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constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

自壊する/自戒しない民主党

2007年11月05日 | nazor
先の参議院選挙での大勝、そして安倍(前)首相の「政権放棄」的な辞任劇によって、政局の主導権を握り、攻勢に出ようとしていた民主党であるが、そのトップに立つ小沢代表の突然の辞任表明により、その流れは一変し、守勢に立たされることを余儀なくされている。たしかに安倍前首相との会談には一貫して拒否の姿勢を示しながら、福田首相と二度にわたって党首会談を行い、その場で自民党との大連立構想に対して理解を示す小沢代表の姿勢には、二人だけの密室会談という要素も加味されて、不可解な印象が纏わりつき、筋が通っていないように受け取られても仕方がないところである。

それにしても、政権与党の失政や不祥事などで民主党に対する期待が高まる絶好の機会を前にして、党内事情によって勝手にコケて、政権獲得の可能性が後退し、結果的に政権与党を利することになる光景は、いまや民主党の「お家芸」と言ってよいかもしれない。2004年の「年金国会」では、小泉首相(当時)をはじめとする閣僚の年金未納問題を追求していたものの、菅直人代表(当時)自身にも未納問題が発覚し、党首辞任に追い込まれ、次いで2006年にはライブドア堀江社長の逮捕や耐震偽装問題などの疑惑が相次いで浮上する状況で、いわゆる「永田メール問題」であえなく自滅し、当時の代表だった前原誠司の引責辞任と並べてみると、今回の小沢代表の辞任表明もこうした民主党のDNAがなせる業であると理解したくなる。

2004年の民主党の混迷を受けて、政治学者の山口二郎は、今後の野党にとって二つの教訓が引き出されると述べている(『戦後政治の崩壊――デモクラシーはどこへゆくか』岩波書店, 2004年: 82-83頁)。第一に「正攻法による政権交代という道筋の重要性」であり、第二の教訓は、「国会における与党との戦い方で、明確な反対を貫くことの重要性」である。今回の小沢代表辞任表明は、この二つの教訓とは正反対の行動を採ったことの帰結であったといえる。「ねじれ国会」のため、重要法案の審議が捗らず、国政の停滞を招いているという批判の矛先は、本来であれば権力の座にある政権与党に対して一義的に向かうべきものであるが、一見正当な意見だと思われる「政権担当能力」という、実のところ野党の存在論的価値をまったく無視した要請に応えようとするあまり、大連立構想に魅了されてしまったところに「学習能力」のなさがうかがえる。

さらにいえば55年体制が崩壊した1993年以後の日本の政党システムを鑑みたとき、大連立政権の効果がどれほどものであるかという点も疑問のあるところである。ヨーロッパ大陸諸国のような多党制というよりも小選挙区制の導入によって英米型の二大政党制に近い政党システムが定着しつつある一方で、その二大政党である自民党と民主党との政策およびイデオロギー距離はほとんどなく、むしろそれぞれの党内を横断する形で政策をめぐる対立軸が走っている「ねじれ」状態がポスト55年体制の日本政治を特徴付ける点であろう。経済政策における新自由主義路線を採用し、「自民党をぶっ壊す」と謳った小泉政権の誕生によって、経済社会政策をめぐる対立軸が明確になる条件が整いつつあったものの、その後の安倍・福田政権による揺り戻し(「古い自民党」への回帰)はその可能性を閉ざしてしまい、政策的な距離を軸とした二大政党制の定着までに時間を要することは明らかである。もともと1980年代に包括政党化した自民党が分裂を繰り返すことによって現在の自民党・民主党の(擬似)二大政党制へと結晶化してきた経緯を考えると、現在の日本の国政空間は55年体制時に比べてかなりの程度縮小してしまったといえ、その狭い空間内で二大政党が争っているというわけである。すくなくとも大連立政権の実績のあるドイツやイタリア、あるいはオーストリアの例を見れば明らかなように、戦争や経済不況といった「危機」が政策・イデオロギー上の距離を超えた連合に対する需要を生み出してきたわけであるが、「ねじれ国会」に象徴される現在の政治状況がそうした「危機」といえるのかどうか、すなわち大連立が最適解とみなすには判断材料が十分に吟味されたとはいいがたい。「対決の政治」に慣れておらず、また「妥協=和解の政治」が容易に「談合の政治」に帰着してしまう日本の政治文化、そしてさらにいっそうの国政空間の均質化が進んだ状況において、大連立に求められる政策的革新の効果はそれほど高いものではない。反対に政治的な緊張感が失われ、政治へのアパシーを増進することになりかねない。

あるいはこの大連立を契機として新たな政界再編の可能性を期待する向きもあるが、政策上の対抗軸に沿った形での政党の結晶化が射程に入らない限り、結局のところ1993年以降の政界再編と同じく「自民党の内紛」の延長線上に留まらざるをえない。そうであるとすれば、大連立構想に対して「大政翼賛的」という批判が付き纏うことは避けられない。また大連立を模索するにしても、代理人にすぎない政治家同士の駆け引きに委ねるのではなく、それこそ山口が指摘するように、有権者の判断を仰ぐのが常道であろう。いずれにせよ、代理人たちの政治的未熟さを露呈させているのが7月の参議院選挙の結果を受けた現在の日本政治をめぐる状況である。

広島/ヒロシマをめぐる象徴政治

2007年10月03日 | nazor
ある理念や目標を掲げる運動がそれを実現するにあたって既存の権力といかなる関係を築くべきなのかという問題は安易な解答を約束してくれない。理念や目標を実現させるためには具体的な政策として提起され、現実的だと為政者たちに認識される必要がある。そしてその過程で権力との適切な距離感を見出す困難な作業が浮上してくる。安易に権力に近づくことは、最終的な達成目標である理念からの後退を招くことになり、理念に備わっている変革の契機が失われ、逆に権力を正当化するために利用されかねない。土佐弘之の指摘するように「知と権力との関係性を問い直さず現状の枠組みを所与として、その枠の中での技術的解決をめざすテクノクラート的な知の志向性(…)が再び支配的になっていく中で、既存の知の枠組みを問い直す批判的思考は隅に追いやられる傾向がある」のである(「ジェンダーと国際関係の社会学――マスキュリニティ(男らしさ)の再編」梶田孝道編『新・国際社会学』名古屋大学出版会, 2005年: 68頁)。

他方で理念や目標に固執し、権力との交渉や妥協を拒むことによって、暫定的であれ現状が変革される可能性が閉ざされてしまうこともある。たとえば「元慰安婦」に対する責任や補償問題への一対処策として作られた「アジア女性基金」をめぐって、「金で解決するものだ」と批判し、人間の尊厳を回復することを優先する主張や、国家の責任を曖昧にするものであり、あくまで国家補償ないし責任者の処罰を求める立場などのように、理念からの逸脱を問題視する声が聞かれた。他方で、こうした主張が、過剰な倫理主義の罠に陥り、具体的な展望を欠いた法的解決に時間を費やすことによって、本質的に多声的であるはずの元慰安婦の考えや要求が等閑にされてしまう点も指摘されている(大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか――メディア・NGO・政府の功罪』中央公論新社, 2007年)。大沼が「自分ができもしない、不自然で過剰な倫理主義の要求、知識人のいやらしさが臭う、もっともらしいがその実、空疎な論理こそ、戦後責任や戦後補償の主張をウソっぽいものにし、日本の一般市民の反発を招き、日韓の率直な、幅広い、深みのある友好を妨げてきたのではないか」(215頁)と指摘するように、理念の崇高さが人びとの共感や賛同を呼び起こすとは限らず、それこそ「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という川柳が象徴するように、その潔癖性ゆえに居心地の悪さを覚えるのもまた人の性であるといえる。

同様の構図が『論座』誌上における核廃絶・削減の政策構想をめぐる議論にも見出せる。『論座』2007年8月号掲載の藤原帰一の論考「多角的核兵力削減交渉『広島プロセス』を提言する」に対して、安斎育郎と浅井基文が「『広島プロセス』は名実ともに受け容れられない――藤原帰一論文批判」(『論座』2007年11月号)と題する反論文を寄せている(全文は「21世紀の日本と国際社会・浅井基文のページ」で読める)。安斎と浅井は「核抑止論に立脚し、核廃絶を明確に視野の内に捉えることなく、プロセスとしての核軍縮を提唱するような藤原氏の主張は、まったく広島の立場とは相いれないもの」(229頁)と批判し、藤原が提唱する多国間核削減交渉に「広島」の名を冠することは相応しくないと主張する。また核廃絶の展望、6カ国協議の有効性、アメリカの核抑止力、米中間の戦力削減、そして広島/ヒロシマをめぐる集合的記憶の5点について藤原の認識に疑問を投げかけている。

