constructive monologue

エゴイストの言説遊戯

「政権交代のある政治」の途上

2010年03月09日 | nazor
かねてから指摘されてきた鳩山首相や小沢幹事長の政治資金をめぐる疑惑に加えて小林千代美衆院議員に対する北海道教職員組合の違法献金事件が発覚するなど、いわゆる「政治とカネ」の問題を筆頭に、予算成立前の個所付け漏洩問題や、普天間飛行場移設問題をめぐる連立与党内の不協和音など内政と外交両面において、鳩山政権が厳しい局面に立たされていることは明らかだろう。各種世論調査における内閣支持率の低下傾向や、先の長崎県知事選挙のように地方選挙における民主党系候補の落選は鳩山政権に対する逆風の強さを示す証左と捉えられている。

政権交代のユーフォリアが醒め、鳩山政権に対する期待が失望に変わりつつある状況は、本来であれば最大野党である自民党にとって党勢拡大の絶好の機会である。しかしながら、ようやく今週末の世論調査で政党支持率で民主党と拮抗するようになったものの、自民党は、衆議院選挙敗北の衝撃から完全に立ち直っていないようで、次期総選挙での勝利を目指して党改革を断行するというよりも、むしろ谷垣総裁をはじめとする現執行部の国会運営に対する不満が湧き上がり、舛添前厚労相や与謝野前財務相のように、新党結成に含みを持たせるような執行部批判が注目を集めている。こうして鳩山政権の混乱ぶりにもかかわらず、「御家騒動」に忙しい自民党に対する期待が回復しないのも無理はない。

先日訃報が伝えられた政治学者の高橋進は、政権交代の気運を醸成し、有効性を示す前提条件として、「政策面での党の基本方針と基本政策の修正がなされ、それに加えて、党内意思決定方式の改正、党首(首相候補者)の権限強化などの党組織改革があり、さらに党の新たなプロフィール作り」からなる党改革の必要性を指摘する(「政権交代の政治学――1つの試論」高橋進・安井宏樹編『政治空間の変容と政策革新(4)政権交代と民主主義』東京大学出版会, 2008年: 182頁)。そして政権交代の雰囲気が醸成され、党改革が行われることによって政権交代の前提条件が整ったところで繰り広げられるのが、国会などを舞台として政権獲得を目指した政党間競争である。その政党間競争の空間において各政党は、対抗する政党の動向を睨みつつ、より有利な位置を獲得する戦略を採る。高橋は、3つの次元を組み合わせることで政党間競争の動態を説明する(188-190頁)。つまり政党間の政策距離という左右の第1次元に加えて、党の顔である指導者や党イメージの刷新という新旧の第2次元における変化、そしてこの2つの次元における変化を一体化して有権者に提示する能力の第3次元である。

高橋の議論は、イギリスの保守党や(西)ドイツのキリスト教民主同盟の長期政権下の野党(イギリス労働党やドイツ社会民主党)が政権を奪う過程(断続的な政権交代)を念頭においているため、下野から約半年しか経っていない自民党のケースにすんなりと当てはまるわけではないが、現在の自民党の動きを見たとき、第1次元において、保守の理念に回帰することで、より右に移動し、政策距離を拡大させる動きとみなすことができる。最近の谷垣総裁への批判も、「党の顔」としてのインパクトに欠け、「新しさ」を創出できず、従来の自民党イメージを引きずっていることに起因する点で、新旧を軸とする第2次元に属する。第1次元における政策理念の刷新が、それを主導する指導者の刷新という第2次元の変化と乖離しているため、「新しい」自民党の姿を説得力のあるかたちで有権者に提示する能力である第3次元にまで到達していない状況にあるといえるかもしれない。その意味で谷垣総裁の刷新を求める動きは政権獲得に向けた戦略の一貫とも見ることができる。

しかし総裁の交代によって「新しさ」を演出できたとしても、その変化が有権者に説得力を持ちうるのかといえば、大いに疑問が残る。すなわち第1次元の政策軸における右方向への移動はイデオロギー的色彩の濃さゆえに有権者の好悪を明白にし、広範な支持基盤を構築するうえで障害となる可能性のほうが大きいと思われる。すでに先の衆議院選挙期間中に作成配布されたパンフレット「知ってドッキリ民主党 これが本性だ!!」の内容に顕著となり、定住外国人の地方参政権や選択的夫婦別姓制度の導入を検討する鳩山政権に対する批判、さらには徴兵制導入に言及した憲法改正推進本部の改憲草案などの根底に流れる保守の理念は、従来の自民党において中心的立場を占めてきた「保守本流」ではなく、「真性保守」と呼ばれる「保守」というよりも「反動」の色彩が濃い。こうした政策軸上の右移動が魅力を放っているとすれば、その一因は、「草の根保守」や「行動する保守」といった政策距離において極右に位置する声や動きが『産経新聞』や『WILL』などの保守系メディアを通じて盛んに報じられているため、そうした報道のみに接していると、保守的とされる価値観が大多数に受け入れられているという倒錯気味の判断に求められるかもしれない。

とはいえ、菅原琢が指摘するように、「政治家に日々訴えかけれらる支持者の声というのは、政治に訴えかけたい種類の人々の声であり、世論の一部でしかない。ましてネットで見かける政治的意見や運動も、それがどんな方向のものであれ、そう訴えたい人々のものであって、世論の片隅のものでしかない」(『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』光文社, 2009年: 273-274頁)。たしかに保守や伝統を強調する戦略は、自民党の支持基盤を固めることに寄与するかもしれない。しかしそれは両義的な意味合いを持つ戦略でもある。保守色の強調によって中間層への浸透が進まず、それゆえにコアな保守層の支持に依存し、かつその支持喪失を恐れるあまり、彼らに受けのよい主張を掲げ、思想・イデオロギー的な排他性を強めていくことになりかねない。政権獲得のためには中間層の関心および票が重要であり、それゆえに政党間の政策距離が縮小する傾向を内包している二大政党制に日本政治が進みつつあるとすれば、保守色を鮮明にする自民党の政策理念の刷新は、政権獲得という目標に照らしてみたとき、どれほど有効性を持つのか疑わしい。

政治における中道化・穏健化に対して、社会における価値観の多様化が進み、政治と社会をつなぐ役割を担う(既成)政党への不信が現代政治に一般的に見られる傾向であり、政治と社会の乖離から生じた空間を足場として台頭しているのが左右両派のポピュリスト政党である。この現象に関して、「移民排斥のような強硬な新保守主義的な政策と国家の歳出削減のような新自由主義的な政策を巧くかけ合わせたとき、右翼ポピュリスト政党が選挙で得票を伸ばす」という「勝利の方程式」に着目して、近年のヨーロッパ諸国における右翼ポピュリスト政党の台頭を説明する議論がある(網谷龍介・伊藤武・成廣孝編『ヨーロッパのデモクラシー』ナカニシヤ出版, 2009年: 252頁)。この議論を通して現在の日本政治を眺めてみるならば、たとえば最近の世論調査で支持を増加させている「みんなの党」がその最右翼に位置づけられるだろうか。あるいは小泉時代の自民党が大きく躍進した要因のひとつとして新保守主義と新自由主義の政策的な組み合わせがあったと指摘できるかもしれない。しかし構造改革路線への批判が高まり、2007年の参議院選の惨敗を受けて、新自由主義的な政策路線の軌道修正を図ろうとしたことによって、「勝利の方程式」を自ら放棄する形となった。この方針転換は、菅原が『世論の曲解』において論じているように、選挙の敗北要因を小泉路線に求める誤った印象論に基づくものであった。そうだとすれば、自民党が重視すべきなのは保守理念の強調以上に新自由主義路線への回帰となるが、改めて新自由主義路線に舵を切ることは党内の亀裂をいっそう深める危険性を孕んでいることもあり、容易ではない。「みんなの党」は、この間隙を縫う形で、「旧い」自民党および「政治とカネ」の問題に象徴される自民党政治の悪弊を引きずっている民主党に失望した有権者の期待を集めているといえる。いずれにしても右翼ポピュリスト政党は、社会に確固とした基盤を持つ組織政党ではないため、支持の獲得において大衆受けする、カリスマ性を備えた指導者が欠かせない。そうした指導者の登場、いわゆる「政治の人格化」は、東京都、大阪府、宮崎県のように地方政治ですでに見られる現象である。この傾向が今後全国レベルでも現れるのかが注目されるところであろう。

「政権交代のある政治」が規範としても制度としても定着するまでには、もうしばらく時間がかかる。その過程では、政権与党への不満や批判を受け止める、抵抗政党以上の存在としての野党の育成も課題であることはいうまでもない。しかし与党であることにその存在価値を託していた自民党に野党の役割を学習し実践するだけの余裕があるとは言い難い。55年体制崩壊後の日本政治における課題が政権担当能力を有する野党の育成であったとすれば、この課題は民主党の登場によって曲がりなりにも達成できたといえるが、他方で「政権交代のある政治」とは、与党が下野する可能性を先験的に抱えている政治であることを考えるならば、自民党はその心構えを怠ってきたツケが下野後の迷走となって表出しているといえよう。その意味で2009年9月の鳩山政権は政権交代の象徴的場面であるが、そのプロセスはより長い射程を持ち、すくなくとも数度の政権交代を経験することによってはじめて「政権交代のある政治」が実現したとみなすことができよう。
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三たび「戦間期」の再来について

2010年03月04日 | nazor
冷戦の終焉に伴う世界政治の流動化、換言すれば後景化していく旧秩序と前景化しつつある新秩序の移行期をいかに把握するのかをめぐって、さまざまな認識枠組みが提示されてきた。「戦間期」の比喩で把握する視座もそうした認識枠組みのひとつであり、以前2度にわたりその内容に関して若干の検討を加えた(「『戦間期』の再来」2006年6月20日、および「『戦間期』の再来・追補」2007年6月15日参照)。その後の世界情勢を見るならば、イラクやアフガニスタンの出口戦略が依然として不透明な「対テロ戦争」に加えて「100年に一度」と形容される金融危機によるグローバル経済の混乱は、物質および規範の両面で圧倒的な優位性を保持していた超領域的権力主体であるアメリカの凋落を物語り、ひとつの時代の終焉、あるいは転換期の第2段階に世界が突入していることを印象付ける。そしてこの「アメリカ後の世界」(ファリード・ザカリア)がいかなる理念や構想、そしていかなる秩序や制度によって支えられるのかを考えるにあたって、とりわけ現代世界が抱えている危機に対する適切な処方箋を探求する際に、危機の収束に失敗し、第二次大戦という破局に至った1930年代の世界が歴史の参照点として改めて浮かび上がってくる。このような問題関心を背景にして、国際関係の現状ならびに今後の展開を議論するうえで「戦間期」あるいは「危機の20年」という比喩の魅力が増しているように思われる。以下では、「戦間期」あるいは「危機の20年」に言及している代表的な論考を概観する形で、三たび「戦間期」について考えを巡らせてみたい。

イギリスの国際政治学者で、批判的安全保障研究の論者としても著名なケン・ブースは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを象徴的な始点として現在を「新たな危機の20年」にあるとみなし、それは21世紀前半に世界が直面する全般的な危機の一部を構成するものであると論じる(Ken Booth, Theory of World Security, Cambridge University Press, 2007.)。かつての「危機の20年」が第二次大戦に帰結したように、「新たな危機の20年」もまた、現代世界が直面している脅威に迅速で根本的に対応しなければ、21世紀半ばまでに重大な破局(the Great Reckoning)を迎えるだろうと警告を発する。すなわち「全体であれ、あるいは個別であれ、人類社会にとっての新たな危機の20年の挑戦は、今世紀の来るべき10年間に、普遍的で不可欠な価値にしたがって将来の方向性、優先順位、政策に関して本質的な決定を下すことである」(403、強調原文)。そして重大な破局に帰結する危機を3種類(epochal/structural/decisional)に分けた上で、ブースは、喫緊の決定を有する危機(decisional crises)として、安全保障の脅威、グローバリゼーションのもたらす弊害、環境や人口問題の悪化、ガヴァナンスの機能不全、そして宗教原理主義の台頭を挙げて、これらの課題に見出される「病理的兆候」に対して適切な診断と決定を下す必要性を強調する。

同じく「危機の20年」という比喩を用いて冷戦後の20年を把握するのが田中明彦『ポスト・クライシスの世界――新多極時代を動かすパワー原理』(日本経済新聞出版社, 2009年)である。アメリカ同時多発テロを始点とするブースの「新たな危機の20年」論に対して、田中のそれは、ベルリンの壁が崩壊した1989年を始点として、2008年の金融危機を最終局面とする点で時間的なズレがあるが、危機の最終局面にある世界が破局に突き進んでしまうのか、もしそれを克服したとき現れる世界、つまり表題の「ポスト・クライシスの世界」はいかなるものなのかを考察することを目的とする点でブースと問題関心を共有していると見てよいだろう。それでは田中は「新たな危機の20年」の特徴をどのように描いているのだろうか。E・H・カーが1920年代の国際政治を彩った理想主義的な見方を「蜃気楼」と呼んだことを手がかりにして、田中は、「新たな危機の20年」において「蜃気楼」に該当するエピソードとして「単極の世界」および「市場原理主義」の登場と退場を挙げ、そしてこの2つのエピソードを底流で支え、ときに促進していたのがグローバリゼーションであると指摘する。また現在の金融危機が、1930年代の経済危機のように、軍事的なそれに転化していく可能性、また破局を回避できた後に見えてくる世界を「多極の世界」と捉えて、なかでも依然として大きな影響力を保持するアメリカと、台頭著しいアジア(とくに中国)との関係をいかに築いていくべきかが論じられている。

ブースと田中の議論が世界政治という大きな枠組みに焦点を当てたものであるのに対して、冷戦の主役であったロシア(ソ連)とアメリカ(そして国際関係との関わり)を対象にして「戦間期」あるいは「危機の20年」の比喩を用いる議論も登場している。リチャード・サクワは、ポスト共産主義のロシア、とりわけプーチン政権のロシアと西側諸国との相互不信が増幅する「新冷戦」状況を考察し、ロシアと西側との間に根本的なイデオロギーや利害の対立争点が欠けている点で「新冷戦」はかつての冷戦と同一視するべきではないと指摘する(Richard Sakwa, "'New Cold War' or Twenty Years' Crisis? Russia and International Politics," International Affairs, vol. 84, no. 2, 2008. )。そしてサクワは、新冷戦の勃発をめぐる議論に注意を奪われるあまり、より重要な課題が軽視されていると論じる。すなわちロシアや中国といった新興諸国をいかにグローバルな枠組みに包摂していくのかという課題である。第一次大戦後のヴェルサイユ体制に対する「持たざる諸国」ドイツ、イタリア、日本の抱く不満を受け止め、適切に対処し、それらを取り込むことに失敗した帰結がもうひとつの世界戦争であったことを想起するならば、冷戦の非対称的な終焉によって超大国の地位から転落したものの、石油や天然ガスなどのエネルギー資源を武器に再び台頭してきたロシアとどのような関係を構築すべきなのかという課題は、まさに「危機の20年」の状況と類似する面がある。根本的な争点における対立にまで至っていない「新冷戦」状況に比べると、大国としてのロシアの威信を損なわずに、西側の規範構造に準拠した行動原則への順応をいかに進めていくのかが問われているのであり、この課題に失敗したとき待っているのは、ちょうど「危機の20年」が世界大戦に帰結したように、グローバルな破局ではないかと論じる(同様の趣旨として、田中: 61-65頁も参照)。

