constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

list29

2008年10月27日 | hudbeni
Chappie / NEW CHAPPIE
TOTO / THROUGH THE LOOKING GLASS
ASIA / THEN & NOW
FENCE OF DEFENSE / hot dogs 2
甲斐バンド / Secret Gig
Emerson, Lake & Palmer / Emerson, Lake & Palmer
SCHAFT / SWITCH remix
135 / Covers Special
THE MAD CAPSULE MARKET'S / SPEAK!!!!
LED ZEPPELIN / LED ZEPPELIN

ブンブンサテライツからの流れで、今井寿と藤井麻輝のユニットであるシャフトを久しぶりに選ぶとともに、テクノ系つながりで、パフュームの音をはじめて耳にしたとき、真っ先に思い浮かんだチャッピー、そしてYMOの "SOLID STATE SURVIVOR" のカヴァーが収録されているザ・マッド・カプセル・マーケッツの "SPEAK!!!!" を組み合わせてみる。

Schaft / Arbor Vitate


Chappie / Welcoming Morning


The Mad Capsule Market's / Solid State Survivor(映像なし)
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歴史把握としてのポスト共産主義

2008年10月20日 | nazor
10月13日付けのチェコ週刊誌『レスペクト』(英語版:"Milan Kundera's denunciation," Respekt, Oct. 13, 2008)で報じられたことに端を発する、チェコ出身でフランス在住の作家ミラン・クンデラが1950年代に秘密警察(StB)に協力していた疑惑は、いくぶんのタイムラグがありつつも日本のメディアによってもクンデラ自身の否定発言とともに取り上げられている(「チェコ:作家クンデラ氏に旧政権『密告者』説 本人は否定」『毎日新聞』10月18日、および「チェコ共産政権に抵抗→実は密告者?作家クンデラ氏に疑惑」『読売新聞』10月19日)。クンデラの疑惑についての判断は、アメリカの諜報員ミロスラフ・ドヴォジャーチェクの立ち寄り先を密告したのがクンデラの名を語る別人の可能性も一部では指摘されているため("New witness comes forward to cast doubt on Kundera 'informer' claims," Radio Prague, Oct. 16, 2008)、今後の検証を待ちたいが、このたびクンデラについて浮上した疑惑から派生する論点について以下で簡単に論じてみたい。

クンデラのスパイ疑惑は、1989年の民主化から約20年の時間が流れ、体制転換後の政治課題とされた「ヨーロッパへの復帰」をEUおよびNATO加盟によって達成した「東欧」諸国において、戦後の共産党体制の経験がまだ「過ぎ去っていない過去」であることを改めて気づかせる。ポストコロニアリズムにおいて使われる「ポスト」の意味が「過去の歴史が何らかの形で現在では終了ないしは再編の過程にあり、しかしそれが完全に清算されることなく未来へと引き継がれていく不安と希望に満ちた道行きを示唆している。(…)過ぎ去ることなく現在に継続し行く末に影響する、という時間的な三重の縛りを示す概念」であることを念頭に置くならば(本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波書店, 2005年: v頁)、ポスト共産主義という歴史把握においても過去・現在・未来という「三重の時間」が折り重なっていると考えるべきだろう。その意味で共産主義という過去は、その支配を直接経験した世代が退場した後でもポスト共産主義諸国の政治を規定する要因として作用する。

独裁・権威主義体制からの移行を経験した南欧や中南米、あるいは内戦後のポスト紛争社会と同様に、ポスト共産主義諸国でも、いわゆる「移行期の正義 Transitional Justice」をめぐる問題が新しい国家・国民形成において大きな政治課題となっている。すなわち共産党体制下で人権抑圧に関与した秘密警察職員やその協力者に対して、いかなる基準によって裁くのかという問題であり、それは過去の実態の解明ないし清算を徹底するのか、それとも真実が明らかになることによって生じる国民間の対立や亀裂を回避し、和解に基づく新たな国づくりに重点を置くのか、容易に国民的な合意を得ることが難しい問題である。土佐弘之が論じているように、矯正的正義と修復的正義との適切な均衡を見出し、正義の行使が復讐の手段と化すことなく、赦しと和解に基づく関係構築に向けた作業が求められる(『アナーキカル・ガヴァナンス――批判的国際関係論の新展開』御茶の水書房, 2006年: II-2。またひとつの解答として参照される真実和解委員会については、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会の再生のために』岩波書店, 2008年を参照)。監視と密告を通じた支配が徹底したポスト共産主義諸国で、真実の追究が意図せざる悲劇をもたらす典型的な例は、秘密警察の内部文書の開示・閲覧によって、身近な家族や友人が密告者であった事実が明らかになり、それまでの信頼関係が崩壊するといった形で表出してくる(監視・密告の実情については、たとえばT・ガートン=アッシュ『ファイル――秘密警察とぼくの同時代史』みすず書房, 2002年を参照)。

