constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

途上の文筆歌手

2008年01月26日 | nazor
二作目の小説「乳と卵」で第138回芥川賞を受賞した川上未映子。文学一般、あるいは芥川賞の要請する形式に沿いつつ、その独特の文体が持つラディカルな位相を活かすことに成功したことによって、池澤夏樹の言葉を借りれば「短編としての構造が計算されつくされていて、あざといほど」の完成度ゆえに、選考委員たちが異論を挟む余地をなくした結果とも言えるだろう。

ところで「文筆歌手」という肩書きやドラマ的要素に富んだ半生などの話題性十分の経歴ゆえに、各種メディアの注意を惹きつけ、いわば「芥川賞バブル」状態が受賞後一週間ほど続いたわけであるが、その様子は、候補に挙がったものの受賞を逃した前回7月の芥川賞をめぐる状況とは対照的である(ちなみに受賞者は諏訪哲史)。むしろ金原ひとみと綿矢りさが受賞した第130回(2003年)のそれと通じるものがある。

文学プロパー以外では、芥川賞が話題に上る場合、受賞作品の内容などは軽く触れられる程度で、むしろ受賞者の生い立ちや容貌が取り上げられることが普通である。言い換えれば、作品の評価は文学プロパーに委ねられ、作者のキャラクター性が抽出されることによって、本質的に切り離すことができないはずの作者と作品の間に線が引かれ、その関係は作品に対する作者の優位という形の非対称性を帯びる。さらにいえば、受賞者が女性であるとき、記者会見における服装が必ずといってよいほど話題になるように、作品ではなく、作者およびその身体性が前景化する顕著な傾向を考えたとき、そこにある種のジェンダー秩序の一端を看取するのは難しいことではない。

また「芥川賞バブル」の余波で、これまでほとんど知られることのなかった「歌手・未映子」も注目を集め、廃盤寸前のアルバムへの注文が殺到しているが、それが「副業としての歌手活動」として捉えられる一過性の現象に終わることもありえる。「自称・文筆歌手」のアイデンティティーが主観性の域から脱して、間主観性として成立することができるのか、あるいは作家と歌手という棲み分けを横断するような形の創作活動の地平を切り開いていくのか、これから「文筆歌手」の内実が問われることになる。
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