一方である言語で書かれた原書を逐語的に訳すことで別の言語においてできる限りの「再現性」を高めることと、他方で文法構造の違いや語彙量の多寡などの点で原書の完全な「再現」など不可能であることを念頭に一定程度の「意訳」によって翻訳したときの読みやすさを重視することの、相容れない要請が、翻訳者にとって出口のない、悩ましい課題となっていることは言うまでもないことであろう。原書に忠実すぎるあまり、文章が直訳調で生硬になり、日本語として意味不明であっては、翻訳を読む意味がないし、そもそも原語に通じているならば原書を読むほうがはるかに理解を深めることになろう。それゆえに原文の意味を汲んだ上で日本語としてこなれているというのが翻訳に求められる基準であろう。
しかしときにこの基準を逸脱するような翻訳に遭遇することがある。このとき翻訳という行為の難しさが改めて認識させられる。翻訳行為が原書を別の言語で読むことができるようにする行為であるとすれば、ある程度の「意訳」が許容されるとしても、訳者自身の解釈や読み方を訳文に反映させるようなことはなるべく抑制するべきだろう。そうした行為は訳者解説で、あるいは書評論文でそれこそ思う存分に展開すればよい話である。訳者は読者に対して特定の解釈や読み方を規定するような「親切心」を慎むべきで、あくまで原書と読者との間に立つ媒介者としての役割に徹することが求められるのではないだろうか。
さてこうした翻訳論の類を展開しようと思うきっかけは、イアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論――グレート・ディヴァイドを超えて』(中央大学出版部, 2010年)を読み始めたことにある。すなわちいきなり1ページ目から下線が引かれた文章があり、「(下線部、訳者)」との但し書きが挿入されている。下線の引かれた文が本書を理解するうえで重要であることを読者に示したいという訳者のそれこそ「親切心」の表れとみることができよう。たしかに大学のゼミなどでレジュメを作成するときに、補助線として理解の助けとなり、作成作業が容易になるかもしれない。
しかし「下線の引かれた文=重要な文」との理解に引きずられて、それこそ訳者の解釈に沿った読み方に誘導されかねない。このことは、多様/多声的な読書を阻害するものであり、読者の主体的な解釈行為を排除するものでしかない。図書館で借りた本に付箋や書き込みがあると無意識にそれらに目が留まってしまうが、気になるならば付箋や(鉛筆での)書き込みであれば取り除くことができるが、下線がしっかりと印刷されていてはどうしようもない。言い換えれば、単なる訳注や文章の補完といった「読みやすさ」から明らかに逸脱した越権行為であり、媒介者としての翻訳者の役割を放棄しているに等しい。あるいはこのような訳者による「装飾」が必要ならば、それに対する説明が「凡例」や「訳者まえかき」でなされるべきであろうが、そのような説明が一切欠けているのも理解に苦しむところである。
結果的に、研究者はもちろん原書の読める英語力を持つ学生はこの訳書を読む積極的誘因を持たず、ゼミなどで講読文献に指定された学生に読まれるくらいで、翻訳を刊行する意義は薄れてしまっている。このような翻訳行為の領分を逸脱した形でイアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論』が日本で紹介されるようになってしまったことはきわめて残念であり、原著者のイアン・クラークにとっても不幸な出来事である。なお訳者は(参考文献を見ると[305頁])相互依存論の古典 Power and Interdependence の翻訳を進めているようであるが、今回のような「親切心」を自制し、それができないならば翻訳作業から自発的に降りるのが日本の学界にとっても有益であろう。
ついでにいえば、この本の索引も、まともな編集経験のある者が作成したとは思えない(学生に丸投げしたかのような)杜撰さが際立っている。たとえば人名索引でタ行に「デイヴィッド、ヘルド」とあるが、もちろんこれはハ行にあるべきものであり、しかもハ行では「ヘルド、デーヴィッド」と「David」の表記が統一されていない。あるいは「ホフマン」を見ると、そこには該当する5つのページが記されているが、そのうち「122、124、134」は「M・ホフマン」を、「197、241」は「S・ホフマン」を指し、その区別がされていない。他方で同姓であっても「ウィリアムズ」や「コックス」などは、姓だけの「ウィリアムズ」と姓名そろった(たとえば)「ウィリアムズ, H」とが併記されているが、この場合わざわざ「ウィリアムズ」を独立させる理由はない。これらの混乱の原因は、わざわざ出典表示まで日本語に訳していることにある。つまり一般に原文のまま「(Little and Smith, 1991)」とされているものを「(リトルとスミス:1991年)」(3頁)と訳しているためであり、しかも索引作成者は機械的に同一の単語すべてを拾って索引に登録していることにある。さらに出典表示を訳す一方で、参考文献一覧は原文のままであることに加えて「トマス・ポッゲ→トマス・ポギー」、「ジョン・ハーツ→ジョン・ヘルツ」や「ジャン・マリ・ゲーノ→ジャン・マリ・グエヘノ」のように定訳を無視したり、一つの姓である「リッセ=カッペン」を「リセ」と「カッペン」に分割してそれぞれカ行とラ行に載せるなど、ググれば容易に確認できるにもかかわらず、そうした作業を怠った「初歩的な」誤りによって、出典表示と対照させることが困難になっている。
