constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

外交(官)漂流

2009年12月22日 | nazor
発足から3ヶ月あまりが経過した鳩山政権は、支持率の低下を報じる各種世論調査の結果から明らかなように、政権交代という目標を成し遂げた余勢が生み出した貯金を使い果たしつつある意味で、本当のスタート地点に立っているといえるし、それは、本格政権に向かうか、それとも細川政権の二の舞を演じるのかの岐路にあるといってよいだろう。しかし現状を見る限り、その前途には多くの障害が待ち構えている。政権交代以前から表出していた鳩山首相や小沢民主党幹事長の偽装献金問題に加えて、財源確保の厳しい現実とマニフェスト実現とのジレンマに直面し、困難な調整が求められる予算編成や、普天間基地移設に関する日米合意の先送りによる日米関係の「危機」、さらには外国要人との会見をめぐる天皇の政治利用問題というように内政および外交の両面において懸念材料が山積している。そしてこれら課題に対して鳩山首相が曖昧な態度に終始する姿がメディアを通じて伝えられることによって、現代政治において政治指導者の資質としてもっとも重要視されるリーダーシップの欠如という評価につながり、それが支持率の低下の最大要因となっている。

戦後日本政治において未経験に等しい政権交代の意義を十分に受け止めるだけの余裕のなさは、変化に対する過剰なまでの怖れを伴った反撥を生じさせる。今回の政権交代の場合、それは、財源捻出を目的とした事業仕分けをめぐる賛否に典型的に現れている。とりわけスーパーコンピューターを筆頭とする科学技術関連事業の廃止・見直しに対する反撥は、ノーベル賞受賞者たちの批判もあって、大きな議論を巻き起こした。こうした反撥もあってかその後スパコン予算の復活に至ったわけであるが、この議論を通じて、仕分けの意味をまったく理解しないまま、科学技術立国日本の今後を感情的に憂う態度に対して、その「上から目線」的な権威主義に違和感が抱き、自省を込めた議論を促す動きが当事者である研究者たちの間でも見られたことは一つの成果であるといえるだろう。

同じく仕分け対象となった外交関連予算について、依然として感情的反撥の域を超えた建設的な議論は見られない。たとえば、細谷雄一は、「外交の両輪『世論』『広報』」(『読売新聞』2009年12月21日)と題する論説において、日本において「外交が崩壊しつつある」と指摘し、『外交フォーラム』および『ジャパンエコー』の買取制度廃止は国民から外交理解を深める機会を奪う「民主的外交の自壊」であり、また「言葉や理念、歴史認識、文化、イメージといった要素が国際関係を大きく左右する」現代世界において、ますます重要性を高めているパブリック・ディプロマシーの自発的放棄を意味すると懸念を表明する。

細谷の懸念が杞憂のものだと一蹴するわけではないが、細谷が前提とするような外交のあり方が現代世界において相応しいものであるのかといえば、疑問が残る。すくなくとも今回の事業仕分けを通じて明らかになったことは、関連事業の意義を説明する官僚たちのプレゼンテーション能力の異常なまでの低さである。すぐれて同質的な空間である(旧)外交から、異質な価値を持つ他者との交渉が支配的モードになっている現代外交の時代に相応しい外交官の資質を見極める意味で、効率性という別種の価値基準に立つ他者を納得させる場である事業仕分け作業は格好の機会であったはずだが、その結果は異質な他者との議論に戸惑う官僚たちの姿を露呈させた。こうした光景を見せ付けられると、異なる価値観がぶつかり合う国際社会においてパブリック・ディプロマシーを展開したとしても、それを担う人材が外務官僚に見出せないとすれば、いくら『外交フォーラム』を発行したところでその効果は期待できない。あるいはこれまでの買取制度によってどのような成果が挙がったのかといった評価が十分になされていたのか、それとも惰性として問題点を抱えたまま継続してきたのかといった点が今一度議論される必要を提起した点で事業仕分けにも意味があったといえる。仕分け人の議論を先取りする形で買取制度の改善点を提起するといった戦略的判断があってもよかったはずであり、日程の関係上、仕分け作業の実態を学習する機会があった点も考え合わせると、仕分け人たちの判断以前に外務省自身に問題の根本原因が潜んでおり、この点に踏み込んで議論が展開されない限り、細谷のそれはノーベル賞学者たちと同じ罠に嵌まってしまうだけである。仕分け作業後には、『AERA』(2009年12月7日号)が「未上映3200回 戦略なき文化発信 外務省所管の国際交流基金」と伝えているように、外務省関連事業をめぐる課題は構造的なものだといえる。いわゆるハコモノの域を出ず、有効に活用されていない点を考えると、日本のパブリック・ディプロマシーの衰退を嘆くとき、むしろその担い手たちの育成こそが課題であり、旧来の外交(官)の発想や枠組みに依拠して政策が立案される状況が根本的に見直されない限り、十分な効果が期待できそうもない。

