有川浩『図書館戦争』(メディアワークス, 2006年)
図書館とメディア良化委員会との武装対立が日常化した正化31年の日本を舞台に、図書館特殊部隊に配属された笠原郁を主人公にした小説である。著者が「あとがき」で「今回のコンセプトは、月9連ドラ風で一発GO!」と述べているように、また著者がライトノベル畑で主に活躍しているということもあって、小説世界の醸し出す雰囲気はそれほど重苦しいものではない。むしろ高校時代に遭遇した運命的な邂逅が原体験になって、図書館防衛隊を志した笠原郁の「暴走」ぶりと、それに振り回される教官や同僚たちというキャラ設定やストーリーの展開はそれこそ「月9」を構成する要素を最大公約数的に抽出したものになっている。
しかし小説の基盤を成す正化31年の日本に、メディア規制法が政治課題として論議され、公論空間の硬直化が進む平成18年の日本を重ね合わせ、そこから何らかの思想的/政治的含意を汲み取ろうとする「読み方」をさせるだけのアクチュアリティが本書にはある。本書の世界像を形作る際に重要な源泉となっているのが「図書館の自由に関する宣言」、恣意的な公権力の行使に対して、思想・信条の自由といった基本的自由権の擁護を宣言するものであることは、図書館という空間あるいは制度に自由主義/共和主義の思想が反映されていると理解することができ、またこのような思想史的文脈に位置づけてみた場合、図書館が武装するという設定もそれほど突飛な発想ではなく、共和主義の伝統であるところの自己武装権の現れとしてみるべきかもしれない。
国際的な冷戦体制が終わろうとしていた1980年代、アメリカ国内で繰り広げられた「文化戦争」は国内冷戦の継続と捉えることができる。マイノリティの排除に依拠した建国というアメリカの「原罪」を告発する動きが先鋭的に顕在化したのが歴史教科書の記述であり、「アイデンティティの政治」およびその政策的産物である多文化主義をめぐる論争が活発化した。「文化戦争」を構成する戦線は多方面に築かれていくとともに、相争う陣営の主張が過激化・硬直化し、その貫徹のために暴力が行使されるまでに至っている(中絶反対派による中絶クリニックの爆破などはその典型である)。
「文化戦争」と形容できるような状況は日本でも看取されるようになっている。アメリカ版「文化戦争」の下地に1970年代の「アメリカ衰退」という国家/国民的アイデンディティ危機があったように、日本版「文化戦争」の前段階として1990年代の、バブル崩壊に起因するいわゆる「失われた10年」を位置づけることはあながち間違いではないだろう。「去勢された」戦後日本の国家/国民意識の支えとなっていた経済成長主義があっけなく打ち砕かれたことは、国論を二分するような対立状況を弁証的に止揚する理念の喪失を意味した。「新しい歴史教科書」やジェンダーフリー論争、あるいは嫌中・嫌韓がクローズアップされ、政治的意味空間において一定の基盤を持つようになる。その主張の多くがマルクス主義/共産主義の陰謀論と変わらず、冷戦的性格から一歩も出ていない点もまた「文化戦争」と形容する理由のひとつである。
「新しい歴史教科書をつくる会」関係者の書籍が廃棄された、いわゆる船橋市西図書館蔵書破棄事件や、福井県でジェンダー関係の図書が撤去された事件(「福井の図書一時撤去問題、書名公開求め提訴へ」『朝日新聞』7月27日)に象徴されるように、自分の思想信条と相容れない主張や解釈を提示する媒体としての書籍が収集・所蔵され、一般市民が自由に借りることを制度化した公共図書館は、当然のことながら「文化戦争」の当事者双方にとって敵を利する思想および書籍が野放しになっている空間と映り、そうした状況の「改善」が戦略目標となる意味で、まさしく戦場と形容するのが相応しい。
