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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

喜劇の再演

2008年09月02日 | nazor
昨夜の福田首相の辞意表明は、たしかに一年前の安倍前首相のそれを再放送した印象が強く、それこそマルクスの言葉である「大事件と大人物はすべて二度現れる(…)、一度目は偉大な悲劇として、二度目はみずぼらしい喜劇として」が当てはまる出来事である(安倍も福田も「大人物」かどうか留保付きだが)。しかしながら安倍の場合、徹底的な批判と熱烈な支持という好悪の軸が明白であったため、突然の辞任に理解を示したり、惜しむ声が(たとえば『産経新聞』周辺などの)支持層中心に根強く存在していた(彼らにとってまさに偉大な悲劇であったわけである)。それとは対照的に、福田の場合、とりわけ外交面における親中姿勢もあって保守層の評判もそれほど芳しくなかったためだろうか、辞意表明は、「再放送」であるがゆえに、政界関係者にしても国民にとっても、瞬間的な衝撃度に比べて、その持続力や余波に関しては、一年前と比べてそれほど大きな衝撃をもたらすほどではない出来事であり、後に歴史を回顧したとき、行間に埋没してしまう可能性が高い。

また安倍の辞任をめぐる醜態は、その政治経験の未熟さに求めることができるかもしれないが、福田が後継として期待されていた理由のひとつが、そうした未熟な安倍とは真逆の、老練・老獪さを備えた政治家としての評判・イメージであったことを考えたとき、唐突な辞任劇を再演した福田は、精神的な成熟さでいえば安倍とそれほど違わない。そしてそのことは自民党におけるリーダーの人材難および選出過程のスペクタル化によるリーダーの人気と資質の乖離状況を示唆している。

たしかに福田政権が、安倍前政権の「敗戦処理」の役割を発足当初から引き受けざるをえなかった意味で、マイナスからの出発であったことは考慮する必要がある。衆参の「ねじれ現象」のため、国会運営がきわめて難しく、内政における成果をなかなかあげることができず、得意分野と喧伝された外交では、とくに対中国および北朝鮮政策において右からの強い批判にさらされるなど、政権運営において八方塞の状況に陥ってしまったことは、政権に対する意欲を喪失させ、結果として突然の辞意表明に帰結したといえる。結局のところ、一年前に日本が直面していた内政および外交上の課題はほとんど解決されずに積み残ったままであり、記者会見での首相自身の自負とは異なって福田政権の約一年間は、日本にとって無意味な時間の浪費に過ぎなかったのではないかという感想を抱かせる。その意味でも福田康夫という政治家は日本政治史において無能な部類の首相として名を残すことになるだろう。

ところで福田首相は自らの辞任がもたらす効用として、政権の刷新による国会運営の円滑化を挙げているが、すでに多くの指摘があるように、「ねじれ現象」という制度構造上の制約がある以上、たとえ福田よりも政治指導力に優れた人物に首相が代わったとしても政策の選択および遂行における自由度が劇的に改善されるわけではない。とくに現在の「ねじれ現象」は、衆議院における与党の圧倒的多数(それは郵政民営化を単一争点とした特異な選挙の結果でもある)と、参議院における野党の多数という「極端なねじれ」のため、衆議院の体現する(空間的)正統性と、より最近の世論を反映した参議院の(時間的)正統性の二つが対抗する状況を生み出した。この二つの正統性の対抗状況は、一方でこれまでの国体政治に基づいた行動規範に再考を迫り、いわゆる討議倫理に依拠した言論空間として国会を位置づける格好の機会を提供するが、他方で閉塞状況の打開において、参議院に対する衆議院の優位から最終的には数の論理が力を発揮する、「政治的なるもの」の役割が限りなく縮小し、すくなくとも民主主義的とはいいがたい「政治未満の政治」が前景化してくる。

安倍にしても福田にしても、数の論理の誘惑に引き寄せられ、最終手段であるべき再可決に頼らざるをえなかったことは、このような政治規範の内面化に失敗したことを意味する。たしかに年内の実施が規定路線となりつつある次期総選挙の結果次第で、仮に民主党が勝利すれば「ねじれ現象」は除去され、国会運営は今までよりは円滑に行われるだろうし、あるいは自民党が勝利した場合、国民の世論をより明確に反映している意味で参議院よりも「正統性」を有していると主張できるため「ねじれ現象」は解消されないにしても緩和されることは明らかである。しかし一院制への移行が実現しない限り、制度上「ねじれ現象」が生じる可能性が孕まれている以上、「ねじれ現象」をどのように民主主義あるいは「政治的なるもの」の深化=進化に結び付けていくかに関して、日本政治の今後がその基底において問われ続けることになるのではないだろうか。

虚勢の闘将

2008年08月27日 | nazor
開幕前「金メダルしかいらない」と公言し、マスメディアによる期待値の増幅作用やWBC優勝という実績も相まって、国民の注目度も否応なく高まっていただけに、韓国、キューバ、アメリカの上位3強に全敗し、4位に終わる無残な結果に終わった星野ジャパンに対する風当たりは、同じく次回ロンドン五輪で除外される女子ソフトボールの金メダルという輝かしい結果と比較対照されたこともあって、きわめて厳しいものがある。

すでに敗因に関して、ストライクゾーンや国際球の違いといった国際試合の戦い方に対する認識・経験不足、故障を抱えていたり、普段とは異なるポジションや役割を求められるチーム編成上の問題、さらには予選開始後、短期決戦にもかかわらず岩瀬やGG佐藤のように不調の選手をあえて使い続けた星野監督の「情の采配」などがいろいろ取り沙汰されている。またメダルが獲得できなかった責任の所在も曖昧なままで、来年3月に開催される第2回WBC監督候補として星野を推す声が挙がっていることが(しかも「悪役イメージ」の強いナベツネの後押しも加味されて)、批判の材料となっている。

星野ジャパン(の惨敗)をめぐる一連の経過を振り返ってみたとき、ちょうど一年前の出来事、つまり参議院選挙で大敗した安倍政権の状況、とりわけ敗れた指揮官の周りに作られた虚実入り混じったイメージに関して、重なり合う点が多々あるように思われる。まず星野も安倍も「国民的人気」が高いというイメージ先行で、過去の実績はほとんど考慮されていないまま指揮官の座についたこと。また理ではなく情を優先する人事に関しても共通していることは明らかである。星野の場合、コーチ陣をいわゆる「仲良し三人組」で固めたことや、中日および阪神人脈に依存した起用法がそうだろうし、安倍も郵政造反組みである衛藤晟一を復党させたり、事務所費問題で批判を浴びていた松岡農相を庇い続け、傷口を広げる結果となった。

さらにいえば国際的な視野の欠落、あるいは内と外の恣意的な使い分けにも共通点が看取できる。それは、星野の場合、ストライクゾーンの違いを暗に敗因と指摘したり、初戦キューバ戦で審判に抗議するといった行動に現れている。かつて星野は審判交流で来日していた3Aの審判に抗議・暴行し、その行為を「日本には日本の野球がある」といって正当化した前科があるように、「国際試合」の意味合いに対する理解が十分に備わっているとはいい難い。敗北を文化の違いに還元することはいっけん説得力のある理由かもしれないが、その実、問題の本質をうやむやにする便利な方便にすぎない。他方、安倍は、従軍慰安婦問題をめぐって「狭義の強制性」と「広義の強制性」を使い分けることによって、一方で国内の保守層に対する理解を獲得し、他方で欧米諸国の批判をかわそうとした。しかしこの使い分けが欧米諸国でどの程度の理解を得られたかは疑わしく、むしろたとえばアメリカ下院での批難決議採択を勢いづかせてしまった感を否めない。

そして「闘将」(星野)、「闘う政治家」(安倍)といった勇ましく男らしいイメージを売りにしていたにもかかわらず、敗北の責任については明確な態度を示さない点もまた似ている。勝負事において結果がすべてを物語ることはいうまでもなく、それに敗れれば責任が追及されるのは当然である。とりわけ「闘う」イメージの強調は、曖昧な形での幕引きや再チャレンジを許容させない気運を醸成する意味できわめて高度な責任倫理が要求される。それだけに星野にしても安倍にしても監督あるいは首相の座に未練を残すような態度を少しでも見せたことは、「闘う」イメージから派生する潔さにそぐわず、あるいは武士道や騎士道に通じるような倫理性や行動規範と齟齬をきたしてしまったといえる。星野も安倍も自らが(そしてマスメディアとともに)作り上げた「闘う」イメージに酔いしれ、それに束縛されたことに気づかず、結局のところ「闘う」イメージが最も試される責任の取り方/引き際において醜態を晒してしまった意味で、「虚勢の闘将/闘う政治家」であった。

領土ゲームの方程式

2008年07月24日 | nazor
現在の東アジア国際政治に横たわる争点のひとつである領土問題をめぐって、日韓と中露できわめて対照的な状況が生じている。すなわち日韓において、文部科学省が中学校の学習指導要項解説書に竹島を日本領と明記する方針を示したことが韓国側の強い反発を招き、駐日大使の帰国や各種の交流事業の中止が相次いでいることは、領土問題についての日韓の認識に大きなズレがあること、そして双方を満足させる解決策を見出す取り組みに内包されるアポリアを垣間見せる。他方で、7月21日、中国とロシアとの間でロシアが実効支配していた大ウスリー島西部とタラバロフ島を中国に割譲する形で国境線画定に合意したことは、以前から中露間の国境画定交渉から得られる知見を北方領土問題解決に応用する動きが見られるように、領土問題解決に対するひとつの道筋を示す注目すべき出来事である(岩下明裕『北方領土問題――4でも0でも、2でもなく』中央公論新社, 2005年)。

国力を高め、国益を確保する目的および手段を指標とした場合、軍事力を主な手段として領土の獲得および拡張を目的とするテリトリアル・ゲーム(あるいは武力政治の世界)と、貿易や通商を通じた富の増大を目的とするウェルス・ゲーム(貿易の世界)とに国際関係の行動準則を分けて考える視座がある(たとえば、リチャード・ローズクランス『新貿易国家論』中央公論社, 1987年、および猪口邦子『ポスト覇権システムと日本の選択』筑摩書房, 1987年参照)。この視座がリアリズムとリベラリズムの系譜に位置づけられるものであり、紛争圏/平和圏(デモクラティック・ピース論)、歴史世界/ポスト歴史世界(フクマヤ)、あるはホッブズ的世界/カント的世界(ケーガン)といった世界表象の一変種であることは論を俟たない。そしてこの視座から見たとき、国家の行動は、二つのゲームどちらか一方によって規定されているという排他的なものではなく、国家指導者の世界観や国家を取り巻く地政学的条件に規定され、また時代状況の変化に応じて一方のゲームの性格が他方よりも前景化したり後景化したりするという意味で補完的な関係にあることもつとに指摘される点である。

兵器の近代化や総力戦時代の到来によって政策手段としての戦争がコストパフォーマンスの点で問題視され、また戦争の違法化や領土尊重などの規範が国際的に確立・受容されるにしたがって、領土変更を通じた国益の実現は外交政策上ほぼ不可能となり、あえてそれに踏み切った場合、1990年のイラクによるクウェート侵攻の結末が示すように国際社会からの制裁を覚悟しなければならず、きわめてリスクの高いことは明らかである。それゆえ長期的な趨勢として、テリトリアル・ゲームからウェルス・ゲームへと(とりわけ先進諸国の間では)その比重が移りつつあるといえるかもしれない。しかし完全にテリトリアル・ゲームの要素を考慮に入れず、現代の国際関係を説明してしまうことは近視眼的な態度であり、テリトリアル・ゲームの「退場」というよりも「変容」に目を向けるべきであろう。すなわち、ある領土に住む人々の意向を汲むことなく領土の割譲が君主/政府間で行われていた16-18世紀のヨーロッパ国際関係において、領土が自由に交換できるモノとみなされていたことを意味していた。したがってゲームの性格は、その名称とは逆説的に脱領域的な意味合いを強く帯びていたといえる。前述したように国家政策としての戦争が費用対効果の点で割の合わない手段となり、また主権国家の国民国家化や旧外交から新外交への移行によって君主や政治指導者が有していた政策選択の自由度が制約されるようになるにしたがって、領土の獲得・拡張を通じた国益の実現は確実な政策構想とはみなされなくなっていったわけであるが、それはテリトリアル・ゲームの脱領域的性格の変容、換言すれば領域化と捉え返すことができる現象だといえるだろう。

