竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

くすりの裏側

2007-01-20 10:49:23 | BOOKS
堀越 勇 「くすりの裏側 これを飲んで大丈夫?」 集英社文庫 2006.09.25. 

薬の効果について、行政が関与したのは明治以降のことです。始まりは明治6年(1873)、文部省に医務局が設置され、その後、明治10年に「売薬規則」が公布されました。当時、日本には製薬企業はなく、もっぱら薬は洋薬が輸入されていました。明らかに有害なものだけを販売禁止に、無害無効のものはしばらく許可して、漸次淘汰していくことになりました。これを「無効無害主義」と言います。 驚くことに、医薬品の薬効と毒性について審査されるようになったのは戦後のこと。しかも、毒性試験は1種類の動物の急性毒性(半数の動物の致死量)のみと、海外では許可にならないものが、日本においては医薬品として認められ、有識者の間に「日本人はモルモットになっている」との噂が聴かれたものです。その後、サリドマイド、キノホルム、アンプル入り風邪薬事件などを契機として、医薬品の毒性試験が細かく厳密に行われるようになりました。一方、当時の臨床試験も簡単で、1つの効能に付き、2か所以上の医療機関で、計60症例以上の治験、それも効く効かないだけのオープン試験を行えば許可が下りたのです。 ですから、ごく最近まで、日本で認められた医薬品の薬効は信頼性に欠けるとして、海外で販売する場合には、改めてその国で治験をやり直さなければならなかったのです。1996年、国際的に通用する評価システムがようやく完成しました。 しかし、それ以前に認められた医療用医薬品と一般用医薬品の中には、相変わらず無効無害主義の範疇に入ると思われる医薬品が見られます。 医療用医薬品について言えば、最大のものが「脳循環代謝改善剤」でした。これが1年間に8,500億円も使われていたのです。数年前の再評価の結果、ほとんどが許可を取り消されました。後で効かないと評価されても、犯罪を構成しないのが医薬品の不思議なところです。 もう1つ摩河不思議な薬物に、2-アミノエタンスルホン酸というアミノ酸(タウリン)があります。ドリンク剤の中には必ずといってよい程含まれています。 タウリン(アミノエチルスルホン酸)は、1827年ティーデマンによって仔牛の胆汁中から発見された硫黄を含んだアミノ酸の一種です。タウリンはコール酸類と結合してタウロコール酸となり、脂肪の吸収を助ける胆汁として消化管内に分泌されます。生理学的に言えば、血液の白血球の中には血漿中のなんと500倍もの高濃度でタウリンが含まれ、病気や栄養障害、ストレス、薬物の服用で含量が変動するそうです。 また、肝臓を虚血や低酸素などの劣悪な条件下においても、肝機能の恒常性を保とうとする働きがあります。医療用医薬品として認められているタウリンの効能効果は、うっ血性心不全と高ビリルビン血症における肝機能の改善です。さらに、タウリンは脳や神経の発達にも大きな影響をもっていて、特に視覚や視神経の発達に重要な役割を果たしています。日本でも、第二次大戦中、海軍のパイロット達は疲労回復のためにヒロポンとともにタウリンを服用し、視力を鍛え、夜の戦闘に役立てたそうです。このほか、タウリンには降圧作用や血液中および肝臓中のコレステロール値を下げる作用、動脈硬化を抑える作用のあることなども分かってきました。一方、自律神経系の働きにも関与していて、視床下部のタウリン量が増えると体温が下がったり、食物の摂取量が少なくなったりします。中枢神経に対しては、抑制的に働き、てんかんの痙攣を鎮めるといわれています。さらに、脳の動脈硬化によって低下した脳の酸素圧を改善したり、飲酒による注意力の低下を防ぐ働きもあると言われています。また、動物の発情期にその合成能が高まることから、性能力とも深い関係のあることが分かります。 このように複雑広範な作用を持つタウリンですが、医療用医薬品としてあまり用いられないのは、なぜでしょうか。体の内に500gも存在し不足することのないアミノ酸だからです。無効無害主義の亡霊は、確実に今も生きているといえます。


「開発」の変容と地域文化

2007-01-19 22:20:21 | BOOKS
大門正克 「開発」の変容と地域文化 青弓社 2006.10.07.