またその担い手である外交官についての細谷の認識もまた問題となる。細谷は「『政治主導』の美名の下、職業外交官の手から外交を奪い取ろう」としていると鳩山政権を批判しているが、はたして職業外交官に委ねた外交がどこまで有効なのかという問いが生まれるのは当然だろう。細谷の議論を支える精神構造において看取できるのが「職業外交官性善説」ともいうべき立場である。それは、細谷の著書『外交――多文明時代の対話と交渉』(有斐閣, 2007年)に対する網谷龍介の書評論文タイトル「職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と」(『国際学研究』33号, 2008年)が端的に指し示しているが、外交官の持つ専門的な知識や交渉技術に対する全幅に近い信頼感とは対照的に、世論の動向に左右されやすい政治家/政治屋の近視眼的な態度への嫌悪が流れている。しかし網谷が指摘するように「短慮の政治家と同様に、『省益ないし個人的キャリアに固執する外交官』という…自然な仮定」(97頁)が先験的に考慮の外にある。こうした「職業外交官性善説」に立つ限り、たとえば一連の外務省の不祥事などは、一部の個人の問題に還元され、外務省の組織自体に内在する問題が看過されてしまう。たとえ一人一人が優れた知識と素質を有したとしても、外交官もまた自身が属する組織文化に拘束される意味で、旧外交時代の外交イメージを投影した議論とはまったく異なる視座から議論を組み立てることが求められる。

さらに細谷の議論において、国民は常に外交において主体ではなく客体としての地位に留め置かれている。すなわち外交を遂行する主体はあくまでも外交官であり、国民は世論によってそれを「支える」存在、あるいは政府が提示する外交上の争点について「理解を深める」役割以上のものが与えられていない。そこに国民が積極的に外交に参画する契機を見出すことは難しく、むしろ国民の参加が外交の世界を攪乱させてしまうことへの警戒感が滲み出ている。それは、『外交』の中でウォルター・リップマンの愚民観を好意的に引用する細谷の姿勢に象徴されている。外交に対する日本との対照的な態度を指摘するために、フランスの事例が冒頭で言及されているが、雑貨屋にも専門誌が置かれている状況がいかなる経緯で一般化したのかといった動態分析、そして比較から見えてくる日本との相違について議論が及んでいない結果、単なる「ためにする」議論に終わっている。国民の外交に対する理解向上を望むのであれば、関心の低さを憂うのではなく、向上させる方策にはどんなものがあるのか、フランスの事例から学べる点は何か、そして外交専門誌の買取制度がその手段として適当なのか否かに踏み込んで論じるべきだろう。ニコルソンは「外交の専門職業的側面が強化され、その基礎が拡大される」うえで「外交とその主権者との間に信頼関係が回復される」重要性を指摘していたが(『外交』東京大学出版会, 1968年: 97頁)、外交を論じる研究者や評論家たちもまた主権者たる国民との間に十分な信頼関係を築く努力が求められるのであり、それはなぜ国民への懐疑主義に惹きつけられるのかという自らの精神構造を反照的に捉え返す試みにもつながるだろう。たしかに性急な世論への懐疑は、健全な批判精神の発露といえるかもしれないが、世論への懐疑が蔑視へと容易に転移する危険性も同時に考慮に入れておく必要があるだろう。大衆・国民に対する冷めた視線は、外交の可能性を向上させるどころか、むしろその停滞に至る契機となることに対して自覚的であったほうがより望ましい態度であろう。

