日露戦争100周年、戦後60年と区切りの年である今年、APEC首脳会談出席の帰路5年ぶりに来日したプーチン大統領。しかし来日前から懸案の「北方領土」問題をめぐって膠着状態を打開するほどの進展がないことが小泉首相の発言などからも明らかだったため、会談の結果通例となっていた共同声明が出されなかったとしても期待値が低かった分だけそれほどの反発もない。他方で好調なロシア経済を背景に実利追求に重点を置くロシア側に実りの多い会談であったといえるため、なし崩し的に領土問題が棚上げされる危惧が存在することも確かである。
いわゆる「北方領土」が問題化される歴史的背景やこれまでの交渉経過については、多くの研究がある。日本政府の見解に近い立場を代表するのが木村汎であり(『新版・日露国境交渉史――北方領土返還への道』角川書店, 2005年および『遠い隣国――ロシアと日本』世界思想社, 2002年)、それに対し批判的な立場から「二島+α」論を提起するのが和田春樹の研究である(『北方領土問題――歴史と未来』朝日新聞社, 1999年)。その中間に位置づけられるのが長谷川毅であり、木村と同様に北方四島が日本に帰属すると主張する一方で、日本政府の主張には歴史的に見ればかなりの無理があり、また返還の方法について和田が提唱する「二島+α」など柔軟に対処すべきだという立場をとる(『北方領土問題と日露関係』筑摩書房, 2000年)。
長谷川が指摘する日本政府の「問題」あるいは「詭弁」とは、クリル諸島(=千島列島)の範囲をめぐってであり、ウルップ以北をクリル諸島と定義し、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄したとされる千島列島には南千島(択捉・国後)が含まれていないという公式見解である。しかし戦前の日本政府や外務省の認識や、日露間の国境を画定した下田条約の条文の言語学的検討から、南千島は千島列島を構成する一部であり、千島列島から除外するという論理はサンフランシスコ条約との整合性を図るため、後から持ち出されたものでしかない。つまり強引なこじつけに基づく見解を主張したところで正当性を見出すことは難しい話であり、ソ連(ロシア)の不法性に訴えることでこうした日本側のすり替えが免罪されるものではないし、むしろ正当な主張それ自体に対する信頼も損なうことになる。この苦しい論理に縛られた結果、対ソ(露)外交から柔軟性が失われ、「北方領土症候群」と言われる硬直した態度が支配するようになった。
また「北方領土」問題が日ソ二国間の問題であると同時に、冷戦構造に規定された問題、すなわち冷戦の産物でもあった。ソ連との対立が深まる状況で、日本との講和問題を検討していたアメリカ政府の戦略が介在することで、日ソ間で解釈が分かれる「北方領土」問題が形成された。それは、アメリカの勢力圏に日本を繋ぎとめておき、またその代替案となりえるソ連との関係改善の芽を摘み取っておく上で、日ソ間に横たわる障害として領土問題が機能することになり、さらにアメリカの戦略上欠かせない沖縄に対する返還要求を封じ込めておく目的も有していた。その結果、サンフランシスコ条約2条C項で千島列島の放棄を宣言する一方で、その帰属先に言及せず、また放棄したとされる千島列島の範囲も明らかにしないという状況が生じた。そのため平和条約の批准過程で外務省は放棄した千島列島に南千島も含まれるという後の公式見解とは矛盾する答弁を行うなど、当事者でも解釈が定かではなかった(サンフランシスコ条約の領土条項については、原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点――アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」』溪水社, 2005年を参照)。
混乱する見解が後の公式見解へと収斂していったのは1956年の日ソ国交回復交渉においてであった。このときから択捉・国後・色丹・歯舞の四島を「北方領土」と呼ぶ名称が人口に膾炙していった。また日ソ国交回復をめぐる交渉過程で、色丹・歯舞の二島返還で合意する可能性が生じた際に、沖縄領有問題とリンクさせることで、ダレス国務長官が重光外相に釘を刺したことは知られている。その結果、交渉の主導権は、領土問題解決後に国交回復を目指す重光から、いわゆるアデナウワー方式により国交回復を優先させる鳩山首相および河野農相に移った(田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究――戦後日ソ関係の起点 1945-1956』有斐閣, 1993年、および坂元一哉「日ソ国交回復交渉とアメリカ――ダレスはなぜ介入したか」『国際政治』105号, 1994年)。その結果、少なくともありえた二島返還はタブーとなり、あくまで四島一括返還を求める公式方針が確立した。ここに現在まで連綿と続く「北方領土」問題をめぐる構図が成立したのである。