高度経済成長期とは1955年から72年までの17年間をさす。年平均で10%以上の高い経済成長率が続き、この時代を通じて日本の社会は根本的に変わった。60年に首相になった池田隼人は、60年の所得倍増計画、61年の農業基本法、62年の全国総合開発計画(全総)。この3つの政策を通して農業を近代化して農村を変えるというバラ色の将来像を描いた。いわゆる農業近代化路線である。 政府の農業近代化路線には3つの内容が含まれていた。1つに、工業化の進展によって農村に滞留している過剰な労働力が流出すると考えた。離農した人の土地を集めて規模を拡大すれば、農業経営は合理的になり、農産物価格を引き下げることができる。2つ目には、都市の消費者の所得が上昇するだろう。そうすれば、農産物への需要が増大し、米以外の疏菜や果樹、畜産の需要が増大し、農家は複合農業経営に変わって豊かになる。3番目は農業技術の高度化である。農業の機械化が進み、農薬や化学肥料によって生産力が上がり、少ない人数で規模を拡大して農業経営を多角化できる。こうして農業は近代化するに違いないと政府は考えたわけである。 確かに農村の人々が大都市、地方都市に向けて大量に流出した。しかし、土地に対する農民の所有意識は非常に強く、複合経営は必ずしも容易でなく、規模の大きな安定的農家が多数出現するには至らなかった。機械化はかなり早いピッチで進んだが、機械化のための借金を返すために人が出ていかなくてはいけない。そのため、できるだけ機械化によって省力化し、稲作だけを残した兼業農家が多くなった。農薬や化学肥料は確かに多労を改善する効果はあったが、そこから連作障害が起きることもあった。都市には多くの人々が集まり、過密問題がいわれるようになった。その後、人口が減少した農村については過疎ということがいわれるようになった。1960年代前半までは、農業の機械化や化学化、あるいは共同化といった新しい方式を試みる機運もあった。この機運は、都市での生活水準が上がっていくなかで、農村の古い生活スタイルを変えていきたい、生活水準を上昇させたいといった願望と一体であった。機械化や化学化・共同化は、農家の比較的若い人たちが率先して取り組む傾向にあった。 当時の農村の資料を見ると、頑固なオヤジと機械化を熱望する青年という図式がしばしば登場する。親子関係や父子関係の対立を乗り越えて、若い人たちが機械化や化学化・共同化に取り組むという話である。頑固と描かれた父親は、いまでいえば有機農業を実践していることになる。土地がもっている自然の治癒力や経験、カソとコツを生かそうとしたのだが、当時はカンとコツが古いものとして排斥され、新しい技術や機械の導入が優先されたわけである。しかし自給率の低下や経営規模の限界などで、化学化や機械化によっても農業経営は好転しない。とくに機械化の場合には借金の負担が大きかった。他方で農村でも生活革命が進行し、都市的な生活スタイルが基準になっていく。また都市の生活スタイルを望んで都市へ流出する人々の流れは止まらず、農村では高齢化が進行していく。過疎化の背景にはこのような農村側の意向もあった。

はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語

2007-01-18 22:01:08 | BOOKS
吉田 武 「はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語」 幻冬社新書 2006.11.30.

