constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

核兵器に癒されて

2006年10月29日 | nazor
かつて早稲田大学の講演会で核保有に言及した安倍晋三の首相就任に前後して、そのブレーンの一人と噂される中西輝政が編者となった『「日本核武装」の論点――国家存立の危機を生き抜く道』(PHP研究所, 2006年)が出版され、北朝鮮の核実験を奇貨とする中川政調会長や麻生外相による一連の「核保有(の検討)」発言が続き、日本の安全保障政策における核武装論が公に論じられる素地が生まれつつある。

アメリカの原爆投下を触媒として「核アレルギー」を慢性的に患い、やもすると核兵器に対して感傷的に反撥する世論を作り出してきたために、国家利益あるいは国家理性に沿った政策立案および遂行におけるひとつの手段としての核兵器の保有という戦略的観点が蔑ろにされてきたのではないかという認識、すなわち日本人の多くにとって核兵器が忌避されるべきものであると同時に、「あの戦争を終わらせてくれた」神聖なる「天佑」でもあったことが、戦後日本において今日まで核武装論を密教化させてきたといえる。したがって安倍首相周辺から聞こえる核武装論およびその議論・検討を主張する声は、首相が標榜する「戦後レジームからの脱却」の延長線上に位置づけられる。

核武装論を積極的に打ち出す論者に共通する認識は、日本を取り巻く国際環境を一瞥したとき、既存の核保有国であるアメリカ、中国、ロシアに加えて、新たに核実験を行い、事実上の核保有国となった北朝鮮に囲まれている地政学的な条件に基づいている。東アジア地域で偶発的であれ何らかの危機が生じたとき、核を保有する周辺諸国に比べて、日本の安全保障を確保する手段が限定されることに対する懸念から、その脆弱性を補う方策として核武装が現実味を帯びた形で認識される。

しかしながら、日本が核武装することによって得られるはずの安全を担保する抑止に信頼を寄せる論者が一方では、抑止の対象とされる北朝鮮(あるいは中国)に対するオリエンタリズム剥き出しの議論を躊躇いもなく展開していることは奇妙な点である。つまり核による抑止が機能するためには、抑止対象も自分たちと同じく「合理的」であることが前提となるにもかかわらず、メディアに流布している金正日および彼の体制は、日本に住む「われわれ」の常識が通用しない、言い換えれば「非合理的」な存在として描き出される。このようなイメージに基づいているために、北朝鮮との「交渉」や「対話」を促す動きに対して「弱腰」と非難を浴びせ、制裁を柱とする「圧力」が好んで叫ばれるわけだが、核抑止、あるいはそれに基づく核の平和が、ヘドリー・ブルが指摘するように「人間は『合理的に』行動するものだという仮定に途方もない責任を負わしている」(『国際社会論――アナーキカル・ソサイエティ』岩波書店, 2000年: 153頁)とすれば、北朝鮮を対象にした核武装論は、そもそも根底において破綻をきたしている。

「われわれ」にとって「全き他者」として北朝鮮が表象される限り、あるいはカール・シュミットに従えば(『政治的なものの概念』未来社, 1970年: 19頁)、抗争している「公敵」ではなく、単なる「私仇」に留まる限りにおいて、そこに核抑止が機能する上で必要な前提が共有される余地はない。さらに北朝鮮を「合理的」な主体、すなわち「交渉」や「対話」が可能な主体と認識するならば、偶発的な出来事による抑止の機能不全を内在的に有している核武装を選択するよりも、外交手段を十分に活用するほうがはるかにコストパフォーマンスにも優れている。