しかしながら安斎と浅井の反論は、藤原の問題意識とはかけ離れているように思われ、いくぶん見当違いの感が否めない。むしろ「広島/ヒロシマ」という平和・反核のアイデンティティーが簒奪されることに対する危機感・憤りに満ちており、藤原の提案を真摯に受け止めるだけの余裕が感じられないものになっている印象が強い。残念ながら彼らの反論から藤原の提案を契機として開きかけた核兵器・開発問題をめぐる公論空間を豊かにするような展望は見えてこない。彼らの主張は原則として「正しく」また「美しい」かもしれないが、それが具体的な政策論としてどこまで通用するのかとなると疑問を抱かざるをえないし、ことさら「広島/ヒロシマ」の真の意味を理解しているのは自分たちであるという(信仰にも似た)信条表明に見られる「広島/ヒロシマ」の代表=表象する正当性に訴える態度などは、高坂正堯の次の言葉を裏書するようである。「軍備廃止という提案に対する人びとの態度には、一人よがりの理想主義や偽善のかげがつきまとっていた。一部の人びとは軍備廃止の正しさを理由に、それを実現するために努力を繰り返すだけで、実際にその努力がなんの成果をも生み出さないことを深く反省していない」(『国際政治――恐怖と希望』中央公論社, 1966年: 39頁)。すくなくともアメリカの核の傘による抑止力が機能するという前提に立つ政策決定者の前では彼らの議論は、藤原自身の表現を従えば「憫笑」以上の反応を呼ばないだろう。結果的に入江昭が指摘する日本外交思想に根ざした政府の「リアリズム」と民間の「理想主義」という棲み分けの維持・強化に寄与するだけであり(『日本の外交――明治維新から現代まで』中央公論社, 1966年)、通約不可能性に拘束された両者を架橋し、対話を促す機会を奪ってしまう。

たとえば「核廃絶」と「核削減」の関係について、「核軍縮の有用性を否定しないが、それはあくまでも核廃絶を実現することに役立つ限りにおいてである。…核廃絶を視野の外に置く核削減の主張は、広島の立場をことさら無視するもの」(229頁)と述べているように、安斎・浅井は、「核廃絶」を判断基準とする立場に立っている。しかしリアリストの常套句が示唆するように人類がすでに核兵器開発の知識や技術を獲得した以上、いったん核兵器が廃絶されたとしても再び開発される可能性を排除するものではなく、「よりたいせつなのは、どこかある国がひそかに核兵器を開発していると思うことが、平和を乱すのに十分であるのかもしれないということである」とすれば(高坂『国際政治』: 48-49頁)、そもそも「核廃絶」という目標自体が政策論とて見た場合望ましいものなのかが問われなくてはならない。核に関する知識や技術を人間の記憶から消し去ることが不可能であるとすれば、核兵器を「廃絶する」のではなく「使えなくする」環境や認識を作り上げることが重要となってくる。抑止戦略を否定しない藤原の立場は安斎と浅井にとって受け入れがたいようであるが、実際に政策を担っている実務家たちが抑止戦略を所与として政策の立案・遂行に当たっていることを考えれば、抑止戦略を頭ごなしに否定するよりも、藤原が述べているように抑止戦略において核兵器が束の間の安定しかもたらさないことをまず認識させ、より安定した状況に移行する戦略が求められる。

さらにいえば「広島プロセス」という名称が意味するように、藤原の提案の要点は軍縮を「原則」ではなく「プロセス」の観点から捉え返す点にある。「核廃絶」という原則を掲げる限り、それに向けた政策の成否は「核廃絶は達成できるか否か」という結果によって判断され、政策の実施過程における変更あるいは政策の柔軟的運用といった潜在的可能性は視野に入ってこない。原則に囚われることによって実現可能な多くの政策や目標が放置されることを考えたとき、原則を振りかざす行為自体が理念の達成を先送りしてしまう。一方で「プロセスとしての軍縮」という考え方は、当初の構想において「核廃絶」が明確な目標とされていないとしても、異なる政策目標を途中で取り込むだけの柔軟性を併せ持つ意味で、開かれた政策・構想とみなすべきだろう。それぞれの段階に応じて政策目標が異なるのは当然であり、ひとつの目標達成がべつの政策目標に向けたプロセスを誘発し、徐々に複合的な政策プロセスへと発展していく契機を内包している。それが結果的にたとえば「核廃絶」という目的に結実する可能性は一概に排除できず、しかも「いま・ここ」にある小さな危機や問題を解消することになるならば、「プロセスとしての軍縮」は安斎や浅井が考えるよりも政策的有用性に優れたものといえる。こうしたプロセスの潜在性を十分に理解せず、「核廃絶」の明示性の有無で判断するような批判は短絡的だといわなくてはなるまい。

他方で「プロセスとしての軍縮」を原則論で退ける安斎と浅井がいかなる代替構想を秘めているのかは見えてこない。「理念や運動の目標としてではなく、外交政策としての軍縮の意味を改めて検討し、実現できない夢から実現すべき現実の政策選択の場に軍縮を引き戻す」(77頁)ことが藤原の目的であるならば、安斎と浅井が考える核廃絶にとって役立つ核軍縮(削減)とはどのようなものなのかを提示してはじめて、藤原の「広島プロセス」と比較考量することができ、どちらの主張が妥当かを判断できるわけであるが、安斎と浅井の批判は具体的な点に踏み込んでいない。たとえば核廃絶の展望がアメリカの核政策を改めさせることから開けてくるというが、どのような取り組みを行うべきなのか明らかにされず、「全力で」という心意気だけが表明されている(230頁)。それゆえ「核廃絶への道筋をつけることには十分な客観的可能性がある」と彼らが認識するが、「客観的」とは何を指すのか意味不明であり、また集合的記憶として定着したアメリカの政府や市民の認識を変えることが、国家および個人の存在理由に深く関わる点で、彼らがいうほど容易ではなく、それこそ希望的観測に基づくものにすぎないのではないだろうか。あるいは北朝鮮問題にしろ、米中関係にしろ、現状を打開する鍵はアメリカにあり、アメリカの政策が変われば、あたかも自動的に東アジアの抱える問題は解決していくような印象もある。たしかに圧倒的な権力資源を有しているアメリカの動向が東アジア地域の国際関係に大きな変革をもたらすことに異論はない。しかしながらアメリカが最初の一歩を踏み出すことは不可欠であるが、その一歩に応答する他国があってはじめて外交が動いていくとすれば、北朝鮮や中国はどのような政策で応じるべきかまで踏み込んだうえでの批判が求められる。

総じて政策論としての核削減交渉「広島プロセス」に対して、原則論での反論を行うことはいかに生産性に乏しいものであるかを安斎と浅井の批判は自ら証明している。自らの立場をアプリオリに措定し、それを基準に提案や政策を判断する態度は、自らの主張の正当性や純粋性を担保してくれるかもしれないが、それによって議論の幅を狭め、通約不可能性をいっそう強化してしまう。自らの掲げる理念や理想を実現する上で、現実あるいは権力との取引・交渉が不可欠である以上、その可能性を念頭に置きながら適切な距離を維持する方法を探究する必要がある。たしかに丸山眞男の言葉に従えば「理想や理念と現実を固定的に分離し、…『理想はそうだけれど、現実は云々』というような形で、一時点の状況を固定化する思考、あるいは単に次々と起こるイヴェントを後から追いかけ、これに順応するだけの状況追随主義もまた、実は政治的リアリズムに似て全く非なるもの」(『丸山眞男講義録(3)政治学 1960』東京大学出版会, 1998年: 18頁、強調原文)であるところの「俗流リアリズム」(丸山: 20頁)あるいは「タブロイド・リアリズム」(Francois Debrix, "Tabloid Realism and the Revival of American Security Culture", Geopolitics, vol. 8, no. 3, 2003)が政策言説においてヘゲモニーを握っている現状では、理念や理想の持つ潜在性に訴えることはそれなりの意味を持っている。その一方で過度の理念の強調が「俗流リアリズム」に正当性を付与し、理念の実現可能性を低下させてしまうことも事実である。現実の政策に変化を与えていくためには、実際に権力を握り、政策を遂行している為政者たちの世界観や認識に入り込み、その論理を内破していく戦略が求められる。「核廃絶」というスローガンは一般市民には歓迎されるだろうが、それを具体的な政策へと転換していく構想が伴わない限り、永遠に達成されない理念に留まらざるをえない。

闘わない政治家・安倍晋三

2007年09月13日 | nazor
安倍首相のあまりに唐突過ぎる辞意表明の理由について、記者会見で挙げた小沢代表との党首会談が実現できず、テロ特措法の延長問題の見通しが立たなくなったこと以外、かねてから噂されていた健康不安(結局入院・加療することになったが)や『週刊現代』による相続税脱税疑惑の浮上などが指摘されている。

その理由は何であれ、国会会期中、しかも所信表明演説を行った後の辞任は、「敵前逃亡」、「職務放棄」あるいは「自爆テロ」といった表現が物語るように、タイミングとしては最悪の部類に入るといってよいだろう。辞任によって政治空白は避けられず、「国際公約」と言い切った海上自衛隊の補給活動は実質的に停止を余儀なくされることは明らかであるにもかかわらず、辞意を表明した安倍の判断はきわめて独り善がりとの批判は免れない。安倍が尊敬する祖父・岸信介が安保条約改定と刺し違える形で退陣したのとは対照的であり、岸のDNAから劣性遺伝子のみ受け継がれたかのようである。

これまで「政治とカネ」に関わるスキャンダルや閣僚の失言が表面化するたびに、庇い続け結果的に傷口を広げてしまった安倍の対応が問題視されてきた。しかしそれらの問題は「首相の下に十分な判断材料が揃っていなかった」、あるいは「騙された」などの理由を挙げて、批判をかわすことが可能であるが、誰よりもいちばんよく知り、判断できるはずの自らの進退に関してこれほどまでの醜態を晒したことは、安倍がいかに決断力の乏しい政治家であったかを示している。

