constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

失われた社会民主主義の再考/再興

2009年05月30日 | nazor
55年体制が崩壊した1990年代以降の日本政治を特徴付ける政治改革および政界再編の議論が目指したのは、安定した(二大)政党による政権交代を可能にする政治システムの構築であった。一方の軸を担う政党として自民党が半ば自明視されていたため、議論の焦点は、自民党に対抗できる政党の形成に向けられ、20年近い時間をかけた野党勢力の離合集散の結果、民主党が対抗政党の地位を占めるようになった。そして小泉政権が推し進めた構造改革路線の負の側面が顕在化し、さらに後継首相が一年も経たずに政権を投げ出す事態が相次いだことは、自民党政治の末期症状ないし終焉を強く印象付け、政権交代の機運を醸成している。たしかに政権交代への期待感は、小沢一郎の西松建設献金問題の発覚によっていったん萎んだかに見えたが、鳩山由紀夫が新代表に選出された直後の各種世論調査の結果が示すように、麻生政権の支持率回復が一時的な現象であり、次期総選挙の結果次第によっては民主党政権の誕生は大いにありうるといえるだろう。

しかしながら、民主党への支持は、民主党の政策に対してというよりもむしろ「自民党ではない」、あるいは「自民党よりもまし」という消極的理由に拠るところが大きいし、それが「政権担当能力」というお決まりの批判が説得力をもって受け止められる要因にもなっている。しかも結党過程から明らかなように、民主党は、出自を異にする多様な政策グループを抱え、防衛・安全保障政策に関しても、また経済および社会政策の分野においても、党内の意見が集約されているとは必ずしもいえない。そのため、一部には自民党以上に「タカ派」で「新自由主義」的な匂いを漂わせている。民主党の政策的不透明性は、自民党に対抗する政策上の結集軸として福祉などに象徴される社会民主主義的な理念に基づいた中道左派政党に期待する者にとって不安材料となっている。

一方で社会民主主義についてのイメージは依然として旧来の大きな政府と結びつけられ、グローバル資本主義の圧力への対応力に欠けている印象を与える。とりわけ日本の場合、自民党と対峙する政党を支える政策理念を社会民主主義に見出し、政策距離の違いがほとんど存在しない2つの保守政党ではなく、政策上の対立軸に沿って結晶化した保守政党と社民政党による政権交代を想定する議論や試みは、1990年代を通して、大きな挫折感を味わってきた(たとえば、山口二郎『ポスト戦後政治への対抗軸』岩波書店, 2007年: 1章参照)。自衛隊や日米安保条約の容認といった政策転換にもかかわらず、抵抗政党という旧来のイメージを払拭することができず、支持を急速に失っていた社会党の動向は、同時代にあって、党改革を断行し、強力な指導力を発揮する党首に率いられたイギリス労働党やドイツ社会民主党が政権を獲得したヨーロッパの状況と比較対照されることによって、日本政治において社会民主主義勢力の低迷を物語っている。

「左派の蹉跌」を経て、21世紀に入り、日本政治は小泉政権の誕生とともに新自由主義的色彩を強めたわけであるが、小泉政権の構造改革路線に起因する問題が次第に現出するにつれて、貧困や格差などの経済社会問題に対する有効な処方箋の根底に看取できるのが社会民主主義的な理念であることを考えたとき、社会民主主義を政策理念として掲げる政党が支持を獲得するだけの下地は十分に存在するといえるだろう。以上の点を念頭に置くならば、これまで日本における社会民主主義(思想)は国際冷戦の図式に引き摺られ、過小評価されてきたが、新自由主義的なグローバリゼーションがもたらす弊害に対する代案としての社会民主主義に対する新たな関心に呼応しながら、しかも歴史的な文脈のなかで考察する議論が近年登場してきたことは興味深いといえよう。