しかしときにこの基準を逸脱するような翻訳に遭遇することがある。このとき翻訳という行為の難しさが改めて認識させられる。翻訳行為が原書を別の言語で読むことができるようにする行為であるとすれば、ある程度の「意訳」が許容されるとしても、訳者自身の解釈や読み方を訳文に反映させるようなことはなるべく抑制するべきだろう。そうした行為は訳者解説で、あるいは書評論文でそれこそ思う存分に展開すればよい話である。訳者は読者に対して特定の解釈や読み方を規定するような「親切心」を慎むべきで、あくまで原書と読者との間に立つ媒介者としての役割に徹することが求められるのではないだろうか。
さてこうした翻訳論の類を展開しようと思うきっかけは、イアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論――グレート・ディヴァイドを超えて』(中央大学出版部, 2010年)を読み始めたことにある。すなわちいきなり1ページ目から下線が引かれた文章があり、「(下線部、訳者)」との但し書きが挿入されている。下線の引かれた文が本書を理解するうえで重要であることを読者に示したいという訳者のそれこそ「親切心」の表れとみることができよう。たしかに大学のゼミなどでレジュメを作成するときに、補助線として理解の助けとなり、作成作業が容易になるかもしれない。
しかし「下線の引かれた文=重要な文」との理解に引きずられて、それこそ訳者の解釈に沿った読み方に誘導されかねない。このことは、多様/多声的な読書を阻害するものであり、読者の主体的な解釈行為を排除するものでしかない。図書館で借りた本に付箋や書き込みがあると無意識にそれらに目が留まってしまうが、気になるならば付箋や(鉛筆での)書き込みであれば取り除くことができるが、下線がしっかりと印刷されていてはどうしようもない。言い換えれば、単なる訳注や文章の補完といった「読みやすさ」から明らかに逸脱した越権行為であり、媒介者としての翻訳者の役割を放棄しているに等しい。あるいはこのような訳者による「装飾」が必要ならば、それに対する説明が「凡例」や「訳者まえかき」でなされるべきであろうが、そのような説明が一切欠けているのも理解に苦しむところである。
結果的に、研究者はもちろん原書の読める英語力を持つ学生はこの訳書を読む積極的誘因を持たず、ゼミなどで講読文献に指定された学生に読まれるくらいで、翻訳を刊行する意義は薄れてしまっている。このような翻訳行為の領分を逸脱した形でイアン・クラーク『グローバリゼーションと国際関係理論』が日本で紹介されるようになってしまったことはきわめて残念であり、原著者のイアン・クラークにとっても不幸な出来事である。なお訳者は(参考文献を見ると[305頁])相互依存論の古典 Power and Interdependence の翻訳を進めているようであるが、今回のような「親切心」を自制し、それができないならば翻訳作業から自発的に降りるのが日本の学界にとっても有益であろう。
ついでにいえば、この本の索引も、まともな編集経験のある者が作成したとは思えない(学生に丸投げしたかのような)杜撰さが際立っている。たとえば人名索引でタ行に「デイヴィッド、ヘルド」とあるが、もちろんこれはハ行にあるべきものであり、しかもハ行では「ヘルド、デーヴィッド」と「David」の表記が統一されていない。あるいは「ホフマン」を見ると、そこには該当する5つのページが記されているが、そのうち「122、124、134」は「M・ホフマン」を、「197、241」は「S・ホフマン」を指し、その区別がされていない。他方で同姓であっても「ウィリアムズ」や「コックス」などは、姓だけの「ウィリアムズ」と姓名そろった(たとえば)「ウィリアムズ, H」とが併記されているが、この場合わざわざ「ウィリアムズ」を独立させる理由はない。これらの混乱の原因は、わざわざ出典表示まで日本語に訳していることにある。つまり一般に原文のまま「(Little and Smith, 1991)」とされているものを「(リトルとスミス:1991年)」(3頁)と訳しているためであり、しかも索引作成者は機械的に同一の単語すべてを拾って索引に登録していることにある。さらに出典表示を訳す一方で、参考文献一覧は原文のままであることに加えて「トマス・ポッゲ→トマス・ポギー」、「ジョン・ハーツ→ジョン・ヘルツ」や「ジャン・マリ・ゲーノ→ジャン・マリ・グエヘノ」のように定訳を無視したり、一つの姓である「リッセ=カッペン」を「リセ」と「カッペン」に分割してそれぞれカ行とラ行に載せるなど、ググれば容易に確認できるにもかかわらず、そうした作業を怠った「初歩的な」誤りによって、出典表示と対照させることが困難になっている。
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