20世紀後半の世界政治を規定してきた(米ソ)冷戦が熱戦に転化することなく終結した事実は歓迎すべきものであるが、平和的変革であったがゆえに冷戦「後」の秩序構築には多大な困難が伴うことになった。藤原帰一の言葉を借りれば「世界戦争という悪夢を失うことで秩序へのインセンティブは衰えてしまった」のである(「世界戦争と世界秩序――20世紀国際政治への接近」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(1)構想と形成』東京大学出版会, 1998年: 55頁)。その結果、冷戦「後」秩序に関する構想が明確に打ち出されることがないまま 、北大西洋条約機構(NATO)や日米安保体制のように、冷戦期に起源をもつ制度的枠組みが部分的な変更を加えられつつも、存続することになった。
その意味で冷戦の終焉が明らかな断絶を意味するとみなすことには幾分の躊躇いを覚えてしまう感は否めないが、冷戦の終焉が世界秩序の在り様をめぐる新たな論争空間を切り開いたことも確かである。そこでは、国家間の権力の再配分にすぎないと見る立場から、主権国家システム自体の根本的変容を見出す立場まで、さまざまな言説が飛び交い、「百家争鳴」と形容すべき状況が生じていたが、間接的な意味合いを帯びた「ポスト冷戦」に取って代わる時代認識がヘゲモニーを握ることがなかった点を捉えるならば、まさに「名もなき90年代 nameless nineties」という把握はそれなりに有効だといえる(Ken Booth, "Cold Wars of the Mind," in Booth ed., Statecraft and Security: the Cold War and Beyond, Cambridge University Press, 1998)。
さて「ポスト冷戦」の思潮として頻繁に言及された代表的かつ対照的な見解(あるいは楽観論と悲観論の典型)はいうまでもなく、冷戦の終焉を市場経済および自由民主主義の勝利と解釈し、人類は歴史の終着点に到達したと指摘したフランシス・フクヤマ『歴史の終わり(上・下)』(三笠書房, 1992年)と、イデオロギーに代わって文明(の差異)に今後の紛争要因を見出すサミュエル・ハンチントン『文明の衝突』(集英社, 1998年)である。この2つの見解をめぐっては、その鮮やかなまでの対照性に注意が向かいがちであるが、世界を切り分ける「境界線の政治 border politics」の観点から見れば、相互補完的な関係にあることが分かる。自由民主主義と市場経済に到達した「ポスト歴史世界」と、いまだその途上にある「歴史世界」から成る二元論的世界観は、ハンチントンの「西洋文明対儒教・イスラーム文明」という構図と重なり合う。「ポスト歴史世界」に住み、「退屈な時代」を生きる者にとって、「歴史世界」は市場経済や民主主義の確立や定着を志向する意味で「援助」の対象であると同時に、脅威の対象に容易に転化する異質な他者が住まう世界でもある。
こうした認識を側面から支えていたのが冷戦の終焉をアメリカ/西側の勝利に読み替える「勝利言説」である(西崎文子「ポスト冷戦とアメリカ――『勝利』言説の中で」紀平英作・油井大三郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境(5)グローバリゼーションと帝国』ミネルヴァ書房, 2006年、および同「ポスト冷戦時代再考――『歴史の終焉』を信じる前に」『論座』2007年5月号)。計画経済と権威主義が組み合わさったソ連型社会主義が行き詰まり、東欧諸国における体制転換が民主的に成し遂げられ、死亡宣告を告げられたことによって、アメリカ/西側が唱える自由民主主義は、「国家が国際社会で完全な権利と承認を得るために受け入れなくてはならない『文明の基準』」(Roland Paris, "International peacebuilding and the 'mission civilisatrice'," Review of International Studies, vol. 28, no. 4, 2002: 658)として機能する強固な規範となった。自由民主主義が政治的位相に関わるものだとすれば、経済的位相において世界的に認知されるようになったのが市場経済であることは他言を要すまい。すでに1970年代から西側世界で正当性を獲得し始めた新自由主義的な国家・経済運営の方策は、世界銀行や国際通貨基金(IMF)などの国際機関を通じて、発展途上国や旧ソ連・東欧諸国の政策路線を規律していくことになる。ここに国際的に認知された規範を体現する「ポスト歴史世界」と、それら規範の受容を迫られる「歴史世界」の構図が看取できる。この認識が形式的とはいえ主権国家の水平的関係に基づく国際関係とは様相を異にすることは容易に察せられるだろう。換言すれば、通念化されてきたアナーキーの国際関係からハイラーキーのそれへと構造的な変容が生じていると捉えることができる(この点に関して、山本吉宣『「帝国」の国際政治学――冷戦後の国際システムとアメリカ』東信堂, 2006年: 3章を参照)。