一方、村田晃嗣は、レーガン以降の四半世紀のアメリカ政治外交を考察する中で、「二重の戦間期」という見方を提示している(『現代アメリカ外交の変容――レーガン、ブッシュからオバマへ』有斐閣, 2009年)。「二重の戦間期」は、微妙なズレを孕むものの、ほぼブッシュ(父)とクリントン政権期の12年間に相当する。第1の戦間期は、ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日とアメリカ同時多発テロが起こった2001年9月11日、すなわち世界戦争(冷戦)と世界内戦(対テロ戦争)とに挟まれた12年間である。第2のそれは、1991年の湾岸戦争と2003年のイラク戦争とに挟まれた12年間である。前者が世界史的な意味合いを有する年を基準点としているのに対して、後者はアメリカとイラク、より直裁的にいえばブッシュ父子とサダム・フセインの(私怨を孕んだ)関係によって規定されている。そして「この『二重の戦間期』の二重性をどう評価し、この期間を短いとみなすか、長いとみなすかで、イラク戦争の評価は大きく異なる」(88頁)と指摘する。村田の「二重の戦間期」論は、アメリカの文脈に焦点を絞ることによって時間の幅が短く設定されているが、それは田中の「新たな危機の20年」論における「単極の世界」および「市場原理主義」それぞれの登場から絶頂に至る時期と重なり合う。さらにいえば「二重の戦間期」の先例はアメリカ史に見出すことができる。つまりアメリカが直接的に戦争に関わったヴェルサイユ(1919年)からパールハーバー(1941年)までの22年間を第1の戦間期とするならば、それぞれウィルソンとルーズヴェルトの2つの民主党政権に挟まれ、経済的な繁栄を謳歌した共和党政権の12年間を第2の戦間期とみなすことができるだろう。

ところで高坂正堯は、1972年発表の論文「二つの戦争、二つの頂上会談」で、「1960年代の半ば以降、アメリカが国際政治の中心的問題でないものに精力を浪費し、中国が国際政治の舞台から姿を消していたこと」を指して「道草」と呼んだ(『高坂正堯外交評論集――日本の進路と歴史の教訓』中央公論社, 1996年: 76頁)。高坂の主眼は、1960年代初頭の世界政治に見られた多極化傾向(仏中の核武装や中ソ対立の表面化)が、「道草」を経由したことによって、1970年代においてどのような形で(再)浮上してくるのか、そして多極化時代の特徴である多元化と階層化が進展する1970年代の世界における日本外交のあり方を再検討することにあった。「道草」の比喩を通して見えてくるのは歴史における連続性と変化である。同じ政策理念や構想が時差を経て実行に移されるときに重要となってくるのが、時間の浪費ともいえる「道草」の間に生じた変化を正しく認識できるか否かである。高坂の「道草」の比喩で、村田のいう「二重の戦間期」の後者、すなわち対イラク戦争をめぐる戦間期を捉え返してみたとき、どのような示唆が導かれるであろうか。対イラク戦争をめぐる「戦間期」をまさに「道草」の字義通りに時間の浪費と理解し、2つのイラク戦争の置かれた文脈状況を無視して同一線上で捉えたのが、ブッシュ(子)政権の、とりわけネオコン思想に傾倒した政策決定者たちであり、それは「道草」に内在する連続性と変化に対する鋭敏な感覚を欠いたものであったといえるのではないだろうか。

2003年のイラク戦争を支えたアメリカの世界戦略構想の大枠は、よく知られているように、1991年の湾岸戦争後にポール・ウォルフォウィッツを中心に作成された「国防計画指針」に求められる。ブッシュ(父)の再選失敗によって直ちに現実化されることはなかったが、その世界戦略構想は、クリントン政権の外交政策に不満を抱く在野の(共和党系)言論人を中心に強い影響を及ぼし、ブッシュ(子)政権の誕生とともに、構想を現実化する機会が到来したわけである。そして軍事力の圧倒的なまでの優位性に象徴される物質的な面でも、また民主主義や市場経済の理念の正統性という規範的な面でも、アメリカの政策理念・構想を円滑に実行に移すことができる環境が「戦間期」の12年間で整備されていた。その意味で「道草」は単なる時間の浪費以上にアメリカにとって有意味な期間であったともいえる。このような「道草」の恩恵を受け、また同時多発テロを奇貨とする形で対イラク戦争へ向かう道が開かれていったが、「道草」の期間に生じた変化は、アメリカにとって好ましいばかりではなく、むしろ2つの対イラク戦争に対してまったく異なる意味づけを施す変化を伴っていた。すなわち対テロ戦争の延長線上で世界内戦状況の只中で起こったイラク戦争の意味合いは、冷戦という世界戦争の終幕で起こり、古典的な意味での国家間戦争であった湾岸戦争とは異なり、そこには戦争形態の質的な変化が介在している。たしかに「戦間期」を通じて軍事革命(RMA)による戦争行為の非対称性は限りなく高まり、アメリカの武力行使の形態を指して「新しい戦争」とみなす議論もあるほどである。その点で、世界戦争から世界内戦へという戦争観念/形態の変容にアメリカが鈍感であったわけではない。しかしながら、イラク戦争を軍事面だけに限定せずに、体制転換および民主化といった政治経済社会構造の変革を包括した政策パッケージとしてみた場合、戦後復興に対する楽観的な展望や自爆テロなどの抵抗運動の軽視など明確な出口戦略を欠いていたことは明らかで、それは「道草」の間に生じた変化に十分な注意を払っていなかった証左でもある。

さらに「道草」の比喩を応用するならば、田中が言う「新たな危機の20年」の第1エピソード「単極の世界」を「道草」と把握することができる。すなわち「二極の世界」の終焉は、「単極の世界」に接続する必然性はなく、「多極の世界」の出現も十分ありえたし、その可能性を予測し、国際関係の不安定化を指摘する議論もあったことは周知のとおりである。そして現在「単極の世界」が退場した後に到来するのが「多極の世界」であるとすれば、「単極の世界」と重なる「新たな危機の20年」は「道草」だったといえるのではないだろうか(もちろんG2論のように米中の「二極の世界」の出現する可能性も排除できないが)。

したがってこれから前景化してくる「多極の世界」とはどのようなものなのかについて検討を加える必要がある。たとえば、田中は、「多極の世界」が不安定で戦争になりやすいという国際政治学でよく知られた議論を取り上げて、19世紀から20世紀前半の「多極の世界」と比較した場合、21世紀の「多極の世界」が軍事力の意味変化、経済的相互依存の深化、民主主義規範の普及という3つの傾向を特徴としているため、戦争に至る可能性はかなり低下していると指摘する(田中: 95-106頁)。また比較対象をより近い過去に求めて「多極の世界」の内実を考えることもできる。すなわち「多極の世界」とは何かという静態的位相ではなく、「単極の世界」から「多極の世界」に向かう趨勢、すなわち「多極化する世界」という動態的位相に目を向けたとき、ひとつの参照点として1960年代から1970年代の時期が浮かび上がってくる。冷戦史としての20世紀後半の世界政治を捉えたとき、いわゆるデタントの時代は、「多極」に向かいながらも、「多極の世界」へと直結しなかった未完の時代だったと捉えることができる。あるいは冷戦の中休みという意味での「戦間期」ともいえるし、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を契機とした第二次冷戦が1960年代から進展する多極化の趨勢における「道草」の一種であったともいえる。いずれにしても「多極の世界」に向かう道程は、単線的ではなく、その過程で下される(政治的)決定しだいで逆行する可能性を潜ませている。

この点について再び高坂の論考「二つの戦争、二つの頂上会談」を補助線として、「多極化する世界」において直面する外交課題とはいかなるものかについて考察を進めるとき、現在との類似性が浮かび上がってくる。とくにそれは日米関係の領域において顕著である。2009年9月の政権交代による民主党政権発足後、外交政策における争点となったのが普天間基地の移設問題に象徴される日米関係であり、日米合意をめぐる鳩山政権の曖昧な態度に日米関係の「危機」を看取する議論が相次いだ。普天間基地に関する日米合意をめぐる混迷状況を日米関係全般の危機と等値するような情緒的な「危機」論が叫ばれる状況は、ちょうど同じく1970年代のそれと相通じるものがある。高坂の次の文章にある「繊維製品の規制問題」を「普天間基地問題」に置き換えてみれば、構図の類似性を容易に看取できる。「日米関係の危機ということがしきりに叫ばれながら、危機の内容や理由はほとんど論じられていない。ただ焦燥感と疑惑が存在し、繊維製品の規制問題など具体的な事件に危機の理由が求められてしまっている」(84頁)。

また高坂は、多元化と階層化を特徴とする多極化時代には同盟関係の変化は必然的だと指摘し、1962年から1964年にかけて執筆されたキッシンジャーの論文を手がかりとして日米関係に求められる変化の内実を考察する。高坂によれば、キッシンジャーの追求する中心的課題は「アメリカの『一方的な行動』と同盟国ヨーロッパの『無責任』という悪循環をいかにして打破するか」(85頁)であり、アメリカとの同盟関係に縛り付けるような「統合」ではなく、安全保障を自立的に追及できる行動であり、そのような行動の「調整」であるという。そしてニクソン=キッシンジャーの目指す同盟関係の調整問題が「道草」を経て構想から実践に移されたときに、日本はどのように対応するのか、その態度を明確化することが求められると指摘する。とはいえ、高坂は次のように指摘し、安易な同盟強化論に一定の留保を付している。つまり「もっとも、こうした基本政策についての態度を明確にすることは、必ずしも安全保障協力を物理的に強化することを意味しない。…それが望ましいものかどうか、また唯一の方法であるかどうかは、議論の余地がある」(87頁、強調原文傍点)。また普天間基地問題をめぐる鳩山首相の優柔不断さに対して批判が投げかけられ、強い政治リーダーシップを求める声がある。しかし「多極化する世界」において求められるのは強いリーダーシップだけでなく、変転する状況の機微を見極め、判断する姿勢である。再び高坂の言葉を引くならば、「今や国際政治は急激に再編成に向かって動き始めた。それ故に、われわれは発言のはっきりした政治家を必要とするようになっているのである。/もっとも、発言がはっきりしているとは、派手であるということではない。…。変動するもののなかで、なにが日本にとって重要な影響を与えるか、日本がなすべきことはなにか、またできることはなにかを、冷静に、そして深く考えることが求められるのである。しかも、それと共に今後の政治家には、明確な発言をする能力が求められている。そうした能力を兼備することは、疑いもなく難しい」(93頁)。

いずれにしても依然として明確な世界秩序が見えてこない現状にあって、「戦間期」の比喩は一定程度の説得力を持ち続けるであろう。そしてその先に見え始めている「多極の世界」において、日本がどのような外交目標を定め、展開していくのかは不明確なままである。「二極の世界」と「単極の世界」においてそれなりの成果を挙げてきた日本外交にとって、「多極の世界」は、規範的な意味合いでの古典外交の知恵と術が要求される時代であり、未知の領野だといえる。すくなくともこれまでの外交路線の延長線上に未来を投影することはできないことだけでは明らかだろう。
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メディアスポーツの狂乱

2010年02月18日 | nazor
バンクーバー冬季オリンピック、そしてサッカーW杯南アフリカ大会と世界的なスポーツイベントが開催される2010年は、スポーツ関係の話題がトップニュースとして報じられる機会が増えることが当然のように予想される。その内容は、競技の成績にとどまらず、代表選手の身体性から彼らを取り巻く人々や制度との関わりなどあらゆる方向に拡散すると同時に、選手たちの所作が無媒介にナショナルな情念や感覚、物語と結びつけられて伝えられる点で、一定の心的共同性を創出し、あるいは再認識させる契機となる。

そしてそれは、森田浩之が指摘するように、メディアの「暗黙のコード」に沿った報道となって私たちの眼前に提供される。すなわち「運動能力をたたえることは基本だが、もちろんそれだけではない。たいていは人格や人柄のすばらしさが語られる。『困難を克服した意志の強い人』であるとか、『ずば抜けた選手なのに周囲への気張りを欠かさない』などと伝えられる。そのアスリートが戦うときには『地元』が応援する姿が映し出され、コミュニティーの期待に値する選手であることが示される。そのコミュニティーが国と重なるとき、『日本を担う』というナショナリズムと親和性の高い表象となる」(『メディアスポーツ解体――<見えない権力>をあぶり出す』日本放送出版協会, 2009年: 183頁)。

とりわけ2月に入ってから、「メディアスポーツ」の権力作用に関心を持つ者にとって、格好の研究素材が相次いで提供されている。まず2月第1週の話題は、横綱朝青龍の暴行問題と(半強制的な)引退表明であった。そこで問われたのは横綱の品格であったが、その内実について誰もが納得するような明確な定義は存在しない、むしろそれは、曖昧模糊とした、それこれ「日本人」なら何となく想像できるものでしかない。そこに「横綱の品格」を理解できる集団と理解できない集団との線引きが成されていると指摘することは難しくないだろう。おそらく「外国人」である朝青龍は、土俵上で圧倒的な強さを示すことを通じて自分なりの横綱像を提示してきたと考えていたのだろうが、内と外を区分する論理を超えた普遍性を持つ「強さ」という指標は、単なるスポーツ以上の、神事であり国技とみなされている相撲をめぐる表象において十分な説得力を持たず、さらにより「日本人らしさ」を醸し出す白鵬の存在によってヒール役としての役割が割り振られたこともそうした強さへの傾斜をもたらしたのではないだろうか。他方で同じ週に行われた相撲協会の理事選をめぐる報道においては、一門制度など角界内部で通用するルールや規範がその外側では異質なものであることが明るみになったわけであるが、そうした異質性に対する批判的眼差しが朝青龍問題で見出すことができないのは、自他を区分する境界性の中でも国(ネーション)のそれがいかに強靭であるかを示唆しているといえるだろう。