あるいは多くの政治学者が指摘するように日本の統治構造が官僚内閣制から議院内閣制へと転換する過渡期にあり、小選挙区制の導入により選挙戦における党首の重要性が高まったことや、行政改革を通した首相(および官邸)の権力強化に伴って「首相支配」の確立されたことなどの構造的な変化は、その構造に一定程度規定される主体である政権担当者に求められる資質に対しても当然ながら影響を与える(竹中治堅『首相支配――日本政治の変貌』中央公論新社, 2006年内山融『小泉政権――「パトスの首相」は何を変えたのか』中央公論新社, 2007年飯尾潤『日本の統治構造――官僚内閣制から議院内閣制へ』中央公論新社, 2007年)。前任者の小泉純一郎はその強烈な個性によってこうした日本政治の新しい潮流/構造に見事なまでに適応し、活用した政治家であった。一方で、拉致問題以外さしたる政治(権力)資源に欠け、周りから御輿を担がれた形で権力の座に上り詰めた安倍首相の経歴を考えると、強いリーダーシップや迅速な決断力を発揮する経験に乏しい点で、時代が求める政治家ではなかったともいえる。

また政治家の家系という血筋、戦後生まれ初という若さ、一部ではハンサムとも言われた容姿などの安倍のイメージは、同じく毛並みの良さで知られた近衛文麿を想起させる。その近衛は、周囲の意見や時流に影響されやすい性格で、困難に直面するとしばしば辞意を漏らす無責任な行動、また対米関係をめぐって外交交渉か開戦かの重要な判断を求められていた時期に最終的に政権を投げ出し、さらに戦後自らの戦争責任追及を恐れ自殺を選んだように、優柔不断や決断力の欠如、そして政治家としての責任倫理の不在が見受けられる(近衛の簡潔な評伝として、岡義武『近衛文麿――「運命」の政治家』岩波書店, 1972年)。一方で、25歳のときに発表した論文「英米本位の平和主義を排す」、第一次政権期(1938年)の「国民政府を相手とせず」声明などに見られるように、観念的/ロマン主義的見方や外交拒絶主義の要素が近衛の対外観の底流に見出すことができる。その意味で安倍が掲げた「主張する外交」や「価値観外交」の源流を近衛外交(思想)に求めることはあながち間違いではないだろう。付言すれば、近衛の孫である細川護熙も投げ出す形で首相を辞任したことを考えれば、日本の政治家に特徴的なひとつの行動類型が抽出できるかもしれない。すなわち、安倍自身の表現を借りるならば(『美しい国へ』文藝春秋, 2006年)、「闘う政治家」ではなく、「闘わない政治家」の系譜である。

しかも今回の辞任によって、安倍の政治生命はほとんど潰えたに等しい。自民党内における影響力の低下は避けられず、今後「院政」を敷くことは不可能であり、また決断力のなさや健康不安を露呈してしまった現在では、一議員としてたとえば拉致問題に取り組むにしても、その強硬な主張は空虚で、パフォーマンスにしか映らず、しかもひ弱なイメージの固定化によって説得力に欠ける印象は拭えない。そうであるとすれば、政治家・安倍晋三が議員に留まることの利点は、国政的な観点からみれば、存在しない。いずれにしても、安倍が政治の表舞台に再登場する可能性は低く、ある意味で「政治的自殺」を図ったともいえる。

続投表明のバランスシート

2007年07月31日 | nazor
「歴史的大(惨)敗」にもかかわらず、続投を表明した安倍首相の行動に対してメディアなどで賛否が巻き起こっている。ポスト安倍を目指す人材が自民党内で枯渇状態にあることや、年金や事務所費問題などの「瑣末な問題」に足元を掬われただけで、戦後レジームからの脱却を通した「美しい国」作りという理念は間違っていないし、むしろ国民から支持されている(はずだ)という(妄想に近い)認識に支えられた形での続投表明といえる。この選択が今後の政局にどのような影響を与えるのかは未知数であるものの、「政治家」としての安倍晋三の資質が試されることだけは確かである。

「国民的な人気がある」あるいは「選挙で勝てる」といったイメージが安倍首相の主要な政治的な(権力)資源だったとすれば、それが虚構に過ぎないことを今回の参議院選挙は証明した。あるいは自民党幹事長として陣頭指揮を執った2004年参議院選挙の結果辞任したことを考えれば、再チャレンジに失敗したというのが適切だろう。また選挙期間中に「私の内閣の実績」と訴えていた教育基本法、国民投票法や公務員制度改革などが可決成立できたのは、郵政民営化を単一争点とした2005年衆議院選挙における圧勝という小泉首相の遺産に拠るところが大きい。いわば先代の敷いてくれたレールの上を安全運転していれば、「実績」は自然と蓄積されていく構造になっているわけで、そこに安倍首相の政治手腕を看取することは難しい。

他方で彼の存在感を知らしめ、「国民的人気」という幻想を作り出すことに寄与した拉致問題に関しては、首相就任以降ほとんど進展がなく、六カ国協議における孤立が噂されるように、手詰まり状態にある。国内的には北朝鮮に対する強硬姿勢は国民の不満の捌け口として機能するが、それが意味をもつのは拉致問題が解決されないまま凍結状態にあるからであって、むしろ拉致問題の解決/解消は、北朝鮮という異質な他者の存在なしには成り立ち得ない安倍政権の密教的位相を白日の下に曝しかねない。選挙戦終盤になって『産経新聞』などの一部メディアや塩崎官房長官など政府関係者は「安倍政権の敗北は北朝鮮を利することになる」という言説を盛んに吹聴していたことも北朝鮮と安倍政権の共依存関係を物語っている。拉致問題をどのような手段で、かつどのような過程を経て解決していくのかという道筋が安倍政権によって提示され、それに基づいた対北朝鮮外交が行われた形跡は乏しく、「出口戦略」を欠いたまま国内向けに「毅然とした」態度をアピールしている現状は、拉致問題の政治利用といわれても反論の余地はないだろう。

こうしてみれば、今回の参議院選挙は、安倍首相を取り巻く数々の虚像をすべて剥いでしまったといえる。結果を受けて退陣する選択を採れば、いくつかの虚像は維持され、近い時期に再登板の可能性が残されたであろうが、あえて続投を表明したことによって、安倍首相は政治生命を賭ける困難な道を歩むことになったといえる。ただそうした現実の厳しさを十分に認識しているかどうかは、昨日の記者会見などからは感じられず、「自分の政策や理念は間違っていないはずだ」という自己暗示にも等しい観念論が依然として窺え、そこに結果に対する自省的な姿勢を見出すことは難しい。自省的な姿勢ないしは他者とのコミュニケーション/対話への契機が欠落しているのは、「数の論理」に基づく強行採決を最終手段として行使できた構造的な側面とともに、これまでの記者会見やぶら下がり取材における記者との噛み合わないやり取りに見られるように安倍首相自身のコミュニケーション能力に起因しているともいえる。さらに対決型の政治よりも合意形成型の政治が基調となっていく今後の国会運営は、一歩間違えば旧来の国対政治に逆行しかねず、いっそう「国民」との乖離が促進されることになる。その意味で野党との闘技を演出しながら、討議倫理に依拠した合意形成を目指す複雑で困難な政治手腕が要求されていることを理解しているかが安倍首相の命運を左右するだろう。

候補と受賞の間

2007年07月18日 | nazor
例年であれば、完全スルーの話題である芥川賞。今回に限り、川上未映子の「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(『早稲田文学0』)が候補に挙がっていたため、ちょっとした関心を持ってその結果に注目していた。

「文筆歌手」という肩書き、掲載媒体が主要文芸誌以外では8年ぶりとなる『早稲田文学0』、そしてかなり癖があり、読み手を選ぶ独特の文体(ブログ川上未映子の純粋悲性批判)など作品それ自体というよりもむしろそれを取り巻き、構成する「イロモノ」的要素に注意が向かってしまうことはある程度予想されたことでもある。

したがってたとえば「文学賞メッタ斬り!」を代表とするような受賞予想の議論から明らかなように、選考委員の好き嫌いによってその評価がはっきり分かれることが確実視され、今後の期待値あるいは布石としての意味合いが強いと考えるべきかもしれない。であるとすれば、今回受賞できなかったことは想定内ということになるだろうし、反対に受賞していればそれなりの「衝撃」をもたらしたといえる。

他方で芥川賞の候補に挙がったことによって、活動の比重がいっそう文筆にシフトし、歌手・未映子が後景に退いてしまうのではないかという懸念を抱いてしまうのも事実である。

「戦間期」の再来・追補

2007年06月15日 | nazor
ほぼ一年前に、米ソのグローバルな冷戦構造が解体した1990年代以降の時代認識として、「戦間期」という把握の有意性についてごく簡単な素描を行った(「『戦間期』の再来」2006年6月20日)。現代世界を「戦間期」と類比する(直接的な)着想は、そこで引用した土佐弘之「アナーキカル・ガバナンス――倫理の跛行的グローバリゼーション」(『現代思想』33巻13号, 2005年)、さらに遡及した形でカール・シュミットの議論から得たものであるが、今年に入って「戦間期」とのアナロジーに言及する論考を目にする機会があったので、それらに依拠しながら、改めて「戦間期」という時代認識について考えてみたい。

大賀哲「ポスト〈帝国〉時代における理想主義の隘路――ウォルツァー・カルドー・ネグリ」(『情況』2007年1・2月号)によれば、現在進行している事態は「理想主義的言説群を苗床とした『帝国主義』それ自体の再編成」(164頁)であり、それぞれウォルツァー、カルドー、ネグリに代表される再領域的権力、超領域的権力、脱領域的権力という3つの権力体系のせめぎ合いに共通して内在する「光の暴力」あるいは「暴力のエコノミー」の位相に注意を促す。そして「理想主義の再演」状況を「戦間期」のアナロジーを通して捉え返してみるならば、それらが暴力の克服ではなく隠蔽に寄与し、政治言説の道徳言説化、すなわち「政治的なるもの」の性質を捉え損ねている誤謬を犯している点で、戦間期理想主義と同一地平にあると指摘する。

