佐々木卓也『アイゼンハワー政権の封じ込め政策――ソ連の脅威,ミサイル・ギャップ論争と東西交流』(有斐閣, 2008年)
アメリカ外交史研究において、いわゆる「アイゼンハワー修正主義」と呼ばれる研究潮流の登場によってアイゼンハワー(政権)の評価が一変したことは共通理解となっているといえるだろう。すなわち「『ゴルフとまぬけさだらけの8年間』と痛烈に揶揄された当時から、十数年後には、『巧みな手腕で自らの政権を舵取りした、知性的で、決断力に満ち、明敏かつ強力な指導者であり、あの冷戦の厳しい8年の期間中、自らの国を平和に導いた大統領』へと、アイゼンハワーおよびその政権の評価は、文字どおり、コペルニクス的転換を遂げた」のである(李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会, 1996年: 4頁)。李鍾元によれば、すくなくともアイゼンハワーの指導力に対する積極的評価、合理的計算に基づいた自己抑制的な対外政策の評価、そして「米国自身および同盟国の経済的安定と発展の問題を冷戦戦略の一つの柱として重視したこと」に「アイゼンハワー修正主義」の特質が見出せる(5-6頁)。
冷戦戦略の基軸であった封じ込め政策を強化する必要性が生じた1950年代のアイゼンハワー政権の外交・安全保障政策を考察することを目的としている本書も「アイゼンハワー修正主義」が提起した論点を受け継ぎ、発展させた研究といえる。この時期に注目するのは、ソ連の脅威が軍事面だけにとどまらず、経済およびイデオロギーにも及ぶ複合的な性格を有しており、そしてソ連の攻勢に対して問われていたのが「アメリカの体制、生活様式そのもの」であったことが、アイゼンハワー政権の対応をいっそう困難なものにしたからである(ii頁)。こうした困難に対処するアイゼンハワー政権の政策を考察するうえで、本書は、第1にこれまであまり注目されてこなかった東西交流計画に焦点を当てることによって、封じ込め政策の多様性を明らかにすること、第2にソ連の脅威が高まり、国内においても軍備増強の声が上がる状況にあって、アイゼンハワー大統領およびダレス国務長官が抑制的かつ冷静な態度をとった背景には対ソ交流への配慮があったことを強調する。言い換えれば、「アイゼンハワー政権は冷戦の変容とソ連の新たな脅威に、東西交流を含めた多様な手段で対処し」、「ソ連との軍拡競争の激化を避け、国際的な緊張緩和を辛抱強く進めることで、ソ連が外に開き始めた門戸を閉ざすことなく、西側との人的・文化的交流を続ける外的環境の形成、維持を試みた」(iii-iv頁)ことを明らかにする。
まず封じ込めの新たな手段としての東西交流についてである。アイゼンハワーが大統領に就任した1953年は冷戦史におけるひとつの転換期に当たる。冷戦の前線がヨーロッパ/軍事から第三世界/経済・文化に移り、経済成長の高さやイデオロギー的な魅力を競い合う体制間抗争の様相を帯び始め、さらに巻き返し政策に見られる軍事力による体制転換が非現実的であることが明らかになった。そこでアイゼンハワー政権は、非軍事的手段によるソ連圏の段階的変革を目指すことを企図し、その手段として重視されたのが宣伝・広報活動と東西交流である。1958年に締結された米ソ文化・技術・教育交流協定、1959年にモスクワで開催のアメリカ国家博覧会、フルシチョフの訪米などに代表される両国間の交流は拡大・深化していき、「ソ連の新たな脅威に対応して、非軍事的な方法によってソヴィエト体制の変容を漸進的に進めることをはかった、封じ込めの一環」(64頁)としての機能を十分に果たしたといえる。しかし「この領域での成果をアメリカ国民に声高に喧伝することはできなかった。ソ連の警戒を招いて、計画の縮小につながる危険があった。しかも、その成果は長期的に期待できるものであり、すぐに具体的な形となって表れることはなかった」(173頁)というジレンマをアイゼンハワー政権が抱えたことは東西交流の限界を示すものであった。