糸川英夫は中島飛行機で設計グループの中核として活躍。1941年(昭和16年)、一式戦闘機隼がデビュー。零戦の設計者・堀越二郎と共に糸川の名前は広く知られていた。戦前、中島飛行機はドイツからの技術情報を受け、ロケットエンジンも開発していたが、占領軍の徹底的な破壊工作によって、その全ては失われた。ポツダム条約には、日本のあらゆる航空機関連の研究、開発を禁止する条項があった。「生涯を捧げるべく決意した航空機研究」は、糸川から奪われ、占領軍に身辺を徹底的に監視された。1952年、糸川は米国の図書館で『Space Medicine(宇宙医学)』という雑誌を見、「アメリカは人間を宇宙に送り出す」という強い意志を感じた。 ジェットエンジンによる航空機を今さら作っても、米国には勝てない。しかし、ロケット航空機ならまだ米国にも確たるものはない。これなら後発の日本でも勝てるはずだ。ロケット機のアイデが、糸川の脳内に溢れた。そうだ、これなら勝てる。 当初、糸川は、戦中からロケットの液体燃料を研究していた三菱に、その協力を期待したが理解されず、固体燃料の日本油脂が非常に積極的に関わってきてくれた。この事が、我が国の宇宙開発を決定的に方向附けた。 液体と固体、この燃料形式の違いは、ロケット設計の全てを変える。固体燃料は、充填したままで放置出来るので保守もしやすく、ロケットの機構も簡潔になるが、出力の調整が全く出来ない。一旦点火した燃料を消す方法は無く、火力の調整も出来ない。その点、液体燃料はバルブの調整によって、出力を変えることが出来るが、ロケット全体の機構は複雑で、保守も面倒でもある。しかし、糸川には、固体燃料以外に選択肢は無かった。 宇宙の真理を求め、観測の方向性を決める理学者と、観測装置を作り、具体的な物として、それに応える工学者。さらにその物作りを支えている企業の研究者。実際に機械を動かし、道具を駆使して開発の実行部隊となる多くの技術者等々。ロケットを作り、観測装置を設計し、それを運んで、打上げる。理念の提案から実際の打上げまで、全てが一ヶ所で議論され、まとめあげられていく場所は、世界に唯一相模原の宇宙研だけである。世界に数ある研究所の中でも、これほどの総合的なものはない。カッパが本格的な観測ロケットとして、世界が注目する存在となった。これを米国が快く思わなかった。ペンシルロケットの頃、米国は、あたかも子供の成長を見守るような心地であった。しかし、極めて短期間に、高い憧能と高い信頼性を持ったロケットを、廃屋の裏で、まさにタダ同然の予算の中で作り上げてきた、日本の開発陣の能力の高さに、彼等は脅威を感じ始めた。戦中、米軍を苦しめたのは、日本の戦略ではなく、その高度な技術だった。あの悪夢が再び、と感じたのかも知れない。米国は自分達が世界のリーダーであることを強調し、日本の独自開発を切り崩そうと、あらゆるチャンスを窺って、陰に陽にその発言を強めていく。 一方国内でも、こうした動きと連動するかのように、様々な所で様々な立場の人間が、何故か同じ方向性を持って動き出した。 科学技術庁は、1962年(昭和37年)4月に航空宇宙課を設置した。研究体制を整え、「国家としての宇宙開発」に乗り出すべく、1963年8月10日、防衛庁新島試験場でロケットの打上げ実験を開始した。ロケットそのものは委託であり、その全ては三菱重工が開発したもので、液体燃料によるエンジンを搭載していた。関係者のほとんどは、企業からの支援隊であり、自衛官であった。 科技庁の宇宙開発は、糸川らに対する、或いは東京大学に対する、或いは文部省に対するハッキリとした対抗軸として始まった。彼等は一刻も早く、その立場に相応しい優秀なロケットを欲して、その為には米国からの技術移転、技術供与が必要だとした。移転技術は「ブラック・ボックス」として提供され、中身は教えて貰えない。内部は企業秘密、国家秘密で、購入者の方が一言も文句を言えない仕組なのである。彼等もまた、この手法に長く泣かされることになった。 1965年(昭和40年)、朝日新聞の木村繁記者は米国に行き、NASAの施設を見学すると共に、ジェット機の弾道飛行中に生じる無重力状態を体験して記事にした。帰国後、目立った発言をするようになった。雑誌『科学朝日』において、無誘導ロケットを完全否定し、あれでは人工衛星は上げられない、と断言した。1967年3月1日からは朝日新聞の猛烈な反糸川キャンペーンが始まった。3月20日、糸川はアッサリと東京大学教授の職を辞した。これ以後、我が国の宇宙開発史に、糸川英夫の名前が登場することは一切無い。その身の引き方は、余りにも突然で、また余りにも鮮やかであった。 1970年(昭和45年)2月11日、ラムダ4S型5号機が打上げられ、日本初の人工衛星「おおすみ」が誕生した。しかも、ロケットは世界最小、世界一簡便なシステムによる衛星打上げ、というオマケの世界記録まで附いた。 ペンシルを打てば、まるでオモチャだとヤジられた。カッパの性能の高さが世界的に注目され、輸出までされるようになると、武器の輸出ではないか、と国会に呼び出された。慎重に、誠実に取り組んできた漁民との友好関係も、アッという間に破壊され、実験が全く出来ない状態になってしまった。一大学の分際で、国家を代表した気になるなと言われ、「一元化」を迫られた。本来なら堂々と発表するべき人工衛星計画も、出来る限り慎ましく告知しなければならなかった。経理の問題、組織の運営、人間関係、ありとあらゆることを採られ、記事にされた。そして、糸川は宇宙研を去った。 日本が、ソ連、米、仏に次ぐ、世界4番目の衛星自立打上げ国になった、というニュースを、糸川は中東の砂漠をドライブ中に、カー・ラジオで聞いた。走馬燈のように様々な想い出が駆け巡った、涙が止まらなかった。