テリトリアル・ゲームの変容(領域化)は、紛争の平和的解決を促す一方、領土の割譲や国境線の変更という可視化された比較的容易な解決策を実質的に不可能にする点で、領土問題はきわめて複雑な方程式としての性格を強めていった。この困難性は、領土確定のコロラリーとして範囲が決定される排他的経済水域(EEZ)をめぐる問題、そしてEEZによる海の領域化を前提とする海底資源開発や漁業の在り方に影響を与える形で、ウェルス・ゲームと密接に関わり、利害関係をいっそう複雑にしている。いわばいったんその役割を終えたように思われたテリトリアル・ゲームが基底においてウェルス・ゲームの展開を枠付けているのである。さらに領土変更の不可能性は、現存の国境線の既成事実化/自然化を促し、その領土を失うことに対する危機感を高め、いくらかでもその兆候が見える問題解決に対する反発や不満をもたらす。またこの失う恐怖を埋め合わせる形で争点となっている領土の固有性が歴史学や考古学といった学知を総動員することによって遡及的に跡付けられていくことで、アイデンティティ・ゲームの様相を帯び始める。こうしていわば気軽に交換できた領土は、自国の存在理由と切り離すことができないものへと変貌していくことによって、そのゼロサム的な性格が強化され、たとえば共同開発などのプラスサムを目指した解決策は、「問題の棚上げ」的な意味で理解される状況が現出している。

このように性格の異なるゲームが複合的に絡み合っている現代の領土問題の特質が顕著に現れているのが日本の位置する東アジアである。田中明彦の「三つの圏域論」に従えば(『新しい「中世」――21世紀の世界システム』日本経済新聞社, 1996年)、東アジアは、まさしく「新中世圏」と「近代圏」という異なるゲームのルールが作用する圏域の共生空間であり、単一のゲームのルールに従って行動するよりもはるかに高度な外交術が求められる。その意味で冒頭に挙げた中露の国境画定合意は、両国とも「近代圏」に属しているため、互いの行動規範を理解できた結果だともいえる。他方で日韓(あるいは日中)の場合、まさに「新中世圏」と「近代圏」との異なる圏域間に横たわる争点であるため、解決の糸口を見出すことは容易ではない。この趨勢はたとえば韓国が「新中世圏」に移行することになっても解消されるわけではなく、むしろ「新中世圏」の主要な争点がアイデンティティをめぐるものであることを考えたとき、同じゲームのルールに従うといっても「近代圏」の場合とは質的に異なる先鋭化した形でテリトリアル・ゲームが展開されることになる。このことは中露の事例から日露あるいは日韓の領土問題に対する何らかの含意を機械的に引き出そうとすることの陥穽を示唆している。

「吉田ドクトリン」に象徴されるように日本がテリトリアル・ゲームへの関わりを最小限に抑え、ウェルス・ゲームに専念できた戦後国際環境の変容は、新たな国家/国民アイデンティティの構築過程において近隣諸国との境界線に対する意識を芽生えさせ、改めて日本の抱える領土問題の存在に目を向けさせることになった。しかしながら、ウェルス・ゲームに専念できたことは領土問題に無自覚であったことの裏返しでもあり、たとえば講和条約締結において冷戦戦略を優先させる帰結として領土の帰属先を曖昧なままにしていたことが今日の領土問題の源流となっていることを考えたとき、戦後の日本および東アジアの国際関係には解明されるべき空白は存在しているといえるだろう。

リアル図書館戦争?

2008年07月06日 | nazor
『毎日新聞』(7月5日付け)が「文集:個人情報?茨城・土浦市教委が図書館から回収」と報じた件は、有川浩の「図書館戦争シリーズ」の問題意識を想起させる。とりわけ第3巻『図書館危機』(メディアワークス, 2007年)において、無抵抗主義を掲げながら結果的に「図書館の自由」の理念を放棄してしまうのが「茨城県立図書館」であることは、作者の取材力ゆえなのかそれとも単なる偶然性によるものなのか不明であるが、行政側の要請に応じる方針を示している土浦市図書館の態度と符合し、仮構世界の出来事が現実世界のそれに先行する意味で反転した既視感を覚えさせる。

今年に入って、茨城のつくばみらい市で予定されていたドメスティック・バイオレンス防止講演会が「主権回復を目指す会」の抗議によって中止に追い込まれ(1月)、プリンスホテルが日教組の全体集会の使用を拒んだり(2月)、一部の報道や国会議員の抗議を契機に映画館が上映予定の「靖国」を中止する(3月)といった、言論・集会・表現の自由を尊重・行使・擁護することによって引き起こされるかもしれない混乱を懸念し、混乱回避ないし現状保全を主眼とする予防的な対応が相次いでいる。こうした自由よりも秩序を優先する心性が土浦市教育委員会の文集回収という措置にも流れていることは明らかであるが、過剰ともいえる反応を示す教育委員会の意図をあえて深読みするならば、もともと同級生とその保護者など読者対象が一部に限定されている点で、一般的な意味での公共性を有する媒体とは必ずしもいえない文集に対する需要の高まりあるいは有用性の発見が指摘できるかもしれない。とりわけ昨今その扱われ方がインフレ化している凶悪事件の報道に際して、一方で加害者の異常性の源流を突き止めるため、他方で被害者への同情や哀れみといった感情移入(と加害者への怒り)を誘う格好の材料として文集の有用性はメディア関係者の間で広く認知され、文集の内容を報道することがおなじみの光景になっている(今回の件が発覚したのもその理由は不明であるが『毎日新聞』が開示を求めたことによる)。

しかしながらそうした文集の利用がどれほど事件の真相や加害者の動機解明につながるのか不明であり、むしろステレオタイプ的な加害者(および被害者)像の形成を促し、感情論の次元で事件を把握してしまいかねない危険性を持っている。かりに教育委員会がこの点を考慮に入れたうえで文集の目的外利用に懸念を抱いていたとするならば、その意図は一概に否定できない。しかし教育委員会が回収理由として持ち出した個人情報保護がその運用如何によって目的に沿った利用までも規制する過剰反応をもたらす点が問題視されていることを考えたとき、教育委員会の行為はあまりに無自覚で拙速だといえる。この点に関して教育委員会内部で、および教育委員会と図書館との間でどのような議論があったのか明らかにされていないが、結果的に図書館側が回収に応じる方針を示したことを鑑みれば、「図書館戦争」における図書館の自由をめぐる対立構図でいうところの行政派の意見が通ったということだろうか。

境界国家の外部と内部

2008年06月27日 | nazor
W杯よりもレベルの高いと言われるため、まったく関係のない日本でも注目を集めているサッカー・ヨーロッパ選手権(EURO2008)の準決勝は、ドイツとスペインが勝利を収め、決勝に進んだ意味で妥当な結果といえるだろう。興味深いのは、準決勝2試合について、その戦前の予想と試合内容においてきわめて対照的であったことである。すなわち勝って当然という楽勝ムードが漂っていた感のあるドイツが苦戦を強いられ、苦戦するのではないかと危惧されたスペインが快勝するという対照性が見られた。

トルコが出場停止処分や負傷のため満足なチーム状態には程遠い状況にあったため、ドイツの勝利が半ば当然視されていたが、その予想に反してトルコが主導権を握る展開となり、四度目の「奇跡」を起こすのではないかという期待を抱かせたものの、終了間際のゴールでドイツが勝利を収めたのが準決勝第1試合であった。それに対して、準決勝第2試合のロシア対スペインは、準々決勝の対オランダ戦で見せたロシアのパフォーマンスの高さ、とりわけアルシャビンの活躍ぶりを考えたとき、グループリーグでの対戦は参考にならず、オランダに続いてスペインもロシアの快進撃に飲まれることも十分に考えられたわけであるが、試合が始まってみればロシアは(とくに後半は)サッカーをさせてもらえず、「格の違い」を見せ付けられることになった。

決勝に残ったドイツとスペインは優勝候補として常に名前の挙がる強豪であるが、準決勝で敗退したトルコとロシアがそれほど前評判の高いチームであったとはいえなかった(むしろダークホース的な存在としてはクロアチアやスイスが注目されていた)。たとえばトルコが属したグループAは、ポルトガルの1位通過が確実視されており、2位通過の椅子をめぐる争いも大方の予想ではロシツキーの欠けたチェコよりも開催国スイスを推す声が多く、トルコの存在は忘れ去られていたといえる。またロシアのグループDにしても、スペインとスウェーデンが順当に行けば決勝トーナメントに進むと予想されており、その印象はロシアがスペイン戦で大敗したことによっていっそう強まったといえる。

またこの両チームが準決勝に進んだことは国際政治的な意味でも興味深い。すなわちアジア太平洋地域における日本とオーストラリアの位置づけについて論じた大庭三枝の言葉を借りれば、トルコとロシアはともに、ヨーロッパにおける自国の意味づけに不安定性と困難性を抱えた「境界国家」とみなすことができる(『アジア太平洋地域形成への道程――境界国家日豪のアイデンティティ模索と地域主義』ミネルヴァ書房, 2004年)。その「ヨーロッパ性」をめぐって、それを希求し、同一化しようとする心性と、それを懐疑的な目で眺め、ときに反発し、拒絶する心性とが交叉することによって国家/国民アイデンティティにおいてつねに居心地の悪い不安定さを抱え込む両国の代表チームが、「ヨーロッパ」を掲げる大会に参加し、決勝で相対することも十分にありえたことは改めて「ヨーロッパ性」の意味を考えさせる契機ともなる(あるいは前回優勝したギリシャを加えたとき、そこにヨーロッパのアイデンティティ形成におけるビザンツ的伝統の位置づけが浮かび上がってくるだろう)。

とくに冷戦後のヨーロッパ国際政治において、冷戦期に確立したEC/EU・NATO・CE体制という一種の分業体制が溶解し、それまで経済社会領域に特化していたEC/EUが安全保障および人権・民主主義の領域にその活動範囲を拡げている(遠藤乾編『ヨーロッパ統合史』名古屋大学出版会, 2008年参照)。こうした機能空間におけるヨーロッパの拡大が地理的空間における拡大と相まって、それまであまり問われることのなかった「ヨーロッパ性」の内実に大きな変化をもたらしている。冷戦の前哨国家であり、その安全保障上の考慮からNATO加盟に疑問を持たれないトルコがEU加盟に際して厳しいハードルに直面していることは、EC/EU・NATO・CE体制の変容を示唆している事例だといえるだろう。またEC/EU・NATO・CE体制の完全な枠外にあったロシア(ソ連)の場合も同じく、ヨーロッパの拡大に対して素直に歓迎できず、懸念を抱かざるを得ない立場にある。