一方、中西寛「グローバル・ガヴァナンスと米欧関係――『言力政治』から『権力政治』へ」(『国際問題』2007年6月号)は、冷戦後を表象する概念として登場してきたグローバル・ガヴァナンス(論)の根底に2つの自由主義の並立状況を看取し、その構図の中にイラク戦争前後の米欧間の対立を位置づける(米国=急進的自由主義/欧州=啓蒙的自由主義)。そして「今われわれが辿りつつある道は、かなりの程度戦間期の知的経験に重なっているのではないだろうか」(12頁)と問いかけ、ハロルド・ラスキ、E・H・カー、ヘドリー・ブルの研究を参照しながら、「秩序における価値と権力の問題」に取り組むことが「戦間期」への逆行に対する歯止めとなる可能性を指摘する。

デリダやムフなどの「現代思想」を補助線に議論を展開する大賀と、高坂正堯の後継者と目され、現実主義/保守主義を志向する中西とでは、その問題意識や方向性に相違点があることは明らかであるが、どちらの議論も実際の国際政治の動向の背景にある思想/イデオロギー的基盤に着目し、また国際政治の思想的次元を解明することの意義を認識している点で、重なり合う。この点は、大賀が別の論考で述べている国際関係論と政治思想史の架橋に向けた素地がそれなりに存在することを示唆するものであるといえるだろう(「国際関係思想研究にむけて――国際政治学からの視座」『創文』491号, 2006年)。そしてこの点を敷衍していくならば、思想的契機を限りなく脱色したアメリカ製国際関係論との差異、あるいは思想的契機を保持しながら更新されつつある英国学派との親和性を通じて、知識社会学的な意味での日本製国際関係論の立ち位置を探る道筋を見出すこともできる。

さらに付け加えるならば、大賀と中西の議論があくまでも現代世界を理解するひとつの視角として「戦間期」のアナロジーを用いている一方、「戦間期」の(日本を取り巻く)国際関係の動向、そして同時代の学者や政策決定者の言説に議論の中心的な力点を据えながらも、含意的に現代世界と「戦間期」との類比的構図を浮かび上がらせているのが、酒井哲哉の研究である(その多くが7月刊行の『近代日本の国際秩序論』岩波書店に収められる予定:「国際秩序論と近代日本研究」『レヴァイアサン』40号, 2007年参照)。グローバル化と国家の関係をめぐって展開される現在の論争点は暗黙のうちに主権国家からなる社会、すなわち「国際社会」の存在を所与としているが、そのとき基準となる「国際社会」の強度あるいは定着度には時代的そして地域的な偏差があることを考慮に入れると、「国際社会」イメージに本質的な不安定性を抱えている近代日本で表出した国際秩序論は、グローバル化の影響や「国際社会」の変容といった主題を先鋭的な形で表象し、それに先取的に取り組んだ作業でもあった。戦間期(日本)の国際秩序論を丁寧に読み解いていくことによって、国際秩序と帝国秩序の重層的ないし貫層的な構図が明らかとなる。言い換えれば、ヨーロッパ「国際社会」を支える水平的なアナーキー原理と近代東アジアの中華秩序に起因する垂直的なハイラーキー原理の混交状態が戦間期の国際秩序を特徴付けていたといえる。それゆえ、「主権国家像の本質的不安定さ」(52-53頁)の経験およびそれとの対峙を介して育まれた近代日本の国際秩序論が現代世界を理解するうえで貴重な知的土壌を提供してくれると考えることは明らかであろう。

こうしてみるならば、「戦間期」という時代認識は、日本の文脈においてとりわけ意義のあるものだといえる。中西が論じるように、米欧関係における「言力政治」に代わって「権力政治」が前景化している状況が「戦間期」の再来を招く兆候だとすれば、この変化は、「権力政治」を基調とする「近代圏」とされる東アジア地域にいかなる影響を及ぼし、そして「近代圏」の只中に浮かぶ「新中世圏」の日本にとっての意味合いを考えてみる必要があるだろう。そして北朝鮮や中国を対話不可能な他者として措定する一方で、超領域的権力主体であるアメリカとの関係強化を進める日本の選択が「戦間期」的な特徴を構成していく可能性についても留意しなくてはならない。「戦間期」という時代認識が先験的に「戦後」と「戦前」の位相を含んでいることを念頭に置くならば、現代を「戦間期」と類比的に捉える思考は危機の到来を告げる警報としての役割を担っているのではないだろうか。

「名もなき90年代」再訪

2007年04月27日 | nazor
20世紀後半の世界政治を規定してきた(米ソ)冷戦が熱戦に転化することなく終結した事実は歓迎すべきものであるが、平和的変革であったがゆえに冷戦「後」の秩序構築には多大な困難が伴うことになった。藤原帰一の言葉を借りれば「世界戦争という悪夢を失うことで秩序へのインセンティブは衰えてしまった」のである(「世界戦争と世界秩序――20世紀国際政治への接近」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(1)構想と形成』東京大学出版会, 1998年: 55頁)。その結果、冷戦「後」秩序に関する構想が明確に打ち出されることがないまま 、北大西洋条約機構(NATO)や日米安保体制のように、冷戦期に起源をもつ制度的枠組みが部分的な変更を加えられつつも、存続することになった。

その意味で冷戦の終焉が明らかな断絶を意味するとみなすことには幾分の躊躇いを覚えてしまう感は否めないが、冷戦の終焉が世界秩序の在り様をめぐる新たな論争空間を切り開いたことも確かである。そこでは、国家間の権力の再配分にすぎないと見る立場から、主権国家システム自体の根本的変容を見出す立場まで、さまざまな言説が飛び交い、「百家争鳴」と形容すべき状況が生じていたが、間接的な意味合いを帯びた「ポスト冷戦」に取って代わる時代認識がヘゲモニーを握ることがなかった点を捉えるならば、まさに「名もなき90年代 nameless nineties」という把握はそれなりに有効だといえる(Ken Booth, "Cold Wars of the Mind," in Booth ed., Statecraft and Security: the Cold War and Beyond, Cambridge University Press, 1998)。

さて「ポスト冷戦」の思潮として頻繁に言及された代表的かつ対照的な見解(あるいは楽観論と悲観論の典型)はいうまでもなく、冷戦の終焉を市場経済および自由民主主義の勝利と解釈し、人類は歴史の終着点に到達したと指摘したフランシス・フクヤマ『歴史の終わり(上・下)』(三笠書房, 1992年)と、イデオロギーに代わって文明(の差異)に今後の紛争要因を見出すサミュエル・ハンチントン『文明の衝突』(集英社, 1998年)である。この2つの見解をめぐっては、その鮮やかなまでの対照性に注意が向かいがちであるが、世界を切り分ける「境界線の政治 border politics」の観点から見れば、相互補完的な関係にあることが分かる。自由民主主義と市場経済に到達した「ポスト歴史世界」と、いまだその途上にある「歴史世界」から成る二元論的世界観は、ハンチントンの「西洋文明対儒教・イスラーム文明」という構図と重なり合う。「ポスト歴史世界」に住み、「退屈な時代」を生きる者にとって、「歴史世界」は市場経済や民主主義の確立や定着を志向する意味で「援助」の対象であると同時に、脅威の対象に容易に転化する異質な他者が住まう世界でもある。

こうした認識を側面から支えていたのが冷戦の終焉をアメリカ/西側の勝利に読み替える「勝利言説」である(西崎文子「ポスト冷戦とアメリカ――『勝利』言説の中で」紀平英作・油井大三郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境(5)グローバリゼーションと帝国』ミネルヴァ書房, 2006年、および同「ポスト冷戦時代再考――『歴史の終焉』を信じる前に」『論座』2007年5月号)。計画経済と権威主義が組み合わさったソ連型社会主義が行き詰まり、東欧諸国における体制転換が民主的に成し遂げられ、死亡宣告を告げられたことによって、アメリカ/西側が唱える自由民主主義は、「国家が国際社会で完全な権利と承認を得るために受け入れなくてはならない『文明の基準』」(Roland Paris, "International peacebuilding and the 'mission civilisatrice'," Review of International Studies, vol. 28, no. 4, 2002: 658)として機能する強固な規範となった。自由民主主義が政治的位相に関わるものだとすれば、経済的位相において世界的に認知されるようになったのが市場経済であることは他言を要すまい。すでに1970年代から西側世界で正当性を獲得し始めた新自由主義的な国家・経済運営の方策は、世界銀行や国際通貨基金(IMF)などの国際機関を通じて、発展途上国や旧ソ連・東欧諸国の政策路線を規律していくことになる。ここに国際的に認知された規範を体現する「ポスト歴史世界」と、それら規範の受容を迫られる「歴史世界」の構図が看取できる。この認識が形式的とはいえ主権国家の水平的関係に基づく国際関係とは様相を異にすることは容易に察せられるだろう。換言すれば、通念化されてきたアナーキーの国際関係からハイラーキーのそれへと構造的な変容が生じていると捉えることができる(この点に関して、山本吉宣『「帝国」の国際政治学――冷戦後の国際システムとアメリカ』東信堂, 2006年: 3章を参照)。