この構図は当時の冷戦状況によって強く規定されていたため、容易に動かしがたいものであった。しかし、日本あるいはソ連の国内政治上の変化、あるいは二国を取り巻く国際環境の変化は、まさに冷戦によって凍結状態に置かれた領土問題を融解させる「機会の窓」を開かせる。理論的に整理すれば、構造とユニット間の相互作用からなるシステムが国家行動を規定するため、国家はその能力や資源を十全に利用できるわけではなく、国家の行動はそれを取り巻く国際環境に大きく左右される。と同時に、システムレベルの変化は常にユニットレベルの変化に基づくものでもある(三村洋史「ソ連・ロシアの国内政治変動と対日外交の強硬化――『交渉オプションの束』の検討を中心に」『ロシア研究』29号, 1999年を参照)。すなわち二国間関係の改善が可能になる上で、国際環境とユニット(=国内要因)の変化が作り出す「機会の窓」をうまく捉え、合意事項を規範化・制度化することが必要条件となる。このような観点から日本の対ソ(露)政策の流れを概観したとき、国際環境の変化によってもたらされた「機会の窓」を十分に捉えきれないまま、時機を逸した行動に終始している印象が強い。
その最初の機会は1956年の国交回復であり、ソ連ではスターリンの死後「平和共存」を掲げたフルシチョフ・ブルガーニン路線が権力を握り、一方日本では吉田茂の退場によって政権に就いた鳩山一郎がその独自色の象徴としてソ連との国交回復を取り上げたこと、すなわち両国における指導者の交代が対外政策の優先順位の見直しを促したわけである。しかし先に述べたように鳩山と重光の対立やダレスの介入などによって領土問題の解決は先送りされ、1960年の日米安保改定に反発したフルシチョフが日ソ共同宣言の一方的破棄を通告したことで、最初の「機会の窓」は中途半端なまま閉じていった。
その次に「機会の窓」が開きかけたのは、1973年のブレジネフと田中角栄の首脳会談であり、共同声明で「未解決の問題」という表現が使われ、少なくとも日本側はそこに領土問題が含まれると解釈した(会談の経緯に関しては、田中首相に同行した新井弘一『モスクワ・ベルリン・東京――外交官の証言』時事通信社, 2000年: 2章を参照)。領土問題の実質的な打開というには程遠いブレジネフ・田中会談であったが、没交渉状態にあった日ソ関係が1973年に動き始めた一因として、当然のことながら1970年代の国際環境の変動が指摘できる。とくに米中和解は、ソ連指導部にとって衝撃であり、アジアにおいて孤立する可能性を抱かせるものであった。西ドイツとの関係改善など西ヨーロッパ諸国とのデタントを促進する一方で、日本に接近することで対ソ包囲網の形成を阻止する意図があったことは明らかであった。つまりアジア冷戦構造の転換は、ソ連指導部に外交政策の再考を促し、その一環として対日関係の改善、田中首相との会談が位置づけられる。しかし周知のようにこの「機会の窓」はデタントの行き詰まりから新冷戦へと突入し、1980年代には北海道侵攻説が現実味を持って語られるほどソ連脅威論が高まったことで、急速に萎んでいった。
おそらくこれまでの日ソ(露)関係のなかで、システムレベル、つまり国際環境の最大の変化、換言すれば最大に開いた「機会の窓」はいうまでもなくゴルバチョフの登場に伴う新思考外交であろう。この時期が特に注目されるのは、戦後日本と比較されることが多い西ドイツの対ソ政策と鮮やかなまでの対照性を示しているからでもある。「ゴルビマニア」と揶揄されたようにやもすれば病的なまでにゴルバチョフのペレストロイカ路線を熱烈に支持した西ドイツは、まだ国内政治の圧力を凌駕するだけの権力基盤をゴルバチョフが有していた時期に、西ドイツが望む基本法23条による統一とNATO帰属を成し遂げた。目の前に開かれた「機会の窓」を見逃すことなく、しっかりと捉え、西ドイツの利害に合致する結果を引き出したといえる(ドイツ統一過程については、高橋進『歴史としてのドイツ統一――指導者たちはどう動いたか』岩波書店, 1999年を参照)。
西ドイツとは対照的に、日本、とくに外務省の姿勢は「冷戦」の呪縛から抜け出していなかった。ゴルバチョフの第一書記就任の機会を捉え、日ソ関係の改善の糸口を探ろうとしたのは中曽根首相であり、それは「機会の窓」の存在を嗅ぎ取った行動ともいえる。しかしこれまで対ソ外交を取り仕切っていた外務省にとって、中曽根の行為は個人パフォーマンスに走り、引いては公式見解に基づく四島返還論を断念するものと映った。平和条約締結の前に「北方領土」返還が優先されるべきであるという「入口論」に固執する外務省の立場は、中曽根の政治力が絶頂にあったときにも揺るがず、その低下とともに再び支配的地位を保持した。また領土問題に関して従来のソ連の立場を繰り返すゴルバチョフにとって、「入口論」に固執する日本との関係改善を進めることにそれほど利益があるとも思われなかった。その結果、1987年に予定されていた訪日はキャンセルされ、絶好の機会が失われることになった。