もちろんこうした新たな境界線に纏わる政治はトルコやロシアをその外側に追いやってしまう可能性を秘めている一方で、その境界線を揺さぶり、無意味化してしまう動きも誘発することによって、つねに引き直すことが求められる。境界線の引き直しを強いる動きのひとつが人の移動、すなわち移民であり、いうまでもなくヨーロッパ諸国にはトルコ系の移民が多く居住しているし、また昨今の経済成長ブームに乗ってとくに富裕層を中心にロシア人の存在がヨーロッパの政治経済において目立っている(ロシア人がオーナーとなっているサッカーチームはその象徴ともいえる)。トルコとロシアを単なる他者として位置づける形で「ヨーロッパ構築」が展開するとすれば、それは現実味を欠いた、それこそ「ヨーロッパ要塞」と揶揄される閉じた地域空間の形成に帰着する。むしろトルコとロシアはヨーロッパによっての構成的外部から構成的内部へとその存在的意味合いを変化させているとみなすべきで、今回のEURO200におけるトルコとロシアの活躍もそうした兆候の現れと捉えることができるだろう。

宙吊りの市民的介入

2008年05月20日 | nazor
大規模な自然災害などの人道危機による悲劇を目の当たりにしたとき、それが自分たちの身近で生じた場合であれ、メディアを通してしか知らない遠い異国の地での出来事であれ、犠牲者に対する共苦を感じ、何らかの救援策を提供したい思いに駆られる。しかしながら、こうした普遍的な人道主義が理念から実践に移されるとき、「主権国家に分かれた世界」という厳然たる現実が立ちはだかり、大きな困難に直面せざるをえなくなる。ミャンマーのサイクロン被害に対する救援活動をめぐって軍事政権が頑なに「国際社会」からの(とくに人的)支援を拒んでいる状況はまさにそうした困難の一例である。しかも届けられた救援物資の横流しが発覚したり、救済や復興も不十分な状態で新憲法案の国民投票を強行するなどのマイナス要因も加わって、欧米諸国は苛立ちを覚え、厳しい批判を向けている。こうした軍事政権の態度に対して、フランス政府は、当該政府が自国民を保護する責任を果たしていない場合、代わりに「国際社会」がそれを行うことを表明した「保護する責任」論を根拠にして救援活動の強行を主張しているという(「『救援強行』揺れる国連 ミャンマーサイクロン被害」『朝日新聞』2008年5月17日)。

フランス政府の主張は「非人道的状況におかれた人々を救うためのあらゆる行為」である「広義の人道的介入」と理解できるし、あるいは1988年の国連総会決議43/131によって初めて登場した「犠牲者へのアクセス権」、すなわち「人道的救援活動をおこなう人々は犠牲者のもとに駆けつけ、人道的救援物資を犠牲者のもとに届ける権利」から派生した議論だといえる(最上敏樹『人道的介入――正義の武力行使はあるか』岩波書店, 2001年: xi, 152頁)。「当の国家が保護を与えようとしない人々に対し、外部の国々や国際機構やさまざまな人間集団が保護や救援を与えようとするとき、それを妨害する権利を当の国家は持たない」(144頁、強調原文)という観点にたつならば、ミャンマーの軍事政権が振りかざす主権侵害や内政干渉といった反論は空虚に響くだけであり、それゆえ軍事政権側も、それがどれほど眉唾ものであったとしてもメディアなどを通して被災者への救済や復興が進んでいる様子を積極的に発信することによって、欧米諸国からの批判を回避しようとしている。

ただ最上が指摘するように、「犠牲者へのアクセス権」を行使するのは誰なのかという主体の問題が人道的介入をめぐる議論を複雑にし、介入から人道性の要素が脱色され、介入する側の利害や国家戦略と同一視される危険性に留意する必要がある。つまり「非政府から政府への同一の理念の受け渡しは、実は大きな問題をはらんでもいる。同じ介入と言っても、非政府ならば非武力的でしかありえないものが、政府ならば容易に武力的になりうるからである。(…)義務といい権利といい、『善行であるから誰がやっても同じ』とはおよそ言えない。行動主体によって義務ないし権利の実施方法も、結果も変わる以上、安易な受け渡しはできないはずなのである」(165-166頁、強調原文)。ミャンマーの軍事政権が断固として(欧米の)人的支援の受け入れを拒むのは、「犠牲者のアクセス権」に基づく介入がどこまで純粋に非政府的かつ市民的でありえるか不透明な部分が大きく、その理念に潜む政治的な思惑や利害を嗅ぎ取っているからだといえるかもしれない。

実際、「保護する責任」を掲げ救援の強行を主張するフランス外相ベルナール・クシュネルが「国境なき医師団」の創設者であることは、同じ言葉を語るにしてもその地位や立場の違いによって異なる意味合いを帯びることになり、それぞれの文脈に十分な注意を払わない限り、国家的・武力的介入と市民的・非武力的介入の垣根は曖昧になり、反論の余地を与えてしまう。また自律的な市民社会空間や、政府の統制を受けない、ときにはそれに反発し、批判する社会勢力の存在が暗黙裡に受け入れられている欧米諸国とは異なるミャンマーの政治文化も市民的介入に対する懐疑的な眼差しを作り出す。軍事政権にとって、社会勢力は政権に対して賛意を表明するだけの官製の翼賛団体であるか、そうでなければ政権の正統性を揺るがせる反政府的な脅威対象でしかない。換言すれば、政権の意向から自律的に活動する社会勢力の存在自体が軍事政権にとって理解不能であり、欧米諸国の人道支援組織についてもそれぞれの政府が背後で操っている、いわば政府の道具としか映っていないのではないだろうか(ただしGONGO、GRINGOといった造語が示唆するように、NGOだからといって政府の影がまったくないとは一概に言えない)。

人道活動の領野で現在起きている変化もこうした警戒感を裏書するかのようであり、軍事政権の懸念を単なる虚言として簡単に一蹴できるとはいえない。マイケル・バーネットの議論にしたがって整理すれば、冷戦終焉を契機とした世界政治の構造変動に伴って人道活動の規模・範囲・意義において大きな変容が起こっており、それは端的に言えば人道活動の政治化および制度化と捉えることができる(Michael Barnett, "Humanitarianism Transformed", Perspectives on Politics, vol. 3, no. 4, 2005)。人道活動が政治化していった要因として、法の支配や市場経済、民主主義原則、あるいは衡平原則を掲げるコスモポリタニズムといった普遍的な理念が国際的に正当性を持った(法)規範として受容されるようになった国際関係の変化がある、そしていわゆる複合的緊急人道危機(Complex Humanitarian Emergencies)に対応した新しい形の介入および紛争管理の方法の模索や、関連機関同士の連携が要請されるなど人道活動の領野が大幅に拡大している。こうした構造的な変化によって拡がった人道分野に国家が多大な関心を示し、関与するようになったことが人道活動の政治化を促進していった。冷戦後、人道危機は、とりわけ先進諸国において平和と安全に対する脅威であり、解決すべき国際的課題とみなされるようになった結果、人道活動に国家が関与する割合が増し、国家の戦略的外交政策の一つとして位置づけられたり、人道関係機関に対する資金提供を積極的に行うようになっている。

また人道活動の範囲が拡大するにしたがって、人道機関も変化への対応を求められている。その結果、合理化・官僚化・専門化といった組織の制度化が進んでいる。人道危機に迅速に対応するため、それぞれの人道機関に蓄積されていた専門知識やノウハウが一定の基準に沿った行動規範に結晶化されていく(人道活動の標準化)。また複合的人道危機に対処するため、人道機関は、非人道的状況にある人々を救済するという従来の中核的とされてきた任務以外の事柄に時間が割かれ、組織運営や資金調達にかかわる専門部署や要員の比重を増している。それは人道主義の理念に賛同した人々からなる同好会的な組織から、体系的な指揮命令系統を備えた近代的な組織へと変貌していく官僚化および専門化の過程とみなすことができる。

このような人道活動の政治化および制度化がもたらす帰結のひとつは、バーネットによれば人道機関が外部からの統制に脆弱になっていることである(731)。政府の資金提供の割合が増すにしたがって、人道活動の内容は直接的・間接的に資金提供者の影響を受けやすくなっている。また人道機関は、資金の使い道に関する説明責任を求められることによって、継続的な財源確保のため、人道主義の中心的要素である犠牲者との連帯や彼らの尊厳回復よりも、資金提供者の顔色を窺うことが優先されるようになる。その結果、財布の紐を握っている国家によってその活動内容が規定され、また人道・衡平・中立・独立などの人道活動を支えてきた理念や原則は妥協を強いられていることによって、人道機関の道徳的権威の低下を招いている。あるいは人道活動の効率性、すなわちどれだけ効率的に迫害者・被災者に救援物資を届けることができるかというコストパフォーマンスが重視されるとき、その担い手として理念に拘泥する人道機関よりも私企業が台頭してくることも予想される(733)。それは、国家的介入とも市民的介入とも異なる、もうひとつの(市場的)介入だといえるが、前二者の介入様式を多少なりとも規定していた人道主義の理念や原則はすっかり消え去り、純粋に商業的利害関係に基づいた費用便益計算が人道活動の成否を決定することになる。さらにいえば国家的介入と市場的介入は容易に協働関係を築くことができる意味で、市民的介入が機能する余地はいっそう縮小されてしまう。すでにその兆候は「大惨事が生み出す絶望と恐怖を利用して、社会と経済の過激な改変に乗り出す略奪的な災害資本主義」の台頭に現れているといえるだろう(ナオミ・クライン「台頭する災害資本主義」『世界』2005年8月号)。

現代の人道活動が単に迫害や被害に遭った人々の救済を目的とするだけでなく、それらの根本原因の除去までを含む形で拡張していることに加えて、活動主体が外部からの統制にきわめて脆弱でその利害関係に左右されやすいことは、介入の客体に疑念を抱かせ、反論するだけの十分な根拠を与えてしまう。介入の主体にせよ、介入の客体にせよ国家的介入が市民的介入の論理を簒奪・回収する形で「人道的介入」を理解する傾向がある。それゆえに「国家主権か人権か」という二項対立の構図に基づく議論が反復されるばかりで、「犠牲者へのアクセス権」は宙吊り状態に置かれたまま、人道活動の脱人道主義化だけがいっそう進展していく。

(中国)異質論の現在性

2008年04月29日 | nazor
3月の中国政府によるチベット暴動の弾圧は、人権侵害との非難や抗議を招き、奇しくも世界各地で行われる聖火リレーが中国のオリンピック開催資格を改めて問う格好の機会となり、各地で混乱を引き起こしている。オリンピックは、とりわけ1964年の東京や1988年のソウルのように、非ヨーロッパ地域で開催される場合、あえて帝国主義時代の言葉を使えば、国際社会において新たに登場した国家に対する「文明国基準 standard of civilization」という意味合いを持っている。

オリンピックを開催運営する上でそれなりの経済力が不可欠であることは、まさに経済成長の只中にあった1960年代の日本や1980年代の韓国、そして高い成長率を示し、グローバル資本にとって市場価値が増している現在の中国を見れば明らかであろう。しかし中国のオリンピック開催が世界各地で大きな注目を集め、その資格が問題視される背景には、冷戦が終焉した「長い21世紀」に特有の事情が作用している。すなわちあらゆる問題が東西対立の文脈に還元され、理解される傾向が強かった冷戦期と比較するならば、現代国際社会において人道主義あるいは民主主義が国家の正統性を証明する条件とみなされるようになり、人道的介入や人間の安全保障、あるいは「保護する責任」といった国家主権ならびに内政不干渉原則を相対化する新たな言説や規範が先進諸国を中心に拡がり、定着しつつある。このような国際社会の構成原理の転換をめぐる認識に関して先進諸国と中国との間の決定的なズレが、チベット暴動・弾圧ならびに聖火リレーに際しての混乱をもたらしたといえる。