続いてスポーツ報道の焦点は、サッカー東アジア選手権での日本代表チームの不甲斐ない試合、そして岡田監督の進退問題に移っていく。この問題は、ちょうど森田が『メディアスポーツ解体』2章および5章で論じているオシムと岡田両監督の表象の違い、あるいはサッカー中継や報道における神話やステレオタイプといった問題圏に位置づけられる(当ブログ「身体能力という怪しい響き」2005年11月17日も参照)。「W杯ベスト4」を目標に「世界に挑む」はずの日本が「アジア」レベルで苦戦する事態は、ちょっとしたアイデンティティクライシスを引き起こす。このとき、「世界>日本≧アジア」という序列が暗黙のうちに想定されていると考えることができる。世界と互角に戦うために日本の組織的なサッカーが、「身体能力」的にそれほど違わないアジアのチーム相手に機能しなかったことは、「組織力が強み」が神話であると暴露したわけで、そうなると日本代表の特徴とは何なのかという根本問題に直面する。あるいはパスばかりでシュートを打たない状況についても、ときに個人よりも集団を優先する国民性に由来すると語られたり、あるいは「キャプテン翼」の影響でFWに優秀な人材が集まらないといったことが(ネタとして)囁かれる。しかしながら、後者の点について、「キャプテン翼」の影響を受けたことを公言する海外選手の中にはフェルナンド・トーレスなど世界的なFWもいることを考えれば、これもまた神話の一種といえる。

そしてバンクーバー冬季オリンピックである。すでに開催前からその服装と言動に非難が殺到し、国会の場で文部科学大臣が「遺憾」を表明するまでに至ったスノーボード国母選手が話題を集めるなど「メディアスポーツ」の特徴が遺憾なく発揮されている。国母問題はまさしく、森谷が引用するサイモン・クーパーの言葉を体現するものであった。つまり「代表チームは肉体をもった国家だ。人びとが代表チームのとるべきスタイルを議論するとき、彼らは往々にして国家が目指すべき姿を議論している」(126頁。原文は、Simon Kuper, "The World's Game Is Not Just A Game", NY Times Magazine, May 26, 2002.)。

開催してからもメディアスポーツの作用は至る所に現出している。ナショナルな表象の典型的な言説として「お家芸」という言葉が頻繁に使われ、スピードスケート500mのメダル獲得が「復活」と語られる一方で、不調の終わったスキージャンプ(NH)の成績は「復活ならず」としてコード化される。あるいはフィギュアスケートのペアでロシア代表として出場した川口悠子の扱いも国籍よりも血統が共感を誘うことを否応なく想起させ、それは外国人地方参政権をめぐる反対論として提起される「帰化条件の緩和」が実質を欠いた、レトリックにすぎないことにも通底する問題である。また国籍を変更してまでオリンピックに出場したのが女性ではなく男性であったならば、これほどの注目を浴びなかったのではないだろうか。この点はまさにジェンダー表象の位相に関係してくるわけだが、このことは、メダルが確実視されながら一歩及ばなかった上村愛子をめぐっても、その「涙」や彼女を見守る夫の存在と組み合わさって、視聴者に届けられる。

すくなくともW杯が終わるまでの2010年前半は、こうしたメディア状況に支配されることになる。そしてこの期間に得られた素材がどのように加工され、新たなメディアスポーツ論として提示されるのか興味深いところである。
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外交(官)漂流

2009年12月22日 | nazor
発足から3ヶ月あまりが経過した鳩山政権は、支持率の低下を報じる各種世論調査の結果から明らかなように、政権交代という目標を成し遂げた余勢が生み出した貯金を使い果たしつつある意味で、本当のスタート地点に立っているといえるし、それは、本格政権に向かうか、それとも細川政権の二の舞を演じるのかの岐路にあるといってよいだろう。しかし現状を見る限り、その前途には多くの障害が待ち構えている。政権交代以前から表出していた鳩山首相や小沢民主党幹事長の偽装献金問題に加えて、財源確保の厳しい現実とマニフェスト実現とのジレンマに直面し、困難な調整が求められる予算編成や、普天間基地移設に関する日米合意の先送りによる日米関係の「危機」、さらには外国要人との会見をめぐる天皇の政治利用問題というように内政および外交の両面において懸念材料が山積している。そしてこれら課題に対して鳩山首相が曖昧な態度に終始する姿がメディアを通じて伝えられることによって、現代政治において政治指導者の資質としてもっとも重要視されるリーダーシップの欠如という評価につながり、それが支持率の低下の最大要因となっている。

戦後日本政治において未経験に等しい政権交代の意義を十分に受け止めるだけの余裕のなさは、変化に対する過剰なまでの怖れを伴った反撥を生じさせる。今回の政権交代の場合、それは、財源捻出を目的とした事業仕分けをめぐる賛否に典型的に現れている。とりわけスーパーコンピューターを筆頭とする科学技術関連事業の廃止・見直しに対する反撥は、ノーベル賞受賞者たちの批判もあって、大きな議論を巻き起こした。こうした反撥もあってかその後スパコン予算の復活に至ったわけであるが、この議論を通じて、仕分けの意味をまったく理解しないまま、科学技術立国日本の今後を感情的に憂う態度に対して、その「上から目線」的な権威主義に違和感が抱き、自省を込めた議論を促す動きが当事者である研究者たちの間でも見られたことは一つの成果であるといえるだろう。

同じく仕分け対象となった外交関連予算について、依然として感情的反撥の域を超えた建設的な議論は見られない。たとえば、細谷雄一は、「外交の両輪『世論』『広報』」(『読売新聞』2009年12月21日)と題する論説において、日本において「外交が崩壊しつつある」と指摘し、『外交フォーラム』および『ジャパンエコー』の買取制度廃止は国民から外交理解を深める機会を奪う「民主的外交の自壊」であり、また「言葉や理念、歴史認識、文化、イメージといった要素が国際関係を大きく左右する」現代世界において、ますます重要性を高めているパブリック・ディプロマシーの自発的放棄を意味すると懸念を表明する。

細谷の懸念が杞憂のものだと一蹴するわけではないが、細谷が前提とするような外交のあり方が現代世界において相応しいものであるのかといえば、疑問が残る。すくなくとも今回の事業仕分けを通じて明らかになったことは、関連事業の意義を説明する官僚たちのプレゼンテーション能力の異常なまでの低さである。すぐれて同質的な空間である(旧)外交から、異質な価値を持つ他者との交渉が支配的モードになっている現代外交の時代に相応しい外交官の資質を見極める意味で、効率性という別種の価値基準に立つ他者を納得させる場である事業仕分け作業は格好の機会であったはずだが、その結果は異質な他者との議論に戸惑う官僚たちの姿を露呈させた。こうした光景を見せ付けられると、異なる価値観がぶつかり合う国際社会においてパブリック・ディプロマシーを展開したとしても、それを担う人材が外務官僚に見出せないとすれば、いくら『外交フォーラム』を発行したところでその効果は期待できない。あるいはこれまでの買取制度によってどのような成果が挙がったのかといった評価が十分になされていたのか、それとも惰性として問題点を抱えたまま継続してきたのかといった点が今一度議論される必要を提起した点で事業仕分けにも意味があったといえる。仕分け人の議論を先取りする形で買取制度の改善点を提起するといった戦略的判断があってもよかったはずであり、日程の関係上、仕分け作業の実態を学習する機会があった点も考え合わせると、仕分け人たちの判断以前に外務省自身に問題の根本原因が潜んでおり、この点に踏み込んで議論が展開されない限り、細谷のそれはノーベル賞学者たちと同じ罠に嵌まってしまうだけである。仕分け作業後には、『AERA』(2009年12月7日号)が「未上映3200回 戦略なき文化発信 外務省所管の国際交流基金」と伝えているように、外務省関連事業をめぐる課題は構造的なものだといえる。いわゆるハコモノの域を出ず、有効に活用されていない点を考えると、日本のパブリック・ディプロマシーの衰退を嘆くとき、むしろその担い手たちの育成こそが課題であり、旧来の外交(官)の発想や枠組みに依拠して政策が立案される状況が根本的に見直されない限り、十分な効果が期待できそうもない。

またその担い手である外交官についての細谷の認識もまた問題となる。細谷は「『政治主導』の美名の下、職業外交官の手から外交を奪い取ろう」としていると鳩山政権を批判しているが、はたして職業外交官に委ねた外交がどこまで有効なのかという問いが生まれるのは当然だろう。細谷の議論を支える精神構造において看取できるのが「職業外交官性善説」ともいうべき立場である。それは、細谷の著書『外交――多文明時代の対話と交渉』(有斐閣, 2007年)に対する網谷龍介の書評論文タイトル「職業外交官への愛情と外交制度分析の欠如と」(『国際学研究』33号, 2008年)が端的に指し示しているが、外交官の持つ専門的な知識や交渉技術に対する全幅に近い信頼感とは対照的に、世論の動向に左右されやすい政治家/政治屋の近視眼的な態度への嫌悪が流れている。しかし網谷が指摘するように「短慮の政治家と同様に、『省益ないし個人的キャリアに固執する外交官』という…自然な仮定」(97頁)が先験的に考慮の外にある。こうした「職業外交官性善説」に立つ限り、たとえば一連の外務省の不祥事などは、一部の個人の問題に還元され、外務省の組織自体に内在する問題が看過されてしまう。たとえ一人一人が優れた知識と素質を有したとしても、外交官もまた自身が属する組織文化に拘束される意味で、旧外交時代の外交イメージを投影した議論とはまったく異なる視座から議論を組み立てることが求められる。

さらに細谷の議論において、国民は常に外交において主体ではなく客体としての地位に留め置かれている。すなわち外交を遂行する主体はあくまでも外交官であり、国民は世論によってそれを「支える」存在、あるいは政府が提示する外交上の争点について「理解を深める」役割以上のものが与えられていない。そこに国民が積極的に外交に参画する契機を見出すことは難しく、むしろ国民の参加が外交の世界を攪乱させてしまうことへの警戒感が滲み出ている。それは、『外交』の中でウォルター・リップマンの愚民観を好意的に引用する細谷の姿勢に象徴されている。外交に対する日本との対照的な態度を指摘するために、フランスの事例が冒頭で言及されているが、雑貨屋にも専門誌が置かれている状況がいかなる経緯で一般化したのかといった動態分析、そして比較から見えてくる日本との相違について議論が及んでいない結果、単なる「ためにする」議論に終わっている。国民の外交に対する理解向上を望むのであれば、関心の低さを憂うのではなく、向上させる方策にはどんなものがあるのか、フランスの事例から学べる点は何か、そして外交専門誌の買取制度がその手段として適当なのか否かに踏み込んで論じるべきだろう。ニコルソンは「外交の専門職業的側面が強化され、その基礎が拡大される」うえで「外交とその主権者との間に信頼関係が回復される」重要性を指摘していたが(『外交』東京大学出版会, 1968年: 97頁)、外交を論じる研究者や評論家たちもまた主権者たる国民との間に十分な信頼関係を築く努力が求められるのであり、それはなぜ国民への懐疑主義に惹きつけられるのかという自らの精神構造を反照的に捉え返す試みにもつながるだろう。たしかに性急な世論への懐疑は、健全な批判精神の発露といえるかもしれないが、世論への懐疑が蔑視へと容易に転移する危険性も同時に考慮に入れておく必要があるだろう。大衆・国民に対する冷めた視線は、外交の可能性を向上させるどころか、むしろその停滞に至る契機となることに対して自覚的であったほうがより望ましい態度であろう。

「職業外交官性善説」に拠って立つ議論は、結局のところ、半澤朝彦が指摘するように、「外務省の省益や官僚の権威主義、外務省の役割が空洞化しつつある不安を代弁している」にすぎず(『年報政治学2008-1国家と社会――統合と連帯の政治学』木鐸社, 2008年: 342頁)、省益と国益を無自覚にも混同することになりかねない。この微妙な距離感を見失うことなく、議論を展開することは困難を伴う。とくに「帝国主義時代の外交官のメガネで現代世界を見る」傾向の強い細谷の議論が「『プロ』は相対化できても、学生は思いのほか、そのまま受け止めてしまう」(341-342頁)、負の行為遂行的代償を内包していることを考えるとき、現代世界における外交のあり方をめぐる時代錯誤的な議論が受け入れられる土壌を整備することになるだろう。職業外交官たちにとって心地のよい議論かもしれないが、それは未来への展望を欠いたアナクロニズムの変種でしかない。外交官を英雄視し、ポピュリズムに囚われた政治家や大衆を憫笑する外交論が、ニコルソンの、そして細谷の意図するところではないことは言うまでもないが、そうした劇画化された外交論を許容してしまう危険性がつねに細谷の外交論に付き纏っている。

・追記(12月24日)
『外交フォーラム』の買い上げ制度の廃止が決定されたわけであるが(「外務省、外交誌の買い上げ制度廃止へ」『日本経済新聞』2009年12月24日)、同日発売の『週刊新潮』(12月31日・1月7日号)は、小ネタ扱いであるが、雑誌の無償配布に際して利用されている第三種郵便制度の要件を満たしていないのではないかという疑惑を報じている。なおこの疑惑は、昨日今日出てきたものではなく、国会でも取り上げられたという(谷博之参議院議員の質問主意書およびそれに対する答弁書)。

無駄に想像力を逞しくするならば、『週刊新潮』の記事に先回りする形で廃止の決定がなされたとの因果関係を推測することができる。パブリック・ディプロマシーの重要性、その手段としての外交雑誌の有用性などを否定するものはないが、国民の支持や理解に支えられるべきパブリック・ディプロマシーを運用する制度の問題点を露にした点で、事業仕分けの副産物とも言えるだろう。
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ドイツ統一の顕教と密教

2009年11月09日 | nazor
冷戦の象徴であったベルリンの壁崩壊から20年目に当たる11月9日を前にして、(当日が新聞休刊であるため)8日付けの『毎日新聞』と『産経新聞』がそれぞれベルリンの壁崩壊からドイツ統一に至る過程に関して、フランスおよび旧ソ連の公文書に基づいた記事を掲載している。同一対象を取り上げている両紙の記事において興味深いのは、ドイツ統一に対するフランスの立場についてまったく対照的な内容になっている点である。

「『独統一』阻む英仏、民主化止められず――旧ソ連秘密文書が語る壁崩壊」と題する『産経新聞』(2009年11月8日)は、「強大なドイツの出現を警戒した英仏首脳は再統一を阻むため極秘裏にゴルバチョフ氏に働きかけたが、"ドイツ国民"の自由と再統一への希求を封じ込めることはできなかった」と要約し、「市民の自由を後押しすることより、地政学的バランスを優先させる首脳らの姿」が明らかになったと指摘する。しかし、記事自体の内容に関していえば、ドイツ統一をめぐってイギリスとフランスの抱いた懸念や反発は、当時から周知の事実に属するものであり、あえて目新しさを見出すとすれば、ソ連側公文書で「再確認」されたという点だろう。