そして主権国家同士の水平的な関係から垂直的な関係への転換が戦争形態の変容とも連関していることは、ブッシュ政権が進める「テロとの戦争」が非国家主体を念頭に置く非対称型戦争であることから推察できる。その一方で、西崎文子が「『未開』や『非文明』と呼び習わされてきた土地は、第二次大戦後の脱植民地化の時代を経て『発展途上』地域と呼ばれるようになり、テロとの戦争の時代を迎えた今日、再び新しい名称を与えられている」と指摘するように(前掲「ポスト冷戦時代再考」: 52頁)、植民地戦争との連続性(と断絶)に目を向ける必要があるだろう。さらにいえば、冷戦自体もまた「主権国家を従属的単位として二つの陣営内に繰り込もうとした点でも、またそれらの陣営間対立が非妥協的イデオロギー対立の様相を呈した点でも、伝統的主権国家システムとは異質の、新しい――だが、宗教戦争を想起させるという点では復古的な――国際状況であった」(古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』岩波書店, 2004年: 157頁)ことを考えると、非対称/ハイラーキーの国際関係こそが日常の風景ではないかという思いに囚われる。

したがって「帝国」に注目が集まっている近年の傾向は単なる新奇性に起因するものではない。従来の国際政治学が前提としてきた国家主権の尊重および内政不干渉原則に基づく主権国家同士の水平的関係としての国際関係それ自体が実態と遊離した観念であることがようやく認識されるようになったというほうが適切である。あるいはヨーロッパ近代の経験知に依拠した国際政治学の偏狭性に対する修正主義運動の一翼を担う視座が「帝国」であるといえよう。

以上の点を踏まえるならば、「名もなき90年代」を通じて進展したのは、アナーキーな主権国家間関係からハイラーキーな帝国の統治体系への転換ではなく、ある帝国体系から別様の帝国体系への移行と捉え返すべきではないだろうか。もちろんこのことは、ハイラーキーという秩序原理において同一であるという点で、単に能力の配分状況の変化に注目するウォルツ流のネオリアリズムの論理をなぞっていると思われるかもしれない。しかし、現在の国際関係を構成する主体として主権国家を措定するウォルツ流の世界観とは存在論の次元においてまったく異なる前提に立つ点に留意するならば、その差異は自ずと明らかだろう。

2つの時代認識の終焉

2007年04月26日 | nazor
ロシア初代大統領ボリス・エリツィンの死は、2つの時代認識の(完全な)終焉を告げるものであったといえるだろう。すなわち「ポスト冷戦」と「ポスト共産主義」である。エリツィンが大統領の地位をプーチンに「禅譲」した1999年からアメリカ同時多発テロ事件が起こった2001年にかけての世紀転換期を経て、「冷戦」および「共産主義」を参照基準として時代を捉える視点は意味を失い、後景に退いていく。たしかにブッシュ政権の進める対テロ戦争の言説に見られる文明=善/野蛮=悪の二分法は、たとえば世界を2つの生活様式に分けた1947年のトルーマン・ドクトリンを容易に想起させるが、より長い歴史的な観点に立つならば、そうした思考態度や世界観は、冷戦期に特有に見られるものではなく、アメリカの外交思想に内在する一種とみなすほうが適切だろう(たとえば、ジョン・ルイス・ギャディス『アメリカ外交の大戦略――先制・単独行動・覇権』慶應義塾大学出版会, 2006年を参照)。

エリツィンが権力の座にあった1990年代は、まさしく冷戦と共産主義という「短い20世紀」を特徴付けた理念および構造からの脱却過程であった。それは、冷戦に代わっていかなる世界秩序を、そして共産主義に代わっていかなる国内体制を確立するかをめぐって、さまざまな理念が語られ、次第に結晶化していく試行錯誤の時代でもあった。この過程において強烈な個性を持ったエリツィンを国家指導者に迎えたことが現在のロシアにとってどのような意味を持つのかは今後の評価を待つほかないが、ソ連解体を一種の革命状況と捉えるならば、通俗的な類型を当てはめたとき、エリツィンは既存の体制を破壊する役に適していた一方で、新たな体制を定着させ、軌道に乗せる(官僚的)資質に欠けていたとみなせるかもしれない。そのため、エリツィンという個性は、法の支配や民主主義の制度化を進める上で障害となり、いわゆる西欧型の議会制民主主義ではなく、「政府党体制」あるいは「擬似権威主義体制」が確立し、「法の支配」ではなく「人の支配」によって政治が動いていった。「ポスト共産主義」の文脈に沿っていうならば、共産主義から移行する対象として想定されていた民主主義は不十分な形でロシアに根付くことになったのであり、同時にこのことは「共産主義→民主主義」という単線的な移行論の陥穽を示してもいる。

たしかにエリツィンからプーチンへの「禅譲」という形での権力交代は、国家体制の安定という観点からすれば、温情政治が支配したエリツィン時代末期の状況に照らしてみたとき、賢明な選択だったといえる。しかし、10年余り続いたエリツィン時代の遺産は、プーチン政権の採りうる選択肢の幅に制約を課している。経路依存の論理が働くことによって、プーチン政権がアメリカをはじめとする西側諸国が求める民主主義体制の確立を推進することはすでに敷かれたレールを逆行する意味で「革命的」な政策転換であり、その可能性は低い。むしろエリツィン時代に蒔かれ、育まれた権威主義的な統治体制に依拠して政権を運営するほうが合理的でさえある。その結果、先ごろ邦訳が刊行されたボリス・アクーニンの小説「ファンドーリンの捜査ファイル」シリーズの人気がしばしば帝政ロシア時代への郷愁という文脈で解釈される傾向が指摘されているように(『アキレス将軍暗殺事件』岩波書店, 2007年の沼野充義による解説参照)、あるいは中村逸郎が指摘するように、プーチンのロシアは欧米基準の民主主義ではなく、かつての帝政ロシアの要素が混在する「帝政民主主義国家」の様相を強めている(『帝政民主主義国家ロシア――プーチンの時代』岩波書店, 2005年)。エリツィンからプーチンへの権力移譲は、「ポスト共産主義」および「ポスト冷戦」という内/外(Inside/Outside)の境界線が次第に曖昧になり、外部の存在を仮定しない帝国性に向かう分岐点としての意味合いを持っている。

補足的にいえば、いうまでもなく帝国への関心の高まりは、ロシア特有の現象ではない。「ポスト冷戦」に代わる世界を特徴付ける言葉として「帝国」が注目されていることから明らかなように、ひとつの思潮を形成している。他方で、再びギャディスの議論を借りれば(『歴史としての冷戦――力と平和の追求』慶應義塾大学出版会, 2004年: 2-3章)、冷戦期に主役を演じた米ソはともに「冷戦帝国 Cold War Empires」であったのであり、現在の「帝国」論はその延長線上に位置づけるべきだろう。

ネオリアリズム受容の日本的事情

2007年02月27日 | nazor
ジョン・J・ミアシャイマー『大国政治の悲劇――米中は必ず衝突する!』(五月書房, 2007年)が先ごろ刊行された。ソフトカバーの体裁から受ける印象とは異なり、5000円以上という価格設定にかなり強気な出版社の姿勢が伺える。しかし学術性の見地に立てば、注釈と文献一覧を一切省いてしまう判断は疑問の残るところである。研究者だけでなく広く一般読者にも読んでもらいたいために注釈等を省略したとすれば、価格を低く抑えるべきだろうし、学術書としての意義を強調したいならば、それなりの価格になったとしても、ある意味で本文よりも重要性の高い注釈や文献一覧は外すべきではなく、それゆえにミアシャイマー初の邦訳著書の位置づけが中途半端なものになってしまった印象が強い。ポール・ケネディ『決定版・大国の興亡――1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』(草思社, 1993年)のように、後に注釈を全訳した決定版を刊行する可能性もあるといっても、すくなくともこうした点について、訳者は「毅然とした」態度を示すべきではないだろうか。

ところで、ミアシャイマーの邦訳が刊行されたのに続いて、ネオリアリズムの「正典」であり、1980年代以降の(北米)国際関係学(IR)における論争の中心を占めていたケネス・ウォルツの Theory of International Politics (McGraw-Hill, 1979) の邦訳も勁草書房から「ポリティカル・サイエンス・クラシックス」の一冊として刊行される予定である。ようやくネオリアリズムに関する主要な議論を日本語で読める状況が生まれつつあるわけであるが、これを捉えて「日本もようやくアメリカの状況に追いついた」とみなすことが妥当か否かは判断の分かれるところだろう。

かつてスタンリー・ホフマンが論じたように、IRが「アメリカ製社会科学」であることを考えると、アメリカ学界における理論や論争の構図が大きな影響力を持ち、そうした動向に注意を払う必要があることは確かだろう。他方で、学問の成立や発展の状況は、各国の政治文化や知的環境、あるいは地政学的要因によって規定される。IRに関しても、近年になって英国学派の再評価が進められたり、ドイツやフランス、そしてスカンジナヴィア諸国におけるIRの独自の展開が注目さているように、アメリカ学界とは異なるIRの姿が看取される(たとえば、Jorg Friedrichs, European Approaches to International Relations Theory: A House with Many Mansions, Routledge, 2004、およびKnud Erik Jogensen and Tonny Brems Knudsen eds., International Relations in Europe: Traditions, Perspectives and Destinations, Routledge, 2006を参照)。その意味で、ウォルツやミアシャイマーなどのネオリアリズムの受容が遅れた要因を日本の学界の後進性や閉鎖性に求めて嘆くことは、アメリカ学界の動向を無批判に受け入れ、それに追随することをIRの「進歩」と履き違える倒錯した姿勢と変わるところがない。