現在の中国は現存国際社会にとって異質な存在であり、それゆえに脅威感を掻き立てる国家である。つまり民主政が統治体制の世界標準として(すくなくとも国際規範を作り出す力を持つ先進諸国を中心に)認知されている状況にあって、あくまで共産党体制の堅持を表明する点で中国は現存国際社会の構成規範から逸脱した存在である。おそらく統治体制の異質性だけでならば、多くの途上国を見れば明らかなようにそれほど問題とならないだろうが、国土の広さと人口の多さにおいてすでに大国の要件の一部を有しているうえに、改革・開放路線によって急速な経済発展を遂げている中国は、現存国際社会にとって決して無視し得ない存在となっている。経済的な魅力をもつ中国市場への参入およびそこからの利益に大きな期待が寄せられる一方で、冷戦後の国際社会において浸透・定着したルールや規範をいかに中国政府に理解・遵守させるかという問題が浮上する。同時に中国側から見れば、経済発展により国際社会において一定の地位を占めるだけの基盤を得たという(主観的)認識にもかかわらず、現存国際社会からそれに相応しい承認を得られない状況は心理学でいう認知的不協和を引き起こす。中国の政治指導層はこうした認識のズレを理解しているだろうが、それが国民一般にまで共有されているかといえばかなり怪しい面があり、むしろ愛国主義という名の過激なナショナリズムとして現出し、その扱いに苦慮する事態が生じているといえる。

したがって現在の中国問題は国際関係一般に見られる異質論の最新版とみなすことができる。1990年、高坂正堯は「国際関係における異質論」という論文を発表し、19世紀から20世紀にかけての世紀転換期に登場したドイツおよびアメリカについての異質論を考察した(『高坂正堯外交評論集――日本の進路と歴史の教訓』中央公論社, 1996年所収)。執筆の背景には「安全保障をアメリカに依存し経済発展に専心してきた日本こそ真の冷戦の勝者」とする見方が台頭し、1980年代のアメリカ覇権衰退論争ならびにチャルマーズ・ジョンソンに代表される「日本異質論」と共鳴しながら、冷戦終焉後の新たな脅威対象として日本の存在が浮上してくる状況があったことは明らかだろう。高坂は、異質性が問題とされる理由や時代背景を検討することで1990年代の国際関係への含意を引き出そうとする。高坂によれば「異質論は先発国が後発国の挑戦の重大性に気がつき始めるときに現れる」(292頁)。まず自国の優越的な立場が脅かされているのではないかという認識と、それに対する軽視ないし蔑視の反応を経て、つぎに後発国のルール破りすなわち「不公正競争」との批判が出てくる。さらに自国とは異質かつ強力なシステムの登場が認識されるとき異質論が現出するが、そのシステムを模倣あるいは採用することを躊躇う感情がいっそう異質論を強化する。高坂の言葉を借りれば「異質論は深刻なジレンマ、それ故、分裂的な感情によって特徴づけられる。強弱の差こそあれ、競争、とくにより大きな勢力を求めての競争がある以上、人間は対抗意識を燃やすし、それに負けないためには挑戦者の新しい、強力な方法を取り入れなくてはならない。しかし、そうすることは旧来の美徳を弱め、傷つける故に、容易ではない」(297頁)。

さらに付け加えれば、新たに台頭した国家をいかに既存の国際社会に包摂するかという問題は、レイモン・アロンやスタンリー・ホフマンがすでに論じているように、国際関係の性質とその安定性をめぐる問題と関連している(Raymond Aron, Peace & War: A Theory of International Relations, Transaction Publishers, 2003、仏語初版1962年刊行: Stanley Hoffmann, The State of War: Essays on the Theory and Practice of International Politics, Praeger, 1965)。すなわち国際社会を構成する国家体制が同質的であればその国際関係は平和的で、異質であれば不安定になり、戦争や革命が生じやすいという議論である。いうまでもなくそのポスト冷戦版は「民主主義の平和論」であるが、国際関係の安定と国内体制がどの程度関係しているのかをめぐっては議論の余地がある。共通の政策概念や価値を持った国家からなる国際社会において、ある一国の体制が革命によって打倒され、異なるイデオロギーや理念を掲げる体制が樹立されるとき、つまり同質性が失われ、国際社会が異質化するとき、革命国家を排除し、あるいは転覆する対抗運動は同質性を理由にして正当化される。国際秩序や平和の維持には共通の原理やイデオロギーに依拠した国内体制をもつ諸国がつくる同質的な国際社会が必要だという観念は、異質な国家に対する不寛容を助長し、同質化に向けた圧力が強まっていく。同質性の問題を動態的に捉えたとき、平和や安定との関係は正の相関を示すとは言いがたい。

このような同質性の観念の両義性を示す歴史的な事例のひとつが、1789年のフランス革命に対する干渉戦争であり、そして同質性の論理を明白に主張して干渉戦争を正当化したのがイギリスの思想家エドマンド・バークだった。バークは、キリスト教、ゲルマン・ローマ法の遺制、君主政、共通文化の点で同質的なヨーロッパ体制共同体(Commonwealth of Europe)という概念を持ち出し、ヨーロッパの同質性を革命フランスの異質性に対して対置する。しかし坂本義和が指摘するように、同質性の措定という文化的な論理の背後には権力政治の論理、すなわち異質なものを排除する力学が存在している(「国際政治における反革命思想――エドマンド・バーク」『坂本義和集(1)国際政治と保守思想』岩波書店, 2004年: 163-175頁)。したがって国際社会の同質性と異質性が平和や秩序と関連する程度は実際のところ経験的に確定した議論とはいえない。その意味でヘドリー・ブルの指摘は重要な示唆を含んでいる。つまり「イデオロギー上同質的な主権国家システムが、単一のイデオロギーにもとづいて、イデオロギー衝突を発生させないゆえに、より秩序だっているであろうという考え方は、そのような主権国家システムが、その拠って立つ特定のイデオロギーが国家間の利益衝突を逓減・除去するゆえに、より秩序だっているであろうという考え方とは区別すべきである。後者の考え方は、問題とされるイデオロギーがどのようなものであれ、なんらかの強力な異議にさらされる可能性がある」(『国際社会論――アナーキカル・ソサイエティ』岩波書店, 2000年: 295頁)。

異質な政治体制を持ち、急速に発展する国家である中国とどのような関係を築くべきかが現代日本(外交)にとって重要な政策課題であることは明らかであろう。その地理的および文化的近接性ゆえに中国と関係を持たざるをえない状況におかれているものの、いわゆる「西洋の衝撃」による東アジアの国際関係の転換以降、日本は、対等な相手として中国と向き合う経験を欠いてきた。すなわち「明治以来日本人が接してきた中国は、弱く、分裂し、混乱していた。だから、われわれは強大で、尊大なまでに自己主張をおこなう中国を身をもって体験していないのである」(高坂正堯『海洋国家日本の構想』中央公論新社, 2008年: 117-118頁)。日本がヨーロッパ国際社会の一員として参画した19世紀後半の中国はヨーロッパ列強の帝国主義が展開される「草刈場」であり、そこに対等な外交関係を切り結ぶだけの主体としての中国を見出すことができなかった。また戦後もアメリカの対中政策に大きく規定されることによって、国共内戦を経て成立した北京政府と国交を結ぶことなく、1970年代まで「外交不在」の状態が続いた。日中国交回復の時期がちょうど中国の改革・開放路線の開始と軌を一にしていることは、日本の対中外交が大国としてのアイデンティティを意識し始めた中国を対象としなくてはならないことを意味し、また経済的グローバリゼーションの影響も加味されて、いわば外交の不在から外交の過剰(あるいは外交の内政化)へと関係水準が一気に上昇し、その運営においてはすぐれて高度な政治外交手腕が求められる。他方で中国の(経済的)台頭とバブル崩壊の後遺症による日本の低迷が重なったこともあり、まさに中国脅威論に典型的に見られる「異質論」が反中ナショナリズムとなって顕在化している。

あらためて高坂の言葉を引くならば、「こうした異質論の登場は奇妙な現象である。というのは、通常は国際社会を構成する諸国はそれぞれに異なることが自明とされている。外交を学ぶものが諸国家の政治の特質や外交の民族的特性を学ぶべきであるとされるのは、そのことを示している。そうした相違をこえて国際社会を運営するのが外交の任務と考えられているのである」(「国際関係における異質論」: 282頁)。外交の役割を問い直し、新しい外交の姿を追求することが求められている理由の一端をここに看取できる。

冷戦史(研究)の「旧さ」と「新しさ」

2008年04月26日 | nazor

かつてE・H・カーは『危機の20年』で平和的変革(peaceful change)、すなわち「国際政治において、そのような[平和的]変革を戦争によらないでいかに実現するか」について検討を加えた(『危機の20年 1919-1939』岩波書店, 1996年: 378頁)。そして「平和的変革の諸方法を確立することは…国際道義と国際政治との基本問題である」(398-399頁)と指摘し、力と道義の妥協ないし折衷にもとづく平和的変革のあり方を探求した。平和的変革の問題は、第二次大戦前夜の緊迫した状況下に生きたカーにとって、一章分を割いて考察するだけの価値がある課題であった。しかしながら第二次大戦後の世界が冷戦に移行するにしたがって、力の役割を重視する現実主義の古典としてカーの『危機の20年』が受容される一方、カーの言う平和的変革が宥和政策と同義であった点も影響して、米ソの厳しい対立状況である冷戦において、交渉や妥協を伴う平和的変革は現実的な選択肢とは認識されず、真剣に考慮されることは皆無であった。

その平和的変革に改めて注目を向けさせたのが1989年の東欧諸国における共産党体制の雪崩式崩壊現象である。ルーマニアを除いて体制転換が非暴力的かつ民主的に成し遂げられたことは、まさしくカーが言うところの戦争によらない変革の実現であった。もし冷戦の終焉から導き出される教訓を挙げるとするならば、それは、平和的変革が現実的に達成可能であり、新たな秩序の構築の要件として戦争が必ずしも不可欠ではないことが明らかになったことであろう。しかし冷戦後の「名もなき90年代」を通して冷戦の終焉をめぐって、とくにアメリカ国内において平和的変革ではなく力による平和によって冷戦が終わったという解釈が支配的になっていく。つまり「1988年以前には冷戦に勝ったという解釈はまれであり、冷戦は『終わる』存在として考えられていたのに対し、90年以後、ことに91年の後は、冷戦はただ終わるのではなく、ソ連側に勝つという、勝利の問題に変わって」しまったのである(藤原帰一「冷戦の終わり方――合意による平和から力の平和へ」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(6)機能と変容』東京大学出版会, 1998年: 275頁)。こうして平和的変革としての冷戦の終焉という見方は次第に後景に退いていき、代わって冷戦の勝利を謳う言説が拡がっていった。

