constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

ネオリアリズム受容の日本的事情

2007年02月27日 | nazor
ジョン・J・ミアシャイマー『大国政治の悲劇――米中は必ず衝突する!』(五月書房, 2007年)が先ごろ刊行された。ソフトカバーの体裁から受ける印象とは異なり、5000円以上という価格設定にかなり強気な出版社の姿勢が伺える。しかし学術性の見地に立てば、注釈と文献一覧を一切省いてしまう判断は疑問の残るところである。研究者だけでなく広く一般読者にも読んでもらいたいために注釈等を省略したとすれば、価格を低く抑えるべきだろうし、学術書としての意義を強調したいならば、それなりの価格になったとしても、ある意味で本文よりも重要性の高い注釈や文献一覧は外すべきではなく、それゆえにミアシャイマー初の邦訳著書の位置づけが中途半端なものになってしまった印象が強い。ポール・ケネディ『決定版・大国の興亡――1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』(草思社, 1993年)のように、後に注釈を全訳した決定版を刊行する可能性もあるといっても、すくなくともこうした点について、訳者は「毅然とした」態度を示すべきではないだろうか。

ところで、ミアシャイマーの邦訳が刊行されたのに続いて、ネオリアリズムの「正典」であり、1980年代以降の(北米)国際関係学(IR)における論争の中心を占めていたケネス・ウォルツの Theory of International Politics (McGraw-Hill, 1979) の邦訳も勁草書房から「ポリティカル・サイエンス・クラシックス」の一冊として刊行される予定である。ようやくネオリアリズムに関する主要な議論を日本語で読める状況が生まれつつあるわけであるが、これを捉えて「日本もようやくアメリカの状況に追いついた」とみなすことが妥当か否かは判断の分かれるところだろう。

かつてスタンリー・ホフマンが論じたように、IRが「アメリカ製社会科学」であることを考えると、アメリカ学界における理論や論争の構図が大きな影響力を持ち、そうした動向に注意を払う必要があることは確かだろう。他方で、学問の成立や発展の状況は、各国の政治文化や知的環境、あるいは地政学的要因によって規定される。IRに関しても、近年になって英国学派の再評価が進められたり、ドイツやフランス、そしてスカンジナヴィア諸国におけるIRの独自の展開が注目さているように、アメリカ学界とは異なるIRの姿が看取される(たとえば、Jorg Friedrichs, European Approaches to International Relations Theory: A House with Many Mansions, Routledge, 2004、およびKnud Erik Jogensen and Tonny Brems Knudsen eds., International Relations in Europe: Traditions, Perspectives and Destinations, Routledge, 2006を参照)。その意味で、ウォルツやミアシャイマーなどのネオリアリズムの受容が遅れた要因を日本の学界の後進性や閉鎖性に求めて嘆くことは、アメリカ学界の動向を無批判に受け入れ、それに追随することをIRの「進歩」と履き違える倒錯した姿勢と変わるところがない。

たしかに、田中明彦が指摘するように、アメリカ学界で「ウォルツとの対話」が行われていた「1980年代の日本の国際政治学は、ほとんどウォルツの『国際政治論』に注目しなかった…。この時期の日本の国際政治学で理論面に関心を持った人々が注目したのは、覇権安定論であり、世界システム論であり」、「日本の学界では、ウォルツを無視した人と誤読した人しかいなかった」(「序章――国際政治理論の再構築」『国際政治』124号, 2000年: 4, 10頁)。田中明彦『世界システム』(東京大学出版会, 1989年)猪口邦子『戦争と平和』(東京大学出版会, 1989年)はいうまでもなく、リベラルな平和主義に立つ鴨武彦『国際安全保障の構想』(岩波書店, 1990年)も1章分をロバート・ギルピンの覇権安定論批判に当てているように、主張の違いを超えて、ネオリアリズムとは言えば覇権安定論あるいは循環論を指し、ウォルツの議論は二極安定論を説く勢力均衡論のひとつという共通の理解が形成されていた。