ゴルバチョフの登場による「機会の窓」の出現は、たしかに日ソ関係の転換をもたらす可能性を秘めていたことは間違いないが、日本とソ連の国内政治事情の時差が微妙に関係改善の道筋を歪めさせたともいえる。つまりシステムレベルである冷戦構造の変容過程を共通項としながらも、またゴルバチョフと中曽根という強力なリーダーシップを発揮する素質を持つ指導者がいながらも、この両者が交差した時点で、ゴルバチョフはソ連共産党内で十分な基盤を築く途上にあり、他方で中曽根は1986年の衆参同日選挙の圧勝を絶頂期として次第に政治の求心力を低下させていった。また中曽根の退場後は、竹下、宇野、海部と内政型か、党内基盤の弱い指導者が相次いだことも「機会の窓」を利用することを難しくさせた。換言すれば、システムレベルで生じた「機会の窓」をうまく捉えるには、ゴルバチョフの権力基盤はまだ万全ではなく、中曽根は党内および国内政治の柵に捕われ、思い切った行動に出ることができないまま退場せざるを得なかったのである。
結局、ゴルバチョフの訪日が実現したのは、東欧諸国で共産党体制が相次いで崩壊し、その勢いはソ連国内にも波及し、構成共和国の離脱の動きに拍車をかけ、また保守派の突き上げによって改革路線の停滞が誰の目にも明らかになった1991年4月であった。国内政治の基盤が著しく弱まり、エリツィンの台頭によって二重外交の危険性を抱えたゴルバチョフに、日本が求める「北方領土」の四島返還を決断するだけの選択肢は残されていなかった。いわば「機会の窓」がほとんど閉じかけている時期に来日したゴルバチョフから領土問題で譲歩を引き出すことは無いものねだりにしか過ぎなかった。したがってこのときゴルバチョフが四島一括返還を考えていたという先日の報道も(「『4島一括返還』提案あった=91年ゴルビー訪日秘話」時事通信)、ゴルバチョフの置かれた国内・国際環境に目を向ければ、実現可能性はかなり疑わしい提案である。
1991年12月ソ連が解体して、「北方領土」問題の交渉相手は、条約義務などを継承したロシア共和国に変わったが、基本的な構図はそのままであり、むしろ民主化と市場経済への移行過程にあるロシアを率いるエリツィンは、ポピュリスト的言動を駆使することで国民の支持を獲得してきたこともあり、内政の停滞・失敗や不満の捌け口として対外問題が利用された。民主化途上の国家が排外的なナショナリズムに走りがちである例に違わず、世論の動向がロシアの政策過程に影響を及ぼすようになってきた。またひとつ外交的妥結の可能性を拘束する国内要因が付け加わったのである。たしかに政治指導者の気紛れで合意事項が反故にされる独裁・権威主義国に比べれば、民主主義国との外交交渉は信頼性の面で高いものであるが、合意事項をめぐる裁量の余地が交渉過程の段階から制約されていることは、必然的に交渉を妥結させる上で大きな障害として立ちはだかる。成熟した民主主義国であれば、こうした交渉上の事情も考慮に入れた上で合意事項に対する賛否を表明することができるが、ロシアのような民主化途上の国の場合、いきおい綿密に練られた合意事項を「一方的譲歩」とみなし、国内政治の争点とする傾向がある。
またロシアが、体制転換を経験した東欧(中欧)諸国のような(西欧型の)議会制民主主義体制ではなく、大統領に権限が集中した大統領民主主義を採用したことは、政策方針が大統領の個人的パフォーマンスに左右される可能性をもたらす。それは、クラスノヤルスクおよび川奈会談がエリツィンと橋本首相の個人的信頼関係の構築に寄与し、停滞状態にあった日露関係を打開する契機となる一方で、それが首脳同士の個人的関係から発展することなく、両国間で規範化・制度化されるまでには至らない状況を招いてしまう。そのため、政治指導者の交代とともに、一から関係構築を図るという非効率的な過程が繰り返されることになる。したがって断絶を伴いがちな首脳外交よりも、連続性を常とする外務省が対露外交の枠組みを規定することになる。しかも外務省の方針である政経不可分や拡大均衡政策も領土問題の解決を前提とし、「機会の窓」をすべて領土問題に結びつける「北方領土症候群」が対露外交の硬直化を引き起こしている。またそれゆえにバックチャンネル外交の魅力、すなわち首脳と外務省を媒介する回路の有用性を高め、ここに鈴木宗男が対露外交に深く関与する条件が作られたといえる。