酒井哲哉は、思想史的な観点から戦後革新における「民主社会主義」の再考を通じて「政権担当能力のある社会民主主義政党は、なぜ日本で育たないのか」という問いへのアプローチを試みている(「ワールドスコープ:民主社会主義 再考の価値」『読売新聞』2009年5月18日)。酒井によれば、昭和前期の社会政策学者・河合栄治郎にその知的系譜を遡ることができ、戦後になって社会党右派や民社党の思想的基盤となった民主社会主義に対する思想史上の評価はきわめて低い。それは、戦後知識人にとって民主社会主義が負の記号と捉えられ、また革新陣営が掲げるマルクス主義や平和主義と一線を画した反ソ・反共的な姿勢、対米協調関係の重視などに起因し、国際冷戦を投影した保守と革新の二分法的な対立構図で叙述されがちな戦後政治史の見方に立つ限り、民主社会主義を適切に位置づけることを困難にしている。

社会民主主義の位置づけの難しさは、別の論考で論じられているように、戦間期の国際秩序論を視野に入れることによってより明確になる(「社会民主主義は国境を越えるか?──国際関係思想史における社会民主主義再考」『思想』1020号, 2009年)。すなわち蝋山政道や矢内原忠雄らの越境的な福祉への関心に内在する「帝国再編の磁場にあったがゆえに生じた垂直的制御への志向性」(141頁)が、東亜協同体論などの地域主義構想に見え隠れし、「国際関係思想における社会民主主義は、水平的連帯と垂直的制御が諧和する場において、その福祉関心を強権によって具現化することになった」(142-143頁)。そして戦間期の秩序論が孕んでいた越境的(・グローバル)な契機の二重性は、戦後日本における社会民主主義の位置づけや評価にある種の「ねじれ」をもたらすことになる。すなわち河合栄治郎の薫陶を受けた「民主社会主義者」が唱えた近代化論に見られるように、機能的統合論や地域主義構想などの社会民主主義的な秩序論は、「戦後日本においては『保守』の言説とみなされ」た(144頁)。また「講和以後の社会党の統治政党から抵抗政党への転換」が「本来社会民主主義政党に包含されて然るべき要素を、意図せずしてしめだ」したことも「民主社会主義」の位置づけや評価を曖昧なものにしたといえる(「国際関係思想における社会民主主義――戦後日本政治に対するその含意」山口二郎・石川真澄編『日本社会党――戦後革新の思想と行動』日本経済評論社、2003年: 41頁)。

一方、戦後日本政治において社会民主主義の可能性がまったく排除されていたわけではなかったことを労働政治の領野に焦点を当てて明らかにしたのが中北浩爾『日本労働政治の国際関係史 1945-1964――社会民主主義という選択肢』(岩波書店, 2008年)である。権力政治上の対立とイデオロギー上の対立が絡み合う冷戦の特質は、自由主義陣営の内部の労働組合を「『鉄のカーテン』と並ぶ、冷戦のもう1つの前線」(5頁)として浮上させたが、中北は、これまで左派の総評と右派の全労との対立と叙述されてきた戦後日本の労働政治において、「西側指向で生産性の向上に協力しながらも、労働者の生活水準の改善を強力に推し進める戦闘的で統一的な労働組合のナショナル・センターを支持し、その登場を後押しする」(12頁)社会民主主義的な外圧がアメリカをはじめとする各国および労働組合から加えられたと指摘する。そしてアメリカの対日労働外交の射程は、「西側指向で統一的な労働組合」を「基盤とする政権担当可能な社会民主主義政党の結成」(359頁)にまで及んでいたことや、「アメリカ政府は、自民党政権以外の選択肢を否定したわけではなかったし、労働組合に対しても必ずしも敵対的ではなかった。アメリカが拒否したのは、あくまでも共産主義や中立主義であり、西側陣営を指向する西欧的な社会民主主義は、アメリカの冷戦政策が許容する範囲に入っていた」(359頁)といった指摘は、従来の戦後日本政治史像に対する重要な問題提起となっている。加えて中北は、戦後世界における労働組合運動の展開を辿る試みを敷衍して、「貧富の格差の拡大など世界中で深刻な問題を発生させているグローバル資本主義に対抗する鍵は、公正なグローバリゼーションを目指す国際的な労働組合運動と先進国の政府のイニシアティヴに存在する」(363頁)という今日の世界への含意を導き、グローバルな社会民主主義という可能性を示唆している。