ウォルツの構造的リアリズムではなく、覇権安定論がネオリアリズムとみなされた理由は、過度の科学主義に対する懐疑的な姿勢とともに、現実の日米関係ならびに国際関係の文脈に求めることができるだろう。周知のように1970年代後半から1980年代にかけてアメリカ衰退論争が巻き起こった(ベストセラーになったケネディの『大国の興亡』はその象徴である)。日本外交の基軸である日米関係を支える論理が「ヘゲモニーに逆らってはいけない」という太平洋戦争の教訓に基づいたものであり、その含意として導かれたバンドワゴンの論理であるとすれば(土佐弘之「『現実主義』は現実を切り捨てる」『世界』2005年6月号)、アメリカの覇権の行方はすぐれて現実的な(外交)政策上の課題となることは明らかである。戦後の日本外交を肯定するにせよ批判するにせよ、独立変数であるアメリカに左右される従属変数としての地位にある日本において、ウォルツよりもギルピンやモデルスキーの議論がきわめて具体的で実践的なものとして受け止められたとしても不思議ではない。

1977年にスタンリー・ホフマン宛の返信でE・H・カーは「英語圏の国々における国際関係の研究は、強者の立場から世界を運用していくための最適の方法に関する研究に過ぎません」と述べたことがあるが(遠藤誠治「『危機の20年』から国際秩序の再建へ――E・H・カーの国際政治理論の再検討」『思想』945号, 2003年: 61頁に引用)、カーの指摘は、IRが支配者の学問であること、そして科学という名の普遍性を喧伝する点で帝国性を帯びていることを暗に示している。日本においてウォルツやミアシャイマーの議論が誤解あるいは無視されてきたことは、こうした帝国性に対する抵抗の一形態として捉え返すこともできる。ウォルツやミアシャイマーと並ぶネオリアリストのスティーヴン・ウォルトの論文名「ひとつの世界、多数の理論」になぞらえるならば("International Relations: One World, Many Theories," Foreign Policy, no. 110, 1998)、観察対象である世界はひとつだとしても、それを観察し、説明し、理解するためのIRは複数存在する。
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会議外交としての六カ国協議

2007年02月14日 | nazor
昨年の北朝鮮のミサイルおよび核実験再開と国連安保理の制裁発動によって一気に緊迫の度合いが増し、袋小路状態に嵌った感のあった朝鮮半島情勢は、先月ベルリンで開催されたアメリカと北朝鮮の二国間協議を契機に一気に動き出し、8日から北京で行われていた六カ国協議において、寧辺の核関連施設の停止と見返りとしての経済支援を明記した共同声明の採択に結実した。すでに合意内容の解釈をめぐるヘゲモニー闘争が繰り広げられているが、すくなくとも今回の合意によって、2000年代の東アジア国際関係の中心課題であった第二次核危機はいったん幕を閉じたとみてよいだろう。

ここで簡単に核危機の特質と歴史的な経緯を振り返ってみると、(ヨーロッパ中心主義的な)世界史観に基づいて米ソ冷戦の終焉およびソ連圏の解体が起こった1989-91年に時代の転換点を求めるならば、たしかに1990年代以降を「ポスト冷戦」と呼ぶことは間違いとは言い切れない。他方で、東アジアという特定の空間に目を転じれば、いわゆる「ポスト冷戦」時代の東アジアにおいてつねに中心を占めてきた朝鮮半島問題、とくに北朝鮮の核問題は、グローバルな冷戦構造の崩壊によって生じた秩序転換期に特有の流動的な状況に注目すればすぐれて「ポスト冷戦」的な問題である。その一方で、1970年代の米中デタントによる東アジア冷戦構造の部分的終焉というシステム変化が体制転換をもたらすのではなく、北朝鮮の国家体制あるいは国家/国民アイデンティティの再構成(主体思想や先軍政治)に逢着したことは、冷戦的な感覚や思考が完全に払拭されずに残っていることを意味している。その点で北朝鮮の核問題は、一般通念的には終わったはずの冷戦という文脈に強く拘束されている。別言すれば、冷戦的要素とポスト冷戦的要素が複合的に交錯している点が北朝鮮をめぐる核問題の解決をより困難にしているともいえる。