一方、『毎日新聞』の連載記事「統合への原点――ベルリンの壁崩壊20年」は、このたび入手したフランスの未公開文書に基づいて、フランス政府がドイツの統一は不可避であることをベルリンの壁崩壊以前に認識していたことを明らかにして、通説に対する修正を提起している。しかも『毎日』は、連載記事の横に「双方『自己正当化』――外交文書の公開合戦」と題する記事を並べ、単なるセンセーショナリズムに陥ることなく、一歩引いた視点で対象にアプローチする姿勢を垣間見せるなど、コンテクストに目配りを利かせた構成になっている。

両紙を比較するならば、ニュースとしての価値は、通説に挑戦する事実を提起した点で、『毎日』の記事のほうが高いことは一目瞭然だろう。しかも『毎日』の記事を読んでいくと、『産経』の報じた内容が2ヶ月前の『タイムズ』紙の記事("Thatcher told Gorbachev Britain did not want German reunification", The Times, September 11, 2009.)を元ネタにしたことまでが明らかとなるというオチまで付いている(あるいは、ほぼ同内容の記事、「東西ドイツ統一を英仏首脳は『快く思っていなかった』、当時の外交文書を公開」AFP通信2009年11月4日」とのセットか?)。自分の足で取材することなく、デスクに座り、ヨコをタテにしただけの「孫引き」記事で事足りると判断した『産経』にしてみれば、赤恥をかかされた形になったといえるだろう。

ドイツ統一をめぐって、イギリスとフランスが強い懸念を抱いていたことは以前から知られていたが、英仏の間に共同戦線ともいえるような連携が存在したわけではない。たとえば国際政治学の入門書を開くと、「国際的には、ドイツ統一は必ずしも最初から支持を受けていたわけではなかった。サッチャー英首相が懸念を隠そうとしなかったことはよく知られている。…ミッテラン大統領は躊躇しつつも、最終的にはドイツ統一をヨーロッパ統合のさらなる推進の枠の中にはめ込むことで、妥協点を見出した」との記述に出会う(岩間陽子「ドイツの再統一」田中明彦・中西寛編『新・国際政治経済の基礎知識』有斐閣, 2004年: 94頁)。あるいは、一時英仏間にドイツ統一反対で共通認識が生まれたかもしれないが、フランスとイギリスとでは、いくぶん温度差があり、正確に言えば、イギリスによる一方的な片思いに近いのに対し、フランスは冷めた眼で事態の進展を見ていたといえよう。このようなドイツ統一に対する英仏の差異を求めるならば、それは、1980年代に入って新しい段階に踏み出したヨーロッパ統合における英仏の関わり度合いの違いが反映されていると見るのが妥当だろう。つまり「『ドイツのヨーロッパ』ではなく『ヨーロッパのドイツ』をめざし、ECの枠を強化することでドイツをヨーロッパ化して抑え込むという路線が、もっともフランスの利益に合致している」と判断できるだけの、外交政策における選択の幅をイギリスよりもフランスのほうが有していたのである(遠藤乾「サッチャーとドロール 1979-90年」細谷雄一編『イギリスとヨーロッパ――孤立と統合の200年』勁草書房, 2009年; 260頁)。

その意味で、ドイツ統一をめぐって、イギリスと異なる立場をフランスが採っていたと指摘しただけでは別に目新しさは感じない。『毎日』の記事に意義を見出すとすれば、ドイツ統一に関するフランス政府の姿勢は、ベルリンの壁崩壊を受けて流動化する情勢に流される形で、統一容認に動いたというような消極的、状況依存的なものとみなすのではなく、より長期的なスパンに位置づけて考える重要性を示唆している点にある(次の書評論文、吉田徹「ドイツ統一とフランス外交――欧州統合は何故進んだのか」『北大法学論集』57巻6号, 2007年が最新の研究成果を紹介している)。もちろん、実際の統一過程の速度がフランス政府の想定をはるかに上回るものであったことを考えると、壁崩壊以前に検討されたドイツ統一に関するフランスの見方が、どのくらい現実の政治状況によって変更を余儀なくされたのか、そしてフランス外務省が1987年時点で作成した「独統一に関する仏の見解」と題する文書が、外務省レベルに止まらず、ミッテランをはじめとする首脳レベルの外交政策策定においてどの程度反映され、そして実行に移されたのかも検討課題であろう。

また『毎日』は、パリ第3大学のボゾ(Frédéric Bozo)教授の指摘として、1989年12月の仏ソ首脳会談(於キエフ)において、「私はドイツ統一を恐れてはいない」とミッテランが発言したと記しているが、ミッテランは、壁崩壊直前の11月3日、独仏定期協議後の記者会見において同様の発言をしている。すなわち「私は再統一を心配していない。…私は、もし東西ドイツがそれを望み、それを実現できるならば、東西ドイツにとって再統一という懸案は正当なものだと考えている。フランスは、ヨーロッパとその構成国の利益をよりよく実現できるように行動するよう、その政策を適応させることになろう」(高橋進『歴史としてのドイツ統一――指導者たちはどう動いたか』岩波書店, 1999年: 145-146頁)。なお高橋は、この発言を、ミッテランの補佐官であったジャック・アタリの回顧録から引用しているが、この文章に続けて「ドイツ統一は、この段階[壁崩壊以前]ではいまだ軽い存在であった」(146頁; []内引用者)と付け加えているように、壁崩壊の前後では発言の意味合いや重みも当然異なってくる。しかしながら、すくなくともフランス政府は、ドイツの統一問題がいずれ浮上してくると十分認識していたことが、ドイツが統一されるべきか否かといった原則問題に固執し続けたサッチャーとの違いを生み、その対応にいくばくかの余裕を与えることを可能にしたのではないだろうか。

それは、1989年11月28日、コール首相が突如公表した、いわゆる10項目提案に対するイギリスとフランスの反応、とりわけ事情説明のためロンドンとパリを相次いで訪問したゲンシャー外相の印象に現れている。つまり「サッチャーは、統一に反対しており、それは強まっている。もし米仏が接近するとすれば、しかけるのはイギリスであると判断した」一方で、「ミッテランはドイツ統一を妨害しているのではなく、それに枠を設定しようとしているだけであると確信した」という対照的な記述からも窺い知ることができる(高橋: 182-183頁)。その後、統一へ向けて矢継ぎ早に開催される首脳会談を通じて、関係当事国首脳同士の関係においても新たな構図が浮かび上がってくる。その状況下で、コールとの関係を悪化させ、孤立を深めていくサッチャーを尻目に、フランスは、1990年2月の時点で「統一はドイツのその意思と選択によるという原則を承認し、しかし、安全保障、EC、ヨーロッパの均衡という観点から他の国々の関与も必要とする」(高橋: 243頁)と決定を下し、条件闘争に突入した。ここに至って英仏の共同戦線の可能性は完全に潰えることになったのである。

以上の経過を辿ったドイツ統一に対するフランスの行動において、ドイツ統一問題をめぐる二枚舌、あるいは顕教と密教の使い分けに注意を払うことは不可欠であろう。ミッテランの補佐官を務めたジャック・アタリの発言、たとえば「フランスは、ドイツ再統一が不可避であるとしても、それを望んではいない」(高橋: 193頁)、あるいは『タイムズ』やAFP通信が引いている「ドイツが統一されるならば、火星に移住したほうがましだ」といった発言が、フランスの統一反対の証左といえるかもしれないが、それがミッテランをはじめとするフランス政府の統一された認識であるとみなすのは拙速すぎるだろう。むしろ一種の役割分担としてアタリが統一反対の戦線を担っていたと見るのが妥当だといえそうである。したがって、今回新たに公開された公文書から見えてくるのは、長期的な展望としてドイツの統一を視野に入れていたものの、予想を超える速さで進展する統一の動きに対して、できる限りフランスの利益に適う方向に誘導しようと試みるフランス政府の姿であろう。それは、ドイツ国民の自由を求める願望が英仏ソの地政学的打算に勝ったというような『産経』の提起する筋書きとは程遠いものであるし、また『毎日』の発掘した新事実の目新しさに魅了され、フランス政府の先見の明を賞賛するような単純な話ではない(『毎日』の記事を注意深く読めば、そうした見解が出てくる余地がないことは明らかである)。

いずれ今回公開された公文書を渉猟した研究が現れるだろうが、そのとき、フランスの動きをはじめとするドイツ統一の国際政治はどのように描写され、各国の政策決定はどのように解釈されるのだろうか。すくなくとも、これまでの研究を根底から覆すような斬新な見解が提起される可能性は低いと見てよいだろう。スターリンの冷戦外交を考察したヴォイチェフ・マストニーが「ロシアの文書から得られたこれまでの最大の驚きは、なにも驚くべきことはない、ということだ。内部の人間が考えていたことはモスクワが公言してきたことと実質的に変わらなかった。…。誰もそれに気がつかなかっただけ…」と述べ、エマーソンの言葉「本当の原因というものは大抵の場合しごく単純なのだ」を引いていることに習えば(『冷戦とは何だったのか――戦後政治史とスターリン』柏書房, 2000年: 14、15頁)、当事者たちの回顧録に依拠した高橋の研究において、案外ドイツ統一をめぐる国際政治の要点が言い尽くされているといえるかもしれず、新事実に一喜一憂する前に高橋の研究を再読することは決して無駄なことではないだろう。
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解散戦略の収穫逓減現象

2009年07月22日 | nazor
解散・総選挙の実施が首相就任時において麻生太郎に期待されていた唯一といってよい政治課題であり、首相自身も『文藝春秋』(2008年11月号)に寄稿した「強い日本を!私の国家再建計画」で国会開会時の冒頭解散を示唆していたように、その点について十分に自覚的であったと思われる。しかし未曾有の経済危機や閣僚の不祥事といった構造要因に加えて、「漢字の読めない(KY)」あるいは周囲の意見に流され「ブレ続ける」政治姿勢などの首相自身の性格や資質に起因する問題によって、解散権を行使するタイミングを逸し続けることになったのは明らかであり、結果的に首相にとって最大の権力資源であるところの解散権の行使の意味合いが限りなく低下してしまった感は否めないだろう。

解散関連で言うと、甲斐バンドの再結成もまた解散の意義に再考を迫るものだろう(「甲斐バンド、解散わずか5カ月で再結成」『デイリースポーツ』2009年7月22日)。皮肉的な見方をすれば、それは固定ファンにとっては嬉しいニュースかもしれないが、それ以上のファン層の取り込みを実質的に放棄した後ろ向きの決定ともいえる。甲斐よしひろは、たしかにソロ活動を通じて新境地の開拓に挑戦してきた。それは、たとえばブームの終焉時期で、ほとんど話題にもならなかったとはいえ、小室哲哉のプロデュースを受けたことにも現れている。しかし甲斐バンドというブランド(あるいは過去の栄光)に囚われ、そこから決別できずにいることは、度重なる再結成が物語っている。

甲斐よしひろ / against the wind (未発売の小室プロデュース曲)
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オーウェル2009

2009年07月21日 | nazor
ジョージ・オーウェルの代表的な小説である、『1984年』(早川書房, 2009年)および『動物農場――おとぎばなし』(岩波書店, 2009年)の新訳版が相次いで刊行された。

『1984年』は、2009年がちょうど出版60周年目にあたり、またその関連性が容易に推察できる村上春樹『1Q84』(新潮社, 2009年)の(過熱気味の)人気も相俟って、商業的な意味でも時に適った刊行だろう。また国際政治学の領域でも近年の「美学的転回 the Aesthetic Turn」の流れを受ける形で、オーウェルの政治思想に焦点を当てた研究が登場しており、それはまた学問としての国際政治学の黎明期に活躍した研究者や知識人の思想形成に注目する趨勢にも連なる(Ian Hall, "A `Shallow Piece of Naughtiness': George Orwell on Political Realism", Millennium, vol. 36, no. 2, 2008)。

一方『動物農場』に関しては、文学的意味合いとはまったく別の文脈で気にかかり、読み直そうと思っていたところであり、新訳版の出版はありがたい。どういった文脈なのかといえば、ザ・マッド・カプセル・マーケッツ絡みで、2008年に始動した上田剛士のユニット「AA=」は言うまでもなく『動物農場』の七戒のひとつ「すべての動物は平等である All Animals Are Equal」から採られていることにある。

AA= / PEACE!!!


AA= / ALL ANIMALS ARE EQUAL
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失われた社会民主主義の再考/再興

2009年05月30日 | nazor
55年体制が崩壊した1990年代以降の日本政治を特徴付ける政治改革および政界再編の議論が目指したのは、安定した(二大)政党による政権交代を可能にする政治システムの構築であった。一方の軸を担う政党として自民党が半ば自明視されていたため、議論の焦点は、自民党に対抗できる政党の形成に向けられ、20年近い時間をかけた野党勢力の離合集散の結果、民主党が対抗政党の地位を占めるようになった。そして小泉政権が推し進めた構造改革路線の負の側面が顕在化し、さらに後継首相が一年も経たずに政権を投げ出す事態が相次いだことは、自民党政治の末期症状ないし終焉を強く印象付け、政権交代の機運を醸成している。たしかに政権交代への期待感は、小沢一郎の西松建設献金問題の発覚によっていったん萎んだかに見えたが、鳩山由紀夫が新代表に選出された直後の各種世論調査の結果が示すように、麻生政権の支持率回復が一時的な現象であり、次期総選挙の結果次第によっては民主党政権の誕生は大いにありうるといえるだろう。

しかしながら、民主党への支持は、民主党の政策に対してというよりもむしろ「自民党ではない」、あるいは「自民党よりもまし」という消極的理由に拠るところが大きいし、それが「政権担当能力」というお決まりの批判が説得力をもって受け止められる要因にもなっている。しかも結党過程から明らかなように、民主党は、出自を異にする多様な政策グループを抱え、防衛・安全保障政策に関しても、また経済および社会政策の分野においても、党内の意見が集約されているとは必ずしもいえない。そのため、一部には自民党以上に「タカ派」で「新自由主義」的な匂いを漂わせている。民主党の政策的不透明性は、自民党に対抗する政策上の結集軸として福祉などに象徴される社会民主主義的な理念に基づいた中道左派政党に期待する者にとって不安材料となっている。

