constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

「内戦の時代」追想

2011年07月08日 | nazor

「地域紛争の時代」ないし「内戦の時代」、すなわちユーゴスラヴィアの国家解体に伴う内戦を端的な事例として、主権国家間の紛争(戦争)よりも主権国家内の武力紛争(内戦)が国際政治の支配的なモードになっていくという時代認識は、冷戦後の世界像について語られた数多くの言説のなかでも、一定程度の現実感と説得性を伴って広く浸透していった。冷戦の終焉によって米ソ両国の直接・間接の関与が戦略的な意味合いを喪失した結果、冷戦期後半において社会経済体制モデルをめぐる競争の舞台となった地域にパワーおよび正統性の真空状態が生まれた。脱植民地化過程で主権の対外的位相に重きを置いた、主権制度の(形式的)受容の帰結は、対外的主権とセットで十全に機能するはずの対内的主権(至高性)の問題を置き去りにしてきた。いわば国家・国民建設が中途半端な時点で、主権国家としての外装を支えていた外部勢力からの支援の根拠となっていた冷戦構造が解体してしまったわけである。この結果、新興独立諸国は、国際政治的なパワーの真空と国内政治的な正統性の真空という二重の苦境に立たされることになった。そしてこれら国家および政治指導者は、それまでの冷戦構造を与件として組み立てられてきた外交戦略とは異なる拠り所を求めるようになり、多くの場合、ナショナリズムの妖しい魅力に引き寄せられていった。もちろん冷戦の終焉が、つまり紛争抑制要因としての米ソの退却が必ずしも各地で内戦の誘因となったり、激化を招いたわけではなく、反対にカンボジアのように停戦・和平に向けた契機として機能した場合もあり、パワーと正統性の真空が持つ意味合いは両義的ではある。

さて、国際領域と国内領域の空間的分節化に基づく国際政治観念を背景にした主権国家「間」の武力衝突である戦争に対して、主権国家「内」の武力衝突が一般に内戦とされる。つまり国家の政策手段として戦争が一定のルール(戦時国際法)によって枠付けられ、限定された戦争の体系と観念された国際領域に、主権権力による暴力の独占を通じて確立された平和と秩序の体系である国内領域が対置され、国内領域での秩序の崩壊がもたらす帰結の一種として内戦が把握される。その意味で、国際政治学において主要な関心は戦争に向けられ、内戦は周辺的な関心事項、あるいは政治変動論といった別個の学問分野に属する問題とみなされてきた。しかしながら、暴力の規模や死傷者の数といった内実を比較するならば、19世紀最多の犠牲者を出した武力衝突がアメリカ南北戦争だったことからも明らかなように、戦争と内戦の間に明白な違いを見出すことは難しい。またフランス革命やロシア革命の展開に見られるように、一国内の政治変動や内戦が国家間の戦争に転化したり、反対に戦争の敗北の結果、国内体制の変更(=革命)が起こり、内戦に発展する現象からも戦争と内戦の連続性が容易に見出せる。

このような国際=戦争/国内=内戦といった二項対立的な図式が観念的なものであることは言うまでもないが、「地域紛争/内戦の時代」と表象される冷戦後の世界に特徴的な点として、第1に、ある国家や地域の境界線を越えて、複数の地域や主体を巻き込む形で内戦は広域化する傾向が指摘できる。堅い殻をまとった主権国家の理念に程遠い擬似国家(Quasi-States)が大半を占める新興独立諸国において、中央政府の権力が遍く一律に国土空間に行き渡っていることは稀であり、国境管理能力は脆弱で、周辺からの浸透あるいは介入に対する耐性はきわめて低い状態にあることが内戦の広域的波及を容易にしているといえる。そして第2に、内戦やそれに起因する人道危機の発生は、先進諸国にとって遠くの世界で起きている無関係の出来事ではなく、脅威や安全保障上の問題と把握されることによって、人道支援から武力介入まで多様な手段を通じた、半ば恒常的な関与が模索される状況が生じている。内戦の広域化とグローバル化という二重の現象を包括的に把握するワードとして「世界内戦」が注目を集めていることも周知のとおりである。

いうまでもなく「世界内戦」という表現は、ドイツの公法学者カール・シュミットに由来する。シュミットの議論には、2つの世界大戦の時代を背景にしたヨーロッパ公法秩序の解体に対する危機感が反映されている。「正しい敵」同士の争いであった戦争の意味は、20世紀に入り、戦争の犯罪化・違法化の潮流によって大きく転換した。代わって台頭してきたのが文明や人類、あるいは平和や民主主義などの普遍主義を掲げる「正しい戦争」である。その根底には敵概念の変化、すなわち現実の敵から絶対的な敵への変化が介在していた。それは、30年戦争の悲惨な状況に対する反省から生まれたヨーロッパ公法秩序の前提が崩れ、再び絶対的敵対関係が支配する状況に回帰することを意味していた。一方でアングロサクソン諸国の普遍主義、他方でレーニンに代表される、土地的性格を欠いた革命的パルチザンの台頭を通じて(再)導入された絶対的な敵対関係において、対峙する敵は間化され、殲滅あるいは根絶の対象になる。正しい敵同士の戦争から(国際的な)内戦への移行というシュミットの認識に、現在アメリカが進める対テロ戦争のそれとの相同性を看取できることは言うまでもないだろう。それゆえに世界内戦という言説が、シュミットの政治思想の再評価の潮流とも重なり合って、注目を集めているといえる。