たしかに、田中明彦が指摘するように、アメリカ学界で「ウォルツとの対話」が行われていた「1980年代の日本の国際政治学は、ほとんどウォルツの『国際政治論』に注目しなかった…。この時期の日本の国際政治学で理論面に関心を持った人々が注目したのは、覇権安定論であり、世界システム論であり」、「日本の学界では、ウォルツを無視した人と誤読した人しかいなかった」(「序章――国際政治理論の再構築」『国際政治』124号, 2000年: 4, 10頁)。田中明彦『世界システム』(東京大学出版会, 1989年)猪口邦子『戦争と平和』(東京大学出版会, 1989年)はいうまでもなく、リベラルな平和主義に立つ鴨武彦『国際安全保障の構想』(岩波書店, 1990年)も1章分をロバート・ギルピンの覇権安定論批判に当てているように、主張の違いを超えて、ネオリアリズムとは言えば覇権安定論あるいは循環論を指し、ウォルツの議論は二極安定論を説く勢力均衡論のひとつという共通の理解が形成されていた。

ウォルツの構造的リアリズムではなく、覇権安定論がネオリアリズムとみなされた理由は、過度の科学主義に対する懐疑的な姿勢とともに、現実の日米関係ならびに国際関係の文脈に求めることができるだろう。周知のように1970年代後半から1980年代にかけてアメリカ衰退論争が巻き起こった(ベストセラーになったケネディの『大国の興亡』はその象徴である)。日本外交の基軸である日米関係を支える論理が「ヘゲモニーに逆らってはいけない」という太平洋戦争の教訓に基づいたものであり、その含意として導かれたバンドワゴンの論理であるとすれば(土佐弘之「『現実主義』は現実を切り捨てる」『世界』2005年6月号)、アメリカの覇権の行方はすぐれて現実的な(外交)政策上の課題となることは明らかである。戦後の日本外交を肯定するにせよ批判するにせよ、独立変数であるアメリカに左右される従属変数としての地位にある日本において、ウォルツよりもギルピンやモデルスキーの議論がきわめて具体的で実践的なものとして受け止められたとしても不思議ではない。

1977年にスタンリー・ホフマン宛の返信でE・H・カーは「英語圏の国々における国際関係の研究は、強者の立場から世界を運用していくための最適の方法に関する研究に過ぎません」と述べたことがあるが(遠藤誠治「『危機の20年』から国際秩序の再建へ――E・H・カーの国際政治理論の再検討」『思想』945号, 2003年: 61頁に引用)、カーの指摘は、IRが支配者の学問であること、そして科学という名の普遍性を喧伝する点で帝国性を帯びていることを暗に示している。日本においてウォルツやミアシャイマーの議論が誤解あるいは無視されてきたことは、こうした帝国性に対する抵抗の一形態として捉え返すこともできる。ウォルツやミアシャイマーと並ぶネオリアリストのスティーヴン・ウォルトの論文名「ひとつの世界、多数の理論」になぞらえるならば("International Relations: One World, Many Theories," Foreign Policy, no. 110, 1998)、観察対象である世界はひとつだとしても、それを観察し、説明し、理解するためのIRは複数存在する。

会議外交としての六カ国協議

2007年02月14日 | nazor
昨年の北朝鮮のミサイルおよび核実験再開と国連安保理の制裁発動によって一気に緊迫の度合いが増し、袋小路状態に嵌った感のあった朝鮮半島情勢は、先月ベルリンで開催されたアメリカと北朝鮮の二国間協議を契機に一気に動き出し、8日から北京で行われていた六カ国協議において、寧辺の核関連施設の停止と見返りとしての経済支援を明記した共同声明の採択に結実した。すでに合意内容の解釈をめぐるヘゲモニー闘争が繰り広げられているが、すくなくとも今回の合意によって、2000年代の東アジア国際関係の中心課題であった第二次核危機はいったん幕を閉じたとみてよいだろう。

ここで簡単に核危機の特質と歴史的な経緯を振り返ってみると、(ヨーロッパ中心主義的な)世界史観に基づいて米ソ冷戦の終焉およびソ連圏の解体が起こった1989-91年に時代の転換点を求めるならば、たしかに1990年代以降を「ポスト冷戦」と呼ぶことは間違いとは言い切れない。他方で、東アジアという特定の空間に目を転じれば、いわゆる「ポスト冷戦」時代の東アジアにおいてつねに中心を占めてきた朝鮮半島問題、とくに北朝鮮の核問題は、グローバルな冷戦構造の崩壊によって生じた秩序転換期に特有の流動的な状況に注目すればすぐれて「ポスト冷戦」的な問題である。その一方で、1970年代の米中デタントによる東アジア冷戦構造の部分的終焉というシステム変化が体制転換をもたらすのではなく、北朝鮮の国家体制あるいは国家/国民アイデンティティの再構成(主体思想や先軍政治)に逢着したことは、冷戦的な感覚や思考が完全に払拭されずに残っていることを意味している。その点で北朝鮮の核問題は、一般通念的には終わったはずの冷戦という文脈に強く拘束されている。別言すれば、冷戦的要素とポスト冷戦的要素が複合的に交錯している点が北朝鮮をめぐる核問題の解決をより困難にしているともいえる。

1990年代以降の東アジア国際関係は、いわば北朝鮮の核問題を中心に展開し、その秩序構想の行方も左右されてきた。グローバルな冷戦の終焉過程は、韓国の北方外交という地域的な対応を生み出し、それまでの東アジア国際関係の構図を大きく変えてしまう触媒として作用した。その過程で孤立感を深めていった北朝鮮が核兵器開発に打開の道を求めた結果、1994-1995年の第一次核危機が起こったわけである。第一次核危機が枠組み合意によって一応の妥結を見た後、南北首脳会談の開催に見られるように、世紀転換期前後には緊張緩和の機運が醸成された一方で、枠組み合意の実施において当事者間で認識の相違が浮き彫りになっていった。たしかにアメリカにおける政権交代と同時多発テロは、核問題をめぐる既存の規定条件を一掃してしまうだけの衝撃をもたらし、北朝鮮にどのように対応し、核問題をどのように解決し、そして東アジアにいかなる秩序を築き上げるのかという問題群をめぐって積み重ねられてきた取り組みは振り出しに戻ることになった。

こうして生じた第二次核危機に関しては、船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン――朝鮮半島第二次核危機』(朝日新聞社, 2006年)がその内実を詳らかに明らかにしている。すでに主要全国紙の書評などで高い評価を受けているが、その中で異彩を放つ評価を与えているのが木村幹の書評である(『論座』2007年2月号: 306-307頁)。「外交エリート達によるプロジェクトXの限界」と題するキャプションが示唆するように、船橋が描き出す六カ国協議における各国代表団の行動や発言は、18-19世紀の古典外交の情景と共通するものがある。木村は、こうした既視感を覚えさせる理由として、冷静で合理的な判断に基づいて「外交のプロ達」によって進められる外交交渉というエリート主義的な前提が暗黙のうちに措定されていると指摘する。そして「外交のプロ達」の行動の自由を束縛する各国の「空気」が十分に書き込まれていないために、第二次核危機を取り巻く状況の転調が看過されてしまったと論じている。

かつて高坂正堯は古典外交の特質として同質性・貴族性・自立性を挙げたが(『古典外交の成熟と崩壊』中央公論社, 1978年: 344頁)、六カ国協議の場に集う「外交のプロ達」もまた外交官という職業に携わる一種の貴族性を有し、一種の外交文化を身につけている点で同質的であり、また国内の「空気」が遮断されている意味で国内政治から自立した(閉鎖)空間として六カ国協議を捉えることができる。したがって厳しく対立しているようでありながらも、そこに外交官同士の奇妙な連帯感や和やかな雰囲気を看取することは困難ではない。高坂の言葉を借りれば、「外交の営みをゲームとして楽しむ感覚なしに、外交という複雑で微妙な技術はありえない」(169頁)という認識が依然として息づいているように感じられる。さらにいえば各国の次官級を成員とする六カ国協議という形式が、ちょうど君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交――パーマストンと会議外交の時代』(有斐閣, 2006年)においてパーマストン外交の特徴として指摘された会議外交(conference diplomacy)を想起させる点も、六カ国協議に内在する古典外交的な性格を示しているといえるだろう。君塚自身は会議外交が持つ今日的含意については明確に述べていないものの、その意義が失われていないという認識があることは確かだろう。