一方で社会民主主義についてのイメージは依然として旧来の大きな政府と結びつけられ、グローバル資本主義の圧力への対応力に欠けている印象を与える。とりわけ日本の場合、自民党と対峙する政党を支える政策理念を社会民主主義に見出し、政策距離の違いがほとんど存在しない2つの保守政党ではなく、政策上の対立軸に沿って結晶化した保守政党と社民政党による政権交代を想定する議論や試みは、1990年代を通して、大きな挫折感を味わってきた(たとえば、山口二郎『ポスト戦後政治への対抗軸』岩波書店, 2007年: 1章参照)。自衛隊や日米安保条約の容認といった政策転換にもかかわらず、抵抗政党という旧来のイメージを払拭することができず、支持を急速に失っていた社会党の動向は、同時代にあって、党改革を断行し、強力な指導力を発揮する党首に率いられたイギリス労働党やドイツ社会民主党が政権を獲得したヨーロッパの状況と比較対照されることによって、日本政治において社会民主主義勢力の低迷を物語っている。

「左派の蹉跌」を経て、21世紀に入り、日本政治は小泉政権の誕生とともに新自由主義的色彩を強めたわけであるが、小泉政権の構造改革路線に起因する問題が次第に現出するにつれて、貧困や格差などの経済社会問題に対する有効な処方箋の根底に看取できるのが社会民主主義的な理念であることを考えたとき、社会民主主義を政策理念として掲げる政党が支持を獲得するだけの下地は十分に存在するといえるだろう。以上の点を念頭に置くならば、これまで日本における社会民主主義(思想)は国際冷戦の図式に引き摺られ、過小評価されてきたが、新自由主義的なグローバリゼーションがもたらす弊害に対する代案としての社会民主主義に対する新たな関心に呼応しながら、しかも歴史的な文脈のなかで考察する議論が近年登場してきたことは興味深いといえよう。

酒井哲哉は、思想史的な観点から戦後革新における「民主社会主義」の再考を通じて「政権担当能力のある社会民主主義政党は、なぜ日本で育たないのか」という問いへのアプローチを試みている(「ワールドスコープ:民主社会主義 再考の価値」『読売新聞』2009年5月18日)。酒井によれば、昭和前期の社会政策学者・河合栄治郎にその知的系譜を遡ることができ、戦後になって社会党右派や民社党の思想的基盤となった民主社会主義に対する思想史上の評価はきわめて低い。それは、戦後知識人にとって民主社会主義が負の記号と捉えられ、また革新陣営が掲げるマルクス主義や平和主義と一線を画した反ソ・反共的な姿勢、対米協調関係の重視などに起因し、国際冷戦を投影した保守と革新の二分法的な対立構図で叙述されがちな戦後政治史の見方に立つ限り、民主社会主義を適切に位置づけることを困難にしている。

社会民主主義の位置づけの難しさは、別の論考で論じられているように、戦間期の国際秩序論を視野に入れることによってより明確になる(「社会民主主義は国境を越えるか?──国際関係思想史における社会民主主義再考」『思想』1020号, 2009年)。すなわち蝋山政道や矢内原忠雄らの越境的な福祉への関心に内在する「帝国再編の磁場にあったがゆえに生じた垂直的制御への志向性」(141頁)が、東亜協同体論などの地域主義構想に見え隠れし、「国際関係思想における社会民主主義は、水平的連帯と垂直的制御が諧和する場において、その福祉関心を強権によって具現化することになった」(142-143頁)。そして戦間期の秩序論が孕んでいた越境的(・グローバル)な契機の二重性は、戦後日本における社会民主主義の位置づけや評価にある種の「ねじれ」をもたらすことになる。すなわち河合栄治郎の薫陶を受けた「民主社会主義者」が唱えた近代化論に見られるように、機能的統合論や地域主義構想などの社会民主主義的な秩序論は、「戦後日本においては『保守』の言説とみなされ」た(144頁)。また「講和以後の社会党の統治政党から抵抗政党への転換」が「本来社会民主主義政党に包含されて然るべき要素を、意図せずしてしめだ」したことも「民主社会主義」の位置づけや評価を曖昧なものにしたといえる(「国際関係思想における社会民主主義――戦後日本政治に対するその含意」山口二郎・石川真澄編『日本社会党――戦後革新の思想と行動』日本経済評論社、2003年: 41頁)。

一方、戦後日本政治において社会民主主義の可能性がまったく排除されていたわけではなかったことを労働政治の領野に焦点を当てて明らかにしたのが中北浩爾『日本労働政治の国際関係史 1945-1964――社会民主主義という選択肢』(岩波書店, 2008年)である。権力政治上の対立とイデオロギー上の対立が絡み合う冷戦の特質は、自由主義陣営の内部の労働組合を「『鉄のカーテン』と並ぶ、冷戦のもう1つの前線」(5頁)として浮上させたが、中北は、これまで左派の総評と右派の全労との対立と叙述されてきた戦後日本の労働政治において、「西側指向で生産性の向上に協力しながらも、労働者の生活水準の改善を強力に推し進める戦闘的で統一的な労働組合のナショナル・センターを支持し、その登場を後押しする」(12頁)社会民主主義的な外圧がアメリカをはじめとする各国および労働組合から加えられたと指摘する。そしてアメリカの対日労働外交の射程は、「西側指向で統一的な労働組合」を「基盤とする政権担当可能な社会民主主義政党の結成」(359頁)にまで及んでいたことや、「アメリカ政府は、自民党政権以外の選択肢を否定したわけではなかったし、労働組合に対しても必ずしも敵対的ではなかった。アメリカが拒否したのは、あくまでも共産主義や中立主義であり、西側陣営を指向する西欧的な社会民主主義は、アメリカの冷戦政策が許容する範囲に入っていた」(359頁)といった指摘は、従来の戦後日本政治史像に対する重要な問題提起となっている。加えて中北は、戦後世界における労働組合運動の展開を辿る試みを敷衍して、「貧富の格差の拡大など世界中で深刻な問題を発生させているグローバル資本主義に対抗する鍵は、公正なグローバリゼーションを目指す国際的な労働組合運動と先進国の政府のイニシアティヴに存在する」(363頁)という今日の世界への含意を導き、グローバルな社会民主主義という可能性を示唆している。

たしかに実際の戦後政治の展開において、社会民主主義を一方の結集軸とする政党政治の確立、およびそれに基づく政権交代の可能性は皆無であり、自民党による一党優位体制が長期にわたって続くことになった。それゆえに社会民主主義という選択肢は「歴史のイフ」に属する問題かもしれないが、酒井や中北が社会民主主義に改めて注目する理由の一端には、1970年代以降の政治経済を規定する思想である新自由主義に依拠した経済政策の弊害、そして社会的不平等や貧困の是正や解消に際して社会民主主義の系譜に連なる理念や政策が有益な知見を提供してくれるという今日的な関心に基づくものであることは明らかである。酒井が指摘するように、民主社会主義の知的水脈が、19世紀後半に自由放任主義を批判し、「新しい自由主義 New Liberalism」を提唱したT・H・グリーンの思想に遡ることができることは、19世紀から20世紀にかけての世紀転換期の国際関係史と現代との共通点を浮かび上がらせるとともに、現代のグローバリゼーション理解に纏わりつく視野狭窄に陥る危険性を回避することにもつながっていく。

社会党の抵抗政党化と自民党の包括政党化に基づく55年体制は、理念の軽視された時代でもあった。社会党は実現可能性の乏しい理念を振りかざすことに満足する一方で、自民党は政権維持のため、ときに相矛盾する理念までも採り入れることに躊躇しなかった意味で、そこに理念の過剰もしくは過少しか見出すことができず、理念と利害の適切なバランスに依拠した政治が存在したとはいえない。小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」まではいかずとも、新自由主義を自民党の理念に据えたことは、その理念の是非をめぐっては議論の分かれるところではあるが、自民党の変容を意味しているといえる。そして自民党が新自由主義に親和的であるというイメージは、対抗軸としての社会民主主義の価値を高める効果を発揮した。たしかに構造改革路線の弊害と2007年参院選の大敗が、自民党に軌道修正を迫り、また先述したように民主党もはっきりと社会民主主義路線に舵を切ったわけではない。しかし「理念を持った責任政党」(酒井「民主社会主義…」)による政治、そして政権交代の実現が政治の健全な在り様だとすれば、社会民主主義の理念を掲げる政党が一定の力を有することは望ましいことであろう。
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追憶の(論壇)現実主義

2009年05月16日 | nazor
戦後日本の、とくに外交安全保障政策に関する公論形成に大きな役割を果たしてきた論壇の衰退が叫ばれて久しい。国際的な冷戦構造の解体と連動する形で、いわゆる「国内冷戦」としての55年体制も溶解した1990年代以降、広く国民一般に浸透し、議論を喚起するような言説を紡ぎだす努力が等閑にされ、自らの思想・信条とは相容れない意見に耳を傾ける姿勢に欠け、むしろそうした異論を徹底的に排除するような形の言語ゲームが展開されている。とくに左派・革新派の退潮が言論においても実際の政治においても顕著となり、論壇空間の重心が右寄りにシフトしたことによって、右派・保守派言説のヘゲモニーが確立されたといえるかもしれない。

しかし論争相手を失ったことは、右派・保守派内部での言説の細胞分裂をもたらし、善悪の二項対立に基づく冷戦思考を極限まで純化させたような観念主義やロマン主義に彩られた言説が一定の支持を得るようになっている。この右派・保守派言説の観念論的転回ともいうべき現象は、右派・保守派の論壇誌のうちで相対的に地に足の着いた議論を提供してきた『諸君!』の休刊や、戦後の論壇現実主義の担い手であった永井陽之助や神谷不二といった論者たちの(肉体的)退場などによっても強く印象付けられる。またいわゆる「田母神論文問題」において文民統制の観点から批判した五百旗頭真・防衛大学校校長に対して、一部の防衛大学校OBを中心に抗議や非難の声が挙がっていることも、従来の右派・保守派についての感覚に照らしてみたとき、高坂正堯や永井といった現実主義の系譜に連なる五百旗頭に対する非難は、きわめて奇異な現象である。

こうした右派・保守派の言論空間の変容(あるいは硬直化)に対して、五百旗頭と同じく戦後の(論壇)現実主義の伝統に連なる村田晃嗣も懸念を表明し、「保守」が「現実主義」との接点を保つことによって、狭量さや硬直化に陥ることを回避すべきだと説く(「正論:保守は現実主義を取り入れよ」『産経新聞』2009年5月14日)。村田の懸念は何も今日的な現象ではない。1960年代半ば、永井は、いくぶん毒を含ませて観念的保守派に対する皮肉を(憲法改正に関連付けて)述べている。すなわち「『安全』のために『独立』を放棄した保守政権に、憲法改正のイニシアチブをとる、何らの権利もない。…。ともかく、自民党が現行憲法の改正を云々するのは、戦後20年の業績を自ら否定し去るようなものである。保守勢力は"反動"から脱して、真に保守らしく、現憲法(戦後体制)を保守する側に回るのがスジである」、あるいは「自民党は、『憲法改正』という党の綱領を改め、保守政党らしく、現憲法の遵守(戦後体制保守)を明確化し、平和と民主主義の精神に徹すべきである」(『平和の代償』中央公論社, 1967年: 165、186-187頁)。

それでは、村田が引用する高坂や永井らの現実主義とはいかなるものなのだろうか。別の論考で村田は、戦後の(論壇)現実主義の展開を揺籃期・爛熟期・拡散期に三区分したうえで、爛熟期の特徴として「学問としてのリアリズムと政策としてのそれの中間に、両者を架橋する形で論壇『現実主義』が大きく介在した点」を指摘する(「リアリズム――その日本的特徴」日本国際政治学会編『日本の国際政治学(1)学としての国際政治』有斐閣, 2009年: 43頁)。そして論壇現実主義を牽引した論者たちに共通する点として、言論におけるドグマ・イデオロギー性の弱さ、アメリカ経験、冷戦終焉までにわたる活動期間の長さ、活動場所としての論壇、そして現実政策への関与という5点を、また現実主義(的思考)が1960年代に入って台頭してきた要因については、冷戦構造の所与性、日本の大国化、アメリカとの同盟関係の管理の必要性、そして世論の保守化傾向を挙げる(48-49頁)。

たしかに(論壇)現実主義は、まさにその時々の国際政治情勢を背景にして論壇という場で、多くが評論という形式で提示された点で、すぐれて文脈依存的であり、議論や説明が不十分な面も否めない。言い換えれば、(論壇)現実主義は、あくまで冷戦リアリズムの一種であり、それゆえに時代拘束性を免れることはできず、村田が挙げる共通点や台頭要因を規定した条件が失われたとき、(論壇)現実主義はその内実を刷新することを余儀なくされる。しかし、そうした条件を所与として展開してきた(論壇)現実主義は、ポスト冷戦期(あるいは村田の区分で言えば拡散期)に入り、自己変革の契機を十分に捉えることができなかったのではないだろうか。

高坂が提起し、永井が昇華・定式化させた「吉田ドクトリン」という(論壇)現実主義第一世代の遺産は、日米安保の再定義などを経て、外交政策上の変更できない不可侵の原理になっていった。日米同盟の神聖不可侵化の帰結は、第一に、外交政策上の争点とはなりえなくなったことを意味すると同時に、具体的な同盟政策の内実よりも、親米か反米かあるい親日か反日かといった観念や象徴レベルに論争の舞台が移行し、冷戦期以上にイデオロギー的様相を呈するようになる。それにともなって現実主義の意味内容も「力の政治」や軍事力の効用を強調する、単純で分かりやすいものの、政策的な構想や処方箋としては無内容に等しい、いわゆる「タブロイド・リアリズム」と化していく。それは、田母神論文がアメリカの(公式)歴史観を否定してみせたように、すくなくともアメリカとの同盟関係を軸に据えた戦後の(論壇)現実主義が整備した枠組みとは相容れない意味で、似非現実主義と呼ぶべき世界観である。

第二に、日米同盟が与件となったことによって、イラク戦争の開戦理由をめぐって村田をはじめとする現実主義第二世代の展開した議論に典型的に現れたように、現実主義が限りなく現実追随主義に傾斜していくという陥穽である。それはまた、対米協力を具体的な形で可視化する方策として、軍事的な貢献が強調されることに見られるように、同盟関係における軍事の論理が優位していく。永井の図式で言うところの政治的現実主義に対する軍事的現実主義の優位であり、そこから単純で素朴な「力の政治」を教条化する似非現実主義までの距離はそう遠くない。高坂や永井ら第一世代が有していた、きわめて冷厳で柔軟な同盟政策観に触れたとき、現実追随主義の位相はいっそう際立つ。第一世代にとって「選択」の問題であった日米同盟は、第二世代には「運命」と捉えられ、あるいは高坂の表現を借りれば(『海洋国家日本の構想』中央公論新社, 2008年: 25頁)、手段としての同盟から目的としての同盟へと「手段-目的」関係が反転している。その結果、「運命」と認識するがゆえに同盟の解消をも考慮に入れた外交構想が提示できない思考停止状況が生まれ、「日本本土の米軍基地はすべて引き上げてもらう」(高坂: 243頁)や、「緊張緩和のテンポに応じて、日米安保体制を、しだいに有事駐留の方向に変えていく」(永井: 130頁)といった同盟を相対化する視点は、それこそ「非現実的」として先験的に退けられてしまう。