サル学者の自然生活讃歌

2007-01-16 21:26:54 | BOOKS
河合雅雄 「サル学者の自然生活讃歌-森に還ろう-」小学館文庫 2006.08.01.

数年前のこと、ニューヨークタイムズの科学欄のトップに「先に登場したのはハチか花か?ハチが先との新発見」という記事が載った。アリゾナ東部で2億2,000万年前のハナバチ類の巣の化石が見つかったというのである。それがなぜ大発見かというと、被子植物とハナバチはお互いに利益を与える相利共生関係をつくり、相互の発展に寄与しつつ共進化したというのが従来の定説であるが、今回の発見は花植物が現れるずっと以前に、すでにハナバチが誕生していたことを示しており、この定説を覆すからである。 わが国の新聞では、たかが蜂の巣が大発見として報じられることはまずない。いささかうらやましいのは、この記事が大新聞のトップを飾るという現況だ。かの地の人の科学的知識の一般水準を示している。残念なことだが、日本では、進化に関する興味も知識も欧米の人に比べてひどく劣っている。 子どもや学生の理科ばなれが叫ばれ、工業立国の土台が揺るがされる事態になると心配されている。しかし子どもの理科ばなれをうんぬんする前に、もっと憂うべきは大人の理科ばなれではないか。その証拠の一つは、科学雑誌の衰退である。一時期、科学雑誌のブームがあったが、すぐ消え、一般科学雑誌はほとんどなくなったといってよい。なぜこのような悲惨な状態になったのか。理由は簡単。極度の購読者減である。 技術大国科学小国、わが国の理系的風景である。日本人は技術は大好きだが、科学への関心はきわめて薄い。教育雑誌ですら、教育技術に重心を置かなければ売れないという。自動車工業は世界のトップクラスにあるが、製造技術の優秀さには異論ないとしても、そこに日本人による独創的な発明や発見があるわけではない。多くの場合、科学は技術の奉仕者の立場に置かれているのが、わが国の現状である。 ニュートリノに質量があるという日本の科学者の大発見を、アメリカではクリントン大統領がすぐ演説に取り入れた。カーソンの『沈黙の春』に感動して、すぐさま環境保全局をつくって対処したケネディ。この種の政治家を日本では何人期待できるだろうか。子どもの理科ばなれを口にする前に、まず大人が襟を正すべきではないか。一漫画雑誌が数百万部売れ、科学雑誌が絶滅危惧種的だという亡国的状況は、子どもの理科ばなれを嘆く事態をはるかに超えて深刻である。


陶淵明 詩と酒と田園

2007-01-15 21:16:57 | BOOKS
堀江信夫 編 「陶淵明 詩と酒と田園」 東方書店 2006.11.20. 