現象として終焉したとされる冷戦(的思考)が言説上では依然として強い魅力を放っていることは、2001年のアメリカ同時多発テロ、およびブッシュ政権が主導する対テロ戦争に際して飛び交う「文明/野蛮」的な二分法の世界観が、1947年のトルーマン・ドクトリンを容易に想起させることからも明らかである。そして2003年のイラク戦争の目的がフセイン政権の打倒、つまり体制転換にあったことはいまや公然の事実であるが、力の行使による体制転換が政策として現実的だと認識された背景にはアメリカの勝利と解釈される冷戦の終焉観から導かれた教訓が存在することは想像に難くない。したがって「冷戦、そして冷戦の終焉をめぐる歴史認識が、現在のアメリカ外交に与えている影響は小さくない」ことを考えると(西崎文子「ポスト冷戦とアメリカ――『勝利』言説の中で」紀平英作・油井大三郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境(5)グローバリゼーションと帝国』ミネルヴァ書房, 2006年: 288頁)、「冷戦とは何だったのか」という問いは、「冷戦がどのように理解されているのか」という問いと切り離せない。とりわけ「歴史として」冷戦を叙述することが可能になったポスト冷戦状況にあって、冷戦史研究は、実証面で著しい進捗が見られる一方で、「理論的争点自体にはほとんど無知に等しい状態」と評されるように(フレッド・ハリディ『国際関係論再考――新たなパラダイム構築をめざして』ミネルヴァ書房, 1997年: 240頁)、その理論的・概念的位相に関しては十分な考察がなされているとは言い難く、旧来の冷戦像を再確認ないし再生産する点で新しさというよりもむしろ旧さを感じさせる。カーの言葉に準えれば、冷戦史もまた「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』岩波書店, 1962年: 40頁)としての歴史の一例であるとすれば、冷戦をめぐる問いはすぐれて今日的意味を持っているといってよいだろう。

1989-91年にかけてソ連ブロックの崩壊は現実の国際関係に限らず、学問の世界においてもさまざまな衝撃を与えた。とりわけ旧共産圏の公文書が相次いで解禁されたことによって、アメリカ外交から見た冷戦像に偏重していた観のある既存の冷戦史研究に決定的な転機がもたらされた。いわゆる「新しい冷戦史」と呼ばれる研究の潮流が登場し、従来の冷戦像に対して大幅な修正を迫っている。 その特徴は、次の3点にまとめることができるだろう。

第1に解禁された公文書を駆使してソ連やその衛星国、および中国やキューバなどの政策決定や国家行動の要因を分析することによって、鉄のカーテンの向こう側からみた冷戦およびその内部で繰り広げられた同盟政治の実情が明らかにされた点にある。それまで推測の域に留まっていた仮説や主張を公開史料と照らし合わせる作業は、冷戦史研究の実証性における飛躍的な向上をもたらすとともに、冷戦の双方の当事者を包括する全体構図を把握することができるようになった。換言すれば、史料の「新しさ」による冷戦史の書き換えが進んでいる点に求められる。

第2の特徴として、「冷戦史=アメリカ外交史」ともいうべきアメリカ中心史観が支配的であった従来の研究と比較した場合、視点や対象が大幅に拡大された点が指摘できる。冷戦期でもイギリスやフランスなど西欧諸国の視点を取り込んだ研究が1970年代後半から出てきていたが、冷戦の終焉はこうした流れをさらに推し進め、マルチ・アーカイブによる国際関係史あるいはグローバル・ヒストリーとして冷戦を捉えなおす地平を切り開いた(田中孝彦「冷戦史研究の再検討――グローバル・ヒストリーの構築にむけて」『変動期における法と国際関係――一橋大学法学部創立50周年記念論文集』有斐閣, 2001年)。たとえば、アジア地域における冷戦の現出・展開・終結についてみると、グローバルレベルにおける米ソ冷戦や、ヨーロッパの地域冷戦とどこまで共通性・関連性をもち、どれくらい独自の冷戦ゲームが繰り広げられたのか、つまり「米ソ以外の地域を含めた冷戦期の国際秩序をどこまで米ソ間の権力政治に還元」できるのかという問題が重要視されるようになり(藤原帰一「アジア冷戦の国際政治構造――中心・前哨・周辺」東京大学社会科学研究所編『現代日本社会(7)国際化』東京大学出版会, 1992年: 328頁)、地域的な差異を視野に入れた多層的な冷戦像が提示されている。また軍事戦略面に偏っていた冷戦史に加えて、経済史や社会史の観点を取り込んだ研究も現れ、国際関係だけでなく国内社会を貫くトランスナショナルな性格が分析の射程に組み込まれるようになっている。とりわけ文化論として冷戦を考察ないし把握するアプローチは、次に取り上げるイデオロギーや理念の役割を重視する潮流と大きく共鳴する流れといえるだろう。

米ソ両国による直接の軍事衝突ではなく、むしろ互いの信条体系の衝突であったところに冷戦の特質がある。すなわち、理念や価値の伝達・浸透が重要な抗争手段であった意味で「理念をめぐる戦争 war of ideas」として冷戦を理解する視座が第3の特徴である。国際関係学(IR)における(ネオ)リアリズムの興隆と歩調をあわせるように、国益や安全保障を重視する一方、イデオロギーや信条といった観念的要素に副次的な意味しか見出さなかった1980年代の研究動向とは対照的に、解禁された公文書の調査・読解を通して、政策決定、とりわけスターリンや毛沢東など東側諸国のそれにおいてイデオロギーが果たした役割に対して関心が高まり、冷戦史を叙述する上で重要な争点とみなされるようになった。

さて「新しい冷戦史」を象徴する研究としてまず思い浮かぶのが、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦――力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会, 2004年)である。冷戦史研究におけるポスト修正学派の代表格として学界を牽引してきたギャディスは、ソ連/スターリンの対外行動におけるイデオロギーの役割とその重要性を再確認し、米ソがともに冷戦帝国(Cold War Empire)という点で共通性を持っていたと指摘する。また冷戦帝国を規定する秩序原理および行動様式の違い、すなわち同盟内政治において民主主義が優れた運営能力を示す一方で、ロマン主義に彩られた権威主義支配の硬直性が冷戦の最終的な帰結を左右したと論じる。また誰が冷戦を始めたのかという責任論について、「スターリンがソ連を統治する限り、冷戦は不可避であった」(475頁、強調原文)という結論を提示した。この立場は冷戦の終結までカバーした『冷戦――その歴史と問題点』(彩流社, 2007年)にも受け継がれていることからも明らかなように、善悪の対決として冷戦を描くことにギャディスの冷戦論の特質がある。

ギャディスの研究は、旧東側公文書の第一次解禁ブームから生まれた研究を総括するものであったが、冷戦の本質をソ連/スターリンの存在や世界観に帰する結論自体に目新しさを看取できない。むしろこれまでギャディスが表明してきたポスト修正主義の立場から後退し、冷戦の責任をソ連に課す正統学派へ回帰したといえる。あるいは1970年代に、イデオロギーに囚われない、一次史料の解釈に基づき、正統学派および修正主義学派の一方通行的な論争状況の止揚を意図したのがポスト修正主義であったが、当初からその一見「中立的」な姿勢は、基本的な点において正統学派の主張を公文書によって客観的な装いに包んだ「正統学派プラス公文書 orthodox plus archives」にすぎないのではないかと揶揄されていた。そして「今や知っている」立場から冷戦期を省みれば、一方の当事者であるソ連(とそのブロック)の解体という結末によって、アメリカの冷戦政策、とくにその基軸となった封じ込め戦略の有効性が証明されたと解釈することは正統学派の主張と共鳴し、説得力を持って違和感なく受け止められる素地があるところに、冷戦史研究の「権威」ギャディスがお墨付きを与えた形となったといえる。

こうしたギャディスの主張は多くの研究者によって批判の的となっている。たとえば、冷戦史研究においてギャディスと双璧をなすメルヴィン・レフラーは、その書評論文で、「冷戦後に冷戦を著す際に、われわれはその終焉を起源および進展と混同してはならない」と論じ、「ギャディスの『歴史としての冷戦』は、われわれ同時代の文化に行き渡る勝利主義と共鳴し、そして多くの点でそれはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』と対の関係にある学術的な外交研究である」と指摘する(Melvyn P. Leffler, "The Cold War: What Do 'We Now Know'?," American Historical Review, vol. 104, no. 2, 1999: 523-524)。またアンデルス・ステファンソンによれば、ギャディスの『歴史としての冷戦』は「新しい事実に関する著作ではなく、イデオロギーに関するイデオロギー的な著作であり、善と悪の抗争としての冷戦というお馴染みの叙述を復唱し、…善と悪の相対立する原理および1950年代の正統学派を再発明する」ものだと批判する(Anders Stephanson, "Rethinking Cold War History," Review of International Studies, vol. 24, no. 1, 1998: 121-122)。いずれも結末から逆算して叙述する、いわゆる「転倒した経路依存」をギャディスの冷戦論に見出す点で共通している。さらにソ連外交史家のジョナサン・ハスラムは、スターリンという一個人に冷戦を還元するギャディスの見方を問題視する。すなわちスターリンの外交政策をその国内政策の単なる延長と捉えるギャディスの立場は、国内政治と国際政治の質的な差異(集権的/分権的)を軽視しているため、1930年代および第二次大戦中の協調的なスターリン外交がなぜ可能となったのかを説明できないと批判し、また主に回顧録を中心にソ連側の史料を一瞥しただけでも、ギャディスのようにスターリンをロマン主義の革命家とみなすことは問題だと指摘する(Jonathan Haslam, "The Cold War as History," Annual Review of Political Science, vol. 6, 2003)。

たしかに「冷戦史=アメリカ外交史」という従来の学問的特徴を考えると、ソ連をはじめとする東側諸国や途上国の視点を取り入れることによって多面的な冷戦像が提示されることは歓迎すべき傾向である。しかし「歴史として」冷戦を叙述するとき、またソ連ブロックの解体という「一方だけの崩壊」、つまり共産党体制の崩壊とソ連解体の共時性に象徴される冷戦の終焉自体をめぐって、実証/理論面で活発な論争が巻き起こっていることを視野に入れた場合、ギャディスの研究に見られる傾向は言外に冷戦をアメリカの「成功した勝利の物語」として描き出す可能性を潜在させているように思われる。別言すれば、イデオロギーの役割が重要だとされるとき、それは主に共産主義を指し、ジュニア・パートナーの代表格として毛沢東、カストロ、金日成の行動や思想が取り上げられることは、暗黙裡にある特定の冷戦像を浮かび上がらせる。その冷戦像は、繰り返して言うならば、事実関係において詳細を極める一方で、冷戦という事象の把握や解釈の点で旧来の視座を再考するよりもそれを無批判に受容・補強する傾向が強い。

「冷戦とは何だったのか」および「冷戦はどのように終焉したのか」をめぐる解釈の変化は、過去についての歴史研究に属する問題に留まらず、現代世界の行末を左右する超領域的な権力主体であるアメリカの外交政策と関連している実践的な問題である。「それ[冷戦]に代わる新秩序の樹立ではなく、それまでの封じ込め政策と、武力行使の正当性を確認する、旧秩序の勝利として終わった」(藤原「冷戦の終わり方」: 301頁)という冷戦の終焉認識は、独裁者や侵略者に対して有効な手段は対話や交渉ではなく、武力の行使であるという教訓に正当性を付与する役割を担う。グローバリゼーションによって情報の伝達量や速度が飛躍的に高まる一方で、多くの情報はすぐに消費期限を迎え、忘却の穴に捨てられていく。高速化していく「長い21世紀」の世界で生じる速度と忘却の弁証法を通して、複数形の「過去」から単数形の「現在」が作り出されていく。冷戦(の終焉)をめぐる認識もまた速度と忘却による縮減過程で「アメリカの勝利」という物語に沿った形で整序され、繰り返し叙述されることによって、共有された記憶ならびに学知となる。このことは、反対に冷戦を叙述する行為はその意味内容を書き換える可能性がつねに残された開かれた過程であることを意味している。圧倒的な量の史資料と向き合うと同時にそれらに向けられる眼差しをめぐる問いが「新しい冷戦史」研究において要請されているといえるだろう。