また旧体制からの脱却ないし断絶がとくに要求されるのがポスト共産主義時代の政治エリートである。閣僚・政治家・上級官僚、そして企業や主要メディアの幹部が共産党支配との関係を明らかにし、その潔白を国民に証明することは、内務省や秘密警察の内部文書によって体制協力者であることが判明した人物の公職禁止を定めた法律の制定という形で確立されているが、法律の運用をめぐっては、異議申し立ての制度が不十分だったり、政敵の追い落としや誹謗中傷のために意図的にリークされる「政治利用」が後を絶たないなど問題点も指摘されている(橋本信子「チェコスロバキアにおける公職適否審査法(ルストラツェ法)をめぐる諸問題」『同志社法学』51巻1号, 1999年を参照)。このように共産党および秘密警察とのつながりの有無がポスト共産主義のエリートにとっての資格証明となっている。そしてそれはようやく手に入れた「国民の知る権利」という錦の御旗によって過去の経歴を洗い出す行為が正当性を与えられ、また同じく「報道の自由」を掲げるメディアによる増幅作用を通して、容易に政治上の争点、つまりスキャンダル化していく。

とりわけかつて反体制派として知られた人物が秘密警察の協力者であった疑惑が生じたとき、その衝撃度は頂点に達する。チェコスロヴァキアにおけるヤン・カヴァンの事例(あるいはごく最近ではポーランド「連帯」指導者で民主化後に大統領を務めたレフ・ワレサの事例)に見られるように、たとえ秘密警察との協力が事実ではなく、裁判を通じていわば「冤罪」であることが認められたとしても、密告や協力の事実に対する冷静な調査や議論が十分に行われず、一種の「魔女狩り」に近い様相を帯びてくるし、その後遺症は解消されないままの状態に置かれる(カヴァンの事例については、T・ローゼンバーグ『過去と闘う国々――共産主義のトラウマをどう生きるか』新曜社, 1999年: 第1部が詳しい。またワレサについて「『ワレサ氏はスパイだった』告発本 ポーランドで大論争」『産経新聞』2008年6月26日)。秘密警察への協力者を告発・暴露する状況は、たとえば1950年代に共産党体制下で起きた、シオニズムやブルジョワ民族主義者に対する粛清裁判のそれと共通する意味で、政治的行為に正当性を付与する規範やイデオロギーが共産主義から反共主義に代わっただけで、異質性に対する不寛容および排除という本質的な部分において連続している。そして反共主義の過剰が自由主義や民主主義の理念そのものを侵食してしまう可能性を持っていることは、1950年代アメリカの赤狩り、あるいは2001年同時多発テロ以後のアメリカ社会によって示されていることからも明らかであろう。

このように共産主義に関わる要素を一掃しようとする動きは、共産党支配の核ともいえる秘密警察やその協力者に対する厳しい態度を醸成する。そこには過去との訣別を求める強固な意志が看取でき、そうした態度や行為が共産党体制に代わる新しい国家や社会を作るうえで必要不可欠であることは理解できる。他方で過去との訣別が、過去と徹底的に向き合うのではなく、過去の(全面的)否定として把握されるとすれば、ポスト共産主義に内在する三つの重層的な時間構造が提起する問題意識は不可視化されてしまう。まさしく歴史の語り口、あるいは記憶の政治学に属する問題がポスト共産主義でも纏わりついており、さまざまな場面において共産主義の経験が問いかけられ、再審されることになる。今回のスパイ疑惑の傍証として取り上げられているクンデラの小説『冗談』(みすず書房, 1992年)にある「贖罪(復讐さらには容赦)の課題を代行するのは忘却なのだ」(338頁)という一文は、ポスト共産主義をはじめとする体制移行期にある国家/社会において作用する記憶と忘却の弁証法の本質を突いている。