イデオロギー的な左右を問わず、共通する病理である善悪や正邪という価値判断に対する盲信、すなわち原理主義がテロなどの暴力行為も辞さないとき、思想・信条・表現の自由を擁護する立場にある者はどのような対応を取るべきだろうか。絶対平和主義の立場からすれば、図書館自体が武装するという選択肢がありえないことだろうが、そもそも「市民と武器の問題は、国家権力と市民の自由という、政治の問題と深くかかわっている」とすれば(村川堅太郎「市民と武器」: 藤木久志『刀狩り――武器を封印した民衆』岩波書店, 2005年: 13頁より再引用)、図書館の自由を守るために武装する決定(そして著者の発想)はすぐれて思想史的な意味を持っている。かつて丸山眞男が、アメリカ憲法修正第2条に含まれた精神、つまり人民の自己武装権に触れ、「ここで一つ思い切って、全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世帯主の責任において管理することにしたら・・・」と提案した真意は、「どんな権力や暴力にたいしても自分の自然権を行使する用意があるという心構え」の涵養にあったことを想起させる(「拳銃を・・・・・・」『丸山眞男集(8)1959-1960』岩波書店, 2003年: ただし秀吉の刀狩りによって非武装化された日本人という丸山の認識に関しては、藤木久志が疑義を呈している)。
たしかに小熊英二が指摘するように(『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制 』慶應義塾大学出版会, 2004年)、自己武装権というアメリカ憲法修正2条に込められた「自由の象徴」という精神は総力戦を経験した現代にあって死文化しており、むしろ全米ライフル協会(NRA)のような団体の既得権益を正当化する根拠となるとともに、その精神が成立しえる条件が存在しない意味で「時代錯誤」となっている(アメリカにおける自己武装権をめぐる歴史的背景や議論については、斎藤眞『アメリカ革命史研究――自由と統合』東京大学出版会, 1992年: 10章、および富井幸雄『共和主義・民兵・銃規制――合衆国憲法修正第二条の読み方』昭和堂, 2002年を参照)。したがって自己武装権を歴史的な文脈を無視して持ち出すことには注意が必要である。しかしながら、「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さないという思想から発しており、同時に国家への異議申し立て能力を確保するという側面」(小熊: 51頁)をもつ自己武装権の思想そのものに注目するならば、自由の根幹である生存が脅かされる状況に遭遇したときに抵抗手段として行使される暴力は、すでに過剰な権力資源を有する政府などの主体が行使する暴力と区別されるべきだろう。
その意味で、抗争を繰り広げるメディア良化委員会の執行組織である良化特務機関と図書館防衛隊の組織的形態の違いが武装や戦略の意味に影響を与えている点は興味深い。法務省管轄下にあるメディア良化委員会の予算は潤沢であり、その装備レベルも高いのとは対照的に、公共図書館は各地方公共団体によって運営されている分権的組織であるために、予算上の制約に縛られ、武装化の程度も見劣りすることは両者の関係に非対称性を帯びさせる。それゆえに図書館防衛隊の基本方針は専守防衛であり、圧倒的な火力を誇る良化委員会に対して防戦一方にならざるをえない状況が小説のクライマクスを飾る「情報歴史資料館」をめぐる攻防戦において描写されている。図書館防衛隊の暴力とはあくまでも「抵抗の暴力」なのである。
とはいえ、自己武装権の理念が「対話の技術やモラルを伴わない暴力を解放し、…無意味な殺し合いを生み出した」(小熊: 60頁)限界を抱えていたことを考慮に入れたとき、図書館防衛隊の行使する暴力をめぐっても、どの程度まで武装化するべきなのかという問題が生じてくる。小説世界において、図書館が武装化する契機となったのが正化11年の「日野の悪夢」と呼ばれる事件である。メディア良化委員会と通じた政治結社による襲撃と、この事態を傍観した警察に対する不信が図書館の使命を擁護するために武器を取ることを選択させた。しかしこうした武装路線が図書館関係者の総意というわけではなく、内部で原理派と行政派の路線闘争が存在することが指摘されている。おそらくこの点は、続編となる『図書館内乱』において主要テーマとして語られることであろう。