一方における現実追随主義と、他方における現実主義のタブロイド化によって挟撃されている状況、それが1990年代以降の(論壇)現実主義の軌跡の先に現出したものであった。タブロイド化した似非現実主義を憂い、慎慮に基づく現実主義の復権を志向する態度が、硬直化した公論空間に対する一種の解毒剤として機能する期待から出てくるものであるとすれば、それはあくまで対抗言説の領野に止まらざるをえない。高坂や永井の議論を対置するだけで満足しては、なぜ第二世代の論者たちが現実追随主義の陥穽に嵌りがちなのかを理解できない。第一世代の議論の中身にまで立ち入って、日本型現実主義の特質や問題点を明らかにする作業が必要とされる。さらにいえば、村田が叙述するような日本における現実主義(思考)の「正史」では捨象された現実主義の多声性に目を向けることができるし、それこそが現実主義の再評価に値する試みであろう。
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戦争ゲームの形態学

2009年04月29日 | nazor
イラク・ファルージャ掃討作戦(2004年11月)を基にしたゲーム「ファルージャの6日間 Six Days in Fallujah」が批判を受けて開発が断念されたというニュース(「イラク市街戦をゲーム化、米で批判受け断念 コナミ」『朝日新聞』2009年4月27日)において興味を引くのは、製作過程において、ゲームのリアリティを高めるために、実際に掃討作戦に参加した兵士による戦闘日誌など資料提供を含め、軍の協力があったとされる点である。それは、James Der Derian, Virtuous War: Mapping the Military-Industrial-Media-Entertainment-Network, 2nd ed., (Routledge, 2009)で提起された、科学技術と倫理の優位性に基づく「高潔な戦争」を支える「軍・産業・メディア・娯楽ネットワーク MIME-NET」が機能している一つの事例と解釈することができる。

MIME-NETにおける軍とゲームをはじめとする娯楽産業との結びつきは、今回の事例のように、ゲーム製作にあたり、軍の情報が提供されたという意味でいわゆるスピンオフ(軍事の民生転用)に限られるものではない。むしろ、その逆の流れ、つまりスピンオン(民生の軍事転用)がより重要な役割を担っているといってよいだろう。戦闘計画の立案や軍事訓練・演習において、ゲームや映画製作などで培われたCGや特殊メイクなどの最先端技術が全面的に活用され、あたかも実際の戦地と同じ光景を体感できる訓練が可能となっている。それは、現地で兵士が遭遇するであろう不測の事態に迅速に対応できる能力を身に付けさせると同時に、政府や軍上層部が懸念する戦死者の増加を抑制する効果も期待される。まさに戦争を高潔なものとして提示し、喧伝するうえで欠かせないインフラを提供しているのが娯楽産業発の技術であり、その結びつきの度合いは深いレベルで構造化されている。

多数の犠牲者を出したファルージャ掃討作戦が政府や軍部にとって汚点であり、そうした失敗を繰り返さないために、たとえば「NHKスペシャル:戦場・心の傷(1)兵士はどう戦わされてきたか」(2008年9月14日放送)で取り上げられた海兵隊ペンデルトン基地に見られるように、「イラク村」と呼ばれる擬似市街と、イラクの民衆に扮した人々を相手とした訓練が必須となっている。「イラク村」を映画の撮影現場から区別できるだけの決定的な差異を見出すことは容易ではなく、換言すれば、ハリウッドの手法が深く浸透していることを示しているといえるだろう。こうした文脈に位置づけるならば、ファルージャ掃討作戦の教訓に基づいた訓練(換言すればシミュレーション・ゲーミング)と、開発断念に追い込まれたゲームソフト「ファルージャの6日間」の距離はそう離れていない。

こうした現実と仮想現実の境界侵犯が認められる一方で、戦地からの帰還兵士の多くがPTSDなどの精神的不安やストレスに悩まされていることが報告されている実情を考えると、そこに戦争とゲームとの間には架橋することが困難で、決定的なまでの断絶がある。それゆえ、「高潔な戦争」を遂行するうえで、戦死者の問題、そして帰還兵士の精神的ストレスに起因する犯罪などはできるだけ最小限に抑えておくべきだという考えを徹底的に推し進めるならば、その先に現出するのは、戦場の非・脱人間化、すなわちすでに無人偵察機などに見られるが、文字通りの戦争機械(ロボット)同士が対峙する空間としての戦場の光景である(たとえば、P. W. Singer, Wired for War: the Robotics Revolution and Conflict in the 21st Century, Penguin Press, 2009.参照)。生身の人間ではなく、ロボットが主体として従事する戦場は、「高潔な戦争」を追い求める者にとって理想の風景ではないだろうか。戦場の脱人間化=ロボット化はそれこそSFの世界の出来事であり、絵空事に過ぎないと一蹴できないほど実情が進んでいることは、ロボット開発で最先端を行く日本企業に対する働きかけがなされ、倫理的なジレンマを突きつけていることからも窺える(「クローズアップ現代:"日本ロボット"はどこへ・問われる軍事利用」2009年4月13日放送)。

冷戦終焉から20年を経た現在から、いわゆるポスト冷戦期を回顧したとき、その始点に位置づけられる(第一次)湾岸戦争は、開戦理由や戦争終結の形式などに旧来の国家間戦争との共通点が見られるにもかかわらず、テレビゲームの映像との相同性を強く印象付けたように、その表象次元においては、MIME-NETの萌芽的作動だったといえる。そしてその後の展開をみれば、表象次元において先行していた戦争様式の変容を後追いするように、交戦主体間の非対称性の拡大が、軍事力という実体次元でも、道徳・倫理・人道主義といった普遍的言説の浸透および排他的領有によって規範・観念次元でも明らかとなることによって、対峙する敵はいわゆる「絶対的な敵」(カール・シュミット)としての役割を与えられる。実体・表象・規範それぞれの次元における圧倒的優位性がもたらすのは、敵の絶対化・悪魔化、つまり画一的な敵イメージであり、彼らは共感や共苦を分かち合うことのできない存在である。この一連の「絶対的な敵」の構築、そして破壊過程において、メディアや娯楽産業で培われた知識や技術が、そしてそれらを通じて流布するイメージが必要不可欠な構成要素となっていると理解するのは難しいことではないだろう。

結局のところ、「ファルージャの6日間」が市販されることはなくなったものの、製作過程で得られたノウハウが軍事訓練に転用される可能性は否定できない。むしろ、すでに訓練用に存在するソフトをゲームとして楽しめる形で開発しようとしていたとも考えることができるかもしれない。「長い21世紀」において戦争という営みを考察するとき、MIME-NETに象徴される複合的な構造を念頭に置く必要があることを認識させたところにニュース価値を見出すことができるのではないだろうか。

VIRTUOUS WAR: MAPPING THE M-I-M-E NET


・追記(4月30日)
「ファルージャの6日間」を企画・開発したアトミック・ゲーム社のHPを見ると、ゲーム製作だけでなく、実際の軍事訓練システムの開発・提供にも事業が及んでいるらしく、そのことは、アトミック・ゲーム社自体が、MIME-NETの切り開いたビジネスチャンスを捕えた企業であり、まさしくMIME-NETを象徴しているといえる。
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失地回復運動の地理学

2009年02月19日 | nazor

国境意識に対する危機感を煽るような動きがここ最近になって保守派の政治家やメディアの間で生じているが、西方で尖閣諸島や東シナ海の海底油田開発問題に始まり、去年末あたりから『産経新聞』(のみ)が積極的に報じている、韓国資本の進出に晒される対馬、北方に目を転じれば「北方領土」に加えて、たとえば小堀桂一郎「正論:樺太を露領と認めたのはいつか」『産経新聞』(2009年2月17日)のように、昨日の麻生首相が訪問したサハリンの帰属についても未確定であることが強調されている。そして『読売新聞』(2009年2月19日)が報じている自民党外交関連合同会議で外務省飯倉公館に飾られている平山郁夫作「日本列島誕生図」に北海道や沖縄が描かれていないことが問題視され、柴山昌彦外務政務次官が展示を取りやめる意向を示したというニュースもまたこうした危機意識の発露を示す挿話といえる(「外交の舞台に適さず?平山画伯の絵に自民会議で批判の声」)。

「日本列島誕生図」に対する批判が興味深いのは、「領土が地図に先行するのでも、従うものでない。…地図こそが領土に先行する」というジャン・ボードリヤールの言葉を想起させる点にある。若林幹夫が指摘するように、それは、「地図は世界を写し取るのではなく、世界の側が自らの上にそれを重ね合わせることによって一つの領土、一つの帝国を生み出す『原型』のようなものとして機能している」という「ボルヘス・ボードリヤール的な逆説」の介在を示唆している(『増補・地図の想像力』河出書房新社, 2009年: 11頁)。国土を可視化する媒体である地図や絵画は、ある特定の領土を国民化する役割を担っている。その意味で古事記神話に基づく「日本列島誕生図」が現実の日本の領土を「正しく」描いていないと批判することは大人気ないとみなすべきではなく、むしろ批判する自民党議員たちは無意識的にであれ、フィクションである絵画によって北海道や沖縄を欠いた日本という「国のかたち」が規定されることに対する怖れを嗅ぎ取っているわけである。しかしながら彼らが前提する北海道も沖縄も描かれた日本という国土空間それ自体はいうまでもなく近代の産物であり、どちらの領土も(国内)植民地としての歴史を持っていたことを考えると、そうした歴史的経緯を省みることなく北海道も沖縄も日本の領土だと言ってしまう感性はあまりに無邪気すぎる。

絵画はもちろんのこと一見客観的に思われる地図でさえもそれを眺める視線の位置によって異なる意味合いを持つことは言うまでもない。世界地図を思い浮かべたとき、地図の中心にどの地域を持ってくるかによって、たとえば多くの日本人にとって太平洋、つまり日本が真ん中にある地図が馴染み深いが、ヨーロッパ地域では当然大西洋を中心に据えた地図が一般的であるし、また南半球では南北が逆転した地図があるように、あるいはメルカトル図法がロシアやアメリカといった北半球に位置する国家の領土を相対的に広大に見せるように、どのような地図をどのような視点で眺めるかによってその人の世界認識は規定される。また日本についても、網野善彦『日本の歴史(00)「日本」とは何か』(講談社, 2008年)で取り上げられている富山県作成の「環日本海諸国図」は、「海を国境として他の地域から隔てられた『孤立した島国』であるという日本人に広く浸透した日本像が、まったくの思い込みでしかない」(35頁)ことを示唆している。

こうした地図に内在する権力作用が端的に現れているのが「国境に分かたれた世界」としての世界地図である(地図/権力関係一般についてはジェレミー・ブラック『地図の政治学』青土社, 2001年参照)。国境線に区切られ、それぞれの国の領土が色分けされている地図に慣れ親しんでいるため、国境の内側は均質化された空間として認識され、その均質的な空間が過去に遡って投企されることによって、ひとつの国民史が形成されていく。国民意識形成と地図の共犯関係を通して、空間の均質化が時間の均質化を促し、固有の領土や悠久の歴史、あるいは単一民族といったナショナリズムを支える言説が生まれてくる。

こうした国民/国家創造=想像の過程に注意を払うならば、「日本列島誕生図」をめぐる批判は「ひとつの日本」という別様のフィクションに基づくものであるといえるだろう。彼らが抱く「ひとつの日本」は歴史的に見ればまさに幻想にすぎない。日本列島という地理的空間とその政治・経済・社会的な空間との間には決定的なズレが存在していたのであり、いわば「複数の日本」が常態であった。そして明治維新後の近代日本はそのズレを解消しようと試みたわけであるが、次第に主権線と利益線の区別が曖昧になり、日本列島の外へと膨張し、台湾や朝鮮半島に植民地を抱えることによって逆説的にいっそうズレを大きくしてしまったのである。結局のところ帝国日本という「国のかたち」が否定されたとき、日本は「ひとつの日本」という理想にもっとも近づいたといえるのかもしれない。海外植民地を放棄し、朝鮮人や中国人といった他者が非国民化され、内なる他者である沖縄はアメリカの統治下に入るなど敗戦によって国民と国家の相同性がきわめて高い領域空間が出来上がった(終戦がさらにずれ込んでいたならば北海道もソ連の占領下に入り切り離されていた可能性が高い)。しかしこの意図せざる受動的な「ひとつの日本」の形成は純粋な意味におけるナショナリズムの欲望を満たす一方で、領土的欲望を抑制する。この二つの欲望の相克を沖縄の復帰に関連付けるならば、再び内なる他者を抱え込むことによって「ひとつの日本」という擬制が蝕まれることを意味すると同時に、沖縄において復帰という選択肢が必ずしも全面的な支持を受けていなかった点で日本による沖縄の再領有、あるいは失地回復運動の一環と捉えることができる。

北海道も沖縄も描かれていない「日本列島誕生図」は、日本という国の成り立ちを改めて考えさせる絶好の素材である。それは最近の国境・領土に対する保守派の危機感に反して、「ひとつの日本」という擬制を再認識させてくれる。領土的欲望あるいは危機感はナショナリズムの高揚を導くどころか、ナショナリズムが目指すところの「ひとつの日本」それ自体に対する批判的眼差しを提供する意味で逆説的な効果をもたらすものである。

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戦後史のなかのポスト小泉時代

2009年02月18日 | nazor
漢字が読めない(KY)政治家というイメージが定着してしまった麻生首相が読めなかった漢字「未曾有」は、そのインフレ気味な使用頻度によって、麻生首相(そして政権期)を言い表す枕詞として認知されていると言ってもよいだろうし、後世の歴史家などがこの時期を振り返ったとき、安倍・福田・麻生と続くポスト小泉時代は日本にとって「未曾有の時代」、しかもプラスではなくマイナスの意味で「いまだかつてなかった」時代と回顧されるかもしれない。