一方、ソ連の脅威に対するアイゼンハワー政権の抑制的な態度はアイゼンハワー自身の信念と、U2偵察飛行によるソ連の軍事情報についての正確な認識から導かれた。「冷戦は長期的な闘争であるがゆえに、過度の軍事支出によりアメリカの政治・経済体制を損なってはならない」(52頁)あるいは「冷戦を戦う過程で、過剰な軍事支出の累積によってリベラルな政治・経済体制を損ない、アメリカ的生活様式を変える愚をおかしてはならない」(108頁)という信念を持って、「健全な経済と強い軍事力との間に『大いなる均衡』をはかること」(12頁)を優先課題としていたアイゼンハワー政権の安全保障政策は、しかしながら、アメリカ国内において十分な理解を得られたとは言いがたい。むしろソ連のICBM実験やスプートニク打ち上げの成功が引き起こしたミサイル・ギャップ論争が示すように、財政保守主義の観点から軍事費抑制の立場をとるアイゼンハワー政権を批判し、大幅な軍事費の増額を求める声が国防総省や民主党を中心とした議会内で高まっていった。こうした要求を集約したのがアイゼンハワー政権の対ソ政策の全面的な見直しを提起したゲイザー委員会の報告書(1957年)であった。こうした批判を受けながらも、アイゼンハワーが軍事費の増額にあくまで否定的であった理由の一つは、先述したように、U2偵察飛行によってソ連の軍事的脅威の実情を把握していたことが指摘できる。それは抑制的かつ冷静な態度につながるものであったが、議会や国民の間で共有される認識までには至らなかった。偵察飛行から得た情報を積極的に開示することに難色を示したため、議会および国民の不満や危惧は解消されず、ミサイル・ギャプの神話は一人歩きし、党派的な批判を浴び、いくつかの譲歩を強いられる結果を招いたのである。
「兵営国家」への変質を回避するというアイゼンハワーの信念と、冷戦の変容という国際環境の変化は東西交流に見られる封じ込め政策の多様化を進める素地を提供した。「1950年代後半以降のソ連の脅威の性格の変化、さらにはスターリン後のソ連社会の新たな潮流に対応して、ソヴィエト体制の変容を促す新たな封じ込めの手段」(212頁)として東西交流を重視するアイゼンハワー政権の方針は、フルシチョフ外交のように、華々しいものではないが着実な成果をもたらし、その後の歴代政権にも引き継がれていく。その意味でアイゼンハワー政権が進めた東西交流は1975年のヘルシンキ宣言を先取りするものであった。他方で佐々木は、ミサイル戦力の大規模な強化の決定、公民権政策への消極的態度、インドネシア・キューバ・ヴェトナムなどの第三世界政策において負の遺産を残したと指摘する(213-214頁)。このことは、「アイゼンハワー政権が米ソ相互の外交的譲歩による冷戦構造の弛緩、そして終結を射程においた柔軟な外交を展開する用意があることを意味するものではなかった。…彼らは顕著な軍備増強による封じ込めの一層の軍事化は拒絶したものの、ソ連に対する外交的歩み寄りによる冷戦構造の緩和は考えていなかったのである」(134-135頁)という評価に通底する。
以下、本書が提起する論点について印象論的に議論を展開してみたい。大量報復戦略や巻き返し政策、瀬戸際外交といった「力による外交」のイメージで語られる傾向の強いアイゼンハワー政権の封じ込め政策において等閑視されてきた米ソ間の人的・文化的交流が果たした役割を明らかにしたところに本書の特色および意義があり、それは特殊な抗争形態としての冷戦の特質を照射する射程を持っている。しばしば冷戦は権力政治上およびイデオロギー上の二重対立状況であるといわれるが、1950年代半ばに入って対立の争点および手段において軍事的なものから、非軍事的なそれの比重が増し、より「理念をめぐる戦争」あるいは「体制間抗争」の意味合いを強めていった。「核戦力への依存と通常兵力の縮減による国防費の削減、核兵器行使の用意を打ち出しただけではなく、健全な経済の維持、同盟国との緊密な関係、同盟国の地上軍に依拠する局地侵略への対応、宣伝・秘密工作、心理作戦を中心とする新たな戦略」(14頁)を打ち出すことが要請された理由がここに見出せる。まさに永井陽之助による有名な冷戦の定義を構成するところの、「武力の直接的行使をのぞく、あらゆる有効な手段(イデオロギー、政治・心理宣伝、経済制裁、内乱、各種の謀略、秘密工作等)を駆使して相手側の意思に直接的圧力を加える行為の交換――いいかえれば、『非軍事的な単独行動』(non-military unilateral actions)の応酬」が米ソ間関係の性質を「冷戦」たらしめたのである(『冷戦の起源――戦後アジアの国際環境』中央公論社, 1978年: 8頁)。