プーチン政権になってから、ロシアの政治体制はいっそう中央集権化が進み、議会制度の形骸化と政党が大統領個人団体に変容することでいわゆる「政府党体制」に近い状況が出現している。また国民の間でも、プーチンにかつての帝政ロシアの面影を見出す心性が広まり、注目を集めているように(「現代の肖像:プーチン・ロシア大統領」『アエラ』2005年11月28日号)、民主化論が想定する民主主義とは異なる「帝政民主主義」(中村逸郎)と形容すべき政治体制でもある。このような政治文化的背景を持つプーチンのロシアは、「北方領土」問題にとっての「機会の窓」となりうるには矛盾する力学を内包しており、それはエリツィン時代から見られる趨勢がより強固な形で制度化されてきたと理解できる。プーチンの強権的なまでの政治力は、領土問題の解決を一気に推し進めるだけのものがあり、(議会内の)反対論を抑えつけることもそう難しいことではない一方で、国民からの畏敬の念に体制の正当性を求めていることは、ゼロサム関係で理解されがちな領土問題に対する理解を得るために、大きな代償を払わなくてはならないことを意味する。現在のプーチン政権の姿勢から判断すれば、自らの正当性基盤を揺るがせてまで領土問題で日本に譲歩するとは考えられないし、日本が中韓と尖閣諸島や竹島など領土問題を抱え、近年緊迫化していることは、ロシアにとって「北方領土」が貴重な外交カードとして利用価値があることを示唆している。それゆえ、プーチンの任期が切れるまでロシア側からの劇的な提案によって「機会の窓」が開く可能性は低いといえるだろう。
主権が不可分であるという通念は、領土問題をゼロサム関係と捉える見方を助長するだけで、解消するものではない。主権概念は、所有権概念に伴う形で登場してきた。それは主権の機能の一つに内政不干渉があることからも明らかで、主権(をもつ主体)は一定の領域空間を独占的に「所有」し、それに対する他者の権利を排除する。したがって誰にも属さない領土は存在せず、それは形式的に常に誰かの所有物であり、複数の主体で共有する主権という考えは観念的に存在しない。しかし、立憲主義的な理解に基づけば、主権は分割可能であり、分割されるべきものである(篠田英朗「国家主権概念の変容――立憲主義的思考の国際関係理論における意味」『国際政治』124号, 2000年)。また形式論的には領土所有は独占の論理が作用しているが、実効的な観点から見れば、アフリカの破綻国家に顕著なように主権の所在が確定できない状況が多々見られる。あるいは軍事的に去勢されている点に注目して戦後の西ドイツや日本を「半主権国家」と捉える見方もあるように、主権の在り様は錯綜している。
「北方領土」問題をめぐっても、領土の所在と主権の所在が一致しなくてはならないという主権観から一歩引いてみる必要があるだろう。すでに60年にわたってソ連/ロシアが実効的に支配している「北方領土」の主権と領土の全面返還は現実的に困難であり、また多くの日本国民にとって「北方領土」が実利的な意義よりも象徴的面が強いのであれば(漁業利権を除けば)、第一に要求すべきは主権の所在を確認することであり、領土返還は事実上放棄することも考慮に入れる必要がある。これはロシア側に主権を認め、日本は経済開発などの「実」をとるべきだという論と正反対のものである。しかしロシアにとっては、前者の方法が馴染み深いものである。すなわちアレキサンダー・クーリーが指摘する「交換主権 exchange sovereignty」の観点から、ロシアはウクライナやカザフスタンとの間で、黒海艦隊基地使用やバイコヌール宇宙基地に対する主権を認める代わりに、その使用権を確保してきた("Imperial wreckage: property rights, sovereignty, and security in the post-Soviet space," International Security, vol. 25, no. 3, 2000/2001.)。それは、国家の体裁など象徴的側面に注目すれば、ロシアの譲歩あるいは撤退とみなせるが、名を捨て実を取ることでロシアの実質的な利害は損なわれず、維持された。このように旧ソ連諸国との関係を通じて、すくなくともロシアは主権の分割可能性とその効用について学習しており、日本側もこうした利点にロシアの目を向けさせる取り組みを行うことを検討してみるべきだろう。
最後に「北方領土」問題が領域主権の原則を反映していることと関連して、そうした思考は「北方領土」を日本とロシアの「二国間」問題として捉える視座を自然化してしまうことを念頭におく必要がある。ポストコロニアル的観点から、二国間関係としての「北方領土」問題の把握には、先住民であるアイヌの存在は完全に忘却されており、その意味で「北方領土」の帰属を主張する日本とロシアは、帝国主義の遺産を争っているに過ぎない。たとえば「日本固有の領土」という言説は、ルナンがいう「歴史と伝統を忘却する」ことで近代国家を形成してきたナショナリズムの発露でもある点を想起しておくべきだろう(テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』みすず書房, 2000年を参照)。