17世紀の30年戦争がヨーロッパ公法秩序の始点とすれば、20世紀の30年戦争(第一次大戦・戦間期・第二次大戦)は、その終わりを告げるものであった。ヨーロッパ公法秩序の黄昏における絶対的敵対関係の再浮上は、ヨーロッパ公法の外部に位置するアメリカとソ連が主役として登場し、そして核兵器の出現に見られる戦争技術の高度化によって、冷戦に正戦の性格を与えることになる。こうして米ソの冷戦対立は内戦状況に限りなく類似していく。しかし米ソ両国がともに普遍的な理念やイデオロギーを掲げて対峙する状況は、絶対的敵対関係の全面化に対する歯止めとなった。すくなくとも米ソ(およびブロック)の二極構造は、相互抑止が機能する関係の構築によって、敵対関係の非対称的絶対化の一歩手前で踏みとどまらせた。一方で脱植民地化によって主権国家体系が世界大に拡大したことは、国際政治構造の平準化(主権平等)を一気に推し進めたが、ポスト植民地国家の多くが擬似国家と呼ばれたように、それは形式的な水準にとどまり、むしろ米ソ冷戦構造に結びつき、その支援に依存するなど国家の権威や正統性の基盤は脆弱で、この点を見れば、冷戦期の国際政治は表層面での水平化と深層面での階層化の二重の力学が働いていたといえるだろう。

米ソ冷戦構造の崩壊の帰結として、軍事力の集中によるアメリカ単極構造の形成と、正統規範としての民主主義および市場経済の認知・受容・定着という、力と理念の双方における一元化が進み、絶対的敵対関係の全面化に対する制約が取り払われることになった。それによって、著しい非対称性を特徴とするポスト歴史世界=平和圏=文明/歴史世界=紛争圏=野蛮といった新たな空間的分節化に沿った世界政治空間の再編成が起こっている。軍事力と規範・道義の両面での圧倒的な卓越性は、平和圏が紛争圏に対する、そして紛争圏内部での暴力の形態の変化をもたらす。まず平和圏の行使する暴力は、従来の軍事活動というよりも警察・治安活動の性格を強め、たとえば難民の流出あるいはテロ攻撃といった問題を平和圏に波及させず、できる限り紛争圏に押しとどめ、問題の現地化を目的とする一種の封じ込めが主要な対応策となる。そして平和圏の有する規範から逸脱したり、抵抗を試みる動きが紛争圏から生じた場合、絶対的な敵対関係の認識枠組みにしたがって、敵は絶対的な敵とみなされ、容赦のない懲罰対象となる。それは、人道主義といった普遍的な理念で加工されることによって平和圏の依拠する規範を傷つけず、世論の反撥を抑え、むしろ積極的な支持を獲得することができる。さらに戦後の復興活動も、ボスニアやコソヴォで実施されている領域管理を新たな信託統治とみなす議論も登場しているように、一部はかつての宗主国と植民地との関係を想起させるような「文明化の使命」の様相を帯びた関与の常態化を伴い、国際政治構造の階層化、あるいは非対称性の動きを象徴している。

一方、紛争圏の内部で発現している暴力に目を向けると、そこにも敵対関係の絶対化が見出せる。冷戦後の内戦に共通することは、ちょうど国家形成とは反対の国家解体のサイクルが働いている過程で生じている点にある。すなわち統治能力の欠如、徴税機能の低下、政治腐敗などが国家破綻現象を促し、それは、政府の正統性の確立が担保していた政治/経済や公/私など諸々の境界線を支えていた前提が崩れることを意味する。と同時に境界線を新たに引き直し、アイデンティティの再構築を模索する動きも生じるが、その過程で異質な他者との差異が必要以上に強調され、共存よりも排斥が支配的な関係性のモードになる。現代の内戦において人間の尊厳を無視するような凄惨な虐殺が起こる背後に、他者に対する脅威/恐れが過剰なまでに働くアイデンティティ(再)構築過程がある。紛争圏において暴力や内戦は、境界線の動揺・侵犯・引き直し・再画定の過程で生じているといえるだろう。

主権国家を単位とする国際社会が国際と国内の空間的分節化に基づいていたとすれば、20世紀の世界戦争の時代に主権平等原則の水平化(=空洞化)が進み、冷戦終結によって平和圏と紛争圏という新しい空間的分節化に基づく世界政治の形が生まれつつある。そして紛争圏で生じている内戦やテロの広域化は、平和圏の内部へと(心理的に)浸透することで、平和圏の脅威意識を高め、ときにその浸透を防ぐための軍事行動に発展する。しかしテロ集団に象徴されるように、脅威の対象の脱領域的性格は、捕捉の困難さゆえに、平和圏の遂行する治安・警察・軍事活動領域の際限なき一体化と拡大をもたらし、世界内戦は、国家間戦争のように講和条約の締結による明確な終わりが見えない、永久機関化していく。こうして世界全体を包摂する形で敵対関係の非対称化が進展する一方で、戦時と平時の時間的断絶が消滅し、脅威の遍在度が高まっていくパラドキシカルな状況が生まれている。


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