図書館とメディア良化委員会との武装対立が日常化した正化31年の日本を舞台に、図書館特殊部隊に配属された笠原郁を主人公にした小説である。著者が「あとがき」で「今回のコンセプトは、月9連ドラ風で一発GO!」と述べているように、また著者がライトノベル畑で主に活躍しているということもあって、小説世界の醸し出す雰囲気はそれほど重苦しいものではない。むしろ高校時代に遭遇した運命的な邂逅が原体験になって、図書館防衛隊を志した笠原郁の「暴走」ぶりと、それに振り回される教官や同僚たちというキャラ設定やストーリーの展開はそれこそ「月9」を構成する要素を最大公約数的に抽出したものになっている。
しかし小説の基盤を成す正化31年の日本に、メディア規制法が政治課題として論議され、公論空間の硬直化が進む平成18年の日本を重ね合わせ、そこから何らかの思想的/政治的含意を汲み取ろうとする「読み方」をさせるだけのアクチュアリティが本書にはある。本書の世界像を形作る際に重要な源泉となっているのが「図書館の自由に関する宣言」、恣意的な公権力の行使に対して、思想・信条の自由といった基本的自由権の擁護を宣言するものであることは、図書館という空間あるいは制度に自由主義/共和主義の思想が反映されていると理解することができ、またこのような思想史的文脈に位置づけてみた場合、図書館が武装するという設定もそれほど突飛な発想ではなく、共和主義の伝統であるところの自己武装権の現れとしてみるべきかもしれない。
国際的な冷戦体制が終わろうとしていた1980年代、アメリカ国内で繰り広げられた「文化戦争」は国内冷戦の継続と捉えることができる。マイノリティの排除に依拠した建国というアメリカの「原罪」を告発する動きが先鋭的に顕在化したのが歴史教科書の記述であり、「アイデンティティの政治」およびその政策的産物である多文化主義をめぐる論争が活発化した。「文化戦争」を構成する戦線は多方面に築かれていくとともに、相争う陣営の主張が過激化・硬直化し、その貫徹のために暴力が行使されるまでに至っている(中絶反対派による中絶クリニックの爆破などはその典型である)。
「文化戦争」と形容できるような状況は日本でも看取されるようになっている。アメリカ版「文化戦争」の下地に1970年代の「アメリカ衰退」という国家/国民的アイデンディティ危機があったように、日本版「文化戦争」の前段階として1990年代の、バブル崩壊に起因するいわゆる「失われた10年」を位置づけることはあながち間違いではないだろう。「去勢された」戦後日本の国家/国民意識の支えとなっていた経済成長主義があっけなく打ち砕かれたことは、国論を二分するような対立状況を弁証的に止揚する理念の喪失を意味した。「新しい歴史教科書」やジェンダーフリー論争、あるいは嫌中・嫌韓がクローズアップされ、政治的意味空間において一定の基盤を持つようになる。その主張の多くがマルクス主義/共産主義の陰謀論と変わらず、冷戦的性格から一歩も出ていない点もまた「文化戦争」と形容する理由のひとつである。
「新しい歴史教科書をつくる会」関係者の書籍が廃棄された、いわゆる船橋市西図書館蔵書破棄事件や、福井県でジェンダー関係の図書が撤去された事件(「福井の図書一時撤去問題、書名公開求め提訴へ」『朝日新聞』7月27日)に象徴されるように、自分の思想信条と相容れない主張や解釈を提示する媒体としての書籍が収集・所蔵され、一般市民が自由に借りることを制度化した公共図書館は、当然のことながら「文化戦争」の当事者双方にとって敵を利する思想および書籍が野放しになっている空間と映り、そうした状況の「改善」が戦略目標となる意味で、まさしく戦場と形容するのが相応しい。