1990年代以降の東アジア国際関係は、いわば北朝鮮の核問題を中心に展開し、その秩序構想の行方も左右されてきた。グローバルな冷戦の終焉過程は、韓国の北方外交という地域的な対応を生み出し、それまでの東アジア国際関係の構図を大きく変えてしまう触媒として作用した。その過程で孤立感を深めていった北朝鮮が核兵器開発に打開の道を求めた結果、1994-1995年の第一次核危機が起こったわけである。第一次核危機が枠組み合意によって一応の妥結を見た後、南北首脳会談の開催に見られるように、世紀転換期前後には緊張緩和の機運が醸成された一方で、枠組み合意の実施において当事者間で認識の相違が浮き彫りになっていった。たしかにアメリカにおける政権交代と同時多発テロは、核問題をめぐる既存の規定条件を一掃してしまうだけの衝撃をもたらし、北朝鮮にどのように対応し、核問題をどのように解決し、そして東アジアにいかなる秩序を築き上げるのかという問題群をめぐって積み重ねられてきた取り組みは振り出しに戻ることになった。

こうして生じた第二次核危機に関しては、船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン――朝鮮半島第二次核危機』(朝日新聞社, 2006年)がその内実を詳らかに明らかにしている。すでに主要全国紙の書評などで高い評価を受けているが、その中で異彩を放つ評価を与えているのが木村幹の書評である(『論座』2007年2月号: 306-307頁)。「外交エリート達によるプロジェクトXの限界」と題するキャプションが示唆するように、船橋が描き出す六カ国協議における各国代表団の行動や発言は、18-19世紀の古典外交の情景と共通するものがある。木村は、こうした既視感を覚えさせる理由として、冷静で合理的な判断に基づいて「外交のプロ達」によって進められる外交交渉というエリート主義的な前提が暗黙のうちに措定されていると指摘する。そして「外交のプロ達」の行動の自由を束縛する各国の「空気」が十分に書き込まれていないために、第二次核危機を取り巻く状況の転調が看過されてしまったと論じている。

かつて高坂正堯は古典外交の特質として同質性・貴族性・自立性を挙げたが(『古典外交の成熟と崩壊』中央公論社, 1978年: 344頁)、六カ国協議の場に集う「外交のプロ達」もまた外交官という職業に携わる一種の貴族性を有し、一種の外交文化を身につけている点で同質的であり、また国内の「空気」が遮断されている意味で国内政治から自立した(閉鎖)空間として六カ国協議を捉えることができる。したがって厳しく対立しているようでありながらも、そこに外交官同士の奇妙な連帯感や和やかな雰囲気を看取することは困難ではない。高坂の言葉を借りれば、「外交の営みをゲームとして楽しむ感覚なしに、外交という複雑で微妙な技術はありえない」(169頁)という認識が依然として息づいているように感じられる。さらにいえば各国の次官級を成員とする六カ国協議という形式が、ちょうど君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年)においてパーマストン外交の特徴として指摘された会議外交(conference diplomacy)を想起させる点も、六カ国協議に内在する古典外交的な性格を示しているといえるだろう。君塚自身は会議外交が持つ今日的含意については明確に述べていないものの、その意義が失われていないという認識があることは確かだろう。