たしかに実際の戦後政治の展開において、社会民主主義を一方の結集軸とする政党政治の確立、およびそれに基づく政権交代の可能性は皆無であり、自民党による一党優位体制が長期にわたって続くことになった。それゆえに社会民主主義という選択肢は「歴史のイフ」に属する問題かもしれないが、酒井や中北が社会民主主義に改めて注目する理由の一端には、1970年代以降の政治経済を規定する思想である新自由主義に依拠した経済政策の弊害、そして社会的不平等や貧困の是正や解消に際して社会民主主義の系譜に連なる理念や政策が有益な知見を提供してくれるという今日的な関心に基づくものであることは明らかである。酒井が指摘するように、民主社会主義の知的水脈が、19世紀後半に自由放任主義を批判し、「新しい自由主義 New Liberalism」を提唱したT・H・グリーンの思想に遡ることができることは、19世紀から20世紀にかけての世紀転換期の国際関係史と現代との共通点を浮かび上がらせるとともに、現代のグローバリゼーション理解に纏わりつく視野狭窄に陥る危険性を回避することにもつながっていく。

社会党の抵抗政党化と自民党の包括政党化に基づく55年体制は、理念の軽視された時代でもあった。社会党は実現可能性の乏しい理念を振りかざすことに満足する一方で、自民党は政権維持のため、ときに相矛盾する理念までも採り入れることに躊躇しなかった意味で、そこに理念の過剰もしくは過少しか見出すことができず、理念と利害の適切なバランスに依拠した政治が存在したとはいえない。小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」まではいかずとも、新自由主義を自民党の理念に据えたことは、その理念の是非をめぐっては議論の分かれるところではあるが、自民党の変容を意味しているといえる。そして自民党が新自由主義に親和的であるというイメージは、対抗軸としての社会民主主義の価値を高める効果を発揮した。たしかに構造改革路線の弊害と2007年参院選の大敗が、自民党に軌道修正を迫り、また先述したように民主党もはっきりと社会民主主義路線に舵を切ったわけではない。しかし「理念を持った責任政党」(酒井「民主社会主義…」)による政治、そして政権交代の実現が政治の健全な在り様だとすれば、社会民主主義の理念を掲げる政党が一定の力を有することは望ましいことであろう。

list31

2009年05月28日 | hudbeni
TOTO / ISOLATION
THE MAD CAPSULE MARKET'S / 4 PLUGS
TM NETWORK / humansystem
Sinead O'Connor / Universal Mother
甲斐バンド / 虜
相対性理論 / シフォン主義
LED ZEPPELIN / IN THROUGH THE OUT DOOR
FENCE OF DEFENSE / 円游律
BOSTON / GREATEST HITS
ends / spacy

久々にシネイド(シニード)・オコナーからサード・アルバムを選ぶ。またタイミングよくユーチューブで、フェンス・オブ・ディフェンスの現在を象徴する曲 "Spiral Rondeau" がアップされている(先日5月23日のライヴ映像)。

Sinead O'Connor / Fire on Babylon


FENCE OF DEFENSE / Spiral Rondeau

追憶の(論壇)現実主義

2009年05月16日 | nazor
戦後日本の、とくに外交安全保障政策に関する公論形成に大きな役割を果たしてきた論壇の衰退が叫ばれて久しい。国際的な冷戦構造の解体と連動する形で、いわゆる「国内冷戦」としての55年体制も溶解した1990年代以降、広く国民一般に浸透し、議論を喚起するような言説を紡ぎだす努力が等閑にされ、自らの思想・信条とは相容れない意見に耳を傾ける姿勢に欠け、むしろそうした異論を徹底的に排除するような形の言語ゲームが展開されている。とくに左派・革新派の退潮が言論においても実際の政治においても顕著となり、論壇空間の重心が右寄りにシフトしたことによって、右派・保守派言説のヘゲモニーが確立されたといえるかもしれない。