「職業外交官性善説」に拠って立つ議論は、結局のところ、半澤朝彦が指摘するように、「外務省の省益や官僚の権威主義、外務省の役割が空洞化しつつある不安を代弁している」にすぎず(『年報政治学2008-1国家と社会――統合と連帯の政治学』木鐸社, 2008年: 342頁)、省益と国益を無自覚にも混同することになりかねない。この微妙な距離感を見失うことなく、議論を展開することは困難を伴う。とくに「帝国主義時代の外交官のメガネで現代世界を見る」傾向の強い細谷の議論が「『プロ』は相対化できても、学生は思いのほか、そのまま受け止めてしまう」(341-342頁)、負の行為遂行的代償を内包していることを考えるとき、現代世界における外交のあり方をめぐる時代錯誤的な議論が受け入れられる土壌を整備することになるだろう。職業外交官たちにとって心地のよい議論かもしれないが、それは未来への展望を欠いたアナクロニズムの変種でしかない。外交官を英雄視し、ポピュリズムに囚われた政治家や大衆を憫笑する外交論が、ニコルソンの、そして細谷の意図するところではないことは言うまでもないが、そうした劇画化された外交論を許容してしまう危険性がつねに細谷の外交論に付き纏っている。

・追記(12月24日)
『外交フォーラム』の買い上げ制度の廃止が決定されたわけであるが(「外務省、外交誌の買い上げ制度廃止へ」『日本経済新聞』2009年12月24日)、同日発売の『週刊新潮』(12月31日・1月7日号)は、小ネタ扱いであるが、雑誌の無償配布に際して利用されている第三種郵便制度の要件を満たしていないのではないかという疑惑を報じている。なおこの疑惑は、昨日今日出てきたものではなく、国会でも取り上げられたという(谷博之参議院議員の質問主意書およびそれに対する答弁書)。

無駄に想像力を逞しくするならば、『週刊新潮』の記事に先回りする形で廃止の決定がなされたとの因果関係を推測することができる。パブリック・ディプロマシーの重要性、その手段としての外交雑誌の有用性などを否定するものはないが、国民の支持や理解に支えられるべきパブリック・ディプロマシーを運用する制度の問題点を露にした点で、事業仕分けの副産物とも言えるだろう。
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list33

2009年12月10日 | hudbeni
135 / THE BRAND-NEW DAWN
TOTO / HYDRA
EAGLES / ONE OF THESE NIGHTS
SOFT BALLET / DOCUMENT
KEY OF LIFE / KEY OF LIFE
LED ZEPPELIN / PRESENCE
甲斐バンド / ラヴ・マイナス・ゼロ
FENCE OF DEFENSE / FENCE OF DEFENSE
SADISTIC MIKAELA BAND / NARKISSOS
EMERSON, LAKE & PALMER / TARKUS

ユーチューブを彷徨っていたところ、135のライヴ映像に邂逅。彼らの代表曲といえば「我愛你」(1987年)であるが、10年後に自らリメイクしたヴァージョンが収録されているアルバムを久しぶりに聞いてみる。ついでにブックオフで目に留まり、衝動的に購入したキー・オブ・ライフを組み合わせる。

135 / 我愛你 '97


Key of Life / Love Story ~時をこえて今も
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音楽の嗅覚

2009年12月08日 | hudbeni
ロンドンハーツの企画から生まれた青木さやかのデビュー曲「ノコギリガール」を耳にしたとき、そのサビがどこかで聞いたことのある感覚に囚われていたところ、ようやくにして相対性理論の「四角革命」だということに思い至る。作詞・作曲を担当した桜田神邪(狩野英考)が相対性理論のパクったわけではないだろうが、何らかのインスピレーションを(無自覚にであれ)受けていたとすれば、それは狩野の音楽的センスの良さを物語っているといえるかもしれない。

相対性理論 / 四角革命


青木さやか / ノコギリガール
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