における天皇外交の存在を10年ほどまえに豊下楢彦が断片的な状況証拠の積み上げによって提示したことが知られているが(『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』岩波書店, 1996年)、近年公開されたアメリカ側外交史料は、日本の戦後外交、とりわけアメリカとの同盟政策の重視という外交方針に対する昭和天皇の強いコミットメントを裏付けている(吉次公介「知られざる日米安保体制の“守護者”――昭和天皇と冷戦」『世界』2006年8月号)。日米合作である「戦後国体」によって免罪された昭和天皇にとって、アメリカの冷戦戦略に関わることが「戦後国体」の護持にもつながることは自明であったのだろう。

ここに象徴天皇制の下で公的な政治空間から退いたことになっている天皇がさまざまな形で戦後の政治外交に影響力を及ぼしていたことの一端が看取できるわけだが、今回の昭和天皇のメモが投げかけた波紋もその延長線上にあるとともに、こうした戦後日本を暗に規定していた密教が顕教化した一例と受け止めることもできるだろう。
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危ない子どもたち

2006年07月20日 | knihovna
P・W・シンガー『子ども兵の戦争』(日本放送出版協会, 2006年)

民間軍事会社(PMCs/PMFs)に関する本格的な学術書である『戦争請負会社』(日本放送出版協会, 2004年)で脚光を浴びたシンガーの新刊書。前著を踏襲した装丁から、二匹目のドジョウを狙う出版社側の意図が窺える。また類似点は装丁だけではない。戦争における子どもの位置づけを歴史的に辿りながら、各種データを示しつつ多くの紛争地域で子どもが兵士として徴用されている現状を概観する。このような現状把握を背景にして、なぜ子ども兵という問題が生じてきたのかを探り、最後に「それではどうすればいいのか」という政策的含意の検討が示される議論の構成においても『戦争請負会社』と同じ流れになっている。社会科学の研究手続きに沿った「現状把握→分析→政策提案」という流れが類書の多くに見られがちな事実を列挙する記述とは一線を画した説得力を与えている。

しかしながらその説得力の根拠が「翻訳」を通じて喪失されているのではないかと疑わせる点もある。民間軍事会社にしても子ども兵にしてもその実態を把握するには大きな困難がある。そのため、情報源を明らかにすることは記述の精度と著者の主張の説得性を担保する。しかし多くの読者を獲得するという商業上の理由から前著『戦争請負会社』の場合、著者との了解に基づくとはいえ、注と文献リストが捨象される「配慮」によって、民間軍事会社というテーマの斬新性を補強する学術的な基盤が損なわれることになった。こうした「配慮」が『子ども兵の戦争』についても作用しているように思われる。原書を確認していないのではっきりしたことは言えないが、邦訳において一切の注釈表示はない。訳者による但し書きもないことを考えると、もともと原書にもなかったと判断することもできるが、たとえば化学兵器の使用禁止に関する規範に言及した箇所は、リチャード・プライスの研究(The Chemical Weapons Taboo, Cornell University Press, 1997)に基づいていることが明らかであるように、引用表記があってもおかしくない箇所が散見される。

戦闘員と非戦闘員の区別、なかでも未成年者の保護という規範が侵食されている行為が蔓延っている原因として、シンガーがグローバリゼーションの進展、軽小火器の拡散、戦争形態の変化の3点を指摘している。なかでも子ども兵が重宝される要因のひとつに挙げられている軽小火器の代表格がカラシニコフ(AK47)銃である(カラシニコフについては、松本仁一『カラシニコフ』朝日新聞社, 2004年および『カラシニコフII』朝日新聞社, 2006年を参照)。軽小火器の問題は、北朝鮮やイランの核開発問題に典型的な大量破壊兵器と比べて注目度が低いにもかかわらず、その重大性は無視できないほど大きい。しかし、国際社会における取り組みを見ると、先ごろ開催された国連「小型武器行動計画」再検討会議が最終文書を採択できなかったことからも明らかなように(「国連:小型武器会議、合意できず閉幕・米ライフル協の圧力影響」『毎日新聞』7月9日)、新たな規範形成には程遠い状況である。規範サイクル論に当てはめて考えれば(Martha Finnemore and Kathryn Sikkink, "International Norm Dynamics and Political Change", International Organization, vol. 52, no. 4, 1998)、ある規範が普及し、受容される過程において重要な条件のひとつに、関連する争点に強い影響力を持つ主体の積極的参画がある。小型武器問題についていえば、最大の銃大国であるアメリカ政府および世論がそれにあたるわけだが、肝心のアメリカ国内において、小型武器問題の本質が正確に伝わっておらず、反対に憲法修正第2条の自己武装権の死守を掲げる全米ライフル協会の無用な介入を招き、論点が摩り替わってしまった(「全米ライフル協会:銃規制と誤宣伝、国連に抗議殺到」『毎日新聞』6月24日)。