田園の風光-いつでも人々の帰りくるのを待っている。朗らかな自然にあふれ、人々の日々のあくせくとした心を、ほっこりとほのかに、引き戻してくれる。酒はうまい。陶然とした気持ちに引き入れてくれる。酒と田園。どちらも陶淵明が愛したものだ。自らなる、自然なる、安らぎがそこにはある。 だが、実のところ田園は、決して自然なるものではない。むしろ人間の営為が徹底的に注ぎ込まれている。人為が徹底的に注入されているからこそ、田園は豊かである。 田園、まさに蕪(あ)れんとす-人間の営為の失われた田園は、もはや田園ではない。田園は人間の営為の賜物である。だから陶淵明の田園とは、あるがままの自らなる自然ではなかった。希望と挫折、裏切りと信頼、堕落と高貴、怠惰と勤勉、愛と憎しみ。田園とは、光と闇の交差する人間の営みのすべてが封入され、さらにその上に定位されてある自然であり、「真」であった。 裏切りと右顧左眄(うこさべん)、惨めで卑劣な処世に憂き身をやつすおのれの姿。そのおのれの姿を一歩離れて見ている醒めた自分がいる。だがその醒めたおのれも、やはり卑劣で惨めであるとしかいえない。どこまでいっても惨めさと卑劣さの呪縛を脱却できないおのれ。しかしそれを覚悟し、腹を決めたとき、開朗として開けがくる。開けとは「志」である。「真」を語る「言」である。


さむらいの刀はどうして折れない?

2007-01-14 08:45:29 | BOOKS
アンア・チェラゾーリ 「さむらいの刀はどうして折れない?」 世界文化社 2006.08.01.

時計って日にちを数えるのにも使えるのよ。いまのイラクの人たちとか、シュメール人とか、バビロニア人なんかはそんな使い方もしていたの。彼らは偉大な天文学者であるだけでなく、時間の学者でもあって、時計をカレンダーとして使っていたの。まるいカレンダーつてわけよ。円を描いて、それを360の部分に分けて、ひとつの部分が1日ということにしたのよね。そうやってその年が終わると、また新しい円を描いたのよ!空を眺めながら、1年は360日だって思ってたわけ。でもそれっていつの話だと思う? ふたつの河のあいだに歴史上はじめての町が生まれたころの話なのよ!そこは〈文明のゆりかご〉ってよく言われるでしょ?文明はまだ生まれたばかりだったのに、それにしては頼もしかったと思わない? それからね、〈科学的観察〉っていうのは空の観察からはじまったの。人間は牧民から農民になったとき、ものを育てる作業をするのに、いつでも季節を先に知っておく必要があったのね。だからいつでも空を気にしていて、それで天文学者になったのよ。イラクには有名な建物がいまでも残っているそうよ。ピラミッドのかたちをした塔でね、バビロニアの人たちはそこから空を眺めていたのよ。彼らは1年は360日より多いことがあとでわかると、そのカレンダーは捨ててしまったけど、でも円を360の部分に分けることはやめなかったの。だからいまでも、角を測るのに度を使うでしょ。これはほかでもない、36O度の360分の1ってことなの。わたしたちが言う1度って、バビロニア人の1日ってことだったんだって!

ウッふん

2007-01-13 00:02:50 | BOOKS
藤田紘一郎 「ウッふん」 講談社文庫 2006.08.11. 