このように軍事力の直接的行使以外の手段が動員される点に特徴がある冷戦期において、人的・文化的交流もまた外交政策を構成する重要な手段とみなされた。アイゼンハワー政権が採った文化交流の戦略的位相を強調する本書は、冷戦期の文化外交研究を構成する事例研究のひとつとみなすことができるだけでなく、冷戦という時間的およびアメリカという空間的条件を超えた可能性、別言するならば文化外交に関する研究の未開拓な水脈の存在を示唆している。そのひとつが戦後アメリカ外交における文化交流の位置づけに関する通時的な研究である。本書「おわりに」で言及されているように、アイゼンハワー政権が開始した東西交流は、ケネディ・ジョンソン政権に受け継がれていった。そしてソ連圏との人的・交流が「1975年の全欧安保協力首脳会議(CSCE)のヘルシンキ宣言の採択、とりわけこの宣言で約束された人と情報の自由な移動がソ連社会に対する西側諸国の価値観の浸透を可能ならしめ、最終的に冷戦の終焉に向かう重要な媒介となった」(214-215頁)という指摘は、人的・文化交流を中心に位置づける戦後アメリカ外交/冷戦史の語り方が成立することを示している。たしかに「アイゼンハワー政権が始めた対ソ交流がその後、順調に拡大し、直線的にヘルシンキ宣言に結実したと主張するものではない」(216頁)かもしれないが、文化交流が辿った紆余曲折で複雑な過程を解明する作業は研究対象として十分に魅力的なものである。
またアメリカ以外の諸国がどのような文化外交を展開したのかを検証し、そうして蓄積された個別の研究成果を比較検討することで文化外交の多面性を明らかにする方向性も考えられる。アメリカ以外の文化外交に注目した研究としてすでにイギリスやソ連を対象とした研究が日本語で読める。同盟国のイギリス政府が、外務省所管のブリティッシュ・カウンシルおよびその下部機関であるソ連関係委員会(SRC)を通じて展開した対ソ文化外交は、「旧共産諸国を相手にイギリス文化の普及を意図的かつ積極的にめざしており、なかでもSRCを中心にソ連に対して行われた文化交流活動は、政治外交が国際文化交流を利用したひとつの象徴的事象」であった(渡辺愛子「イギリスによる対ソ連文化外交戦略 1955-1959――ブリティッシュ・カウンシルを中心に」『国際政治』134号, 2003年: 122頁)。あるいは文化交流の戦略的利用という点では、本家ともいえるソ連も、とくにスターリンの死後、文化交流を積極的に外交手段の一つとして展開していった。たとえば、日ソの文化交流に関する半谷史郎の研究によれば、国交回復後の日ソ文化交流には「日米離間に益する親ソ世論の獲得」という政治的思惑が付きまとっており、「文化交流を通じて対ソ交流拡大を望む日本の世論を盛り上げて、対ソ関係に消極的な日本政府への圧力にしようとする」意味で外交と切り離すことができない(「国交回復前後の日ソ文化交流――1954-61年、ボリショイ・バレエと歌舞伎」『思想』987号, 2006年: 47-48頁)。また最近刊行された山本正編『戦後日米関係とフィランソロピー――民間財団が果たした役割 1945-1975年』(ミネルヴァ書房, 2008年)も文化外交研究の一例といえるだろう。
さらに付け加えれば、自国の文化を世界に発信していくことによって、国家イメージを高め、国家利益の拡大に結びつける考えは、冷戦という時代状況に限定されない。むしろ冷戦終焉後、その意義はいっそう高まっているといえる。ジョセフ・ナイのソフトパワー論はこうした文化外交の有効性に理論的な根拠を与えるものであろうし、広報外交(public diplomacy)という言葉が人口に膾炙し、市民権を得るようになっている(金子将史・北野充・ 小川忠編『パブリック・ディプロマシー――「世論の時代」の外交戦略』PHP研究所, 2007年)。また文化外交を担う機関としては、ブリティッシュ・カウンシル(イギリス)やゲーテ・インスティテュート(ドイツ)がよく知られているが、現代世界でその存在感を高めている中国も孔子学院を設立し文化外交の領野に参画していることは、外交戦略としての文化交流のもつ今日的重要性を示している。