しかし論争相手を失ったことは、右派・保守派内部での言説の細胞分裂をもたらし、善悪の二項対立に基づく冷戦思考を極限まで純化させたような観念主義やロマン主義に彩られた言説が一定の支持を得るようになっている。この右派・保守派言説の観念論的転回ともいうべき現象は、右派・保守派の論壇誌のうちで相対的に地に足の着いた議論を提供してきた『諸君!』の休刊や、戦後の論壇現実主義の担い手であった永井陽之助や神谷不二といった論者たちの(肉体的)退場などによっても強く印象付けられる。またいわゆる「田母神論文問題」において文民統制の観点から批判した五百旗頭真・防衛大学校校長に対して、一部の防衛大学校OBを中心に抗議や非難の声が挙がっていることも、従来の右派・保守派についての感覚に照らしてみたとき、高坂正堯や永井といった現実主義の系譜に連なる五百旗頭に対する非難は、きわめて奇異な現象である。

こうした右派・保守派の言論空間の変容(あるいは硬直化)に対して、五百旗頭と同じく戦後の(論壇)現実主義の伝統に連なる村田晃嗣も懸念を表明し、「保守」が「現実主義」との接点を保つことによって、狭量さや硬直化に陥ることを回避すべきだと説く(「正論:保守は現実主義を取り入れよ」『産経新聞』2009年5月14日)。村田の懸念は何も今日的な現象ではない。1960年代半ば、永井は、いくぶん毒を含ませて観念的保守派に対する皮肉を(憲法改正に関連付けて)述べている。すなわち「『安全』のために『独立』を放棄した保守政権に、憲法改正のイニシアチブをとる、何らの権利もない。…。ともかく、自民党が現行憲法の改正を云々するのは、戦後20年の業績を自ら否定し去るようなものである。保守勢力は"反動"から脱して、真に保守らしく、現憲法(戦後体制)を保守する側に回るのがスジである」、あるいは「自民党は、『憲法改正』という党の綱領を改め、保守政党らしく、現憲法の遵守(戦後体制保守)を明確化し、平和と民主主義の精神に徹すべきである」(『平和の代償』中央公論社, 1967年: 165、186-187頁)。

それでは、村田が引用する高坂や永井らの現実主義とはいかなるものなのだろうか。別の論考で村田は、戦後の(論壇)現実主義の展開を揺籃期・爛熟期・拡散期に三区分したうえで、爛熟期の特徴として「学問としてのリアリズムと政策としてのそれの中間に、両者を架橋する形で論壇『現実主義』が大きく介在した点」を指摘する(「リアリズム――その日本的特徴」日本国際政治学会編『日本の国際政治学(1)学としての国際政治』有斐閣, 2009年: 43頁)。そして論壇現実主義を牽引した論者たちに共通する点として、言論におけるドグマ・イデオロギー性の弱さ、アメリカ経験、冷戦終焉までにわたる活動期間の長さ、活動場所としての論壇、そして現実政策への関与という5点を、また現実主義(的思考)が1960年代に入って台頭してきた要因については、冷戦構造の所与性、日本の大国化、アメリカとの同盟関係の管理の必要性、そして世論の保守化傾向を挙げる(48-49頁)。