さらに核武装を選択することは、NPT体制の否定を意味し、これまでの北朝鮮の主張に正当性を与えるという結果をもたらす。核保有国と非保有国に不平等性を認める欠陥を抱えているNPT体制が根本的な改革を必要としていることは明らかだが、核の不拡散というNPT体制の掲げる大義名分、つまり理念として持っている権威を活用することもまた「抑止力」になりえる可能性を追求せず、北朝鮮と同じ土俵に上がって、無意味な軍拡競争を繰り広げることになってしまう。同じ土俵に上がるならば、北朝鮮をNPT体制という土俵に引き上げる試みが求められる。と同時に、明らかな不平等性を抱えたNPT体制の改革に取り組む姿勢も必要とされる。このことは、アメリカの核の傘からの離脱を意味し、それこそアメリカの従属国家という劣位からの「自立」につながる動きであり、核武装によってではない「戦後レジームからの脱却」のあり方ともなりえるだろう。

それゆえ安倍首相周辺から聞こえてくる核武装論は、日本を取り巻く地政学的状況を考慮していながら、その論理展開においてきわめて「国内向け」の色彩が強い。アメリカによって「去勢」されてしまったファルスを取り戻すことに「戦後レジームからの脱却」を重ね合わせ、それに執着することは、独り善がりの「癒し」行為の一種であり、結局のところ安全保障のジレンマを解消するどころか、固定化してしまうような「愚策」でしかない。
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冷戦のアジア的位相

2006年10月19日 | knihovna
下斗米伸夫『モスクワと金日成――冷戦の中の北朝鮮 1945-1961年』(岩波書店, 2006年)

北朝鮮の核実験をめぐる情勢がメディアを賑わせている昨今、共和制を布いている国家では、(アゼルバイジャンを除けば)異例の世襲国家という特異な体制を有する北朝鮮の来歴を改めて省みておく必要があるだろう。「アジアでは冷戦は続いている」という言説が一定の説得力を持って流通していることを考慮すれば、そして北朝鮮の国家建設過程が冷戦構造の定着過程とパラレルな関係にあったことに注意を向けたとき、現代東アジアの国際関係を規定してきた/している冷戦とは何かという問いを発することは重要な意味を持つ。

近年、米ソ冷戦およびヨーロッパ冷戦構造が瓦解したことを受けて、冷戦史研究は活況を呈している。いわゆる「新しい冷戦史」と呼ばれる潮流である。その特色を整理すれば、第1に、旧ソ連圏の公文書が解禁されたことによって、鉄のカーテンの向こう側からみた冷戦、そしてその内部で繰り広げられてきた同盟内政治の考察が可能になった点が指摘できる。第2に、冷戦の多層性あるいは多元性が認識されるようになり、米ソ冷戦の従属変数として、各地域の冷戦を捉えるのではなく、その相互作用を射程に含めるようになっている。第3に、冷戦を政治や軍事戦略領域に収まりきらない、言い換えれば社会生活、あるいは人々の観念や信条に強い影響を与えた複合事象と見る視点が登場してきた。

前著『アジア冷戦史』(中央公論新社, 2004年)と同様に、本書も、以上のような「新しい冷戦史」という潮流を背景にしていることは明らかであり、先の「新しい冷戦史」研究の特色に当てはめるならば、第1と第2の特色を持った研究といえる。つまり、主に解禁されたロシア語史料に基づいて、北朝鮮の建国から、朝鮮戦争を経て、金日成の権力基盤が確立されるまでを、とくにソ連および中国との愛憎半ばの複雑な外交関係を中心に考察している点は、東側同盟内部の政治過程に関するひとつの事例研究となっている。また、北朝鮮が第二次大戦後に建国されたポスト植民地国家であることが示すように、すでに国民国家建設が完了したヨーロッパを舞台にした冷戦とはまったく様相が異なる対立構図、つまり植民地からの独立およびその後の国家/国民建設という内政が容易に国際環境と結びつき、冷戦が熱戦に転化する可能性をつねに孕んだ戦後アジアの「冷戦」を考察対象にしていることである。そしてこの点は、アジアの戦後史を「冷戦」の視座だけで捉えることはどれくらい妥当性を持っているのかという問いにつながっていく。