下痢するのはイヤだから、日本人は食品にたっぷり防腐剤を入れるようになりました。水道水にも消毒剤がきちんと入っていて、日本では北海道から沖縄まで、どこで水道水を飲んでも下痢しなくなりました。昔は「あたってくだけろ」といって何事にも積極的だった若者ですが、今は「あたって下痢する」からと、すべてのことに消極的になってしまいました。 私たちは農薬や殺虫剤で育てた「虫の食わない野菜」や、いつまでも腐らない防腐剤入りのりんごを食べています。確かに、殺菌剤や防腐剤を口にしても死にはしませんが、生きる力を弱めています。なぜなら、私たちを構成している細胞は、細菌などのいろいろな微生物との共生によってできているからです。 ウンコの成分は前の日から消化されなかった食べものや、水、塩類、腸の細胞、それに生きている腸内細菌とその死体です。野菜に含まれている繊維は人間の腸では消化されませんから、最後までウンコのなかにあります。そしてウンコの中味の約半分は腸内細菌だったのです。 腸内細菌はビタミンを合成したり、免疫力を増強したりします。また、体の外から悪い病原菌が入ってきても、これらの腸内細菌は協力し合って、侵入した外来病原菌を取りのぞき、私たちを守ってくれるのです。 まして、オシッコは決してきたないものではなく、出たばっかりのオシッコには細菌類がまったくいません。しばらくすると、空気中の細菌が住みつき、オシッコのなかの尿素を分解してアンモニアと炭酸ガスになります。オシッコがにおうのは、このアンモニアのせいなのです。私たちは「洗えばきれいになる」と信じています。しかし、アトピー性皮膚炎や乾燥性皮膚炎の原因の一つに「洗いすぎ」があるのです。「洗えばきれいになる」と言って洗いすぎると、皮膚常在菌がいなくなり、皮膚の角質層がばらばらになります。そうすると、外部からダニの死体が皮膚の中に入り込みやすく、アトピー性皮膚炎になりやすくなります。 皮膚常在菌は、脂肪酸の膜で表面を被って、皮膚の乾燥を防いでくれているのです。 最近日本人のウンコがとても小さくなり、貧弱になってきました。昔は1日300gでしたが、最近では150gぐらいになってしまいました。便秘に苦しむ女性ですと、80g以下になっており、そのウンコには悪玉菌がかなりの割合でふえています。おかしだけ食べている女性やサプリメントばかり摂っている女性も見られますが、そのウンコにはほとんど善玉菌は棲んでいないのです。そんなウンコをする女性から生まれた子どもたちがアトピーやぜんそくで苦しんでいるというわけです。


地図にない川へ

2007-01-11 23:06:14 | BOOKS
沢渡麗二 「地図にない川へ」 朔風社 2005.10.17. 