空虚なヨーロッパとその構成的外部

2008年04月02日 | nazor
第二次世界大戦後、米ソ対立の激化に伴って、ヨーロッパは、一方でアメリカ合衆国との明示的・黙示的同盟関係に組み込まれた「西欧」と、他方でソ連の影響下で共産党体制を布いた「東欧」に二分された。あらゆる側面において政治・経済・社会体制の対照性をもつ国家およびそれら諸国の集合体(ブロック)同士が厳しい対立関係にある場所として戦後の歴史空間に登場してきた。しかしながら分断された戦後のヨーロッパ認識は等分に「ヨーロッパ的なるもの/ヨーロッパ性」を差配するのではなく、「西欧」がほぼ排他的にヨーロッパの名称を語ることに一定の正当性を与えた。それゆえ共産党体制崩壊後のポスト共産主義政治は「ヨーロッパへの回帰」を軸に展開し、EUあるいはNATOといったヨーロッパ地域機構への加盟をめぐる競争がポスト共産主義諸国の国内政治を規定した。EU加盟基準をクリアするために国内の法体系や経済システムを改革することが「ヨーロッパ化」と呼ばれるように、戦後共産党体制下にあった「東欧」は、ヨーロッパ未満の地域、あるいはこれからヨーロッパ的な理念や制度が浸透していく未開拓の地域と措定される。その意味でヨーロッパの拡大過程は、民主主義や法の支配、あるいは市場経済といった普遍的な理念を掲げつつ、それら理念が投企される対象を規律化する「眼差しの政治」の要素を色濃く帯びていることは明らかである。

こうして「東欧」を非ヨーロッパ化したうえで、「西欧」を参照基準として再ヨーロッパ化する形でヨーロッパ統合・拡大が進展している。それは、事実上西ドイツが東ドイツを吸収合併することで達成されたドイツ統一をヨーロッパ規模で実施しているとみなすこともできるだろうし、また時間軸を大きく拡げるならば、16-17世紀に成立した主権国家体制と資本主義経済を両輪とする「ヨーロッパ近代」の拡大が、20世紀後半の冷戦体制によって一時的な停止を余儀なくされたものの、再始動しているともいえる。したがって現在のヨーロッパ統合・拡大の論理にかつての帝国主義/植民地主義的な匂いを嗅ぎ取ることはそれほど困難ではない。とはいえ、かつての帝国主義/植民地主義的実践が再び繰り返されているとみることはいささか短絡的な理解であろう。

帝国主義/植民地主義が負のイメージで語られ、人民の自決権に普遍的で正当な規範として認められているポスト帝国主義/植民地主義時代における統治理性は、その帝国性を考慮するならば、鈴木一人が論じる「規制帝国」として把握されるべきものである(「『規制帝国』としてのEU――ポスト国民帝国時代の帝国」山下範久編『帝国論』講談社, 2006年)。鈴木によれば、「規制帝国」は、市場活動などに関する規制を外部に位置する諸国に受け入れさせる際に、規制を普遍的な規範として提示することによって、物理的な権力を直接行使することなく、むしろ規制を受ける側の自発性を前提としている意味で(47-51頁)、帝国(主義)に纏わりつく暴力性の位相は限りなく不可視化されている。

しかし「規制帝国」の慈悲が及ぶ範囲は、ヨーロッパへの同一化を希求する地域に限定される。換言すれば、ヨーロッパという地域的に領域化された制約のため、ヨーロッパにおいて成立した「規制帝国」は局所的なものにとどまり、普遍性を獲得することに困難を抱えている。再び鈴木の議論を引くならば「ユーラシア大陸の西端と北アフリカ大陸北部に限定された『地域帝国』として存在するしかない」(71頁)とすれば、ヨーロッパの範囲、ならびに外部との間に引かれるべき境界線の問題について最終的な着地点を定めておくことが求められる。そのとき重要な論点となるのがロシアの扱いであることは間違いないだろう。

たしかにヨーロッパ統合・拡大をめぐる議論において、すでにNATO加盟国であるトルコの扱いも重要な論点であることは明らかであるが、すくなくとも世俗化されているとはいえイスラーム文化圏の影響が色濃いトルコは、英国学派のジャーゴンに従えば、ヨーロッパ「国際社会」の構成主体ではなく、「国際システム」次元において関係を切り結んでいたに過ぎない。他方で、ロシアの場合、正教圏に属している点でヨーロッパ性の暗黙の指標であるところのキリスト教共同体と深いつながりがあり、また18世紀後半以降、勢力均衡を担う主要な大国として認知されていたことが示すように、ヨーロッパ「国際社会」を支える価値や制度を共有していた。その意味で、ロシアの「ヨーロッパ性」を完全に否定することは困難であり、まさしく境界線上に位置するロシアの存在はヨーロッパにとっても、また当のロシアにとっても安定したアイデンティティを保証するものではなく、つねにアイデンティティ危機を招来するアポリアだといえよう。

ロシア国内では、19世紀における「西欧派/スラブ派」の思想潮流が存在し、ソ連解体後には「大西洋主義/ユーラシア主義」として再定式化され、とりわけエリツィン政権時代には外交政策上の重要な論争点となったことはよく知られている(伊東孝之「ロシア外交のスペクトラム――自己認識と世界認識のあいだで」伊東孝之・林忠行編『ポスト冷戦時代のロシア外交』有信堂高文社, 1995年参照)。他方でロシアの「ヨーロッパ性」に対する懐疑が先鋭的に現出するのが、「ヨーロッパをめぐる言説は、ヨーロッパの中心においてより、その周縁でもっとも活発に生産される」と述べられるように(篠原琢「地域概念の構築性――中央ヨーロッパ論の構造」家田修編『講座スラブ・ユーラシア学(1)開かれた地域研究へ――中域圏と地球化』講談社, 2008年: 139頁)、ロシアと境界を接し、またその統治下にあった歴史を有する中央ヨーロッパである。共産党体制下の東欧諸国における反体制運動が提起した重要な概念・理念のひとつである「中央ヨーロッパ」論がヨーロッパの構成的外部としてのロシアを抜きにして成立しないことはその端的な例である。

たとえば、「中央ヨーロッパ」論の代表的な論考である「誘拐された西欧――あるいは中央ヨーロッパの悲劇」(『ユリイカ』304号, 1991年)におけるミラン・クンデラの議論は、中央ヨーロッパの特質を抽出するに当たって、まずロシアとの差異を浮き彫りにし、そこに絶対的な断絶が存在することを指摘する。すなわち「もともと画一的なロシア、さらに一切を画一化し、中央集権化していこうとするロシアほど、中央ヨーロッパと、その多様性への情熱に無縁なものはなかった」(66頁)、あるいは「反西欧としてのロシアが、他のどこよりも強く感じられるのは、西欧の東の辺境においてである」(66頁)、さらに「ロシア全体主義の文明は、近代初頭に誕生したところの西欧――思考し、懐疑する自我を基盤とし、この独自で比類のない自我の表現としての文化的創造を特徴とする西欧近代の、ラディカルな否定」(76頁)と述べられているように、ロシアは中央ヨーロッパとは異質な、相反する文明圏として把握されている。クンデラによれば、冷戦期のソ連の東欧支配とは、中央ヨーロッパという「最小限の空間に最大限の多様性」に対するロシアという「最大限の空間に最小限の多様性」の支配であり、それは中央ヨーロッパにとってまさに悲劇であった。そしてロシア(ソ連)への抵抗が意味するのが「そのアイデンティティを擁護すること、つまりはその西欧性を擁護すること」(67-68頁)である点で、論考のタイトルに示唆するように中央ヨーロッパは「誘拐された西欧」なのである。

しかしながら、ロシアを徹底的に他者化し、中央ヨーロッパを西欧と等置するだけでなく、西欧の「ヨーロッパ性」の内実に批判的な眼差しを向けるところにクンデラの議論の特徴が垣間見れる。すなわち中央ヨーロッパの悲劇のもうひとつの本質は中央ヨーロッパが西欧の地図から消滅してしまったことにある。「ひとつの国家ではなく、ひとつの文化、あるいはひとつの運命」(69-70頁)であると言われるようにクンデラは中央ヨーロッパを文化(論)の位相で理解する。そしてヨーロッパ(近代)史において統一性を担保してきた「至高の価値が実現される領域」(75頁)としての文化が保持されてきたのが中央ヨーロッパであり、ロシアによる中央ヨーロッパの支配はそうした文化空間の縮小および消滅を意味した。それにもかかわらず、「ヨーロッパ性」を象徴する文化、そしてその文化が花開く空間であるところの中央ヨーロッパの存在ないしその消滅が西欧によって認識されることなく、忘却されてしまったことは、「ヨーロッパそのものが、もはや文化的に一体のものとして、自分の統一性を感じなくなっていたか」(73頁)を物語っている。ヨーロッパの存在理由ともいうべき文化的統一性の喪失に加えて、担い手である西欧がその喪失を自覚できない意味で、それは二重の悲劇といえよう。つまりクンデラの言う「中央ヨーロッパの悲劇」とは、ロシアによって「誘拐された西欧」であることばかりでなく、文化を共有しているはずの「西欧」が誘拐された事実、さらにいえばそもそも誘拐されたのが「西欧」であることすら理解できないことだといえるだろう。

ヨーロッパ分断状況に基づく冷戦構造への異議申し立てとして提起された「中央ヨーロッパ」論は、ロシア/ソ連の全体主義を拒絶するだけでなく、西欧の資本主義イデオロギーがもたらす負の側面に対する批判をも内包していた。しかしながらポスト共産主義の政治過程およびその展開を外部から規定するヨーロッパ統合・拡大過程において、「中央ヨーロッパ」論者がその「ヨーロッパ性」を託した寛容・民主主義・多様性といった政治的価値は、経済的価値に従属し、新自由主義的な市場経済に基づく制度構築が優先的な課題とされた。西欧と東欧に二分された歴史空間としての戦後ヨーロッパの自明性に疑問を突きつけた「中央ヨーロッパ」論は、その批判力に比して、ポスト冷戦時代のヨーロッパ再編に向けた政策理念・制度構想として十分に結晶化されずに後景化してしまう。それに代わって「中央ヨーロッパ」論が批判した西欧によってヨーロッパの表象が独占的に所有され、それを基準とした新たなヨーロッパの歴史空間形成が21世紀のヨーロッパ国際関係の基軸となっている。ヨーロッパ統合、とりわけその拡大過程が臨界点に達しようとしている現在、その「ヨーロッパ性」の内実が改めて問われている。

「国家の逆機能」による男らしさの危機

2008年03月04日 | nazor
沖縄駐留米兵による暴行事件、そして海上自衛隊イージス艦「あたご」の衝突事故は、安全保障の対象であるはずの民間人が安全を提供するはずの軍隊(人)によって安全を剥奪されるという「国家の逆機能」の典型的な例であることは論を俟たない(土佐弘之『安全保障という逆説』青土社, 2003年: はじめに)。言い換えれば、これら二つの事件は国家が依拠し、その正当性を担保する国家安全保障の擬制を露にする意味で国家の存在を自明視している政策担当者や言論人にとってきわめて重大な問題を提起する。

それゆえ「国家の逆機能」の顕在化によって国家安全保障に対する根本的な疑念が喚起される事態を憂慮して、「国家の安全のために仕方のないこと」ないし「甘受しなくてはならない犠牲」などの言説を用いて、「国家の逆機能」を付随的な問題として再措定する動きが生まれてくる。このような国家の戦略は、「国家の逆機能」と日常的に向き合っている人々や地域から空間的に離れている場所では、当事者性が希薄なことも手伝って一定の妥当性を持って受容される傾向が時間の経過とともに強まっていく。すなわち地域エゴあるいは事件の政治利用といった批判によって事件は一部の利害に基づいた私的な事案に矮小化される。その極北的な例が、兵士による性暴力事件が起こるたびに聞かれる「被害者にも非がある」といったセカンドレイプ的言説であろう(たとえば「花岡信昭の政論探求:『反基地』勢力が叫ぶいかがわしさ」『産経新聞』2月12日)。被害者の所作を問題化したり、「親のしつけ」などの教育論に論点をすり替えることによって、批判の矛先を国家安全保障をめぐる問題圏から逸らし、その正当性や崇高さが傷つくことを回避しようとする。