他方で、外交戦略としての文化交流に収まりきらない多様な交流の形態が存在し、国際関係の展開に影響を与えてきたことも事実である。それは国家主導の文化外交に批判的で鋭い緊張関係を孕む面を有している。入江昭によれば、「いったん文化が国の関心事項となるや、その自律性が損なわれる恐れが生じるし、また政府が後援する文化プログラムは、必ずしも一般人や民間組織が重要だと思うものだとは限らないということもあり得る。逆に、民間からの働き掛けが、政府の文化方針にうまく適合しないこともあるかもしれないし、あるいは対外政策に有害とされることすらもあるのである」(『権力政治を超えて――文化国際主義と世界秩序』岩波書店, 1998年: 141頁)。別の著書で、入江は「1950年代の歴史を語る上で、政府間国際組織やNGOに焦点をあてるならば、冷戦という緊張関係にもかかわらず国際秩序を維持しようとした努力が存在し、米ソ間および同盟国間での対立ではなく協調関係を生み出そうとする努力が脈々と生きづいていた」と指摘し、国家間関係に集約されない文化交流などのトランスナショナルな動きに注意を促している(『グローバル・コミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部, 2006年: 83-84頁)。それは東西に分断され固定化して「動かない」冷戦構造が、人・情報・理念の移動・交流によって「動かされ」、冷戦構造を融解させる役割を担った点を明らかにする(ただし冷戦構造を「動かす」ことは、逆方向への動き、つまり「熱戦」化を招来する可能性を秘めていることに注意すべきである)。あるいは次のように整理することができるかもしれない。すなわち冷戦構造を所与とした上で展開される文化交流と、冷戦構造を問題化し、その変革を何らかの形で目指した文化交流という二つの流れが戦後の国際関係において交叉し反響していたのである。
文化交流を純粋に善良な意図に基づくものと解釈することが実態を見ない観念論であるとすれば、文化交流をあくまで政治の従属変数とみなすこともまた「国家からなる社会」という観念論に依拠した還元主義にほかならない。文化のもつ自律性や対抗性といった変革の潜在力を考慮に入れ、政府によって統制された文化交流の限界や問題点を認識した上で、外交戦略としての文化交流の役割を評価することが求められる。「権力政治を下敷きとする国際システムという観点からではなく、文化的に規定された世界秩序という観点からとらえること」によって(入江『権力政治を超えて』: 226頁)、二つの文化交流がときにぶつかり合い、ときに相互補完的に冷戦構造を揺るがす過程が見えてくるだろうし、その結果、アイゼンハワー政権の進めた文化交流に対する理解も深められるだろう。
最後に、本書が強調する第2点目であるアイゼンハワー(政権)の「抑制的で冷静」な態度に関して検討を加えてみたい。ミサイル・ギャップが実態に基づかない「神話」であることを十分に認識していたからこそ、アイゼンハワーは「穏健で、抑制的で、ドマラティックな色彩を排除した」(109頁)政策を維持することができたわけであるが、そうした認識が政権内部だけでなく、議会や国民の間で共有されなかったことは、いわゆる外交と民主主義の関係にかかわる論点を提起する。ミサイル・ギャップの神話が暴露された現在から見れば、ソ連の脅威を声高に叫ぶ主張に与することなく軍備増強に否定的だったアイゼンハワーの態度は「抑制的で冷静」と評価することができるかもしれないが、それはいくぶん「歴史の後知恵」という印象を抱かせる。むしろ問題とされるべきは、政治指導者と国民の認識に生じた乖離であり、「抑制的で冷静な対処」を支える説得的な根拠を国民に提示することを躊躇わせ、阻む内政と外交の関係であろう。「ソ連政府を刺激することを恐れ、偵察結果の公表を避けた」(115頁)ことは、国家間関係の文脈に位置づけたとき、当然の判断といえるが、それによって安定した外交政策を遂行する上で不可欠な国内政治に党派的対立をもたらしてしまい、外交政策を遂行するに当たっての自由度を失うことになった。ミサイル・ギャップを喧伝した人々を批判することは容易いが、正確で多くの情報を持ち、判断を下せる立場にあるアイゼンハワー政権が国民を説得できず、ミサイル計画の強化といった譲歩を繰り返したことを考えた場合、「抑制的で冷静な対処」という姿勢は狭い範囲でしか共有されなかった意味で、その評価はかなり限定的に理解されるべきではないだろうか。また本書の対象から外れるが、CIAによる秘密工作に依拠したアイゼンハワー政権の第三世界政策にまで分析の射程を広げれば、「抑制的で冷静な対処」の限界がいっそう浮き彫りになる。こうした点を踏まえることによってはじめてアイゼンハワー政権の外交・安全保障政策の全体像が見えてくると思われる。