地図は炙ってみなければわからない。眼に炎を燃やしてじっと源流部の地図に見入る。そして青のペンを持つ。流れを示す青線が途切れたところからさらに等高線の凹みにしたがって青い線を奥へ奥へと引いていくと、知られざる伏流が姿をあらわす! 釣り人たちがときおり足を運ぶ山岳渓流の多くは、まったく地図に記載されないか、あるいは中途で断ち切られてしまう。おかげで、最源流のイワナたちは狭いながらも安住の地を得られ、強運の釣り人はあらぬところで僥倖にめぐまれる。 そんなことにあらためて思い及んだのは庚申川を3度目に訪れたときだ。 庚申川は、栃木県足尾町を流れる流程25kmほどの川である。本流は栃木・群馬県境をなす両毛山脈のなかの鋸山に源を発し、ほぼ南東に流れて渡良瀬川の右岸に注いでいる。川の名は庚申山(標高1892m)に由来する。庚申川本流の中・上流部には20あまりの滝がある。また滝のような落ち込みが数え切れない。それゆえ、中流のイワナは上流に遡ることができず、上流のイワナは源流に遡ることがかなわない。もちろん、冬季に下流へ落ちていったイワナはそれっきり戻ることはない。 このように下流からの遡上が滝や落ち込みにさえぎられているにもかかわらず、イワナたちはどんな滝の上にもまったく際限がないと思えるほど生息していた。なぜか? それが大きな謎であった。イワナの濃い川は種沢、つまりイワナの産卵に適した枝沢を数多く擁しているものだが、ここには2本しかなく、いずれも本流との出合い付近に小滝をかけている。産卵にのぞむ本流のイワナたちは、大雨が降って水流が斜めにならないかぎりそこを越えられない。 残る可能性は上から下への移動しかない。狭くて過密な源流から比較的容量の大きい上流、中流への分散である。細身のイワナたちが群れる源流のありさまを目の当たりにして、そのことに思いあたった。庚申川源流で生まれたイワナは餌と住みかを求めて次々と上流へ中流へと降下し、それぞれが見いだした適地に棲みついてきた。いわば、源流部は再生産の基地として、中・上流部は生育の場として「使い分け」をしてきたように見受けられる。それがこの川を事実上、魚止めのない川にしてきたのではないか。 足尾銅山が栄えていた明治・大正期には、今では想像もできないほど多くの人が庚申山一帯に出入りしていたという。上流域では銅山で用いる燃料として大量の木炭が作られ、庚申山はもとより両毛山脈の群馬側でも広範囲に伐採が行われた。庚申川を初めて「魚止めのない川」にしたのは当時の杣人たちであろう。中流部辺りの肥えたイワナを採捕し、仕事場におもむくその足で上流へ源流へと運び上げて放流したか、峠越えで移植したか。いずれにしても、源流部はその稚魚で溢れたはずだ。 杣人にとってイワナは大切な食料である。彼らがこの山に住みつづけるかぎり、それはいつでも獲れるものでなければならない。それゆえ、繁殖をうながす必要がある。その最適の場所が流れの緩い本流の源流域であったと思われる。源流域のイワナはかくして人為的に定着したものだと推測する。そして往時の杣人たちは、ただ単に食料としてそれを増やしたのではなく、川にイワナを放ち、その命がみなぎるのを見ることで、ある種の歓びを味わっていたのだとも考える。それは、自然と人が溶け合ったようなこの山の雰囲気に似つかわしい、ひそやかで狂おしい営みであったに違いない。


いま、胎動する落語

2007-01-10 22:39:40 | BOOKS
春風亭小朝 「いま、胎動する落語」 ぴあ 2006.09.03.

落語界に限らず、本当に巨匠といわれる方が少なくなってきた。歌舞伎の世界でも、料理の職人さんたちの世界でも、クラシック音楽の世界でも、理由はいろいろあるが、まず一番に考えられるのは時間でしょう。多くの人たちが人間の生理に合っていないテンポの速さに合わせていくのにきゅうきゅうとなっている。今は皆さん、結果を早く求めたがる。それと飽きっぽい。すぐに次は、今度何やるの?となり、多少あやしくてもやらなきゃいけない。人気のある人は、そのような悩みを抱えている。 次々と仕事をこなしていく人はやっぱり仕事が増え、仕事が増えてくるから余計に時間がなくなってくる。 稽古という字があります。稽古の「稽」という字は、比べるとか、学ぶ。「古」は古いことですから、古いものと比べる、古いものを学ぶというのが稽古だという。いろいろな文献を調べたり、過去の人たちはこの噺にどういうふうにアプローチしたのか、どういうところに苦労したのかということに思いをめぐらせ、自分はどうしたらいいのかを試行錯誤していく、これが稽古だと思う。練習というのは、習ったものを繰り返しやって、スピーディーに話せるようにするとか、かまなくするとかだと思う。どっちかというと、皆さん、練習はよくするが、稽古というのはあまりしてない。とにかく感じ方が浅い。それと、どうしてもこれで成功しなければという鬼気迫る状況にない。ハングリーさに欠ける。何かやっぱり体からにじみ出てくるものがあまりない。若手の落語家には香りがない、においがないと昔から指摘されているが、そうだと思います。やはり多少不器用でも、おれにはこれしかないというこだわりを守っていかないと、なかなか巨匠というのは生まれづらいと思います。 今、皆さん、なにごとも本当に待たなくなっている。このストレスがくせ者です。ストレスがたまってくると、人間、こらえ性がなくなり、当然のことながら、短気になってきます。こらえ性がなくなると、あまり自分の頭でものを考えなくなってくる。そうすると、わかりやすいものが良くなってくる。こちらで考えなくて、向こうから提示してくれるもの、それで感覚的に、ああ、そうかもしれないと思えればそれでいいわけです。 お客さんは、わかりやすいもの、つまり極端なもの、色でいうと原色だとか、うんと熱い、うんと冷たい、うんと辛い、うんと甘いというものに走りたくなる。日本人らしい暖昧さよりも、パッと見てわかる、はっきりしたものが好まれているかもしれません。何か、日本人の持っている中庸の美学というか、程の良さを味わうという感覚がなくなってきています。 寄席のお客さんも極端にわかりやすいものを求めている気がします。人情噺だと、僕らサイドからするとあまりやりたくない手を使って、とてもわかりやすく泣かせてしまう。こちらはちょっと恥ずかしいわけです、こんな手を使ってと。ところがお客さんは結構、泣いたことによってカタルシスを感じ、満足して、ああ、よかった、感動したと。あるいはうんと演出を過剰にして、相手の何か胸ぐらつかむような演出をすると、迫力があると勘違いをするお客さんがいる。すると、おっちょこちょいな演者は、それに合わせてどんどん演出が過剰になる。そうしてないと、やる方も物足りなくなってくる。これが怖い。そういうへんてこなお客さんに合わせていくと演者の方もおかしくなって、実は何をやりたかったのかわからなくなってしまう。 けれど、原因をお客さんに押しっけるのは本当に失礼な話で、こちらの実力と意志の強さが低下しているというのが一番の原因だと思います。