本書の内容から抽出される興味深い論点をいくつか指摘するならば、第1に、冷戦の起源およびその展開をめぐる通説に対する修正が提起されている点である。すなわち解放ヨーロッパにいかなる秩序を築き上げるかという点をめぐる米ソの戦後構想認識のズレに端を発している点で、あくまで冷戦の主戦場はヨーロッパであり、そのヨーロッパの分断状況が固定化していくに伴い、戦線がグローバルに拡大していったとする従来の説に基づくならば、アジア地域における冷戦は、ヨーロッパ冷戦に先行するものではなく、典型的には1950年の朝鮮戦争勃発によって、冷戦構造が波及したとされる。しかし、本書「はじめに」および『アジア冷戦史』では、「アジアでこそ冷戦の対立が先駆的に生じ…、中でも朝鮮半島はその中心であった」(viii頁)という見解が提示される。そこには、米ソ中心あるいはヨーロッパ中心史観が支配的な既存の冷戦史研究に対する批判という意味合いが込められ、冷戦対立の客体としてではなく、むしろ冷戦を積極的・主体的に構成していた点を強調する。

アジア地域が冷戦の客体ではないという視点を敷衍すれば、米ソの同盟諸国もまた冷戦の客体ではなく、反対に冷戦の拡大・深化・長期化をもたらしていたのではないかというトニー・スミスの周辺国中心主義(pericentrism)の議論と通底する("New Bottles for New Wine: A Pericentric Framework for the Study of the Cold War", Diplomatic History, vol. 24, no. 4, 2000)。 なかなか同意を示さないスターリンに対し、金日成が再三にわたり勝算の見込みを伝え、説得を試みた朝鮮戦争の開戦過程に見られるように、アジア地域の対立において、客体にとどまろうとしていたソ連を北朝鮮が引きずり込んだともいえる。ジョン・ルイス・ギャディスが指摘するように(『歴史としての冷戦――力と平和の追求』慶応義塾大学出版会, 2004年)、ヨーロッパ地域でのアメリカのように、アジア地域においてはソ連が「招かれた帝国 Empire by Invitation」の役割を演じたのである。

また米ソによるグローバルな冷戦の終焉、および米中によるアジア地域冷戦構造が変容したにもかかわらず、「アジアでは冷戦は終わっていない」という言説が説得力を持って繰り返されるのは、冷戦の力学が一方向の単純なものではなく、外来のものであった冷戦が土着化することによって、独自の展開を辿っていった複合現象であることを示している。それは、1956年のスターリン批判が北朝鮮に及ぼした影響からも明らかであり、本書5章で論じられているとおりである。また米中和解、そして米ソ間のデタントが成立した1970年代によってアジア地域の冷戦の(部分的)終焉が、即座に共産党体制の体制転換をもたらさなかったことは、冷戦構造の解体と体制転換がセットになって進んだヨーロッパとの差異を浮かび上がらせる。

第2に、北朝鮮とソ連および中国の同盟関係を「偽りの同盟」と把握する視点である。たしかに北朝鮮の建国過程においてソ連系および中国系朝鮮人が主導的な立場にあり、彼らを通してモスクワあるいは北京の意思が反映されていたとみれば、「傀儡国家」と形容することもできる。しかし、その後の展開が示すように、金日成は、全面的に中ソに従属するというよりむしろ、両国の対立状況を巧みに利用して、自らの権力基盤を固めていった。こうした自律性を確保することができた要因には、ソ連の戦後構想において具体的なアジア、とりわけ朝鮮半島政策が欠けていたことが指摘できる。地政学的重要性があったといえ、それほど死活的ではなかったことから、長期的な視野に基づかない、ある意味で場当たり的な朝鮮半島政策が、金日成をはじめとする国内勢力に「通訳政治」を通してソ連の政策意図を換骨奪胎するだけの空間を与えたといえるかもしれない。そして、それは、1956年のスターリン批判の衝撃を回避し、逆に八月宗派事件によって中国派やソ連派を一掃し、金日成体制を確実なものにすることを可能にした。