いわゆる「北方領土」が問題化される歴史的背景やこれまでの交渉経過については、多くの研究がある。日本政府の見解に近い立場を代表するのが木村汎であり(『新版・日露国境交渉史――北方領土返還への道』角川書店, 2005年および『遠い隣国――ロシアと日本』世界思想社, 2002年)、それに対し批判的な立場から「二島+α」論を提起するのが和田春樹の研究である(『北方領土問題――歴史と未来』朝日新聞社, 1999年)。その中間に位置づけられるのが長谷川毅であり、木村と同様に北方四島が日本に帰属すると主張する一方で、日本政府の主張には歴史的に見ればかなりの無理があり、また返還の方法について和田が提唱する「二島+α」など柔軟に対処すべきだという立場をとる(『北方領土問題と日露関係』筑摩書房, 2000年)。
長谷川が指摘する日本政府の「問題」あるいは「詭弁」とは、クリル諸島(=千島列島)の範囲をめぐってであり、ウルップ以北をクリル諸島と定義し、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄したとされる千島列島には南千島(択捉・国後)が含まれていないという公式見解である。しかし戦前の日本政府や外務省の認識や、日露間の国境を画定した下田条約の条文の言語学的検討から、南千島は千島列島を構成する一部であり、千島列島から除外するという論理はサンフランシスコ条約との整合性を図るため、後から持ち出されたものでしかない。つまり強引なこじつけに基づく見解を主張したところで正当性を見出すことは難しい話であり、ソ連(ロシア)の不法性に訴えることでこうした日本側のすり替えが免罪されるものではないし、むしろ正当な主張それ自体に対する信頼も損なうことになる。この苦しい論理に縛られた結果、対ソ(露)外交から柔軟性が失われ、「北方領土症候群」と言われる硬直した態度が支配するようになった。
また「北方領土」問題が日ソ二国間の問題であると同時に、冷戦構造に規定された問題、すなわち冷戦の産物でもあった。ソ連との対立が深まる状況で、日本との講和問題を検討していたアメリカ政府の戦略が介在することで、日ソ間で解釈が分かれる「北方領土」問題が形成された。それは、アメリカの勢力圏に日本を繋ぎとめておき、またその代替案となりえるソ連との関係改善の芽を摘み取っておく上で、日ソ間に横たわる障害として領土問題が機能することになり、さらにアメリカの戦略上欠かせない沖縄に対する返還要求を封じ込めておく目的も有していた。その結果、サンフランシスコ条約2条C項で千島列島の放棄を宣言する一方で、その帰属先に言及せず、また放棄したとされる千島列島の範囲も明らかにしないという状況が生じた。そのため平和条約の批准過程で外務省は放棄した千島列島に南千島も含まれるという後の公式見解とは矛盾する答弁を行うなど、当事者でも解釈が定かではなかった(サンフランシスコ条約の領土条項については、原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点――アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」』溪水社, 2005年を参照)。
混乱する見解が後の公式見解へと収斂していったのは1956年の日ソ国交回復交渉においてであった。このときから択捉・国後・色丹・歯舞の四島を「北方領土」と呼ぶ名称が人口に膾炙していった。また日ソ国交回復をめぐる交渉過程で、色丹・歯舞の二島返還で合意する可能性が生じた際に、沖縄領有問題とリンクさせることで、ダレス国務長官が重光外相に釘を刺したことは知られている。その結果、交渉の主導権は、領土問題解決後に国交回復を目指す重光から、いわゆるアデナウワー方式により国交回復を優先させる鳩山首相および河野農相に移った(田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究――戦後日ソ関係の起点 1945-1956』有斐閣, 1993年、および坂元一哉「日ソ国交回復交渉とアメリカ――ダレスはなぜ介入したか」『国際政治』105号, 1994年)。その結果、少なくともありえた二島返還はタブーとなり、あくまで四島一括返還を求める公式方針が確立した。ここに現在まで連綿と続く「北方領土」問題をめぐる構図が成立したのである。