アメリカ外交史研究において、いわゆる「アイゼンハワー修正主義」と呼ばれる研究潮流の登場によってアイゼンハワー(政権)の評価が一変したことは共通理解となっているといえるだろう。すなわち「『ゴルフとまぬけさだらけの8年間』と痛烈に揶揄された当時から、十数年後には、『巧みな手腕で自らの政権を舵取りした、知性的で、決断力に満ち、明敏かつ強力な指導者であり、あの冷戦の厳しい8年の期間中、自らの国を平和に導いた大統領』へと、アイゼンハワーおよびその政権の評価は、文字どおり、コペルニクス的転換を遂げた」のである(李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』東京大学出版会, 1996年: 4頁)。李鍾元によれば、すくなくともアイゼンハワーの指導力に対する積極的評価、合理的計算に基づいた自己抑制的な対外政策の評価、そして「米国自身および同盟国の経済的安定と発展の問題を冷戦戦略の一つの柱として重視したこと」に「アイゼンハワー修正主義」の特質が見出せる(5-6頁)。
冷戦戦略の基軸であった封じ込め政策を強化する必要性が生じた1950年代のアイゼンハワー政権の外交・安全保障政策を考察することを目的としている本書も「アイゼンハワー修正主義」が提起した論点を受け継ぎ、発展させた研究といえる。この時期に注目するのは、ソ連の脅威が軍事面だけにとどまらず、経済およびイデオロギーにも及ぶ複合的な性格を有しており、そしてソ連の攻勢に対して問われていたのが「アメリカの体制、生活様式そのもの」であったことが、アイゼンハワー政権の対応をいっそう困難なものにしたからである(ii頁)。こうした困難に対処するアイゼンハワー政権の政策を考察するうえで、本書は、第1にこれまであまり注目されてこなかった東西交流計画に焦点を当てることによって、封じ込め政策の多様性を明らかにすること、第2にソ連の脅威が高まり、国内においても軍備増強の声が上がる状況にあって、アイゼンハワー大統領およびダレス国務長官が抑制的かつ冷静な態度をとった背景には対ソ交流への配慮があったことを強調する。言い換えれば、「アイゼンハワー政権は冷戦の変容とソ連の新たな脅威に、東西交流を含めた多様な手段で対処し」、「ソ連との軍拡競争の激化を避け、国際的な緊張緩和を辛抱強く進めることで、ソ連が外に開き始めた門戸を閉ざすことなく、西側との人的・文化的交流を続ける外的環境の形成、維持を試みた」(iii-iv頁)ことを明らかにする。
まず封じ込めの新たな手段としての東西交流についてである。アイゼンハワーが大統領に就任した1953年は冷戦史におけるひとつの転換期に当たる。冷戦の前線がヨーロッパ/軍事から第三世界/経済・文化に移り、経済成長の高さやイデオロギー的な魅力を競い合う体制間抗争の様相を帯び始め、さらに巻き返し政策に見られる軍事力による体制転換が非現実的であることが明らかになった。そこでアイゼンハワー政権は、非軍事的手段によるソ連圏の段階的変革を目指すことを企図し、その手段として重視されたのが宣伝・広報活動と東西交流である。1958年に締結された米ソ文化・技術・教育交流協定、1959年にモスクワで開催のアメリカ国家博覧会、フルシチョフの訪米などに代表される両国間の交流は拡大・深化していき、「ソ連の新たな脅威に対応して、非軍事的な方法によってソヴィエト体制の変容を漸進的に進めることをはかった、封じ込めの一環」(64頁)としての機能を十分に果たしたといえる。しかし「この領域での成果をアメリカ国民に声高に喧伝することはできなかった。ソ連の警戒を招いて、計画の縮小につながる危険があった。しかも、その成果は長期的に期待できるものであり、すぐに具体的な形となって表れることはなかった」(173頁)というジレンマをアイゼンハワー政権が抱えたことは東西交流の限界を示すものであった。