たしかに(論壇)現実主義は、まさにその時々の国際政治情勢を背景にして論壇という場で、多くが評論という形式で提示された点で、すぐれて文脈依存的であり、議論や説明が不十分な面も否めない。言い換えれば、(論壇)現実主義は、あくまで冷戦リアリズムの一種であり、それゆえに時代拘束性を免れることはできず、村田が挙げる共通点や台頭要因を規定した条件が失われたとき、(論壇)現実主義はその内実を刷新することを余儀なくされる。しかし、そうした条件を所与として展開してきた(論壇)現実主義は、ポスト冷戦期(あるいは村田の区分で言えば拡散期)に入り、自己変革の契機を十分に捉えることができなかったのではないだろうか。

高坂が提起し、永井が昇華・定式化させた「吉田ドクトリン」という(論壇)現実主義第一世代の遺産は、日米安保の再定義などを経て、外交政策上の変更できない不可侵の原理になっていった。日米同盟の神聖不可侵化の帰結は、第一に、外交政策上の争点とはなりえなくなったことを意味すると同時に、具体的な同盟政策の内実よりも、親米か反米かあるい親日か反日かといった観念や象徴レベルに論争の舞台が移行し、冷戦期以上にイデオロギー的様相を呈するようになる。それにともなって現実主義の意味内容も「力の政治」や軍事力の効用を強調する、単純で分かりやすいものの、政策的な構想や処方箋としては無内容に等しい、いわゆる「タブロイド・リアリズム」と化していく。それは、田母神論文がアメリカの(公式)歴史観を否定してみせたように、すくなくともアメリカとの同盟関係を軸に据えた戦後の(論壇)現実主義が整備した枠組みとは相容れない意味で、似非現実主義と呼ぶべき世界観である。

第二に、日米同盟が与件となったことによって、イラク戦争の開戦理由をめぐって村田をはじめとする現実主義第二世代の展開した議論に典型的に現れたように、現実主義が限りなく現実追随主義に傾斜していくという陥穽である。それはまた、対米協力を具体的な形で可視化する方策として、軍事的な貢献が強調されることに見られるように、同盟関係における軍事の論理が優位していく。永井の図式で言うところの政治的現実主義に対する軍事的現実主義の優位であり、そこから単純で素朴な「力の政治」を教条化する似非現実主義までの距離はそう遠くない。高坂や永井ら第一世代が有していた、きわめて冷厳で柔軟な同盟政策観に触れたとき、現実追随主義の位相はいっそう際立つ。第一世代にとって「選択」の問題であった日米同盟は、第二世代には「運命」と捉えられ、あるいは高坂の表現を借りれば(『海洋国家日本の構想』中央公論新社, 2008年: 25頁)、手段としての同盟から目的としての同盟へと「手段-目的」関係が反転している。その結果、「運命」と認識するがゆえに同盟の解消をも考慮に入れた外交構想が提示できない思考停止状況が生まれ、「日本本土の米軍基地はすべて引き上げてもらう」(高坂: 243頁)や、「緊張緩和のテンポに応じて、日米安保体制を、しだいに有事駐留の方向に変えていく」(永井: 130頁)といった同盟を相対化する視点は、それこそ「非現実的」として先験的に退けられてしまう。

一方における現実追随主義と、他方における現実主義のタブロイド化によって挟撃されている状況、それが1990年代以降の(論壇)現実主義の軌跡の先に現出したものであった。タブロイド化した似非現実主義を憂い、慎慮に基づく現実主義の復権を志向する態度が、硬直化した公論空間に対する一種の解毒剤として機能する期待から出てくるものであるとすれば、それはあくまで対抗言説の領野に止まらざるをえない。高坂や永井の議論を対置するだけで満足しては、なぜ第二世代の論者たちが現実追随主義の陥穽に嵌りがちなのかを理解できない。第一世代の議論の中身にまで立ち入って、日本型現実主義の特質や問題点を明らかにする作業が必要とされる。さらにいえば、村田が叙述するような日本における現実主義(思考)の「正史」では捨象された現実主義の多声性に目を向けることができるし、それこそが現実主義の再評価に値する試みであろう。