この構図は当時の冷戦状況によって強く規定されていたため、容易に動かしがたいものであった。しかし、日本あるいはソ連の国内政治上の変化、あるいは二国を取り巻く国際環境の変化は、まさに冷戦によって凍結状態に置かれた領土問題を融解させる「機会の窓」を開かせる。理論的に整理すれば、構造とユニット間の相互作用からなるシステムが国家行動を規定するため、国家はその能力や資源を十全に利用できるわけではなく、国家の行動はそれを取り巻く国際環境に大きく左右される。と同時に、システムレベルの変化は常にユニットレベルの変化に基づくものでもある(三村洋史「ソ連・ロシアの国内政治変動と対日外交の強硬化――『交渉オプションの束』の検討を中心に」『ロシア研究』29号, 1999年を参照)。すなわち二国間関係の改善が可能になる上で、国際環境とユニット(=国内要因)の変化が作り出す「機会の窓」をうまく捉え、合意事項を規範化・制度化することが必要条件となる。このような観点から日本の対ソ(露)政策の流れを概観したとき、国際環境の変化によってもたらされた「機会の窓」を十分に捉えきれないまま、時機を逸した行動に終始している印象が強い。
その最初の機会は1956年の国交回復であり、ソ連ではスターリンの死後「平和共存」を掲げたフルシチョフ・ブルガーニン路線が権力を握り、一方日本では吉田茂の退場によって政権に就いた鳩山一郎がその独自色の象徴としてソ連との国交回復を取り上げたこと、すなわち両国における指導者の交代が対外政策の優先順位の見直しを促したわけである。しかし先に述べたように鳩山と重光の対立やダレスの介入などによって領土問題の解決は先送りされ、1960年の日米安保改定に反発したフルシチョフが日ソ共同宣言の一方的破棄を通告したことで、最初の「機会の窓」は中途半端なまま閉じていった。
その次に「機会の窓」が開きかけたのは、1973年のブレジネフと田中角栄の首脳会談であり、共同声明で「未解決の問題」という表現が使われ、少なくとも日本側はそこに領土問題が含まれると解釈した(会談の経緯に関しては、田中首相に同行した新井弘一『モスクワ・ベルリン・東京――外交官の証言』時事通信社, 2000年: 2章を参照)。領土問題の実質的な打開というには程遠いブレジネフ・田中会談であったが、没交渉状態にあった日ソ関係が1973年に動き始めた一因として、当然のことながら1970年代の国際環境の変動が指摘できる。とくに米中和解は、ソ連指導部にとって衝撃であり、アジアにおいて孤立する可能性を抱かせるものであった。西ドイツとの関係改善など西ヨーロッパ諸国とのデタントを促進する一方で、日本に接近することで対ソ包囲網の形成を阻止する意図があったことは明らかであった。つまりアジア冷戦構造の転換は、ソ連指導部に外交政策の再考を促し、その一環として対日関係の改善、田中首相との会談が位置づけられる。しかし周知のようにこの「機会の窓」はデタントの行き詰まりから新冷戦へと突入し、1980年代には北海道侵攻説が現実味を持って語られるほどソ連脅威論が高まったことで、急速に萎んでいった。
おそらくこれまでの日ソ(露)関係のなかで、システムレベル、つまり国際環境の最大の変化、換言すれば最大に開いた「機会の窓」はいうまでもなくゴルバチョフの登場に伴う新思考外交であろう。この時期が特に注目されるのは、戦後日本と比較されることが多い西ドイツの対ソ政策と鮮やかなまでの対照性を示しているからでもある。「ゴルビマニア」と揶揄されたようにやもすれば病的なまでにゴルバチョフのペレストロイカ路線を熱烈に支持した西ドイツは、まだ国内政治の圧力を凌駕するだけの権力基盤をゴルバチョフが有していた時期に、西ドイツが望む基本法23条による統一とNATO帰属を成し遂げた。目の前に開かれた「機会の窓」を見逃すことなく、しっかりと捉え、西ドイツの利害に合致する結果を引き出したといえる(ドイツ統一過程については、高橋進『歴史としてのドイツ統一――指導者たちはどう動いたか』岩波書店, 1999年を参照)。
西ドイツとは対照的に、日本、とくに外務省の姿勢は「冷戦」の呪縛から抜け出していなかった。ゴルバチョフの第一書記就任の機会を捉え、日ソ関係の改善の糸口を探ろうとしたのは中曽根首相であり、それは「機会の窓」の存在を嗅ぎ取った行動ともいえる。しかしこれまで対ソ外交を取り仕切っていた外務省にとって、中曽根の行為は個人パフォーマンスに走り、引いては公式見解に基づく四島返還論を断念するものと映った。平和条約締結の前に「北方領土」返還が優先されるべきであるという「入口論」に固執する外務省の立場は、中曽根の政治力が絶頂にあったときにも揺るがず、その低下とともに再び支配的地位を保持した。また領土問題に関して従来のソ連の立場を繰り返すゴルバチョフにとって、「入口論」に固執する日本との関係改善を進めることにそれほど利益があるとも思われなかった。その結果、1987年に予定されていた訪日はキャンセルされ、絶好の機会が失われることになった。