おそらく麻生首相の「盟友」中川昭一財務・金融相がG7財務相・中央銀行総裁会議後の記者会見における「酩酊疑惑」で辞任せざるをえなかったことも「未曾有」の出来事のひとつであることは明らかだろう。しかしその辞任にいたるまでの経過を見る限り、「未曾有」というよりもむしろ既視感を覚えずにはいられない。安倍政権の赤城農水相の事務所経費および絆創膏問題との共通点を指摘する声があるように、疑惑の当事者は十分な説明責任を果たすことなく大臣の椅子に執着するような態度を見せる一方で、任命者である首相は自分で「お友達」を切る決断を下せず、周囲の反発や圧力に押される形で辞任を追認してしまう流れが繰り返されている。ただし決定的に異なるのは、内輪(=日本国内)の問題に過ぎなかった赤城農水相と違って、中川財務相の場合は世界的な経済危機への対応策を協議するG7が舞台であったこと、そして辞任をめぐる騒動がちょうどクリントン国務長官の訪日と重なったことが示すように外交問題の位相を孕んでいる点にある。景気対策を優先し、また外交を売りにしている麻生首相にとってみれば、国内政治の失点を埋め合わせる格好の場を奪ってしまう、いわば援護射撃をしてくれるはずの「盟友」による裏切り行為になったといえるだろう。

戦後日本を築き上げた政治家の子孫たちが相次いで政権を担うポスト小泉時代の政治は、あくまで「ポスト小泉」である点において小泉政権と比較対照されるとともに、その功罪、とりわけ罪の部分についての後処理を引き受けなくてはならない役割にあるが、安倍・福田・麻生の三人とも小泉政権の罪が典型的に現われている国内の経済および社会制度をめぐる問題に対して確かな政策理念や構想そして手段を持っていたとは言い難いのではないだろうか。それよりも彼ら三人は国内政治の困難さから逃れるかのように、政権のアピールや浮揚の契機を外交に求めていたように思われる。たしかに利害が交錯し、調整に時間がかかる内政に比べると、外交は、政治指導者の意思を反映する余地が大きく、また国民的な一体性を高めることも期待できる政策分野と考えられる。しかし内政と明確に区別された独自の政策空間としての外交を想定する見方はかつての古典外交のイメージを引きずったアナクロニズムである。内政と同様あるいはそれ以上に利害の錯綜する空間が国際社会であるとすれば、ポスト小泉時代の内政に対応する術を持たない政治指導者が外交に活路を見出したとしてもそこから得られるものは皆無であろう。

反対に小泉首相が成功したのは内政と外交の双方で「情念の政治」を展開した点に求められるのではないだろうか。もちろん「情念の政治」は、対米関係において「戦後最良の関係」をもたらした一方で中韓との歴史認識や対北朝鮮外交に見られるように東アジア諸国との間では多くの対立や緊張を生み出した意味で両義的であり、全面的に評価できないが、すくなくとも内政と外交をつなぐ一貫した行動論理に基づいていたことは確かである。一方で外交を売りにするポスト小泉の政治指導者が、まさに異質な価値や正義が林立する国際社会に比することができる「ねじれ国会」の運営に苦慮し、「ねじれ国会」状況に対する打開策を見出せずに政権が投げ出される事態が続いたことは皮肉的である。換言すれば、たとえ「内政と外交は異なる」という旧来の前提に立った場合でも、彼らは古典外交の作法を身に付けていなかった、あるいはそれを内政に応用するだけの柔軟性に欠けていることを意味している。吉田茂、岸信介、福田赳夫といった戦後日本外交において重要な役割を果たした先人たちの遺産がもっともよく知るはずの子孫たちに継承されていないことはまさに世襲議員の病理とも言うべきであり、それは日本政治にとってきわめて不幸なことであろう。

先に安倍・福田・麻生と続くポスト小泉時代をマイナスの意味での「未曾有の時代」と捉える見方を示したが、ポスト小泉時代を戦後日本政治史の文脈に位置づけてみれば、「未曾有の時代」という見方は近視眼的かもしれない。つまり小泉政権後ほぼ一年周期で政権が代わる状況は、佐藤政権や中曽根政権とその後の短期政権との共通性を想起させるし、それらとの比較類推によってポスト小泉時代の政治の新奇性を相対化する視点を得ることが可能となる。以下思いつくままに共通性を列挙していくならば、まず佐藤政権後の田中角栄や中曽根政権後の竹下登がその前評判とは反対にスキャンダルで短命政権に終わったことは、ちょうど小泉政権後の安倍普三と重なる。あるいは比較的安定した国際環境、とりわけアメリカとの良好な関係が長期政権を可能にした要件のひとつとすれば、これら長期政権後の国際環境は、多極化の時代といわれた1970年代、冷戦終焉後の1990年代、そして現在と政治的・経済的な変動の時代に当たる。さらにいえば国際環境の安定と変動という周期性は、1970年代から次第に強まっているグローバル化という長期的な趨勢によって次第にその速度を増し、変動が常態化するようになっていく。このことは政権の維持には高度な政治手腕が必要であることを意味し、その点で小泉政権は逸脱事例ともいえる。こうした国際環境とあわせて、国内においても政治的には与野党伯仲、55年体制の崩壊、ねじれ国会、経済的には石油ショック、バブル崩壊、そして現在の金融危機というように舵取りが難しい条件が揃っている。また政権の変遷から見れば、首相の死がひとつの触媒となって長期政権に帰結した面もあり、それぞれの政権が達成した成果の起源は任期途中で逝った大平および小渕政権期に見出すことができる点は中曽根と小泉に見られる共通性であろう。

同時代から批判を含めて論じられる政治家もいれば、後になって再評価される政治家もいるが、日本政治史の文脈において、安倍・福田・麻生は、それぞれ一人だけでは一冊の評伝に著すだけの魅力に乏しい、小物に属する政治家にすぎない。そんな世襲政治家たちが政権をたらい回しにしているところに「ポスト小泉時代」を「未曾有」と形容できる意味が見出せるかもしれない。
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「知日派」に対する期待と代償

2009年01月09日 | nazor
「世界で最も重要な二国間関係」と形容される日米関係の今後はアメリカにおける政権交代によってどの程度左右されるものなのだろうか。対アジア政策において日本よりも中国を重視する傾向が共和党に比べて強いとされる民主党政権の誕生がいわゆる「日本軽視(そして無視)」を招来するのではないかという懸念が囁かれる深層心理に流れているのは、戦後の日米関係において「最良」とされたブッシュ・小泉「蜜月」時代への郷愁であり、「最良」ゆえにそれ以上良くなる展望を持てず、むしろ悪化する不安ばかりが目に付く悲観主義が漂うことになる。これまでと同様の日米関係を維持し発展させるため、大統領選挙期間中から積極的に両陣営の対日(・アジア)政策ブレーンと接触していた駐米日本大使館の動きもまたこうした流れのひとつといえるだろう(「NHKスペシャル:日本とアメリカ(第3回)ホワイトハウスに日本を売り込め」2008年11月2日放送)。その意味で『朝日新聞』が先行する形で報じられた国際政治学者ジョセフ・ナイが駐日大使、またカート・キャンベルが国務省東アジア・太平洋担当次官補を起用するオバマ新政権の対アジア外交スタッフの陣容は悲観論をいくぶんか和らげる効果を持つだろうし、このニュースを大きく取り上げた『朝日新聞』もまた日米関係の行く末に少なからず不安を覚えていたことは厳密な意味での「ジャパン・ハンズ/知日派」ではないナイをあえて「知日派」と呼んだり、ナイの大使就任については流動的との見方に言及されていない点に看取できる(「米駐日大使にジョセフ・ナイ氏 オバマ新政権」『朝日新聞』2009年1月8日、大使就任が確定事項ではない点については「ナイ・ハーバード大教授、次期米駐日大使に浮上」『読売新聞』2009年1月9日)。

日米関係の将来に対する潜在的な不安感の裏返しとして、過剰なまでの期待が今回のナイの駐日大使起用をめぐる報道には見え隠れするが、おそらくそうした期待を寄せることは日本側からの一方的な求愛でしかない。たしかに世界的な冷戦構造の崩壊後、その存在理由が揺らぎ、「漂流」状態にあった日米関係に新たなアイデンティティを与える作業においてナイが果たした役割が重要であったことは明らかである。しかしながら、「日米同盟の再定義」をもって彼を「知日派」とみなすことはいささか短絡的だろう。すくなくとも「ナイ・イニシアティヴ」はポスト冷戦時代の日米関係のあり方における政策構想の一つに過ぎず、そもそも防衛問題懇談会報告書(通称『樋口リポート』)に見られる多国間主義への傾斜に対するアメリカ側の強い懸念が日米同盟の再定義の背景にあったことを考えるならば、冷戦の終焉という国際環境の変化がもたらした政策選択の幅の拡充を戦後アメリカが築き上げたアジア地域秩序の構成原理を変えず、むしろそれをより積極的に支えるような関係性へと向かわせる基盤となった点に留意する必要がある。

1960年代後半の「知日派」の対日認識と政策構想に焦点を当てて日米関係を論じた玉置敦彦「ジャパン・ハンズ――変容する日米関係と米政権日本専門家の視線、1965-1968」『思想』(1017号、2009年)の表現を借りるならば、「ナイ・イニシアティヴ」は、「自立する日本」という不安への対策として提起され、さらに軍事的な協力関係を深める形での責任分担を促す意味で「自立しない日本」というアメリカの不満を解消する政策構想であり、まさにアメリカの抱える不安と不満の双方についての処方箋の始点に位置するのが「ナイ・イニシアティヴ」であった。この点を考慮に入れたとき、オバマ政権におけるナイの影響力がどの程度のものか未知数であるものの、たとえ強い影響力を発揮した場合に予想される帰結は、アメリカの世界戦略にいっそう組み込まれた、すくなくとも日本側に政策選択の自由がほとんど残されていない非対称的同盟関係の強化であろう。こうした同盟のあり方が妥当なのか否かの判断が立場によって異なるだろうが、アメリカに見捨てられる恐怖に過敏なあまり、さらなる協力を求める動きが日本側の政策担当者の間から出てくることもこれまでの日米関係の経緯を見れば十分に考えられる。そしてそれは、アメリカが期待する日本の主体性(=従属性)を促す意味で、ナイの専売特許である「ソフト・パワー」の行使といえる。

さらに玉置論文から得られる示唆を指摘するならば、1960年代後半の日米関係を取り巻く状況は奇しくもオバマ政権誕生前夜の現在と通底する点が多い。両方の時期ともアメリカは、軍事面および経済面における二重の苦境に陥っている(戦争の泥沼化と経済危機)。いわばヘゲモニー下降局面に直面しているアメリカは、同盟国の自立および離反に対する警戒感とヘゲモニーの維持のために同盟国の協力と負担の要求という矛盾する課題を追求しなくてはならない状況にある。1960年代後半の日米関係の場合、アメリカ政権上層部とジャパン・ハンズとの間で「日本の国内情勢をどこまで考慮するのか、という点をめぐって齟齬が生じ」、「最終的に出先[ジャパン・ハンズ]の認識と政策構想を、本国がほぼ全面的に受け入れ」た点から「1960年代におけるアメリカ対日政策のダイナミズムを考える上で、日本国内の政治情勢と、それに対するジャパン・ハンズの解釈の重要性を看過することはできない」と玉置は指摘する(122頁)。玉置自身は以上の知見の安易な一般化に慎重であるが、この知見から含意を導き出すとすれば、ジャパン・ハンズ第二世代の行動規範となっていた「すぐれて状況対応的な政策判断」(121頁)の伝統がどの程度オバマ政権の「知日派」に受け継がれているのか、厳密な意味での「知日派」とはいえないジョセフ・ナイの起用が1960年代後半の日米関係で働いていたメカニズムにどのような変化を与えるのか、そしてその伝統が依然として息づいているならば、麻生政権の末期的症状および次期総選挙における政権交代の可能性といった日本国内政治の現況をどのように認識し、政策の立案および遂行に反映していくのか、といった点が興味深い論点として浮かび上がる。それゆえ日米関係の今後を占う上で日本国内の政治情勢が重要な変数となってくるといえる。

「知日派」の起用に一喜一憂する態度はまさしく「世界で最も重要な二国間関係」という視座に起因するものであり、過剰な期待は大きな失望と隣り合わせであり、相応の代償を伴う視野狭窄をもたらす。アメリカ外交全体、あるいは対アジア政策においても対中・対韓政策との関わりで日米関係の意味合いが変わることを考えると、日本の期待とアメリカのそれとの間にはズレが存在することは明らかであろう。この期待におけるズレを埋める作業は逆説的に現実の同盟関係の非対称性を促進し、「世界で最も重要な二国間関係」はその歪さを構造化させていく。「日本重視/軽視/無視」といったアメリカの態度にかかわらず、日本が対米協調の枠外に出ることはできないとすれば、「知日派」の起用如何はそれほど重要性を帯びたイシューとはいえないだろう。

・追記(1月10日)
ジョフフ・ナイの駐日大使起用が規定路線とはいえない点に関して続報記事を掲載しているのが今日の『読売新聞』朝刊で(今のところ読売のサイトには掲載されていない)、それによれば、国務長官起用の噂もあったチャック・ヘーゲル前共和党上院議員が駐日大使の最有力候補で、ナイはあくまで候補の一人として名前が挙がっているにすぎないらしい。その意味で駐日大使の人選は今後しばらく見守る必要があるといえる。

・追記(1月25日)
「元国防次官補のジョセフ・ナイ氏、駐日米大使に内定」『読売新聞』

ジョセフ・ナイの駐日大使起用について慎重な報道姿勢を見せていた『読売』もナイの大使就任内定を報じたことで(本命はチャック・ヘーゲル上院議員だったと言外に匂わせつつも)、とりあえず人選に関しては決着がつき、あとはナイの起用がアメリカの対日政策においてどのような意味合いを持ってくるのかに論点は移っていくことになる。

・追記(2月13日)
「米駐日大使候補ナイ教授が簡単にOKしない理由」『週刊文春』2009年2月19日号

駐日大使の正式発表がないことについて『週刊文春』で小ネタ扱いであるが、ナイの希望が日本ではなくインド大使だとか、ハーヴァードでの研究生活に未練があるとかいろいろ理由が(西側消息筋の話を通して)列挙されている。駐日大使も駐インド大使もケネディ政権で「学者大使」が起用されたポストであることは興味深い(エドウィン・ライシャワーとジョン・ケネス・ガルブレイス)。

・追記(5月20日)
「米駐日大使に弁護士のルース氏 オバマ氏の選挙を支援」『朝日新聞』

ここにきて、駐日大使に日本にも馴染み深いナイではなく、ジョン・ルースの起用の背景にオバマ大統領の意向が働いていたことが指摘されるが、起用に当たって日本との関係ではなく、大統領個人との関係が重視されたことは、「日本軽視/無視」という懸念や批判に根拠を与え、日米同盟の将来に不安を覚えさせるかもしれない。
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歴史把握としてのポスト共産主義