小型武器の違法取引を規制する規範の整備が停滞する一方で、子どもを兵士として利用する規範は戦場において一定の基盤を持ち始めている。シンガーが第8章「子どもを兵士にさせない」で指摘するように、冷戦後の国際関係論で流行している構成主義が重視する規範は、多くの場合、善い行為を促す準則と捉えられる傾向が強い。しかしこうした規範と倫理を結びつける議論に対して、シンガーは、規範と倫理を切り離し「戦争における社会的行為の暗い面」に注目すべきだと指摘する。子ども兵は、政府軍あるいは反乱軍を問わず、世界の紛争地域で共通に見出される現象である事実は、子ども兵をめぐって2つの規範が競合していることを意味している。先述した規範サイクル論によれば、ある規範が定着するためには、旗振り役となる「規範起業家」の運動が広がり、一定の賛同を得る受容(カスケード)段階に達することが必要であり、この壁を突き破ることができれば、規範の普及は一気に加速化する。数々の国際法上の協定に見られるように、子ども兵を禁止する規範は受容段階を越えて、内面化/制度化の段階に入っている。しかし「道徳規範と、実際の行動やそうした規範の施行とを混同してはいけない」(204頁)とシンガーが注意を促すように、子ども兵禁止規範は十分に定着しているとはいえない。むしろより巧妙な形で子どもの徴用・訓練が行われている。また子ども兵の戦術的有用性に目をつけた大人たちが「規範起業家」の役割を担い、子ども兵の利用を促進する正反対の規範の拡大に一役買っている。こうして少なくとも紛争地域において、子ども兵利用規範は、受容段階に突入しようとしており、禁止規範の正当性に疑問を投げかけるだけの力を持ち始めている。

子ども兵を利用する規範の浸透が示唆するのはある種の軍事化が進展していることである。シンシア・エンローによると、軍事化とは「何かが徐々に、制度としての軍隊や軍事主義的基準にコントロールされたり、依存したり、そこからその価値を引き出したりするようになっていくプロセス」である(「軍事化とジェンダー――女性の分断を超えて」『思想』947号, 2003年: 8頁、強調原文)。従来「聖域」であった子どもが戦場に駆り出されることによって、最も感受性が豊かな時期を軍事を最優先とする環境で過ごすことになる。たとえば、子どもを兵士に育て上げる際に重要な動機付けとして、威圧・報酬・規範が挙げられている(第5章)。その中でも威圧による訓育が大部分を占めることは、人間関係を築き上げる際に、暴力に頼る人間を作り上げてしまう。幼少期からほとんどこうした行動規範に慣れ親しむことで、兵士としての有能さが培われるかもしれない。しかし、戦争が終結した後の社会復帰の段階において軍事化された行動規範しか経験したことのない元子ども兵はまったく異なる世界に直面することになる。軍事的思考や行動規範が染み付いた状態から抜け出すことは容易ではなく、また多くの地域において社会復帰を支援する環境制度が十分ではないことを考えたとき、子ども兵とはポスト紛争社会の抱える問題が凝縮した形で可視化した問題だといえる。
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夢見る「チーム日本」

2006年07月14日 | nazor
自分の主張を100%実現することが外交だと根本から勘違いしている印象が強い北朝鮮ミサイル問題をめぐる(自称)「保守」派の論調。日本存亡という危機意識に酔いしれている憂国論者からすれば、国民が一体となって事に当たらなくてはならない状況において、「和」を乱すような動きはどうしても許せないらしい。

そのようなメンタリティを「的確かつ正直に」吐露してくれたのが今日の産経抄である。いつから「チーム日本」などという名称が市民権を得たのか、産経新聞の自己満足の極みとしか言いようがないが、「チーム日本」の結束を高めてみたところで、外交交渉にはつねに「相手」が存在することを忘れてしまうようでは、「チーム日本」の結束が意味するのは所詮「内輪」の論理としてのみ機能するだけだろう。