また「偽りの同盟」という視座は今日的意味合いも持っている。現在の北朝鮮をめぐる国際関係における主要アクターである六カ国協議参加国のなかで、中国とロシアはともに北朝鮮の「友好国」としての立場から一定の影響力を持っているとみなされているが、冷戦期の中ソと北朝鮮の関係を考慮に入れれば、両国の影響力には大きな限界があることになる。換言すれば、現在の北朝鮮の瀬戸際外交を考える上で、その外交論理が、中ソという大国を相手にした非対称的関係の中で培われ、展開されてきた点を念頭におく必要があることを意味している。この点は、なぜ北朝鮮がアメリカとの二国間交渉を執拗に要求するのかという疑問に対して、まさに圧倒的なまでに非対称的な米朝関係こそが北朝鮮にとって外交を展開する慣れ親しんできたフィールドであるというひとつの糸口を提供する。

第3に、アジアにおける冷戦が、国民国家間の権力政治およびイデオロギー対立に加えて、帝国の解体および共産化、そして脱植民地化の趨勢の中で、展開していったことは、戦後史を冷戦という概念で把握することがどこまで可能なのかという問いを提起する。つまり冷戦の多層性や多元性を強調することは、戦後史における冷戦の比重低下をもたらす。これは、戦後史と冷戦史がどの程度一致し、どの部分で乖離しているのか、あるいは「終わった/終わっていない」とされるのは冷戦なのか、戦後なのかという問題である。「交渉不可能性の相互認識に立った単独行動の応酬」という永井陽之助の定義に基づけば、「交渉の時代」を掲げたニクソン大統領の登場と訪中によって、冷戦を構成する要件が取り払われたとみなすことができる。その後に残ったのは、第二次大戦の帰結あるいはその置き土産であるポスト植民地主義の問題である。いわばアジアにおいて戦後は未完のまま残されている。奇しくも安倍首相が政権の主要課題として掲げた「戦後レジームからの脱却」が日本国内のそれ、占領体制を念頭に置いている点で内向きの言説であることは明らかだが、アジア地域に目を転じてみれば、脱却すべき戦後自体が形成途上にあり、目標として掲げられるべきは「戦後レジームの完成」となる。こうした「戦後」認識の乖離が、昨今の外交不在とされる日中韓の関係の背後に横たわっているのではないだろうか。
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余興の定め

2006年10月17日 | hrat
新庄日米野球を辞退「若手にチャンスを」(『夕刊フジ』)

(誤審があったとはいえ)真剣勝負だったWBCのおかげで、シーズンオフに行われる日米野球の存在価値が怪しくなっている。ファン投票で選出された松中、藤川、岩村が故障を理由にして辞退したのに続いて、新庄も辞退を表明したことは、あえて「お祭り」的雰囲気に徹することに日米野球の価値を見出そうとする道を閉ざしてしまうことにもなり、日本プロ野球機構とともに大会を主催する読売グループにとってかなりの打撃となることは明らかだろう。

楽天の野村監督がぼやきたくなる心情も理解できないわけではないが(野村監督苦言「自己中心」…日米野球の辞退者続出『スポーツ報知』10月16日)、所詮「余興」にすぎない日米野球に情熱を燃やすのは、あまり賢明ではなく、それこそ新庄の言うように、若手主体の編成で挑むほうが、球界にとっても何かと得るものがあるのではないだろうか。

しかも、日米野球に続いて行われる日韓中台のリーグチャンピオンによるアジアシリーズのほうが、試合の真剣度合いとナショナルな情念への刺激という観点から見て、格好のニュース素材である意味で、球界の脱米入欧が求められるところである。

・追記(10月19日)
ノムさんが新庄一喝「ファン投票どう思ってんだ」(『スポーツ報知』)
ノムさん 辞退者続出にぼやき連発(『デイリースポーツ』)
ノムさん、新庄の日米野球辞退に激怒!カッコばかりつけるな(『サンケイスポーツ』)