そして主権国家同士の水平的な関係から垂直的な関係への転換が戦争形態の変容とも連関していることは、ブッシュ政権が進める「テロとの戦争」が非国家主体を念頭に置く非対称型戦争であることから推察できる。その一方で、西崎文子が「『未開』や『非文明』と呼び習わされてきた土地は、第二次大戦後の脱植民地化の時代を経て『発展途上』地域と呼ばれるようになり、テロとの戦争の時代を迎えた今日、再び新しい名称を与えられている」と指摘するように(前掲「ポスト冷戦時代再考」: 52頁)、植民地戦争との連続性(と断絶)に目を向ける必要があるだろう。さらにいえば、冷戦自体もまた「主権国家を従属的単位として二つの陣営内に繰り込もうとした点でも、またそれらの陣営間対立が非妥協的イデオロギー対立の様相を呈した点でも、伝統的主権国家システムとは異質の、新しい――だが、宗教戦争を想起させるという点では復古的な――国際状況であった」(古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』岩波書店, 2004年: 157頁)ことを考えると、非対称/ハイラーキーの国際関係こそが日常の風景ではないかという思いに囚われる。
したがって「帝国」に注目が集まっている近年の傾向は単なる新奇性に起因するものではない。従来の国際政治学が前提としてきた国家主権の尊重および内政不干渉原則に基づく主権国家同士の水平的関係としての国際関係それ自体が実態と遊離した観念であることがようやく認識されるようになったというほうが適切である。あるいはヨーロッパ近代の経験知に依拠した国際政治学の偏狭性に対する修正主義運動の一翼を担う視座が「帝国」であるといえよう。
以上の点を踏まえるならば、「名もなき90年代」を通じて進展したのは、アナーキーな主権国家間関係からハイラーキーな帝国の統治体系への転換ではなく、ある帝国体系から別様の帝国体系への移行と捉え返すべきではないだろうか。もちろんこのことは、ハイラーキーという秩序原理において同一であるという点で、単に能力の配分状況の変化に注目するウォルツ流のネオリアリズムの論理をなぞっていると思われるかもしれない。しかし、現在の国際関係を構成する主体として主権国家を措定するウォルツ流の世界観とは存在論の次元においてまったく異なる前提に立つ点に留意するならば、その差異は自ずと明らかだろう。
その意味で冷戦の終焉が明らかな断絶を意味するとみなすことには幾分の躊躇いを覚えてしまう感は否めないが、冷戦の終焉が世界秩序の在り様をめぐる新たな論争空間を切り開いたことも確かである。そこでは、国家間の権力の再配分にすぎないと見る立場から、主権国家システム自体の根本的変容を見出す立場まで、さまざまな言説が飛び交い、「百家争鳴」と形容すべき状況が生じていたが、間接的な意味合いを帯びた「ポスト冷戦」に取って代わる時代認識がヘゲモニーを握ることがなかった点を捉えるならば、まさに「名もなき90年代 nameless nineties」という把握はそれなりに有効だといえる(Ken Booth, "Cold Wars of the Mind," in Booth ed., Statecraft and Security: the Cold War and Beyond, Cambridge University Press, 1998)。
さて「ポスト冷戦」の思潮として頻繁に言及された代表的かつ対照的な見解(あるいは楽観論と悲観論の典型)はいうまでもなく、冷戦の終焉を市場経済および自由民主主義の勝利と解釈し、人類は歴史の終着点に到達したと指摘したフランシス・フクヤマ『歴史の終わり(上・下)』(三笠書房, 1992年)と、イデオロギーに代わって文明(の差異)に今後の紛争要因を見出すサミュエル・ハンチントン『文明の衝突』(集英社, 1998年)である。この2つの見解をめぐっては、その鮮やかなまでの対照性に注意が向かいがちであるが、世界を切り分ける「境界線の政治 border politics」の観点から見れば、相互補完的な関係にあることが分かる。自由民主主義と市場経済に到達した「ポスト歴史世界」と、いまだその途上にある「歴史世界」から成る二元論的世界観は、ハンチントンの「西洋文明対儒教・イスラーム文明」という構図と重なり合う。「ポスト歴史世界」に住み、「退屈な時代」を生きる者にとって、「歴史世界」は市場経済や民主主義の確立や定着を志向する意味で「援助」の対象であると同時に、脅威の対象に容易に転化する異質な他者が住まう世界でもある。