博多で開催された世界政治学会に出席した北岡伸一に対する苦言にしても、産経新聞は本気で学者先生一人が国連次席大使となったぐらいで国連における日本の地位が改善するとでも考えていたのだろうか。なぜ彼が大使ではなく次席大使に任命されたのかを考えればいまさら「お飾りではないか」と憤る姿勢は喜劇的ですらある。

ついでにいわゆる「ミュンヘンの教訓」を持ち出して、国際社会の「悪者」に弱みを見せてはならないという歴史の教訓をしっかり汲み取るべきだと忠告しているが、安易な歴史の利用こそが咎められるべきだろうことは、つい先ごろ、渡邊啓貴が「日本が直面するリアリズム喪失の危機」(『中央公論』2006年7月号)で指摘したはずで、また「歴史の教訓」を持ち出すのであれば、希望的観測に基づく政策決定が第一次大戦を招いた事実と比較考量しなくては「教訓」にはなりえない。どうも産経新聞にとって歴史とはたかだか第二次大戦の開始である1939年以降を意味するようだ。
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グローバル・ガヴァナンス(論)の憂鬱

2006年07月11日 | nazor
グローバリゼーションとともに、「長い21世紀」の世界を表象するジャーゴンとして広く流通しているのがグローバル・ガヴァナンスである。急速に進展するグローバリゼーションによって引き起こされる諸矛盾を是正・管理し、より好ましい秩序のあり方としての役割を期待されているグローバル・ガヴァナンス(論)は、グローバリゼーションと表裏一体の関係にある。その意味でグローバル・ガヴァナンス(論)はすぐれて現代的な概念であるといえる。しかしグローバリゼーションが現代のあらゆる現象を指し示す言葉になっているのと同じく、グローバル・ガヴァナンスも概念としての有用性を確立しているとは言い難い。換言すれば、グローバル・ガヴァナンス(論)は、その名称の浸透度に比して、理論的内容はきわめて貧しく、「単にグローバル化時代の国際秩序といった程度の意味として使われる」のが現状である(大芝亮「グローバル・ガバナンスと国連――グローバル・コンパクトの場合」『国際問題』534号, 2004年: 15頁)。

しばしば国際関係論では、アメリカの知的流行から10年遅れで新しい概念が日本で流通するといわれるが、グローバル・ガヴァナンス(論)に関してもそのような傾向が見られる。しかしその多くは1996年に大芝亮と山田敦が整理したグローバル・ガヴァナンス概念の分類を言い換えたものであり(「グローバル・ガバナンスの理論的展開」『国際問題』438号, 1996年)、「ヨコをタテにした」輸入代理店的な紹介論文の域を出ていない。大芝と山田の整理によれば、グローバル・ガヴァナンス(論)が規範的アプローチと分析的アプローチに大別される。すなわちグローバル・ガヴァンスという言葉を人口に膾炙させる契機になった、1995年刊行の「グローバル・ガヴァナンス委員会」報告書『地球リーダーシップ――新しい世界秩序をめざして』(日本放送出版協会, 1995年)が規範的アプローチの代表と挙げられる一方で、世界政府が存在しない状況にある国際社会においていかに統治を確立するかという視点を提起したジェームズ・ローズノーの議論や、レジーム論から発展的に登場し、リベラリズムの系譜に連なるオラン・ヤングのガヴァナンス論を分析的アプローチとする構図である。

いわばグローバル・ガヴァナンス(論)をめぐる論争軸を整理しただけで満足し、たとえばレジームや制度といった既存の概念ではなく、ガヴァナンスという新しい概念を用いることによって明らかにされるのは何であるかの探求が不十分なままである。たしかに環境や人権といった個別分野における事例研究もいくつか見られ、実証的な研究の蓄積が進んでいる。しかしそれらの研究の多くがあえて「ガヴァナンス」に注目する必要性があるとは思われず、とりわけレジーム論の道具立てを洗練させることによって分析上の課題は解決されるのではないだろうか。たとえば大芝と山田が今後の課題として提起した3つの問題点(大芝・山田: 11-14頁)、すなわち重層的システムを構成する諸枠組みの目的や機能を分類し、それらの相互関係を明らかにすること、ガヴァナンスに参加する主体の利益が適切に擁護されているかという規範的位相、そしてグローバル・ガヴァナンスと主権国家体系の関係を正面から取り上げ、有効な分析概念としてグローバル・ガヴァナンスを精緻化する作業はほとんど手付かずなままである。