「外交はつねに時間がかかるものだし、それゆえに『待つ』ことがきわめて重要な美徳となる」(高坂: 151頁)と語り、君塚も外交の奥義を「ねばり強さ」に求めている古典外交が成立するためには、国内政治の影響を最小限に抑えておくか、あるいはハロルド・ニコルソンのように立法的側面と執行的側面を峻別し、前者への影響を是認することで後者の自立性を確保することが必要になる(『外交』東京大学出版会, 1968年)。しかしながら、19世紀的な国際政治から20世紀的な国際政治への変容はニコルソンの譲歩を無意味化するような形で進んでいった。つまり、国際政治認識がイデオロギー化し、勢力均衡政策の要である同盟の柔軟な組み替えが機能しなくなる一方で、既存の枠組みに対する物神化傾向が高まっていき、そして軍事的なるものに高い価値を見出す「市民社会軍国主義」が浸透していくことによって、古典外交が機能する素地は取り払われていってしまった(高橋進「1914年7月危機――『現代権力政治』論序説」坂本義和編『世界政治の構造変動(1)世界秩序』岩波書店, 2004年)。この傾向はさらなる展開を遂げて、地政学に代わって時政学の支配する「長い21世紀」において、「待つこと」に対する耐性が十分に備わっているとはいえず、反対にミラン・クンデラの表現を借りれば(『緩やかさ』集英社, 1995年: 165頁)、速さの魔力と忘却の願望が絡み合いながら、政治指導者も国民も視覚的効果のスペクタクル性に富んだ結果を期待し、そして求める。その結果、細谷雄一が指摘するように、感情による外交運営、すなわち「譲歩を拒絶し、弱さを嘲笑し、圧倒的な勝利を求めようとする外交姿勢」が時代の趨勢になっている(「新しい交渉の時代」『論座』2007年3月号: 30頁)。合意を作り上げていくプラスサムというよりもむしろ勝つか負けるかのゼロサムの観点で理解されるような外交は本来の意味における外交とはかけ離れたまったくの別物だといえる。

六カ国協議の内部空間において展開されているのが冷静な利害計算に基づく「古典外交」だとすれば、その外部空間を支配しているのは「情念外交」だといえる。この2つの外交をどのように整合させるのかが各国政府にとっての課題となっているが、北朝鮮の核問題に関連付けるならば、この課題が先鋭的な形で現れているのが日本である。すなわち日本の外交政策がアメリカ外交の従属変数として行動の自由を著しく制約されているという構造的な問題に加えて、安倍首相は、自らの権力資源の多くを拉致問題に典型的な「情念の領域」から引き出すことによって現在の地位とイメージを獲得してきた。そのため、アメリカの政策転換に影響されやすい一方で、そもそも外交交渉によってはカタルシスを提供するような形での解決が見込めない状況において国内に充満する情念をどのように宥めるかというアポリアに直面することになる。今回の六カ国協議の合意もこのアポリアを解消するだけのインパクトに乏しく、むしろ拉致問題の解決という目標と整合させていく作業がいっそう難しくなった印象が強い。

木村が言うように「外交のプロ達」が作り上げた六カ国協議には限界が内在しているとすれば、六カ国協議が現代版の会議外交として今後も機能するかどうかは未知数であり、多大な期待をかけるべきではないだろう。今回の六カ国協議とは、ほんの一瞬「長い21世紀」に開花した古典外交の残り香に酔いしれることができた稀有な時間が現出した場であったのではないだろうか。
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2001年の思ひ出

2007年02月13日 | hrat
ノリ代打の切り札!中日育成枠で獲得へ(『スポーツニッポン』)
ノリが中日入団テスト!師匠・落合監督が救いの手、合格も(『サンケイスポーツ』)
ノリ中日育成枠、背番号は200番台(『日刊スポーツ』)
ノリ、15日から中日入団テスト…育成枠で獲得も検討(『スポーツ報知』)
ノリが“オレ竜”で再出発(『デイリースポーツ』)

オリックスから自由契約となったものの、獲得に名乗りを上げる球団の名前が浮かんでは消えていく難民状態を強いられていたノリに対して、今季の帰属先を確定できるかもしれない現実味のある機会が中日によって提示された。といっても育成枠での獲得になる公算が高く、一軍登録されたとしてもその役割は「右の代打」としてであることを考えると、自由契約の対価としては割に合わないものだといえる。

オリックスがローズの入団テストを発表(『日刊スポーツ』)
オリックスがローズ入団テスト発表(『スポーツ報知』)
今さら!?オリックス、ローズをテスト…14日に宮古島入り(『サンケイスポーツ』)
オリックスがローズ獲得へ(『デイリースポーツ』)

一方、ノリが去っていったオリックスは、2001年の近鉄優勝時の相方タフィ・ローズを宮古島に呼んで、入団テストをするらしい。『サンスポ』が報じるように「?」が浮かぶ行動であることは確かであり、球団としてのオリックスの資質を疑いたくなる事例がまた一つ加わったというべきだろう。
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