イデオロギー的な左右を問わず、共通する病理である善悪や正邪という価値判断に対する盲信、すなわち原理主義がテロなどの暴力行為も辞さないとき、思想・信条・表現の自由を擁護する立場にある者はどのような対応を取るべきだろうか。絶対平和主義の立場からすれば、図書館自体が武装するという選択肢がありえないことだろうが、そもそも「市民と武器の問題は、国家権力と市民の自由という、政治の問題と深くかかわっている」とすれば(村川堅太郎「市民と武器」: 藤木久志『刀狩り――武器を封印した民衆』岩波書店, 2005年: 13頁より再引用)、図書館の自由を守るために武装する決定(そして著者の発想)はすぐれて思想史的な意味を持っている。かつて丸山眞男が、アメリカ憲法修正第2条に含まれた精神、つまり人民の自己武装権に触れ、「ここで一つ思い切って、全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世帯主の責任において管理することにしたら・・・」と提案した真意は、「どんな権力や暴力にたいしても自分の自然権を行使する用意があるという心構え」の涵養にあったことを想起させる(「拳銃を・・・・・・」『丸山眞男集(8)1959-1960』岩波書店, 2003年: ただし秀吉の刀狩りによって非武装化された日本人という丸山の認識に関しては、藤木久志が疑義を呈している)。
たしかに小熊英二が指摘するように(『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制 』慶應義塾大学出版会, 2004年)、自己武装権というアメリカ憲法修正2条に込められた「自由の象徴」という精神は総力戦を経験した現代にあって死文化しており、むしろ全米ライフル協会(NRA)のような団体の既得権益を正当化する根拠となるとともに、その精神が成立しえる条件が存在しない意味で「時代錯誤」となっている(アメリカにおける自己武装権をめぐる歴史的背景や議論については、斎藤眞『アメリカ革命史研究――自由と統合』東京大学出版会, 1992年: 10章、および富井幸雄『共和主義・民兵・銃規制――合衆国憲法修正第二条の読み方』昭和堂, 2002年を参照)。したがって自己武装権を歴史的な文脈を無視して持ち出すことには注意が必要である。しかしながら、「自己および地域社会の生命や財産を守る市民の権利を国家に譲り渡さないという思想から発しており、同時に国家への異議申し立て能力を確保するという側面」(小熊: 51頁)をもつ自己武装権の思想そのものに注目するならば、自由の根幹である生存が脅かされる状況に遭遇したときに抵抗手段として行使される暴力は、すでに過剰な権力資源を有する政府などの主体が行使する暴力と区別されるべきだろう。
その意味で、抗争を繰り広げるメディア良化委員会の執行組織である良化特務機関と図書館防衛隊の組織的形態の違いが武装や戦略の意味に影響を与えている点は興味深い。法務省管轄下にあるメディア良化委員会の予算は潤沢であり、その装備レベルも高いのとは対照的に、公共図書館は各地方公共団体によって運営されている分権的組織であるために、予算上の制約に縛られ、武装化の程度も見劣りすることは両者の関係に非対称性を帯びさせる。それゆえに図書館防衛隊の基本方針は専守防衛であり、圧倒的な火力を誇る良化委員会に対して防戦一方にならざるをえない状況が小説のクライマクスを飾る「情報歴史資料館」をめぐる攻防戦において描写されている。図書館防衛隊の暴力とはあくまでも「抵抗の暴力」なのである。
とはいえ、自己武装権の理念が「対話の技術やモラルを伴わない暴力を解放し、…無意味な殺し合いを生み出した」(小熊: 60頁)限界を抱えていたことを考慮に入れたとき、図書館防衛隊の行使する暴力をめぐっても、どの程度まで武装化するべきなのかという問題が生じてくる。小説世界において、図書館が武装化する契機となったのが正化11年の「日野の悪夢」と呼ばれる事件である。メディア良化委員会と通じた政治結社による襲撃と、この事態を傍観した警察に対する不信が図書館の使命を擁護するために武器を取ることを選択させた。しかしこうした武装路線が図書館関係者の総意というわけではなく、内部で原理派と行政派の路線闘争が存在することが指摘されている。おそらくこの点は、続編となる『図書館内乱』において主要テーマとして語られることであろう。