こうした認識を側面から支えていたのが冷戦の終焉をアメリカ/西側の勝利に読み替える「勝利言説」である(西崎文子「ポスト冷戦とアメリカ――『勝利』言説の中で」紀平英作・油井大三郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境(5)グローバリゼーションと帝国』ミネルヴァ書房, 2006年、および同「ポスト冷戦時代再考――『歴史の終焉』を信じる前に」『論座』2007年5月号)。計画経済と権威主義が組み合わさったソ連型社会主義が行き詰まり、東欧諸国における体制転換が民主的に成し遂げられ、死亡宣告を告げられたことによって、アメリカ/西側が唱える自由民主主義は、「国家が国際社会で完全な権利と承認を得るために受け入れなくてはならない『文明の基準』」(Roland Paris, "International peacebuilding and the 'mission civilisatrice'," Review of International Studies, vol. 28, no. 4, 2002: 658)として機能する強固な規範となった。自由民主主義が政治的位相に関わるものだとすれば、経済的位相において世界的に認知されるようになったのが市場経済であることは他言を要すまい。すでに1970年代から西側世界で正当性を獲得し始めた新自由主義的な国家・経済運営の方策は、世界銀行や国際通貨基金(IMF)などの国際機関を通じて、発展途上国や旧ソ連・東欧諸国の政策路線を規律していくことになる。ここに国際的に認知された規範を体現する「ポスト歴史世界」と、それら規範の受容を迫られる「歴史世界」の構図が看取できる。この認識が形式的とはいえ主権国家の水平的関係に基づく国際関係とは様相を異にすることは容易に察せられるだろう。換言すれば、通念化されてきたアナーキーの国際関係からハイラーキーのそれへと構造的な変容が生じていると捉えることができる(この点に関して、山本吉宣『「帝国」の国際政治学――冷戦後の国際システムとアメリカ』東信堂, 2006年: 3章を参照)。
そして主権国家同士の水平的な関係から垂直的な関係への転換が戦争形態の変容とも連関していることは、ブッシュ政権が進める「テロとの戦争」が非国家主体を念頭に置く非対称型戦争であることから推察できる。その一方で、西崎文子が「『未開』や『非文明』と呼び習わされてきた土地は、第二次大戦後の脱植民地化の時代を経て『発展途上』地域と呼ばれるようになり、テロとの戦争の時代を迎えた今日、再び新しい名称を与えられている」と指摘するように(前掲「ポスト冷戦時代再考」: 52頁)、植民地戦争との連続性(と断絶)に目を向ける必要があるだろう。さらにいえば、冷戦自体もまた「主権国家を従属的単位として二つの陣営内に繰り込もうとした点でも、またそれらの陣営間対立が非妥協的イデオロギー対立の様相を呈した点でも、伝統的主権国家システムとは異質の、新しい――だが、宗教戦争を想起させるという点では復古的な――国際状況であった」(古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』岩波書店, 2004年: 157頁)ことを考えると、非対称/ハイラーキーの国際関係こそが日常の風景ではないかという思いに囚われる。
したがって「帝国」に注目が集まっている近年の傾向は単なる新奇性に起因するものではない。従来の国際政治学が前提としてきた国家主権の尊重および内政不干渉原則に基づく主権国家同士の水平的関係としての国際関係それ自体が実態と遊離した観念であることがようやく認識されるようになったというほうが適切である。あるいはヨーロッパ近代の経験知に依拠した国際政治学の偏狭性に対する修正主義運動の一翼を担う視座が「帝国」であるといえよう。
以上の点を踏まえるならば、「名もなき90年代」を通じて進展したのは、アナーキーな主権国家間関係からハイラーキーな帝国の統治体系への転換ではなく、ある帝国体系から別様の帝国体系への移行と捉え返すべきではないだろうか。もちろんこのことは、ハイラーキーという秩序原理において同一であるという点で、単に能力の配分状況の変化に注目するウォルツ流のネオリアリズムの論理をなぞっていると思われるかもしれない。しかし、現在の国際関係を構成する主体として主権国家を措定するウォルツ流の世界観とは存在論の次元においてまったく異なる前提に立つ点に留意するならば、その差異は自ずと明らかだろう。