「外交はつねに時間がかかるものだし、それゆえに『待つ』ことがきわめて重要な美徳となる」(高坂: 151頁)と語り、君塚も外交の奥義を「ねばり強さ」に求めている古典外交が成立するためには、国内政治の影響を最小限に抑えておくか、あるいはハロルド・ニコルソンのように立法的側面と執行的側面を峻別し、前者への影響を是認することで後者の自立性を確保することが必要になる(『外交』東京大学出版会, 1968年)。しかしながら、19世紀的な国際政治から20世紀的な国際政治への変容はニコルソンの譲歩を無意味化するような形で進んでいった。つまり、国際政治認識がイデオロギー化し、勢力均衡政策の要である同盟の柔軟な組み替えが機能しなくなる一方で、既存の枠組みに対する物神化傾向が高まっていき、そして軍事的なるものに高い価値を見出す「市民社会軍国主義」が浸透していくことによって、古典外交が機能する素地は取り払われていってしまった(高橋進「1914年7月危機――『現代権力政治』論序説」坂本義和編『世界政治の構造変動(1)世界秩序』岩波書店, 2004年)。この傾向はさらなる展開を遂げて、地政学に代わって時政学の支配する「長い21世紀」において、「待つこと」に対する耐性が十分に備わっているとはいえず、反対にミラン・クンデラの表現を借りれば(『緩やかさ』集英社, 1995年: 165頁)、速さの魔力と忘却の願望が絡み合いながら、政治指導者も国民も視覚的効果のスペクタクル性に富んだ結果を期待し、そして求める。その結果、細谷雄一が指摘するように、感情による外交運営、すなわち「譲歩を拒絶し、弱さを嘲笑し、圧倒的な勝利を求めようとする外交姿勢」が時代の趨勢になっている(「新しい交渉の時代」『論座』2007年3月号: 30頁)。合意を作り上げていくプラスサムというよりもむしろ勝つか負けるかのゼロサムの観点で理解されるような外交は本来の意味における外交とはかけ離れたまったくの別物だといえる。

六カ国協議の内部空間において展開されているのが冷静な利害計算に基づく「古典外交」だとすれば、その外部空間を支配しているのは「情念外交」だといえる。この2つの外交をどのように整合させるのかが各国政府にとっての課題となっているが、北朝鮮の核問題に関連付けるならば、この課題が先鋭的な形で現れているのが日本である。すなわち日本の外交政策がアメリカ外交の従属変数として行動の自由を著しく制約されているという構造的な問題に加えて、安倍首相は、自らの権力資源の多くを拉致問題に典型的な「情念の領域」から引き出すことによって現在の地位とイメージを獲得してきた。そのため、アメリカの政策転換に影響されやすい一方で、そもそも外交交渉によってはカタルシスを提供するような形での解決が見込めない状況において国内に充満する情念をどのように宥めるかというアポリアに直面することになる。今回の六カ国協議の合意もこのアポリアを解消するだけのインパクトに乏しく、むしろ拉致問題の解決という目標と整合させていく作業がいっそう難しくなった印象が強い。

木村が言うように「外交のプロ達」が作り上げた六カ国協議には限界が内在しているとすれば、六カ国協議が現代版の会議外交として今後も機能するかどうかは未知数であり、多大な期待をかけるべきではないだろう。今回の六カ国協議とは、ほんの一瞬「長い21世紀」に開花した古典外交の残り香に酔いしれることができた稀有な時間が現出した場であったのではないだろうか。

欠落した決断主義

2007年01月31日 | nazor
通常国会が始まって、柳沢厚労相の失言や事務所経費問題など政権与党に対する攻撃材料が次々と出ている。ちょうど1年前の通常国会も耐震偽装問題、アメリカ産牛肉の輸入再停止、ライブドア事件とネタに事欠かなかったが、永田メール問題という民主党の自滅によって政権与党は無事に乗り切ることができた意味で、今後の国会審議が国民の関心を掻き立てることができるかどうかは野党各党の戦略如何に左右される。

さて「女性は産む機械」と潜在意識レベルで滞留していた考えをうっかり口に出してしまったことから批判を浴びている柳沢厚労相。発言を訂正し、あとはとにかく頭を上げて集中砲火の如き批判・非難をやり過ごす算段のようであるが、徐々に(自発的な)辞任に向けた道筋が整備されつつある。あとはこれまで擁護に回っていた安倍首相がいつ見切りをつけるかにかかっている。

昨年末の本間税調会長の問題と同様に、事態収拾に向けた安倍首相を筆頭とした官邸の動きが鈍いことが今回も露呈している。政治のスペクタクル化が進む状況下で政治指導者に何よりも求められるのが決断力であるとすれば、安部首相は「闘う政治家」を標榜しながらも、決断力に乏しい旧来の政治家に属することを示唆している。そもそも良家のお坊ちゃんという血筋のおかげで自分で決断し、局面を打開する機会がなかったため、そうした素質が生まれつき欠けている、もしくは涵養されずに育ったことはまさに「生まれの不幸」である。そして、そのような人物を一国の首相に抱かざるを得ないことは国民にとっても大きな不幸であるといってよい。

単純化から短絡化へ

2007年01月23日 | nazor
実験データなどの「捏造」で打ち切りが決定した「発掘!あるある大事典Ⅱ」。責任の所在は一義的に製作側にあることは明らかであるが、放送直後に納豆が売り切れ状態になるなど、番組の情報に踊らされる視聴者の行動に対する苦言も同時に聞かれる。

それと関連して、ゲーム脳やマイナスイオン、水からの伝言といった科学的に疑わしい「ニセ科学」の言説を受容してしまう態度との共通項を看取することは困難ではない。それこそここ最近「ニセ科学」の話題でメディア露出が相次いでいる菊池誠(大阪大学教授)が警笛を鳴らしたように(NHK「視点・論点:まん延するニセ科学」2006年12月18日放送)、単純さや分かりやすさを希求するあまり、合理的および科学的思考が蔑ろにされる風潮があるといえる。

あるいは物事を単純化すること自体は、時間による空間の消滅に伴う速度体制を特徴とするグローバリゼーションの時代にあって、必然的に要請される思考態度であり、それなりの効用を認めることができる。しかしながら、今回の納豆をめぐる狂騒曲を傍目から見てみると、「単純化」を通り越して「短絡化」の罠に嵌ってしまった結果であると理解すべきかもしれない。結果に多大な意識が向けられる一方で、結果に至る過程が等閑にされる風潮が支配的である限り、この手の問題の再発は免れないのではないだろうか。

動かない北方領土問題

2006年12月15日 | nazor
13日の衆議院外務委員会における質疑で麻生外相が提起した「面積二等分による北方領土問題の解決案」がちょっとした波紋を巻き起こしている(「北方領土解決へ4島『面積で2等分』…麻生外相が私案」『読売新聞』12月14日、「北方領土『面積で日ロ2等分』案 麻生外相が示す」『朝日新聞』12月14日)。ロシア側の反応は鈍いようで、また塩崎官房長官も「個人的見解」という認識を示したことで、「妄言」の類として片付けられる可能性が高い(「北方領土問題:麻生外相『等分案』、交渉再開へ『観測気球』 ロシア側の反応、冷淡」『毎日新聞』12月15日)。

奇しくも麻生外相の「2等分案」の根拠となった「フィフティ・フィフティ原則」による北方領土問題の打開、すなわち3島返還論を提起した岩下明裕『北方領土問題――4でも0でも、2でもなく』(中央公論新社, 2005年)が2006年度の大佛次郎論壇賞を受賞した。岩下の提案および受賞については、『産経新聞』モスクワ支局長を務めた斎藤勉(現正論調査室長)が、いくぶん朝日新聞アレルギーの症状を漂わせた批判を展開している(「『3島返還論者』に大佛次郎論壇賞ですって!?」)。そして斎藤の主張をストレートに反映している(というか斎藤自身の筆によると思われる)のが今日の『産経新聞』社説「北方領土2等分 麻生外相は何をお考えか」である。

こうした「4島一括返還」原理主義ともいうべき態度の根底には、交渉相手であるロシアへの抜きがたい不信感が横たわっていると同時に、外交に付き物の「妥協」を一方的なそれ、つまり日本だけが譲歩し、ロシアから何の見返りも期待できないという前提がある。したがって、問題の打開や解決への動きは、つねにロシア側から提起されなくてはならない。言い換えれば、日本側は原則論の主張に終始していればよいという考えだといえる。このことは、ロシア側に行動を起こす誘因が生じない限り、問題の打開や解決は望み得ないこと、また解決のイニシアティブはロシア側が握っていることを意味する。すなわち北方領土問題をめぐる日本の政策は自立性を欠いた他力本願に基づくことになる。それは、政策の名に値しない「無策」でしかないだろう。

原則論に固執することが結果的に問題の先送りに過ぎないとすれば、責任倫理の観点から見て、『産経』に典型的な思考こそが国益の達成を妨げている要因となっている。またこの問題を国益や国家主権の問題に還元することは、領土や国境問題を例外状態(=一種の祝祭)としてしか想像できない「中心」に位置する者の発想である。北方領土問題に纏わる問題群が日常化されていないため、問題解決の緊急性が十分に認識されず、反対に未解決のまま残されているほうが、たとえばナショナリズムの醸成や高揚といった情念操作にとって有益だといえる。

これまでの北方領土問題をめぐる交渉過程から見えてくるのは、原則論ないし原理主義の呪縛を振り払えず、目の前に開かれた「機会の窓」をしっかりと認識できなかった「外交の失敗」の繰り返しである。その背後に問題解決に向けた動き、つまり現状からの脱却に対する怖れがあるとすれば、「4島返還」に縋る『産経』の立場はなるほど保守主義を体現しているといえるかもしれない。否、むしろそれは反動と呼んだほうが適切だろう。

民主主義に抗するタウンミーティング

2006年12月14日 | nazor
「やらせ」質問の発覚に端を発して、次々と疑惑が明らかになったタウンミーティングの実態を調査していた「タウンミーティング調査委員会」の最終報告書が昨日公表されたが、その内容は、タウンミーティングという言葉が本来指し示すはずの直接民主主義の系譜とは対極の、言い換えれば反民主主義的な場であったことを改めて認識させてくれる。