一方、ソ連の脅威に対するアイゼンハワー政権の抑制的な態度はアイゼンハワー自身の信念と、U2偵察飛行によるソ連の軍事情報についての正確な認識から導かれた。「冷戦は長期的な闘争であるがゆえに、過度の軍事支出によりアメリカの政治・経済体制を損なってはならない」(52頁)あるいは「冷戦を戦う過程で、過剰な軍事支出の累積によってリベラルな政治・経済体制を損ない、アメリカ的生活様式を変える愚をおかしてはならない」(108頁)という信念を持って、「健全な経済と強い軍事力との間に『大いなる均衡』をはかること」(12頁)を優先課題としていたアイゼンハワー政権の安全保障政策は、しかしながら、アメリカ国内において十分な理解を得られたとは言いがたい。むしろソ連のICBM実験やスプートニク打ち上げの成功が引き起こしたミサイル・ギャップ論争が示すように、財政保守主義の観点から軍事費抑制の立場をとるアイゼンハワー政権を批判し、大幅な軍事費の増額を求める声が国防総省や民主党を中心とした議会内で高まっていった。こうした要求を集約したのがアイゼンハワー政権の対ソ政策の全面的な見直しを提起したゲイザー委員会の報告書(1957年)であった。こうした批判を受けながらも、アイゼンハワーが軍事費の増額にあくまで否定的であった理由の一つは、先述したように、U2偵察飛行によってソ連の軍事的脅威の実情を把握していたことが指摘できる。それは抑制的かつ冷静な態度につながるものであったが、議会や国民の間で共有される認識までには至らなかった。偵察飛行から得た情報を積極的に開示することに難色を示したため、議会および国民の不満や危惧は解消されず、ミサイル・ギャプの神話は一人歩きし、党派的な批判を浴び、いくつかの譲歩を強いられる結果を招いたのである。
「兵営国家」への変質を回避するというアイゼンハワーの信念と、冷戦の変容という国際環境の変化は東西交流に見られる封じ込め政策の多様化を進める素地を提供した。「1950年代後半以降のソ連の脅威の性格の変化、さらにはスターリン後のソ連社会の新たな潮流に対応して、ソヴィエト体制の変容を促す新たな封じ込めの手段」(212頁)として東西交流を重視するアイゼンハワー政権の方針は、フルシチョフ外交のように、華々しいものではないが着実な成果をもたらし、その後の歴代政権にも引き継がれていく。その意味でアイゼンハワー政権が進めた東西交流は1975年のヘルシンキ宣言を先取りするものであった。他方で佐々木は、ミサイル戦力の大規模な強化の決定、公民権政策への消極的態度、インドネシア・キューバ・ヴェトナムなどの第三世界政策において負の遺産を残したと指摘する(213-214頁)。このことは、「アイゼンハワー政権が米ソ相互の外交的譲歩による冷戦構造の弛緩、そして終結を射程においた柔軟な外交を展開する用意があることを意味するものではなかった。…彼らは顕著な軍備増強による封じ込めの一層の軍事化は拒絶したものの、ソ連に対する外交的歩み寄りによる冷戦構造の緩和は考えていなかったのである」(134-135頁)という評価に通底する。
以下、本書が提起する論点について印象論的に議論を展開してみたい。大量報復戦略や巻き返し政策、瀬戸際外交といった「力による外交」のイメージで語られる傾向の強いアイゼンハワー政権の封じ込め政策において等閑視されてきた米ソ間の人的・文化的交流が果たした役割を明らかにしたところに本書の特色および意義があり、それは特殊な抗争形態としての冷戦の特質を照射する射程を持っている。しばしば冷戦は権力政治上およびイデオロギー上の二重対立状況であるといわれるが、1950年代半ばに入って対立の争点および手段において軍事的なものから、非軍事的なそれの比重が増し、より「理念をめぐる戦争」あるいは「体制間抗争」の意味合いを強めていった。「核戦力への依存と通常兵力の縮減による国防費の削減、核兵器行使の用意を打ち出しただけではなく、健全な経済の維持、同盟国との緊密な関係、同盟国の地上軍に依拠する局地侵略への対応、宣伝・秘密工作、心理作戦を中心とする新たな戦略」(14頁)を打ち出すことが要請された理由がここに見出せる。まさに永井陽之助による有名な冷戦の定義を構成するところの、「武力の直接的行使をのぞく、あらゆる有効な手段(イデオロギー、政治・心理宣伝、経済制裁、内乱、各種の謀略、秘密工作等)を駆使して相手側の意思に直接的圧力を加える行為の交換――いいかえれば、『非軍事的な単独行動』(non-military unilateral actions)の応酬」が米ソ間関係の性質を「冷戦」たらしめたのである(『冷戦の起源――戦後アジアの国際環境』中央公論社, 1978年: 8頁)。