ゴルバチョフの登場による「機会の窓」の出現は、たしかに日ソ関係の転換をもたらす可能性を秘めていたことは間違いないが、日本とソ連の国内政治事情の時差が微妙に関係改善の道筋を歪めさせたともいえる。つまりシステムレベルである冷戦構造の変容過程を共通項としながらも、またゴルバチョフと中曽根という強力なリーダーシップを発揮する素質を持つ指導者がいながらも、この両者が交差した時点で、ゴルバチョフはソ連共産党内で十分な基盤を築く途上にあり、他方で中曽根は1986年の衆参同日選挙の圧勝を絶頂期として次第に政治の求心力を低下させていった。また中曽根の退場後は、竹下、宇野、海部と内政型か、党内基盤の弱い指導者が相次いだことも「機会の窓」を利用することを難しくさせた。換言すれば、システムレベルで生じた「機会の窓」をうまく捉えるには、ゴルバチョフの権力基盤はまだ万全ではなく、中曽根は党内および国内政治の柵に捕われ、思い切った行動に出ることができないまま退場せざるを得なかったのである。
結局、ゴルバチョフの訪日が実現したのは、東欧諸国で共産党体制が相次いで崩壊し、その勢いはソ連国内にも波及し、構成共和国の離脱の動きに拍車をかけ、また保守派の突き上げによって改革路線の停滞が誰の目にも明らかになった1991年4月であった。国内政治の基盤が著しく弱まり、エリツィンの台頭によって二重外交の危険性を抱えたゴルバチョフに、日本が求める「北方領土」の四島返還を決断するだけの選択肢は残されていなかった。いわば「機会の窓」がほとんど閉じかけている時期に来日したゴルバチョフから領土問題で譲歩を引き出すことは無いものねだりにしか過ぎなかった。したがってこのときゴルバチョフが四島一括返還を考えていたという先日の報道も(「『4島一括返還』提案あった=91年ゴルビー訪日秘話」時事通信)、ゴルバチョフの置かれた国内・国際環境に目を向ければ、実現可能性はかなり疑わしい提案である。
1991年12月ソ連が解体して、「北方領土」問題の交渉相手は、条約義務などを継承したロシア共和国に変わったが、基本的な構図はそのままであり、むしろ民主化と市場経済への移行過程にあるロシアを率いるエリツィンは、ポピュリスト的言動を駆使することで国民の支持を獲得してきたこともあり、内政の停滞・失敗や不満の捌け口として対外問題が利用された。民主化途上の国家が排外的なナショナリズムに走りがちである例に違わず、世論の動向がロシアの政策過程に影響を及ぼすようになってきた。またひとつ外交的妥結の可能性を拘束する国内要因が付け加わったのである。たしかに政治指導者の気紛れで合意事項が反故にされる独裁・権威主義国に比べれば、民主主義国との外交交渉は信頼性の面で高いものであるが、合意事項をめぐる裁量の余地が交渉過程の段階から制約されていることは、必然的に交渉を妥結させる上で大きな障害として立ちはだかる。成熟した民主主義国であれば、こうした交渉上の事情も考慮に入れた上で合意事項に対する賛否を表明することができるが、ロシアのような民主化途上の国の場合、いきおい綿密に練られた合意事項を「一方的譲歩」とみなし、国内政治の争点とする傾向がある。
またロシアが、体制転換を経験した東欧(中欧)諸国のような(西欧型の)議会制民主主義体制ではなく、大統領に権限が集中した大統領民主主義を採用したことは、政策方針が大統領の個人的パフォーマンスに左右される可能性をもたらす。それは、クラスノヤルスクおよび川奈会談がエリツィンと橋本首相の個人的信頼関係の構築に寄与し、停滞状態にあった日露関係を打開する契機となる一方で、それが首脳同士の個人的関係から発展することなく、両国間で規範化・制度化されるまでには至らない状況を招いてしまう。そのため、政治指導者の交代とともに、一から関係構築を図るという非効率的な過程が繰り返されることになる。したがって断絶を伴いがちな首脳外交よりも、連続性を常とする外務省が対露外交の枠組みを規定することになる。しかも外務省の方針である政経不可分や拡大均衡政策も領土問題の解決を前提とし、「機会の窓」をすべて領土問題に結びつける「北方領土症候群」が対露外交の硬直化を引き起こしている。またそれゆえにバックチャンネル外交の魅力、すなわち首脳と外務省を媒介する回路の有用性を高め、ここに鈴木宗男が対露外交に深く関与する条件が作られたといえる。