大芝・山田論文以降、日本において本格的な研究書といえるのが渡辺昭夫・土山實男編『グローバル・ガヴァナンス――政府なき秩序の模索』(東京大学出版会, 2001年)である。その序章で編者の渡辺と土山は、グローバル・ガヴァナンスの論点として、主体、政府との違い、領域性、レジーム論との関連の4つを指摘している。これら4点において秩序やレジームといった既存の概念ではなく、ガヴァナンスを使う意義が明らかにされている。しかしながら、編者たちの整理にもかかわらず、後に続く論考においてガヴァナンスの定義や理解は統一されているとはいえない。たとえばジョン・アイケンベリーの議論では、「大国における基本的な規則、原則、そして制度を含む政治秩序を律する取り決め」と、ほとんど秩序と同義に見えるグローバル・ガヴァナンスの定義を示しながら、さらにそれを「国家間相互の関係と継続する相互の交流に関する相互の期待を明確にする国家間の取り決め」と限定するとき(「制度、覇権、グローバル・ガヴァナンス」渡辺・土山編『グローバル・ガヴァナンス』: 73-74頁)、そこにガヴァナンスを積極的に用いる意味はほとんど存在しない。

河野勝が指摘するように、「政府なきガヴァナンス」の可能性を探る試みは国際関係論の基本的な課題であり、したがって「今日『グローバル・ガヴァナンス論』とあらためて命名することで、それがこれまでの国際関係論と本質的に異なる問題に特化する知的営為であるかのような印象」を与えてしまう危険性がある(河野勝「ガヴァナンス概念再考」河野編『制度からガヴァナンスへ――社会科学における知の交差』東京大学出版会, 2006年: 5-6頁)。つまり秩序やレジームといった既存の類似概念との相違点を十分に明らかにしないまま、言葉の新奇性に惑わされてグローバル・ガヴァナンス(論)が消費される状況は学術的な観点から好ましいとはいえないだろう。それこそ今日のグローバル・ガヴァナンス(論)をめぐる知的状況は、ちょうど1970年代から1980年代にかけての国際レジーム(論)のそれを想起させる。そしてスーザン・ストレンジがレジーム(論)に対して行った5つの批判("Cave! Hic Dragones: A Critique of Regime Analysis," in Stephen D. Krasner ed., International Regimes, Cornell University Press, 1983)、とくに時代の趨勢を反映した一種の流行現象にすぎないという第1の批判は、そのまま現在のグローバル・ガヴァナンス(論)にも当てはまる。別の言い方をすれば、すくなくとも分析概念としては、洗練度の高いレジーム(論)によっても、グローバル・ガヴァナス(論)が対象とする問題の大部分が十分に探求でき、あえて新しい言葉を用いる積極的意義は乏しい。

この点を敷衍するならば、しばしばレジームとガヴァナンスの違いとして指摘される参加主体の多様性や争点領域の複数性は、レジーム(論)の欠点というよりも、むしろステレオタイプ化したレジーム理解を前提にした議論である。レジームの定義として至る所で引用されるクラズナーの定義を字義通り解釈すれば("Structural Causes and Regime Consequences: Regimes as Intervening Variables," in Krasner ed., ibid.)、レジームが国家に限定されるとは必ずしも言い切れない。たしかにストレンジが批判するように多くのレジーム(論)が国家中心的な傾向を示しているが、それはレジームそれ自体に内在する問題ではなく、レジームを分析概念として用いる研究者のパースペクティブの問題に属するといえる。つまり山本吉宣が論じるように、レジームに参画する主体、そしてレジームによって影響を蒙る客体の双方において、国家のみを対象とするのはきわめて狭いレジーム観といえる(「国際レジーム論――政府なき統治を求めて」『国際法外交雑誌』95巻1号, 1996年)。ほとんど分析概念としての意味を果たしていないガヴァナンスを使うメリットと比して、曲がりなりにも多くの事例研究で用いられてきたレジームを精緻化させるメリットのほうがその前途は明るい。