「そもそも論」でいえば、シーズンオフの「余興」に出場する選手をファン投票で選ぼうということに疑問を抱くべきだと思われる。
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猿と女とサイボーグによる外交

2006年10月07日 | nazor
ある理念や価値に基づいた外交について、ハンス・モーゲンソーやジョージ・ケナンといった現実主義者が常に懸念を表明してきたが、彼らが模範とした19世紀ヨーロッパで展開された古典外交の成立する素地が取り払われ、価値や理念を掲げる「新外交」が国家の行動準則として一般化している現代世界において、自由、民主主義、法の支配に基づく外交、「価値観外交」を表明した安倍首相の判断は時代の要請に沿ったものであるといえるだろう。

しかしながら、価値観や理念を前面に押し出す外交、すなわち「価値観外交」は、それが過剰になるとき、外交という行為そのものを無意味化してしまう。それは、ブッシュ政権のイラク政策において典型的に現出したように、正しいと自らが信じる理念や価値自体を相対化してみる視点がなくしたとき、「価値観外交」は、他者の存在を不可視化し、自国の理念を押し付ける偽善的な色彩を帯び始める。その意味で、村田晃嗣が論じるように、「価値観外交」はその扱いにおいてかなりの慎慮が求められる高度な国政術(statecraft)でもある(「正論:諸刃の剣としての『価値観外交』」『産経新聞』9月25日)。

「価値観外交」に懐疑的な現実主義者が念頭に置くのは、「じっさい国際社会について考えるとき、まずなによりも重要な事実は、そこにいくつもの常識がある」点である(高坂正堯『国際政治――恐怖と希望』中央公論社, 1966年: 19頁、強調原文)。国内領域における中央政府に類するような権威が存在しない国際領域では、理念や価値に基づく正義よりも、まず秩序の維持が優先される。言い換えれば、「価値観外交」は秩序破壊的であり、それこそ17世紀の30年戦争の惨禍から学んだ教訓、つまり単一の常識/正義ではなく、複数の常識/正義の並存を是認する主権国家体系の存在理由を覆してしまう可能性を孕んでいる。

複数の常識あるいは正義という事実を前にしたとき、互いの常識や正義を実現することだけでは、国家間の関係は「戦争状態」から一歩も抜け出せない状態が続く。したがって戦争状態、つまり複数の常識/正義の並存状態を解消するために、単一の常識/正義、あるいは世界政府や世界連邦といった平和構想が提起されてきた。しかし、現実の歴史は、英国学派の論者が主張するように、完全な戦争状態でもなく、また世界政府を樹立することもなく、複数の常識/正義の並存状況下での規則や制度を整えていったのである。こうした制度のひとつが、対立する国家間の利害を調整し、均衡させる術として発達した外交であり、それゆえ外交には国家間で交わされる対話の過程としての側面がある。

外交を執り行う主体であるところの主権国家がいかなる基準に沿って対外政策の方針を定めるのかという点に関して、国家とは「力の体系であり、利益の体系であり、価値の体系である」という高坂正堯の言葉を手がかりにするならば(『国際政治』: 19頁)、力と利益と価値を相互均衡的に混交させる形で、対外政策を作り上げることが求められる。別言すれば、この3つの要素のいずれかが突出したり、欠けた場合、つまり力に全面的に依存したり、利益追求に終始したり、自国の価値を他国に強要するような場合、その外交は対話でなく、独話となってしまう。力と利益と価値の均衡が重要であることは、近年のアメリカ外交を考えてみても明らかだろう。世界の半分を占める圧倒的な軍事力を有し、また市場経済や民主主義という崇高な理念を掲げながらも、世界各地で反米的機運を払拭できない理由の一端は、力と価値が突出する一方で、冷徹な計算を要する利益の側面が軽視されている点にあるともいえる。