このように軍事力の直接的行使以外の手段が動員される点に特徴がある冷戦期において、人的・文化的交流もまた外交政策を構成する重要な手段とみなされた。アイゼンハワー政権が採った文化交流の戦略的位相を強調する本書は、冷戦期の文化外交研究を構成する事例研究のひとつとみなすことができるだけでなく、冷戦という時間的およびアメリカという空間的条件を超えた可能性、別言するならば文化外交に関する研究の未開拓な水脈の存在を示唆している。そのひとつが戦後アメリカ外交における文化交流の位置づけに関する通時的な研究である。本書「おわりに」で言及されているように、アイゼンハワー政権が開始した東西交流は、ケネディ・ジョンソン政権に受け継がれていった。そしてソ連圏との人的・交流が「1975年の全欧安保協力首脳会議(CSCE)のヘルシンキ宣言の採択、とりわけこの宣言で約束された人と情報の自由な移動がソ連社会に対する西側諸国の価値観の浸透を可能ならしめ、最終的に冷戦の終焉に向かう重要な媒介となった」(214-215頁)という指摘は、人的・文化交流を中心に位置づける戦後アメリカ外交/冷戦史の語り方が成立することを示している。たしかに「アイゼンハワー政権が始めた対ソ交流がその後、順調に拡大し、直線的にヘルシンキ宣言に結実したと主張するものではない」(216頁)かもしれないが、文化交流が辿った紆余曲折で複雑な過程を解明する作業は研究対象として十分に魅力的なものである。
またアメリカ以外の諸国がどのような文化外交を展開したのかを検証し、そうして蓄積された個別の研究成果を比較検討することで文化外交の多面性を明らかにする方向性も考えられる。アメリカ以外の文化外交に注目した研究としてすでにイギリスやソ連を対象とした研究が日本語で読める。同盟国のイギリス政府が、外務省所管のブリティッシュ・カウンシルおよびその下部機関であるソ連関係委員会(SRC)を通じて展開した対ソ文化外交は、「旧共産諸国を相手にイギリス文化の普及を意図的かつ積極的にめざしており、なかでもSRCを中心にソ連に対して行われた文化交流活動は、政治外交が国際文化交流を利用したひとつの象徴的事象」であった(渡辺愛子「イギリスによる対ソ連文化外交戦略 1955-1959――ブリティッシュ・カウンシルを中心に」『国際政治』134号, 2003年: 122頁)。あるいは文化交流の戦略的利用という点では、本家ともいえるソ連も、とくにスターリンの死後、文化交流を積極的に外交手段の一つとして展開していった。たとえば、日ソの文化交流に関する半谷史郎の研究によれば、国交回復後の日ソ文化交流には「日米離間に益する親ソ世論の獲得」という政治的思惑が付きまとっており、「文化交流を通じて対ソ交流拡大を望む日本の世論を盛り上げて、対ソ関係に消極的な日本政府への圧力にしようとする」意味で外交と切り離すことができない(「国交回復前後の日ソ文化交流――1954-61年、ボリショイ・バレエと歌舞伎」『思想』987号, 2006年: 47-48頁)。また最近刊行された山本正編『戦後日米関係とフィランソロピー――民間財団が果たした役割 1945-1975年』(ミネルヴァ書房, 2008年)も文化外交研究の一例といえるだろう。
さらに付け加えれば、自国の文化を世界に発信していくことによって、国家イメージを高め、国家利益の拡大に結びつける考えは、冷戦という時代状況に限定されない。むしろ冷戦終焉後、その意義はいっそう高まっているといえる。ジョセフ・ナイのソフトパワー論はこうした文化外交の有効性に理論的な根拠を与えるものであろうし、広報外交(public diplomacy)という言葉が人口に膾炙し、市民権を得るようになっている(金子将史・北野充・ 小川忠編『パブリック・ディプロマシー――「世論の時代」の外交戦略』PHP研究所, 2007年)。また文化外交を担う機関としては、ブリティッシュ・カウンシル(イギリス)やゲーテ・インスティテュート(ドイツ)がよく知られているが、現代世界でその存在感を高めている中国も孔子学院を設立し文化外交の領野に参画していることは、外交戦略としての文化交流のもつ今日的重要性を示している。