「国民との直接対話」を謳いながら、現場の担当者の認識においては政府の政策を「広報」するための場として位置づけられていたため、そこでの「対話」とは大臣や政府関係者と(サクラを含めた)一般参加者とのハブ・アンド・スポーク型の対話、あるいは権力側からの説明と被治者による同意の表明という垂直的関係に帰着する。説明責任を果たしたという結果を満たすために、タウンミーティングが利用され、その内実はかぎりなく形式化していくことになる。タウンミーティングでどのような議論が行われるのかという点に関心が向かない限り、「やらせ」質問やサクラの仕込みは「問題」として認識されないのは当然だろう。

タウンミーティングの理念に照らして考えるならば、そこでの「対話」とは、主題や争点に関する説明を聞き、質問するというような壇上とフロアのバイラテラルな往復ではなく、参加者同士の自由な「討議」を通じて主題・争点自体を再定式化するようなフィードバックを含むものでなくてはならない。代議制民主主義の機能不全や懐疑論が浸透している現代にあって、タウンミーティングに代表される直接民主主義の理念に基づく場や制度の重要性は強く認識されているにもかかわらず、実施する当事者にそうした問題意識が十分に共有されていない。議論の紛糾や混乱が主題に関する新しい視点や問題提起を促す契機となる潜在性を秘めていることに十分な注意が払われず、むしろ議論が円滑に進まないことに対する(官僚主義的な)恐怖感に囚われている。

政府は今回の最終報告書を受けて、タウンミーティングのあり方を全面的に見直すことを表明しているが、「国民との直接対話」をあくまで謳うのであるならば、討議民主主義論で言うところの「討議倫理」に基づいた対話を目指すべきだろう。篠原一の整理に従えば(『市民の政治学――討議デモクラシーとは何か』岩波書店, 2004年)、自由な発言が保証され、自由に情報が入手でき、また議論の過程での意見の変更を承認する「討議倫理」に基づき、代表性・包含性・透明性を確保するため無作為抽出による参加者の選定が要件となる。こうした試みのいくつかはすでに制度化されており、篠原は、討議意見調査、コンセンサス会議、計画細胞、市民陪審制、多段式対話手続きを例として取り上げている。

タウンミーティングをめぐる倒錯した認識を改めない限り、政府が掲げる「対話」の内実は、つねに/すでに「独話」に回収されてしまう。それだけの想像力が安倍政権に備わっているのかが問われる。

ボスニアとイラクの結節点

2006年12月09日 | nazor
11月の中間選挙での敗北を受けて、ラムズフェルド国防長官が事実上更迭され、多くのメディアがイラク情勢を「内戦」と呼ぶようになり、さらにベーカー元国務長官を中心とした超党派グループが提出した報告書の内容が明らかになったことによって、ブッシュ政権の対イラク政策の見直しが現実味を帯びて語られている。

イラクの占領政策を立案するに当たって、ブッシュ政権、とくにネオコンが念頭に置いていたのが第二次大戦後の日本占領であったことは知られた事実である。平和と安定を阻害している独裁者を排除すれば、圧制から解放された民衆たちはアメリカの掲げる自由と民主主義を支持し、受け入れるはずだという楽観主義がその根底にあることは明らかである。そうした楽観主義に基づくアメリカの構想は、ジョン・ダワーが論じたように(『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』岩波書店, 2001年)、日本人が「敗北を抱きしめ」、天からの贈り物として民主主義を受容した意味で、たしかに日本において実現したといえるかもしれない。

しかし1947年以降のいわゆる逆コースによって、民主主義を授けたアメリカ自身がその理念を裏切っていくことになる。油井大三郎の表現に倣えば、日本占領は未完のままに放置されたのである(『未完の占領改革――アメリカ知識人と捨てられた日本民主化構想』東京大学出版会, 1989年)。こうした点を考慮した上で、ブッシュ政権がイラク占領のモデルとして戦後の日本占領を参考したとは到底言い難く、まさに日本占領をめぐる記憶と忘却の力学が作用していたといえる。

第二次世界大戦が依然としてアメリカ人の記憶において勝利した正義の戦争として絶対的な地位を占めているため、その延長線上に日本占領も位置づけられ、成功した事例とみなされることは理解できる。しかしながら、過去の歴史から教訓を得る姿勢が望ましいものであるとしても、教訓を引き出す事例の選択が誤るならば、そこから引き出された教訓は意味を成さず、むしろ悪影響を与えるだけだろう。

内戦状態と呼ばれるようになった昨今のイラク情勢を目の当たりにしたとき、比較参照されるべきは、戦後日本ではなく、旧ユーゴスラヴィア内戦、そして現在のボスニアの状況ではないだろうか。両者ともメアリー・カルドーが指摘する「新しい戦争」の特徴を有している点を考えると(『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』岩波書店, 2003年)、ブッシュ政権は、自ら遂行する対テロ戦争を「新しい戦争」と名づけながらも、その新しさの意味を捉え損なったことは喜劇的でさえある。旧ユーゴ内戦という近い過去から教訓を引き出すのではなく、第二次大戦後の日本占領にイラク占領のモデルを見出した発想には「旧さ」が纏わりついている。

ボスニアとイラクを比較した場合、いくつかの共通性が看取できる。まず第一に、ボスニアにしても、イラクにしても、内戦状態をもたらした民族間あるいは宗派間の対立は所与のものではなく、既存秩序の崩壊過程と並行する形で社会的に構築された点である(Franke Wilmer, The Social Construction of Man, the State, and War: Indentity, Conflict, and Violence in Former Yugoslavia, Routledge, 2002)。月村太郎が詳細に考察しているように(『ユーゴ内戦――政治リーダーと民族主義』東京大学出版会, 2006年)、ボスニア内戦において紛争が暴力化していく上で、ミロシェヴィッチ、トゥジマン、イゼドベコヴィッチなど政治リーダーの存在や役割が決定的であり、彼らの関与によって、アイデンティティーの民族化が生じ、集団間の差異は本質的に固定されたものとみなされるようになる。またそれまでの歴史の大半において共存してきた事実は、共産党体制に結び付けられることによって否定的な記号とされ、共存を求める声はかき消されていく。同じくフセイン体制崩壊後のイラクでも、イラクの主要勢力としてシーア派・スンニ派・クルド人の存在が繰り返し言及されることによって、それら勢力間の差異が強調されていき、対立の常態化/自然化がもたらされる。

第二に、本来は複数性を基調とするはずのアイデンティティーが単一のそれに整序されていく過程で、その領域化が伴う。その結果、新たな国家再建において、求心力よりも遠心力が強く働き、近代国家の要件を欠いた不安定な国家が誕生することになる。この帰結は、平和で安定した国家を目指す平和構築の理念とは相容れない予想図であり、その不安定性を補完するために、いわゆる国際社会の継続した関与が必要とされる。ボスニアの場合、ムスリムとクロアチアが構成するボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とセルビア人主体のスルプスカ共和国からなる連合国家として再建されたわけであるが、国家としての一体性は無きに等しく、また国家主権の対外的側面においては、上級代表事務所やNATOあるいはEUが担当している意味で、擬似国家(quasi-state)とみるほうが適切だといえる。そして国際社会の関与の常態化は、主権平等原則を侵食し、かつての委任統治や信託統治制度を想起させると同時に、統治する国家と統治される国家の分化をもたらす可能性を秘めている(この点について、「領域管理」の視座から論じている山田哲也「領域管理の意義を巡って――合法性と正統性の相剋」『国際政治』143号, 2005年を参照)。

第三に、「新しい戦争」の特徴としてカルドーが指摘する戦争経済の問題が指摘できる。さまざまな主体が関与したボスニア内戦において、グローバルな戦争経済システムとの合法・違法を問わない密接なネットワークが構築される。公的領域の縮小と比例する形で進行する私的領域の全面化が集約的に現れているのが安全保障の民営化だとすれば、その象徴である民間軍事会社の有用性を知らしめたのが、ボスニア内戦の転換点となったとされる1995年にクロアチア軍が実施した「嵐」作戦であった(P・W・シンガー『戦争請負会社』日本放送出版協会, 2004年: 26-29頁)。イラク戦争およびその後の復興過程において多くの民間軍事会社が参入していることは周知の事実であるが、国家再建において民間アクターの果たしている役割の重要性を考えると、イラク占領を取り巻く環境は、ボスニアが辿った道に類似している。

また国家および社会の犯罪化といえる現象も進んでいく(Peter Andreas, "The Clandestine Political Economy of War and Peace in Bosnia," International Studies Quarterly, vol. 48, no. 1, 2004.)。とくに国際社会による経済制裁や禁輸措置は、地下経済を潤わせると同時に、戦時下において犯罪行為が愛国行為に読み替えられ、犯罪に対する寛容が醸成されていった。また国外からの余剰武器の流入や対外援助の流用が紛争を持続させた。ブッシュ政権が当初戦争目的として掲げていたフセイン政権とアルカイダのつながりが実体のないものであったが、フセイン政権崩壊後にアルカイダ勢力の浸透が招き、活発化した背景には、占領政策に対する反撥といった単なる反米気運に還元できない構造的な要因がある。このような内戦時に構築されたネットワークは戦争終結後も維持され、一種の犯罪文化が根付き、犯罪集団が権力を握ったり、権力層と癒着することによって、国際社会が求める平和構築や民主主義および市場経済の確立とはかけ離れた国家/社会が姿を現す。

以上の点を考えると、ボスニアの現状がイラクの未来像を示唆していると考えることはそれほど奇異な発想ではない。近い過去に格好の事例があるにもかかわらず、遠い過去の輝ける成功に囚われた結果が今日のイラク情勢に集約されている。