2008年10月20日 | nazor
10月13日付けのチェコ週刊誌『レスペクト』(英語版:"Milan Kundera's denunciation," Respekt, Oct. 13, 2008)で報じられたことに端を発する、チェコ出身でフランス在住の作家ミラン・クンデラが1950年代に秘密警察(StB)に協力していた疑惑は、いくぶんのタイムラグがありつつも日本のメディアによってもクンデラ自身の否定発言とともに取り上げられている(「チェコ:作家クンデラ氏に旧政権『密告者』説 本人は否定」『毎日新聞』10月18日、および「チェコ共産政権に抵抗→実は密告者?作家クンデラ氏に疑惑」『読売新聞』10月19日)。クンデラの疑惑についての判断は、アメリカの諜報員ミロスラフ・ドヴォジャーチェクの立ち寄り先を密告したのがクンデラの名を語る別人の可能性も一部では指摘されているため("New witness comes forward to cast doubt on Kundera 'informer' claims," Radio Prague, Oct. 16, 2008)、今後の検証を待ちたいが、このたびクンデラについて浮上した疑惑から派生する論点について以下で簡単に論じてみたい。

クンデラのスパイ疑惑は、1989年の民主化から約20年の時間が流れ、体制転換後の政治課題とされた「ヨーロッパへの復帰」をEUおよびNATO加盟によって達成した「東欧」諸国において、戦後の共産党体制の経験がまだ「過ぎ去っていない過去」であることを改めて気づかせる。ポストコロニアリズムにおいて使われる「ポスト」の意味が「過去の歴史が何らかの形で現在では終了ないしは再編の過程にあり、しかしそれが完全に清算されることなく未来へと引き継がれていく不安と希望に満ちた道行きを示唆している。(…)過ぎ去ることなく現在に継続し行く末に影響する、という時間的な三重の縛りを示す概念」であることを念頭に置くならば(本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波書店, 2005年: v頁)、ポスト共産主義という歴史把握においても過去・現在・未来という「三重の時間」が折り重なっていると考えるべきだろう。その意味で共産主義という過去は、その支配を直接経験した世代が退場した後でもポスト共産主義諸国の政治を規定する要因として作用する。

独裁・権威主義体制からの移行を経験した南欧や中南米、あるいは内戦後のポスト紛争社会と同様に、ポスト共産主義諸国でも、いわゆる「移行期の正義 Transitional Justice」をめぐる問題が新しい国家・国民形成において大きな政治課題となっている。すなわち共産党体制下で人権抑圧に関与した秘密警察職員やその協力者に対して、いかなる基準によって裁くのかという問題であり、それは過去の実態の解明ないし清算を徹底するのか、それとも真実が明らかになることによって生じる国民間の対立や亀裂を回避し、和解に基づく新たな国づくりに重点を置くのか、容易に国民的な合意を得ることが難しい問題である。土佐弘之が論じているように、矯正的正義と修復的正義との適切な均衡を見出し、正義の行使が復讐の手段と化すことなく、赦しと和解に基づく関係構築に向けた作業が求められる(『アナーキカル・ガヴァナンス――批判的国際関係論の新展開』御茶の水書房, 2006年: II-2。またひとつの解答として参照される真実和解委員会については、阿部利洋『真実委員会という選択――紛争後社会の再生のために』岩波書店, 2008年を参照)。監視と密告を通じた支配が徹底したポスト共産主義諸国で、真実の追究が意図せざる悲劇をもたらす典型的な例は、秘密警察の内部文書の開示・閲覧によって、身近な家族や友人が密告者であった事実が明らかになり、それまでの信頼関係が崩壊するといった形で表出してくる(監視・密告の実情については、たとえばT・ガートン=アッシュ『ファイル――秘密警察とぼくの同時代史』みすず書房, 2002年を参照)。

また旧体制からの脱却ないし断絶がとくに要求されるのがポスト共産主義時代の政治エリートである。閣僚・政治家・上級官僚、そして企業や主要メディアの幹部が共産党支配との関係を明らかにし、その潔白を国民に証明することは、内務省や秘密警察の内部文書によって体制協力者であることが判明した人物の公職禁止を定めた法律の制定という形で確立されているが、法律の運用をめぐっては、異議申し立ての制度が不十分だったり、政敵の追い落としや誹謗中傷のために意図的にリークされる「政治利用」が後を絶たないなど問題点も指摘されている(橋本信子「チェコスロバキアにおける公職適否審査法(ルストラツェ法)をめぐる諸問題」『同志社法学』51巻1号, 1999年を参照)。このように共産党および秘密警察とのつながりの有無がポスト共産主義のエリートにとっての資格証明となっている。そしてそれはようやく手に入れた「国民の知る権利」という錦の御旗によって過去の経歴を洗い出す行為が正当性を与えられ、また同じく「報道の自由」を掲げるメディアによる増幅作用を通して、容易に政治上の争点、つまりスキャンダル化していく。

とりわけかつて反体制派として知られた人物が秘密警察の協力者であった疑惑が生じたとき、その衝撃度は頂点に達する。チェコスロヴァキアにおけるヤン・カヴァンの事例(あるいはごく最近ではポーランド「連帯」指導者で民主化後に大統領を務めたレフ・ワレサの事例)に見られるように、たとえ秘密警察との協力が事実ではなく、裁判を通じていわば「冤罪」であることが認められたとしても、密告や協力の事実に対する冷静な調査や議論が十分に行われず、一種の「魔女狩り」に近い様相を帯びてくるし、その後遺症は解消されないままの状態に置かれる(カヴァンの事例については、T・ローゼンバーグ『過去と闘う国々――共産主義のトラウマをどう生きるか』新曜社, 1999年: 第1部が詳しい。またワレサについて「『ワレサ氏はスパイだった』告発本 ポーランドで大論争」『産経新聞』2008年6月26日)。秘密警察への協力者を告発・暴露する状況は、たとえば1950年代に共産党体制下で起きた、シオニズムやブルジョワ民族主義者に対する粛清裁判のそれと共通する意味で、政治的行為に正当性を付与する規範やイデオロギーが共産主義から反共主義に代わっただけで、異質性に対する不寛容および排除という本質的な部分において連続している。そして反共主義の過剰が自由主義や民主主義の理念そのものを侵食してしまう可能性を持っていることは、1950年代アメリカの赤狩り、あるいは2001年同時多発テロ以後のアメリカ社会によって示されていることからも明らかであろう。

このように共産主義に関わる要素を一掃しようとする動きは、共産党支配の核ともいえる秘密警察やその協力者に対する厳しい態度を醸成する。そこには過去との訣別を求める強固な意志が看取でき、そうした態度や行為が共産党体制に代わる新しい国家や社会を作るうえで必要不可欠であることは理解できる。他方で過去との訣別が、過去と徹底的に向き合うのではなく、過去の(全面的)否定として把握されるとすれば、ポスト共産主義に内在する三つの重層的な時間構造が提起する問題意識は不可視化されてしまう。まさしく歴史の語り口、あるいは記憶の政治学に属する問題がポスト共産主義でも纏わりついており、さまざまな場面において共産主義の経験が問いかけられ、再審されることになる。今回のスパイ疑惑の傍証として取り上げられているクンデラの小説『冗談』(みすず書房, 1992年)にある「贖罪(復讐さらには容赦)の課題を代行するのは忘却なのだ」(338頁)という一文は、ポスト共産主義をはじめとする体制移行期にある国家/社会において作用する記憶と忘却の弁証法の本質を突いている。

言い換えれば、秘密警察との協力問題がポスト共産主義社会においてこれほどまでに政治問題化していることは、まさに共産主義の過去が現在を規定している証左である。また共産主義の過去をどのように認識するのかがこれから作り上げていく新たな国家・社会像の内実に関わっている点で未来の問題でもある。共産主義との関係に対する無謬性/潔癖性の要求は、戦後40年あまり続いた共産主義の経験を忘却させることにつながる。共産主義の経験の簡素化によって、たとえばクンデラのように熱烈な共産党支持者が後にその批判者になった「転向」の位相を理解することを困難にしてしまう。

ジョージ・オーウェルは小説『1984年』(早川書房, 1972年)の中で「過去を支配する者は未来まで支配する」(47頁)と述べているが、かつての共産党体制がマルクス・レーニン主義史観に基づいて(たとえば第二次大戦の解釈に見られるように)歴史を書き換え、教育や記念碑を通して国民の集合的記憶の創造=想像に努めたように、ポスト共産主義諸国もまた別様の歴史ならびに集合的記憶を作り上げようとしている。たとえばチェコでは、第一次大戦後独立した「東欧」諸国で唯一議会制民主主義が機能していたとされる戦間期の、いわゆる「第一共和国/マサリクの共和国」の時代が共産党体制と対比される形で(再)評価されている。そのような歴史(観)の再編過程は、何を記憶し、何を忘却するのかを決定する政治そのものであるが、それは完成形を持たない、つねに書き換え続けられることが定められた未完の過程であることに留意する必要があるだろう。
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中山失言とノーベル賞受賞の「関連性」

2008年10月10日 | nazor
今年のノーベル賞(物理学・化学)に「日本」の研究者が選ばれたこと、そしてそれに沸き立つメディアや国民の姿勢は、ちょうど就任5日で辞任した中山成彬前国交相の「失言」と密接に関わる興味深い論点を示唆しているように思われる。

まず「日本は単一民族だ」という「失言」に通底するのが、すでに指摘されているように、物理学賞を受賞した南部陽一郎(シカゴ大学名誉教授)を「日本人」と表象することである(たとえば、「『ノーベル物理学賞日本人3人が独占』欧米では『米国人1人、日本人2人』」J-CASTニュース2008年10月8日)。このことは、ある人の帰属を判断する際に、「国民」ではなく「民族」を基準とする思考様式が深層意識において強く作用していることを意味している。ある人が「…人」であるかを最終的に決定付ける基準として「国民」よりもむしろ「民族」が重視されることによって、たとえば南部教授はアメリカ国籍の保持者であっても「日本人」だと判断されるし、他方で日本国籍を取得していたとしても在日コリアンは、「日本人」というカテゴリーの外側に留め置かれたままにある。

そして在日コリアンの例が示すように、「日本人」の境界線は、先に挙げたJ-CASTニュースの取材に対する朝日新聞社広報部の回答にあるような「日本で教育を受け、日本に自宅がある」といった理由ではなく、もっと深い、本質(主義)的なレベルにおいて刻印されているとみなすべきだろう。すなわち国籍の離脱や取得によって変更可能である「国民」に比べて、両親をはじめとする先祖から受け継いだ「血」を介して結ばれた集団という認識に依拠する「民族」はアイデンティティの拠り所として、その変更不可能性ゆえに強固で、揺るぎのない、そして本質的なものとみなされる。

こうして社会的な存在としての「国民」と自然的な存在としての「民族」が対置され、さらに「民族」と「国民」を同一視する認識が、戦後日本において広く浸透したことによっていわゆる「単一民族神話」が作られ、「国民」自体の自然化が進んでいくことになる。このため、「国民」を構成する主体の多様性に対する自覚が著しく欠如した思考様式が根強く、さしたる疑問も抱かれずに政治家などによって定期的に公言される状況が生じている。また先ごろ発足した観光庁は、2020年までに2000万人の外国人観光客の来日を掲げているが、一方で外国人の宿泊や食事、あるいは入居などを断る「ジャパニーズオンリー」が一定数報告されていることも、「単一民族」神話の派生効果といえるかもしれない(「『外国人泊めたくない』ホテル・旅館3割 07年国調査」『朝日新聞』10月9日)。

その意味で今回の南部教授のノーベル賞受賞が「日本人」の範囲を改めて考えさせる契機になるだろうし、実際この点を問題化する報道が見られることは「中山失言」の時代錯誤性を示しているといえるだろう。

もうひとつ「中山失言」に関わる点が「日教組の組織率と学力テストの結果の関係」についてである。この発言に関しては、中山前国交相の印象論ないし思い込みレベルの域を出ない根拠のない、まさしく「妄言」の類に属することは明らかであるが、日教組憎しの感情に駆られて、この「妄言」を実証しようとしたのが『産経新聞』10月8日の記事「組合と学力に関連性はあるか?低学力地域は日教組票多く」である。関連性があるという結論を導こうとしたいがために、得票率ではなく得票数を使うといった都合のよい変数によって実証する倒錯的な内容が全国紙の紙面を飾るという事態は、すくなくとも一定程度の学力と学歴のある新聞記者が基本的な科学的思考能力を欠いていることを物語っている。数字を挙げるなど「科学的な」体裁をとりつつ実証に失敗している『産経』の記事は「第二種疑似科学」の典型例だろう(池内了『疑似科学入門』岩波書店, 2008年)。ついでに「擬似/ニセ科学」に関連していえば、その代表的な例である「水からの伝言」をめぐって、その問題点が広く指摘されている一方で、最近になっても「関東地区公立小・中学校女性校長会総会・研修会」で「水からの伝言」の著者が講演したように、科学的思考を育む教育の場においてそれを蝕む言説が受け入れられている状況がある。

大学改革によって外部資金に依存した即席の研究成果が求められる風潮が強まっている状況において、基礎研究の軽視や、よりよい研究環境を求めて研究者の海外流出が日本の科学者業界の空洞化をもたらすとすれば、そして他方で基礎学力を養う場において科学的思考能力の育成が蔑ろにされ、「擬似/ニセ科学」に騙されてしまう素地が一定程度出来上がっているとすれば、今回のノーベル賞受賞を単純に喜んでばかりはいられないだろう。むしろ科学分野のノーベル賞において「純粋日本の」研究成果が選ばれる可能性はきわめて限られてくるのではないだろうか。今年のノーベル賞受賞が後に振り返ったとき「過去の栄光」として記憶されることになることは十分考えられるだろう。

・追記(10月16日)
「ノーベル賞の南部さん、文科省の集計では『米国人』」『朝日新聞』
「ノーベル賞:物理学賞・益川氏と小林氏は京大出身?」『毎日新聞』
「『ノーベル賞の京産大』アピール『益川研究所』の設立も検討」『京都新聞』

ノーベル賞受賞狂騒曲も一段落が着き、あとは年末の十大ニュースなどで取り上げられるまで一般的には忘却の穴に放り込まれた状態になると思われる。そのノーベル賞狂騒曲の後日談ともいえるニュース。受賞者をどのカテゴリーに差配するかをめぐって、国家レベルと大学レベルのそれぞれで悩ましい問題が提起された物理学賞の受賞者たちであるが、南部氏については文部科学省は国別集計上「アメリカ人」とすることで一応の妥協点を見出したといえる。その一方で益川・小林両教授(の研究成果)の出自をめぐって「生まれの名大」と「育ての京大」との間で認知騒動と呼べそうな状況にある。しかしながら、この点に関しては京大側を悩ませている問題であり、一方通行的な求愛だといえそうである。それに加えて益川教授が現在所属する京産大もその名を冠した「益川研究所」の設立に乗り出すとなれば、こじれた三角関係の構図が出来上がってくる。
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