さらに「力・利益・価値」の観点を敷衍すれば、現実主義者たちが描写する、3要素の絶妙なバランスの上に成立する(古典)外交の世界が、近代的人間(男性)に基づくものである意味で、現実主義とは「男の国際政治」を体現するものであることが見えてくる。それは、ダナ・ハラウェイの著書『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』(青土社, 2000年)が示唆するように、力に頼る外交は、猿/動物の行動論理と変わらず、利益だけを追求する姿勢は、人間的な感情に欠けたサイボーグ/機械のような冷たさを感じさせ、そして過剰に価値を振りかざすことは情緒不安定という女の特質を想起させる。したがって、(古典)外交を行うために求められる資質を備えているのは「男=人間」であるというジェンダー秩序が確立される。

外交のジェンダー的位相を考慮したとき、「外交における『男らしさ』は美徳なのか――アメリカで沸き起こるブッシュ礼賛と懐疑」と題する記事で古森義久が取り上げているハービー・マンスフィールドの著書『男らしさ』をめぐる論争は、男の領分として外交を位置づけ、その権威を再主張する動きとみることができる。しかし、論争自体が「戦う男/平和な女」という旧態依然のジェンダー秩序に基づく構図から抜け出していないことや、回帰すべき(古典)外交という理想が成り立たない歴史的趨勢に対して鈍感であることは、古森のバイアスのかかった整理に起因する可能性があるとしても、ブッシュ政権に「男らしさ」を見出す過ちを犯すことになる。シンシア・ウェーバーが指摘するように、ポスト・ファルス時代にある現代世界では、マンスフィールドが掲げる「男らしさ」の特徴は、ファルスを取り戻すための力への傾斜をもたらす(Faking It: U.S. Hegemony in a "Post-Phallic" Era, University of Minnesota Press, 1999)。ブッシュ政権、あるいは安倍政権が「毅然」というマッチョな態度をアピールしようとすればするほど、その「男らしさ」は、現実主義者たちが描く(古典)外交を担う指導者像からかけ離れたものになる。

ファルスあるいは力への執着がポスト・ファルス時代の外交の特質であるとすれば、そこで想定される「男らしさ」は、「人間」ではなく、「動物=オス」に特有の野蛮さを肯定するものであり、さらにその野蛮さを隠すために、価値観を声高に主張することで、本来忌避すべき「女らしさ」を内面化してしまうパラドクスに陥る。力と価値観(情念)からなる「男らしい」外交は、近代的産物である国家、そして外交の基準となる国家利益や国家理性とは原理的にそぐわない粗野な観念だといえるだろう。
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38→47→?

2006年10月02日 | hrat
昨季より9勝アップも最下位が屈辱…ノムさん来季逆襲誓う!(『サンケイスポーツ』)
ノムさん来季クビかける…昨年より9勝増の47勝もザンゲ(『スポーツ報知』)

47勝85敗4分の勝率.356(セリーグ首位打者の福留の打率.357より低い)で、楽天の2年目のシーズンが終了。得点、失点、防御率、本塁打数がリーグ最低で、オリックスと9勝10敗1分で互角だった以外は、ほとんどダブルスコアで負け越していることから導かれる当然の結果である。野村監督はプレーオフ進出を来季の目標に掲げているが、オリックスを除いた4球団との戦力的な差を考えると、最下位脱出に集中したほうが無難だろう。

来季に向けた補強戦略としては、投手陣では、岩隈、一場、グリンに続く先発の整備が急務となる。ルーキーの田中や、獲得が噂される桑田が加わったとしても未知数の部分が大きく、また確実に計算できる左腕の先発の育成も課題だろうが、有銘、インチェ、松崎あたりの成長を待つだけの余裕があるかにかかってくる。

打撃陣については、フェルナンデスの前後の打者が問題で、いつまでも山崎武司にHRを期待している場合ではなく、また長打力に欠けるリックには7番あたり任せ、その確実性を活かすとすれば、とりわけ左の長距離砲がほしいところである。あとは磯部が復調し、3番に座ることができれば、鉄平・高須・磯部・フェルナンデスとそこそこの打線になる。
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