さらにセカンドレイプ的言説に内在する潜在的な欲望は、軍隊(人)と売買春/レイプをめぐる問題に目を向けることによってより明確となる。シンシア・エンローによれば、軍隊(人)にとって売買春とレイプは対照的な意味合いを持っている。つまり売買春は一種の娯楽として軍隊の日常に組み込まれた伝統となっている面が大きい一方、レイプは恐怖を与えるショッキングな事件として把握されている(『策略――女性を軍事化する国際政治』岩波書店, 2006年: 第3章)。しかしこの対照性は社会的に構成されたものであり、個別具体的な文脈に応じてレイプと売買春の区別は変化する。つまり「政策決定者は、しばしば、軍事化されたレイプと軍事化された売買春を、まるで文化的マジノ線で隔てられているかのように扱う。その際、この分割線は、文化的現実というよりもむしろ、レイプに神経をとがらせる政策決定者たち自身がつくりだした考えや実践の防御壁によって引かれている。…そのおかげで、彼らは、レイプと売買春ではあたかも、その加害者と被害者がまったく異なるかのように議論することができるのである。実際には、軍隊の政策決定者の世界において、軍当局者たちはレイプと売買春をまとめて考えている」(66頁、強調原文)。

この可視化された対照性と深層意識における一体性というレイプと売買春をめぐる両義性は、セカンドレイプ的言説を展開する人々の思考において重要な役割を果たしていると思われる。加害者が被害者との合意のない状況で一方的な性的暴行に及ぶレイプは、彼らの抱く(平時における)規範的な男らしさとは相容れず(反対に戦時であればレイプが男らしさの証左に転換される)、それゆえに国家やその安全保障を担う軍隊、そしてそれらに同一化させてきた彼ら自身の存在理由に対する疑念を抱かせる。このアイデンティティー危機状況を克服するために、自身の立ち位置や思想を内省する困難な道よりも、危機状況の原因となった事件を規範的な男らしさの枠組みに合わせる形で再解釈する苦しみの少ない方法を選択する。すなわち彼らの枠組みに従えば、加害者と被害者の間に何らかの合意とみなすべきものが存在し、あるいは被害に遭った場所や時間の「非常識さ」に注意を向けることで、レイプにおける非対称性を緩和し、売買春における対称的な(と考える)合意/契約関係として事件を再構成する。またレイプではなく売買春の位相に事件を転移させることは、規範的な男らしさを救済するとともに、規範的男らしさから派生する女性像から逸脱した存在として被害者=他者を描き出す。こうして感情移入できない被害者に対してセカンドレイプ的言説を投げつけることに何の違和感も覚えない、むしろ危機に瀕している国家を助けているという満足感を覚える構図が出来上がる。

「国家安全保障とは、たんに国家と市民を外敵から守るというだけでなく、というより、おそらく何よりもまず、社会秩序の維持を意味するようになる。そしてさらに、その社会秩序には、軍事主義のイデオロギー的側面を強化するようなジェンダーの定義が含まれる」(エンロー: 56頁)点を考慮に入れたとき、国家利益や国家安全保障を掲げ、「政争の具にするな」という掛け声で事件の政治利用を牽制する動きは、その主張の普遍主義的・公共的な体裁にもかかわらず、きわめて私的な利害・感情に基づいている点で著しい政治性を帯びている。性暴力の問題を私的領域に押し込め、非政治化することは、国家安全保障を公的/政治的な領域において特権化することと表裏一体の関係にある。「個人的なことは政治的である」に象徴されるフェミニズム/ジェンダーの視座が国家安全保障を論じるときに意義を持つのは性暴力をめぐる言説政治のレベルにおいてであり、いわば国家安全保障の問題点がもっとも顕著な形で現れてくるからである。

再び土佐の議論を引くならば、「『我々は国民の安全のため全力を尽くしているのだ』といった反論が当然予想されるが、そこには、国民の代表として語る過程で生じるズレ、つまり代表-表象過程におけるズレについて重大な見落としがある。一言で言えば、いつのまにか国民の利益、国益という用語で自己の利益を語っていることに自ら気がつかなくなっているということである」(10頁)。国家が過度に人格化される一方でその国家を構成する人々を非人格化する論理は、主体と客体が一致しているはずの国家安全保障の空洞化を推し進める。守るべき客体を喪失した主体(=国家)に自己を盲目的なまでに同一化し、他方で自らもまた他者化される可能性が常に孕まれていることをまったく想像できない心性はグロテスクなまでに倒錯的である。

揺らぎの国民文学

2008年02月24日 | nazor
先の第138回芥川賞の候補者が明らかになった時点で、メディアの注目は、受賞した川上未映子よりも中国生まれの楊逸による日本語小説が候補に挙がった点に集まった。また選考結果を伝える報道でも、川上に次ぐスペースが割かれたのは楊逸が受賞できなかった理由に対してであった。このようなメディアによる焦点の当て方あるいは話題の構築は、「日本人=日本語=日本文学」という図式が無自覚的に想定されていることを示唆している。数多の文学賞の中でもっとも注目を集め、いわば「国民文学」の象徴的な位置を占めている意味を有している芥川賞の候補に楊逸の作品が挙がったことは、「事件性」を持った報道するだけの価値を持っていると了解されたといえる。

周知のように、国民(国家)形成過程において近代文学とりわけ小説というジャンルの成立が重要な役割を担っている点はベネディクト・アンダーソンが指摘しているとおりである(『増補想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』NTT出版, 1997年)。すなわち「均質で空虚な時間」に基づく同時性の観念を体現する想像の様式である小説(および新聞)は、「国民という想像の共同体の性質を『表示』する技術的手段を提供」する(50頁、強調原文)。そして作者と読者、および読者同士を繋ぎ、同一の時間軸を持つ空間すなわち国民空間に生きる意識を共有させるのが後に「国語」となる世俗語である。こうして一定の領域空間に住まう人々の「国語」によって書かれ、読まれる小説、いわゆる国民文学が誕生する。さらにいえば、国民文学は、学校教育などを通じて人々の国民化を促す役割も果たし、よりいっそう国民文学の枠組みを強固なものにしていくウロボロス的過程が作られる。まさに「国名+文学」という形象がそれほど疑問をもたれずに定着していることは国民文学の強靭性を物語っているといえるだろう。

しかしながら国民文学が依拠し、また支えている国民国家という制度の揺らぎが議論されるようになって久しい。21世紀の時代認識として流布しているグローバリゼーションをめぐる議論が「国家の衰退・健在・変容」を軸に展開されていることからも明らかなように、国境の外側から国民国家を揺さぶる動きだとすれば、多文化主義・多言語主義の議論は国境の内側から国民国家の編制を問い直す動きだといえる。このような国民国家を取り巻く環境の変化は当然のことながら国民文学自体に影響を与える。あるいは国民文学という形式に基づいて整序されていた文学の布置状況から外れた文学の態様が存在していることが顕在化してきただけに過ぎないかもしれない。

近代文学の歴史を振り返ってみれば、ジョセフ・コンラッド(ポーランド)、ウラジーミル・ナボコフ(ロシア)など母語以外の言語で執筆活動を行い、それぞれイギリス文学およびアメリカ文学を語る上で欠かせない作家を見出すことは容易である。たとえば、最近『存在の耐えられない軽さ』の新訳版(河出書房新社)が刊行されたミラン・クンデラの場合も、フランスに亡命後チェコ語ではなくフランス語で執筆し、小説の舞台もチェコに限定されない。今回の新訳もクンデラ自身の要請によってフランス語版を底本にしていることは、クンデラに「チェコの作家」という表象を纏わせることがどれほど適切であるかと問う可能性を提起し、国民文学に基づく分類の窮屈さを示している。

国民文学に回収不可能な作家や作品の存在は、国民文学の歴史性あるいは権力的位相に注意を向けさせる。一定の領域空間を前提とした「静の文学」である国民文学に対して、「動の文学」としての亡命文学あるいは移動文学を志向する動きが見られることは興味深く(たとえば西成彦『エクストラテリトリアル――移動文学論2』作品社, 2008年)、そうした動きが展開することによって日本語で執筆活動を行う外国の作家がもはやニュース性を持たないほど日常化する環境が育まれると思われる。そのときには芥川賞の意味合いもまた変化しているだろう。

途上の文筆歌手

2008年01月26日 | nazor
二作目の小説「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞した川上未映子。文学一般、あるいは芥川賞の要請する形式に沿いつつ、その独特の文体が持つラディカルな位相を活かすことに成功したことによって、池澤夏樹の言葉を借りれば「短編としての構造が計算されつくされていて、あざといほど」の完成度ゆえに、選考委員たちが異論を挟む余地をなくした結果とも言えるだろう。

ところで「文筆歌手」という肩書きやドラマ的要素に富んだ半生などの話題性十分の経歴ゆえに、各種メディアの注意を惹きつけ、いわば「芥川賞バブル」状態が受賞後一週間ほど続いたわけであるが、その様子は、候補に挙がったものの受賞を逃した前回7月の芥川賞をめぐる状況とは対照的である(ちなみに受賞者は諏訪哲史)。むしろ金原ひとみと綿矢りさが受賞した第130回(2003年)のそれと通じるものがある。

文学プロパー以外では、芥川賞が話題に上る場合、受賞作品の内容などは軽く触れられる程度で、むしろ受賞者の生い立ちや容貌が取り上げられることが普通である。言い換えれば、作品の評価は文学プロパーに委ねられ、作者のキャラクター性が抽出されることによって、本質的に切り離すことができないはずの作者と作品の間に線が引かれ、その関係は作品に対する作者の優位という形の非対称性を帯びる。さらにいえば、受賞者が女性であるとき、記者会見における服装が必ずといってよいほど話題になるように、作品ではなく、作者およびその身体性が前景化する顕著な傾向を考えたとき、そこにある種のジェンダー秩序の一端を看取するのは難しいことではない。

また「芥川賞バブル」の余波で、これまでほとんど知られることのなかった「歌手・未映子」も注目を集め、廃盤寸前のアルバムへの注文が殺到しているが、それが「副業としての歌手活動」として捉えられる一過性の現象に終わることもありえる。「自称・文筆歌手」のアイデンティティーが主観性の域から脱して、間主観性として成立することができるのか、あるいは作家と歌手という棲み分けを横断するような形の創作活動の地平を切り開いていくのか、これから「文筆歌手」の内実が問われることになる。

呪縛のウェーバー

2007年12月25日 | nazor
2007年の学術書をめぐる趨勢を回顧してみれば、マックス・ウェーバー関連の研究書が矢継ぎ早に刊行された年であり、ちょっとした流行現象と形容してもよい状況である。管見の限りでそのリストを作成してみれば以下のとおりであり、その対象やアプローチもウェーバー自身の問題関心の広さに応じてバラエティに富んでいる。