また今日のグローバル・ガヴァナンス(論)に関して無視しえない問題として指摘すべきなのは、グローバル・ガヴァナンスのイデオロギー/規範的位相である。あらゆる概念や用語がそうであるように、ガヴァナンスも本質的な論争性を孕む概念であるとすれば、それを用いる者の世界観や信条が投影されることは当然だろう。この点は、御巫由美子が論じるところのガヴァナンス(論)の価値中立性、あるいは強者の論理としてガヴァナンスが作用する可能性をめぐる問題と関係している(「『ガヴァナンス』についての一考察」河野編『制度からガヴァナンスへ』: 215-218頁)。御巫が引用しているように、「理論は常に誰かのため、何かの目的のために存在している」(ロバート・W・コックス「社会勢力、国家、世界秩序――国際関係論を超えて」坂本義和編『世界政治の構造変動(2)国家』岩波書店, 1995年: 215頁、強調原文)点を考慮に入れた場合、グローバル・ガヴァナンス(論)は単なる学術概念以上の意味合いを持ち、日々の実践を通じてその内実が形成されていく行為遂行的な側面があることに注意を払う必要がある。

その意味で、グローバル・ガヴァナンス(論)の代表的研究として必ず言及されるジェームズ・ローズノーが「秩序プラス意図」とガヴァナンスを定義していることは示唆的である("Governance, Order and Change in World Politics," in Rosenau and Ernst-Otto Czempiel eds., Governance without Government: Order and Change in World Politics, Cambridge University Press, 1992.)。すなわち自生的に形成されるような秩序ではなく、参画主体の「意図」が媒介する点にガヴァナンスの特質があるとすれば、グローバル・ガヴァナンスを論じるとき、参画主体がどのような世界観を抱いているのかを分析の射程に組み込むことが求められる。この点に関して、ローズノーのガヴァナンス(論)に対する最も早く、かつ根源的な批判を加えたリチャード・アシュリーの議論("Imposing International Purpose: Notes on a Problematic of Governance," in Ernst-Otto Czempiel and James N. Rosenau eds., Global Changes and Theoretical Challenges: Approaches to World Politics for the 1990's, Lexington Books, 1989.)が今日のグローバル・ガヴァナンス(論)において脚注においても言及されずに、ほとんど忘れ去られてしまっていることは、ガヴァナンスの孕む問題点を裏書しているだろう。ガヴァナンスを個人の意図や主観性とは関係なく、一定のパターン化された相互作用をもたらす「ガヴァナンスI」と、合目的的に進展し、人間の意志が介在する周期的パターンとしての「ガヴァナンスII」に区別して論じるローズノーに対して、アシュリーは、ローズノーのガヴァナンス(論)が暗黙裡に所与のものとしている構造や間主観的な関係、それらの形成に果たす知の役割を組み入れた「ガヴァナンスIII」を提示する。

一般にグローバル・ガヴァナンス(論)が地球的問題群に対するひとつの回答として位置づけられるのに対して、アシュリーの「ガヴァナンスIII」はそれ自体を「問題」と把握するものであり、論文タイトルが物語るように、何らかの国際的な目的を課す(imposing international purpose)機能がガヴァナンスに備わっていることに注意を促す。たしかにアシュリーの論文自体が省みられることはほとんどないが、彼の提起した問題意識は受け継がれている。たとえばグローバル・ガヴァナンス(論)の自由主義的性格に焦点を当てたマイケル・ディロンとジュリアン・リードの研究などは、新自由主義的グローバリゼーションの行き過ぎに対する歯止め役とみなされることが多いグローバル・ガヴァナンス(論)の共犯性を明らかにしている("Global Liberal Governance: Biopolitics, Security and War," Millennium, vol. 30, no. 1, 2001)。こうしたイデオロギー/規範的位相を視野に入れてはじめて、今日の地球的問題群に対処する意味でのグローバル・ガヴァナンス(論)の有効性が主張できる。一部の先進国の「利益により作られたシステムなりルールなりを持続させ、再生産させることを是認する無意識の合意により形成されている」(御巫, 前掲論文: 218頁)事実に気づかないまま、関係主体の多様性や対象領域の包括性を喧伝するだけのグローバル・ガヴァナンス(論)は学術的に無意味な概念に留まり、それこそ一過性の「流行現象」と後年記憶されるだけだろう。
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連敗の味

2006年07月09日 | hrat
今季初の6連敗で楽天借金25(『スポーツ報知』)
楽天6連敗…山村わずか18分で危険球退場に野村監督お手上げ(『サンケイスポーツ』)

先発が序盤に炎上し、打線は沈黙してしまう「普段の」楽天に戻ったような試合展開。バイオリズムが下降線に入っているためだろうか、交流戦後の成績は2勝9敗で、7月に入ってからは未勝利。当然のことながら、交流戦明け2勝8敗と似たようなチーム状態の5位オリックスとの差は縮まらない。
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