他方で、外交戦略としての文化交流に収まりきらない多様な交流の形態が存在し、国際関係の展開に影響を与えてきたことも事実である。それは国家主導の文化外交に批判的で鋭い緊張関係を孕む面を有している。入江昭によれば、「いったん文化が国の関心事項となるや、その自律性が損なわれる恐れが生じるし、また政府が後援する文化プログラムは、必ずしも一般人や民間組織が重要だと思うものだとは限らないということもあり得る。逆に、民間からの働き掛けが、政府の文化方針にうまく適合しないこともあるかもしれないし、あるいは対外政策に有害とされることすらもあるのである」(『権力政治を超えて――文化国際主義と世界秩序』岩波書店, 1998年: 141頁)。別の著書で、入江は「1950年代の歴史を語る上で、政府間国際組織やNGOに焦点をあてるならば、冷戦という緊張関係にもかかわらず国際秩序を維持しようとした努力が存在し、米ソ間および同盟国間での対立ではなく協調関係を生み出そうとする努力が脈々と生きづいていた」と指摘し、国家間関係に集約されない文化交流などのトランスナショナルな動きに注意を促している(『グローバル・コミュニティ――国際機関・NGOがつくる世界』早稲田大学出版部, 2006年: 83-84頁)。それは東西に分断され固定化して「動かない」冷戦構造が、人・情報・理念の移動・交流によって「動かされ」、冷戦構造を融解させる役割を担った点を明らかにする(ただし冷戦構造を「動かす」ことは、逆方向への動き、つまり「熱戦」化を招来する可能性を秘めていることに注意すべきである)。あるいは次のように整理することができるかもしれない。すなわち冷戦構造を所与とした上で展開される文化交流と、冷戦構造を問題化し、その変革を何らかの形で目指した文化交流という二つの流れが戦後の国際関係において交叉し反響していたのである。
文化交流を純粋に善良な意図に基づくものと解釈することが実態を見ない観念論であるとすれば、文化交流をあくまで政治の従属変数とみなすこともまた「国家からなる社会」という観念論に依拠した還元主義にほかならない。文化のもつ自律性や対抗性といった変革の潜在力を考慮に入れ、政府によって統制された文化交流の限界や問題点を認識した上で、外交戦略としての文化交流の役割を評価することが求められる。「権力政治を下敷きとする国際システムという観点からではなく、文化的に規定された世界秩序という観点からとらえること」によって(入江『権力政治を超えて』: 226頁)、二つの文化交流がときにぶつかり合い、ときに相互補完的に冷戦構造を揺るがす過程が見えてくるだろうし、その結果、アイゼンハワー政権の進めた文化交流に対する理解も深められるだろう。
最後に、本書が強調する第2点目であるアイゼンハワー(政権)の「抑制的で冷静」な態度に関して検討を加えてみたい。ミサイル・ギャップが実態に基づかない「神話」であることを十分に認識していたからこそ、アイゼンハワーは「穏健で、抑制的で、ドマラティックな色彩を排除した」(109頁)政策を維持することができたわけであるが、そうした認識が政権内部だけでなく、議会や国民の間で共有されなかったことは、いわゆる外交と民主主義の関係にかかわる論点を提起する。ミサイル・ギャップの神話が暴露された現在から見れば、ソ連の脅威を声高に叫ぶ主張に与することなく軍備増強に否定的だったアイゼンハワーの態度は「抑制的で冷静」と評価することができるかもしれないが、それはいくぶん「歴史の後知恵」という印象を抱かせる。むしろ問題とされるべきは、政治指導者と国民の認識に生じた乖離であり、「抑制的で冷静な対処」を支える説得的な根拠を国民に提示することを躊躇わせ、阻む内政と外交の関係であろう。「ソ連政府を刺激することを恐れ、偵察結果の公表を避けた」(115頁)ことは、国家間関係の文脈に位置づけたとき、当然の判断といえるが、それによって安定した外交政策を遂行する上で不可欠な国内政治に党派的対立をもたらしてしまい、外交政策を遂行するに当たっての自由度を失うことになった。ミサイル・ギャップを喧伝した人々を批判することは容易いが、正確で多くの情報を持ち、判断を下せる立場にあるアイゼンハワー政権が国民を説得できず、ミサイル計画の強化といった譲歩を繰り返したことを考えた場合、「抑制的で冷静な対処」という姿勢は狭い範囲でしか共有されなかった意味で、その評価はかなり限定的に理解されるべきではないだろうか。また本書の対象から外れるが、CIAによる秘密工作に依拠したアイゼンハワー政権の第三世界政策にまで分析の射程を広げれば、「抑制的で冷静な対処」の限界がいっそう浮き彫りになる。こうした点を踏まえることによってはじめてアイゼンハワー政権の外交・安全保障政策の全体像が見えてくると思われる。
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