言い換えれば、秘密警察との協力問題がポスト共産主義社会においてこれほどまでに政治問題化していることは、まさに共産主義の過去が現在を規定している証左である。また共産主義の過去をどのように認識するのかがこれから作り上げていく新たな国家・社会像の内実に関わっている点で未来の問題でもある。共産主義との関係に対する無謬性/潔癖性の要求は、戦後40年あまり続いた共産主義の経験を忘却させることにつながる。共産主義の経験の簡素化によって、たとえばクンデラのように熱烈な共産党支持者が後にその批判者になった「転向」の位相を理解することを困難にしてしまう。

ジョージ・オーウェルは小説『1984年』(早川書房, 1972年)の中で「過去を支配する者は未来まで支配する」(47頁)と述べているが、かつての共産党体制がマルクス・レーニン主義史観に基づいて(たとえば第二次大戦の解釈に見られるように)歴史を書き換え、教育や記念碑を通して国民の集合的記憶の創造=想像に努めたように、ポスト共産主義諸国もまた別様の歴史ならびに集合的記憶を作り上げようとしている。たとえばチェコでは、第一次大戦後独立した「東欧」諸国で唯一議会制民主主義が機能していたとされる戦間期の、いわゆる「第一共和国/マサリクの共和国」の時代が共産党体制と対比される形で(再)評価されている。そのような歴史(観)の再編過程は、何を記憶し、何を忘却するのかを決定する政治そのものであるが、それは完成形を持たない、つねに書き換え続けられることが定められた未完の過程であることに留意する必要があるだろう。
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中山失言とノーベル賞受賞の「関連性」

2008年10月10日 | nazor
今年のノーベル賞(物理学・化学)に「日本」の研究者が選ばれたこと、そしてそれに沸き立つメディアや国民の姿勢は、ちょうど就任5日で辞任した中山成彬前国交相の「失言」と密接に関わる興味深い論点を示唆しているように思われる。

まず「日本は単一民族だ」という「失言」に通底するのが、すでに指摘されているように、物理学賞を受賞した南部陽一郎(シカゴ大学名誉教授)を「日本人」と表象することである(たとえば、「『ノーベル物理学賞日本人3人が独占』欧米では『米国人1人、日本人2人』」J-CASTニュース2008年10月8日)。このことは、ある人の帰属を判断する際に、「国民」ではなく「民族」を基準とする思考様式が深層意識において強く作用していることを意味している。ある人が「…人」であるかを最終的に決定付ける基準として「国民」よりもむしろ「民族」が重視されることによって、たとえば南部教授はアメリカ国籍の保持者であっても「日本人」だと判断されるし、他方で日本国籍を取得していたとしても在日コリアンは、「日本人」というカテゴリーの外側に留め置かれたままにある。

そして在日コリアンの例が示すように、「日本人」の境界線は、先に挙げたJ-CASTニュースの取材に対する朝日新聞社広報部の回答にあるような「日本で教育を受け、日本に自宅がある」といった理由ではなく、もっと深い、本質(主義)的なレベルにおいて刻印されているとみなすべきだろう。すなわち国籍の離脱や取得によって変更可能である「国民」に比べて、両親をはじめとする先祖から受け継いだ「血」を介して結ばれた集団という認識に依拠する「民族」はアイデンティティの拠り所として、その変更不可能性ゆえに強固で、揺るぎのない、そして本質的なものとみなされる。

こうして社会的な存在としての「国民」と自然的な存在としての「民族」が対置され、さらに「民族」と「国民」を同一視する認識が、戦後日本において広く浸透したことによっていわゆる「単一民族神話」が作られ、「国民」自体の自然化が進んでいくことになる。このため、「国民」を構成する主体の多様性に対する自覚が著しく欠如した思考様式が根強く、さしたる疑問も抱かれずに政治家などによって定期的に公言される状況が生じている。また先ごろ発足した観光庁は、2020年までに2000万人の外国人観光客の来日を掲げているが、一方で外国人の宿泊や食事、あるいは入居などを断る「ジャパニーズオンリー」が一定数報告されていることも、「単一民族」神話の派生効果といえるかもしれない(「『外国人泊めたくない』ホテル・旅館3割 07年国調査」『朝日新聞』10月9日)。

その意味で今回の南部教授のノーベル賞受賞が「日本人」の範囲を改めて考えさせる契機になるだろうし、実際この点を問題化する報道が見られることは「中山失言」の時代錯誤性を示しているといえるだろう。