・相沢幸悦『現代経済と資本主義の精神――マックス・ウェーバーから現代を読む』(時潮社)
・犬飼裕一『マックス・ウェーバーにおける歴史科学の展開』(ミネルヴァ書房)
・折原浩『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』(勁草書房)
・今野元『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(東京大学出版会)
・雀部幸隆『公共善の政治学――ウェーバー政治思想の原理論的再構成』(未来社)
・佐野誠『ヴェーバーとリベラリズム――自由の精神と国家の形』(勁草書房)
・羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ――一生を母親に貪り喰われた男』(PHP研究所)
・松井克浩『ヴェーバー社会理論のダイナミクス――「諒解」概念による「経済と社会」の再検討』(未来社)
・松代和郎『社会経済学序説――マックス・ウェーバーの科学と哲学』(昭和堂)
・クリスタ・クリューガー『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ――結婚生活の光と影』(新曜社)
・「総特集=マックス・ウェーバー」『現代思想』臨時増刊号(35巻15号)

いちおう『プロ倫』や『職業としての政治』など岩波文庫ものは読んでいるが、ウェーバーにそれほど思い入れがないため、積極的に読んでみるだけの理由もなく、したがって以上に挙げた著作のほとんどに目を通していない。また「なぜいまウェーバーなのか」という(内外の)学界における流行事情に通じていないため、ウェーバー研究書の量産状態に対して聊か唐突な印象を抱いているというのが実のところである。しかしながら、書店の書棚を眺めているとウェーバー関連の書籍の多さは否が応にも目に付くし、ウェーバー研究(の現状)に不案内であるとしても、たとえば「羽入=折原論争」の存在は知っているわけで、その当事者が相次いでウェーバー本を刊行したとなれば、いくぶんであれ気になるのもたしかである(その経緯はマックス・ウェーバーをめぐる羽入折原論争にまとめられており、また羽入による本格的な反論本は近刊予定らしい)。

19世紀の知の巨人がマルクスであるとすれば、20世紀のそれはまさしくウェーバーといって差し支えないと思われるが、学問体系の細分化が進み、それぞれの学問間の共約可能性が限りなく縮減されている現在、いわゆる現存した社会主義の失敗によって暴落したマルクスに代わって、最低限の共約可能性を担保してくれる結節点に位置するのがウェーバーだといえる。その思索領域の広さに加えて、ウェーバー個人の人生も波瀾に満ちており、多種多様な解釈を導き出すだけの素地がある点もまた多くの研究者の関心を喚起する所以であろう。

プーチン(院政)体制の逆説

2007年12月12日 | nazor
来年2008年は「短い20世紀」の主役であったアメリカとロシアで大統領選挙が実施される年である。長丁場の選挙レースが展開され、民主・共和両党の候補者指名から新大統領の当選まで紆余曲折が予想されるアメリカに比べて、ロシアの場合はプーチンがメドヴェージェフ第一副首相を後継候補として指名したことによって実質的に「終了」し、あとはどれだけの支持を集めるかという信任投票の色彩が濃く、民主主義の指標であるところの選挙の意味合いが形骸化しているともいえる。先の下院選挙におけるプーチン率いる「統一ロシア」の圧倒的勝利についても不正選挙の疑惑が浮上しているように、ロシアにおける民主主義は欧米基準に照らし合わせると異質なものに映り、「ロシアには民主主義は根付かない」という文化決定論的な主張が正当性を高める結果を導く。そしてそれは欧米諸国の不安あるいは怖れを醸成し、ロシアの異質性をさらに強化するサイクルを形作ることになる。とはいえ批判の急先鋒であるアメリカも実際には民主主義の理念を裏切っている実情を考えるとそうした不安や怖れの根拠は弱く、アイデンティティ政治の一環として把握するべきかもしれない。

ロシアの今後に関する議論の焦点は後継者であるメドヴェージェフの政策や思想、行動力ではなく、退任するプーチンの動向に向けられている。大統領三選を目論んでいるとか、ベラルーシと国家統合を行いその連合国家の大統領ポストに就くなど「院政」の形態をめぐってさまざまな可能性が噂されてきたが、メドヴェージェフがプーチンを首相に指名する意向を明らかにしたことによって、いちおうの決着を見ることになったといえるだろう。

ソ連解体によって誕生したロシアにおいて、政治指導者の交代はエリツィンからプーチンへに続いて二度目になるが、前回の場合もプーチンは傀儡に過ぎずエリツィンの「院政」が続くとする見方もあった。しかし在任中から健康面での不安が明らかであったエリツィンには「院政」を敷くだけの体力も気力もなく、結果的にエリツィン体制からプーチン体制への移行は大きな混乱をもたらすことなく進んだ。それに比べると、メディアでその筋骨隆々の肉体が報じられるようにプーチンは健康不安とは現在のところ無縁であり、経済混乱の暗いイメージを喚起するエイリツィン時代とは対照的にエネルギー産業の好況に依拠した経済繁栄によって特徴付けられるプーチン時代の印象が国民の間に強烈に残っているため、プーチンの「院政」という予測が現実味を帯びて語られるのは当然だといえる。

他方でプーチンの「院政」という捉え方は、準大統領制、なかでもいわゆるフランス型の大統領=議院内閣制を採っているロシアの政治制度に予見される将来において変更がないことを前提としている(この点に関する簡潔な議論は、津田憂子「大統領制と議院内閣制をめぐる議論の変遷――ロシアにおける政治制度変更の可能性」『体制転換後のロシア内政の展開』北海道大学スラブ研究センター, 2007年を参照)。しかしプーチンの首相就任が規定路線となることが明らかになったことによって、政治制度そのものの変更が実施される可能性が生じてくる。その場合、準大統領制という大枠を維持したままで、ドイツ型の首相=大統領制に移行し、大統領の位置づけが形式・象徴化され、現在の状況では経済政策に特化している首相の権限が外交・安全保障といったほかの政策分野へ拡大し、強化されることが考えられる。あるいは通俗的な理解とは異なり、政治指導者の権力基盤や権限が大統領制よりもはるかに強いイギリス型の議院内閣制への根本的な制度変更も可能性として考えられる。こうした政治制度の変更が生じた場合、首相の地位に就いたプーチンは、大統領である現在と同じように公式にロシアを代表する国家指導者と認知され、非公式的に政治を操るイメージの強い「院政」という表象はそぐわない。

ポスト・プーチンのロシア政治をプーチンの「院政」と呼ぶか否かにかかわらず、当分の間はプーチン時代が継続するとすれば、民主主義の理念とは相容れない政治状況とはいえ、一定の安定が担保される。すでに多くの論者が指摘するように、民主化の途上において紛争/戦争が生じやすいことを念頭に置くならば、世界政治においてそれなりの存在感を有しているロシアに混乱をもたらすような変化は望ましいものではなく、「帝政民主主義」と形容される現在のプーチン体制を許容することが求められてくる。外発的な形での民主化を要請することは結果的にさらなる帝政化を招きかねない。むしろ現在の安定を担保している経済状況の動向次第では、経済繁栄の実態が暴かれ、プーチン帝国の虚像が明らかになったとき、はじめて内発的な変革の契機が開かれるのではないだろうか(ロシアの脆さについては中村逸郎『虚栄の帝国ロシア――闇に消える「黒い」外国人たち』岩波書店, 2007年がその実情を垣間見せてくれる)。経済状況が下降局面に入った場合、それを補填する形でいっそうの安定を内外に誇示する必要性から、強権的な統治手法に依拠する傾向が強まることは否定できないが、他方である意味で神格化しつつあるプーチン像に対する見方に影響を及ぼす。経済面での安定というプーチン体制の権力資源が揺らぐことによって、その権威主義的な統治がもたらす負の側面が浮き彫りになり、国民の間に政権に対する疑念が覚醒することもありうる。

たしかに現在のプーチン体制は、マクロ政治面では「統一ロシア」を軸とした政府党体制が制度化され、ミクロ政治の位相ではかつてのコムソモールを想起させる青年組織「ナーシ」のような熱狂的な「下からの」支持によって補完されている点でちょっとした危機には動じないように見える。しかしながら政治に対する信頼や支持が制度ではなく政治指導者個人のパーソナリティーに求められる状況は、政治の持続性の観点から見れば、意外にも脆弱であり、ひとつの失政が指導者の政治能力に対する幻滅やその全否定に容易に転化することになる。失政の責任を側近や閣僚に転嫁することによって回避することもできるだろうが、それは国民の間で新鮮な記憶として残っているエリツィン体制末期と重なりあい、権力基盤の強化には結びつかないだろう。その意味で、プーチン(院政)体制の今後は欧米諸国が危惧するほど磐石ではなく、むしろ民主主義の契機を逆説的に準備する時期となりえる潜在力を秘めていると見るべきかもしれない。

モデルとしての英連邦

2007年11月28日 | nazor
先週末(11月23-25日)ウガンダで開催された英連邦首脳会議は、パキスタンの加盟資格停止というニュースバリューが加味されたこともあって主要全国紙の国際面でも取り上げられていたが、以前『産経新聞』(2005年12月20日)の「正論」で阿川尚之が「日本は英連邦に加盟してはどうか」と主張していたことをふと思い出す。また佐瀬昌盛は英連邦ではなくNATOを対象にして似たような主張を述べていた(「NATOとの連携を本格検討せよ」『産経新聞』2006年4月14日)。

こうした発想において、英連邦もNATOも民主主義や人権を共通の価値として抱く共同体だという理念的な側面が強調されるとともに、中国やロシアといった近隣の異質な他者に対する警戒感およびその対処策としての権力政治的側面が結びついている点を指摘することは容易い。また日本国民の間に広まっている(とされる)国連中心主義に対する苛立ちを隠さない親米保守派にとって、多様な価値観が交錯し、柔軟性や実効性の乏しい国連に比べて、いちおう共通の理念の下に結集している英連邦(やNATO)は魅力的に映ると同時に、かつての日英同盟に対する郷愁を掻き立ててくれる。それゆえ英連邦との関係強化は単なる政策論以上の意味合いを持っているといえるかもしれない。

こうしたイギリスへの憧憬に起因するような英連邦連携・同盟言説とは異なる形で、英連邦が日本の外交理念を考える上で重要な意義を示している点にも注目すべきだろう。戦前の植民政策学において、日本の植民地統治モデルとして英連邦が参照されていたことを考えると(酒井哲哉『近代日本の国際秩序論』岩波書店, 2007年参照)、英連邦の歴史や制度に目を向けることはかつての植民地との関係のあり方に関するひとつの知見をもたらしてくれる。敗戦によって強制的かつ無自覚的に脱植民地化を経験した日本は、良くも悪くも旧植民地に対して無関心でいることができたわけである。しかし脱植民地化過程における痛みをめぐる記憶の共有化に失敗した一種のツケが現在まで残存していることは明らかであり、仮に英連邦との関係を考えるのであれば、帝国の遺制として出発した英連邦の出自に目を向ける必要があるだろう。

英連邦が「植民地なき植民地主義」をオブラートに包む制度的枠組みとしての側面を持つとしても、その帝国意識は英連邦を通してつねに可視化され、植民地問題に向き合う機会を提供している。他方で日本の場合、戦前の帝国意識は単一民族神話の浸透とともに潜行し、かつての植民地からの告発の声に対して戸惑いを覚え、感情的な反発がさらなる批判を呼び込む悪循環に嵌っている状態が続いている。自らの植民地支配の経験を血肉化できていない日本が戦前日本以上に複雑な帝国構成を継承した英連邦に加盟するという選択は、思考実験としては興味深いものの、上辺だけの関係にとどまらざるをえないだろう。民主主義や人権尊重といった理念がどのような過程で共有されてきたのかという歴史を捨象する形で、英連邦との関係強化を主張することはいささか近視眼的だといえる。

台頭する中国への方策として英連邦連携・同盟を唱えるよりも、日本の帝国意識および旧植民地諸国との関係を模索する上でのひとつの方向性として英連邦を見ていくことに意義を見出すべきだろう。