プーチン政権になってから、ロシアの政治体制はいっそう中央集権化が進み、議会制度の形骸化と政党が大統領個人団体に変容することでいわゆる「政府党体制」に近い状況が出現している。また国民の間でも、プーチンにかつての帝政ロシアの面影を見出す心性が広まり、注目を集めているように(「現代の肖像:プーチン・ロシア大統領」『アエラ』2005年11月28日号)、民主化論が想定する民主主義とは異なる「帝政民主主義」(中村逸郎)と形容すべき政治体制でもある。このような政治文化的背景を持つプーチンのロシアは、「北方領土」問題にとっての「機会の窓」となりうるには矛盾する力学を内包しており、それはエリツィン時代から見られる趨勢がより強固な形で制度化されてきたと理解できる。プーチンの強権的なまでの政治力は、領土問題の解決を一気に推し進めるだけのものがあり、(議会内の)反対論を抑えつけることもそう難しいことではない一方で、国民からの畏敬の念に体制の正当性を求めていることは、ゼロサム関係で理解されがちな領土問題に対する理解を得るために、大きな代償を払わなくてはならないことを意味する。現在のプーチン政権の姿勢から判断すれば、自らの正当性基盤を揺るがせてまで領土問題で日本に譲歩するとは考えられないし、日本が中韓と尖閣諸島や竹島など領土問題を抱え、近年緊迫化していることは、ロシアにとって「北方領土」が貴重な外交カードとして利用価値があることを示唆している。それゆえ、プーチンの任期が切れるまでロシア側からの劇的な提案によって「機会の窓」が開く可能性は低いといえるだろう。
主権が不可分であるという通念は、領土問題をゼロサム関係と捉える見方を助長するだけで、解消するものではない。主権概念は、所有権概念に伴う形で登場してきた。それは主権の機能の一つに内政不干渉があることからも明らかで、主権(をもつ主体)は一定の領域空間を独占的に「所有」し、それに対する他者の権利を排除する。したがって誰にも属さない領土は存在せず、それは形式的に常に誰かの所有物であり、複数の主体で共有する主権という考えは観念的に存在しない。しかし、立憲主義的な理解に基づけば、主権は分割可能であり、分割されるべきものである(篠田英朗「国家主権概念の変容――立憲主義的思考の国際関係理論における意味」『国際政治』124号, 2000年)。また形式論的には領土所有は独占の論理が作用しているが、実効的な観点から見れば、アフリカの破綻国家に顕著なように主権の所在が確定できない状況が多々見られる。あるいは軍事的に去勢されている点に注目して戦後の西ドイツや日本を「半主権国家」と捉える見方もあるように、主権の在り様は錯綜している。
「北方領土」問題をめぐっても、領土の所在と主権の所在が一致しなくてはならないという主権観から一歩引いてみる必要があるだろう。すでに60年にわたってソ連/ロシアが実効的に支配している「北方領土」の主権と領土の全面返還は現実的に困難であり、また多くの日本国民にとって「北方領土」が実利的な意義よりも象徴的面が強いのであれば(漁業利権を除けば)、第一に要求すべきは主権の所在を確認することであり、領土返還は事実上放棄することも考慮に入れる必要がある。これはロシア側に主権を認め、日本は経済開発などの「実」をとるべきだという論と正反対のものである。しかしロシアにとっては、前者の方法が馴染み深いものである。すなわちアレキサンダー・クーリーが指摘する「交換主権 exchange sovereignty」の観点から、ロシアはウクライナやカザフスタンとの間で、黒海艦隊基地使用やバイコヌール宇宙基地に対する主権を認める代わりに、その使用権を確保してきた("Imperial wreckage: property rights, sovereignty, and security in the post-Soviet space," International Security, vol. 25, no. 3, 2000/2001.)。それは、国家の体裁など象徴的側面に注目すれば、ロシアの譲歩あるいは撤退とみなせるが、名を捨て実を取ることでロシアの実質的な利害は損なわれず、維持された。このように旧ソ連諸国との関係を通じて、すくなくともロシアは主権の分割可能性とその効用について学習しており、日本側もこうした利点にロシアの目を向けさせる取り組みを行うことを検討してみるべきだろう。
最後に「北方領土」問題が領域主権の原則を反映していることと関連して、そうした思考は「北方領土」を日本とロシアの「二国間」問題として捉える視座を自然化してしまうことを念頭におく必要がある。ポストコロニアル的観点から、二国間関係としての「北方領土」問題の把握には、先住民であるアイヌの存在は完全に忘却されており、その意味で「北方領土」の帰属を主張する日本とロシアは、帝国主義の遺産を争っているに過ぎない。たとえば「日本固有の領土」という言説は、ルナンがいう「歴史と伝統を忘却する」ことで近代国家を形成してきたナショナリズムの発露でもある点を想起しておくべきだろう(テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』みすず書房, 2000年を参照)。
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