もうひとつ「中山失言」に関わる点が「日教組の組織率と学力テストの結果の関係」についてである。この発言に関しては、中山前国交相の印象論ないし思い込みレベルの域を出ない根拠のない、まさしく「妄言」の類に属することは明らかであるが、日教組憎しの感情に駆られて、この「妄言」を実証しようとしたのが『産経新聞』10月8日の記事「組合と学力に関連性はあるか?低学力地域は日教組票多く」である。関連性があるという結論を導こうとしたいがために、得票率ではなく得票数を使うといった都合のよい変数によって実証する倒錯的な内容が全国紙の紙面を飾るという事態は、すくなくとも一定程度の学力と学歴のある新聞記者が基本的な科学的思考能力を欠いていることを物語っている。数字を挙げるなど「科学的な」体裁をとりつつ実証に失敗している『産経』の記事は「第二種疑似科学」の典型例だろう(池内了『疑似科学入門』岩波書店, 2008年)。ついでに「擬似/ニセ科学」に関連していえば、その代表的な例である「水からの伝言」をめぐって、その問題点が広く指摘されている一方で、最近になっても「関東地区公立小・中学校女性校長会総会・研修会」で「水からの伝言」の著者が講演したように、科学的思考を育む教育の場においてそれを蝕む言説が受け入れられている状況がある。

大学改革によって外部資金に依存した即席の研究成果が求められる風潮が強まっている状況において、基礎研究の軽視や、よりよい研究環境を求めて研究者の海外流出が日本の科学者業界の空洞化をもたらすとすれば、そして他方で基礎学力を養う場において科学的思考能力の育成が蔑ろにされ、「擬似/ニセ科学」に騙されてしまう素地が一定程度出来上がっているとすれば、今回のノーベル賞受賞を単純に喜んでばかりはいられないだろう。むしろ科学分野のノーベル賞において「純粋日本の」研究成果が選ばれる可能性はきわめて限られてくるのではないだろうか。今年のノーベル賞受賞が後に振り返ったとき「過去の栄光」として記憶されることになることは十分考えられるだろう。

・追記(10月16日)
「ノーベル賞の南部さん、文科省の集計では『米国人』」『朝日新聞』
「ノーベル賞:物理学賞・益川氏と小林氏は京大出身?」『毎日新聞』
「『ノーベル賞の京産大』アピール『益川研究所』の設立も検討」『京都新聞』

ノーベル賞受賞狂騒曲も一段落が着き、あとは年末の十大ニュースなどで取り上げられるまで一般的には忘却の穴に放り込まれた状態になると思われる。そのノーベル賞狂騒曲の後日談ともいえるニュース。受賞者をどのカテゴリーに差配するかをめぐって、国家レベルと大学レベルのそれぞれで悩ましい問題が提起された物理学賞の受賞者たちであるが、南部氏については文部科学省は国別集計上「アメリカ人」とすることで一応の妥協点を見出したといえる。その一方で益川・小林両教授(の研究成果)の出自をめぐって「生まれの名大」と「育ての京大」との間で認知騒動と呼べそうな状況にある。しかしながら、この点に関しては京大側を悩ませている問題であり、一方通行的な求愛だといえそうである。それに加えて益川教授が現在所属する京産大もその名を冠した「益川研究所」の設立に乗り出すとなれば、こじれた三角関係の構図が出来上がってくる。
コメント (2)
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新規開拓

2008年10月03日 | hudbeni
ザ・マッド・カプセル・マーケッツを初めて聴いたとき以来の衝撃を受け、このところヘビーローテーション状態にあるブンブンサテライツ(Boom Boom Satellites)。といっても、ウィキペディアによると1990年結成で1997年デビューと、すでに10年以上のキャリアになるユニットであり、その存在を先月まで知らずにいたということは、いかに音楽事情に興味を失っていたかを実感させてくれる。

ただサウンド的には、後期ザ・マッド・カプセル・マーケッツとソフトバレエ(あるいは森岡賢のソロ作品)の中間に位置づけられる感じで、その点では、デビュー当初のコンセプトが「デジタルサウンドとハードロックの融合」だったフェンス・オブ・ディフェンスを含めて、音楽的嗜好性がそう変化していないことに気づかされる。

Boom Boom Satellites / Morning After


The Mad Capsule Markets / Chaos Step


森岡賢 / Zero
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