歴史教科書と靖国問題

2007-01-09 22:23:58 | BOOKS
川口和也 「歴史教科書と靖国問題―日本・中国・韓国古代史ノート」 批評社 2006.10.10.

日本人は単一民族だといわれます。はたしてそうでしょうか。 小山修三・国立民族学博物館教授は縄文時代を5期に分け、さらに東北から九州を9地域に分けて綿密な人口統計をとりました。 人口が多いのは東日本、少ないのは西日本という特性が認められます。 今から11,000年前の縄文早期には全国で人口はわずか2,800人(東が2,200人、西が600人)。それが4,000年前の縄文中期に人口が最大となり、全国で264,900人(東が233,600人、西が31,300人)で東西の差も最大になります。 ところが2,000年前、漢の光武帝に北九州の倭の奴の国王が金印をもらったころになると全国で77,300人と激減してしまいます。東が44,200人、西が33,100人となり、西の人口がわずかに増えています。そして、1,300年前の奈良時代の人口は約500万人と、人口爆発とも言える急激な人口増加が認められます。列島の人口は700年間に60倍以上に増加しました。渡来人の急激な増加という社会要因を認めない限り、この人口爆発を説明できません。 現代の日本人を本土人、アイヌ、沖縄人に分け、そして中国人、韓国人の、ミトコンドリアDNAを研究した宝来聰・国立遺伝学研究所助教授によると、韓国や中国にはそれぞれ主要なミトコンドリアDNAがあるのに、日本本土ではとくに主要なものがない。混血が日本人の特徴で、そして韓国人と日本人については「遺伝的距離はゼロ」だと述べています。わたしたちは縄文人よりも渡来人の遺伝子の方をより多く持っているようです。 日本に仏教が公式に伝来したのは飛鳥時代の552(欽明13)年に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だと『日本書紀』に記述されています。 仏教は全く外来のものですから、日本の仏教文化はすべて大陸と半島からの渡来人およびその子孫の手によって築かれた、外国文化そのものです。 飛鳥で最大規模の伽藍を誇ったのは、百済大寺でした。この寺院跡とみられるのが奈良県桜井市の吉備池廃寺。飛鳥時代では最高層の高さ90メートル級と推定される巨大な塔の基壇が出土し、奈良国立文化財研究所と同市教委は1998年3月、「日本書紀に九重塔と記された百済大寺の塔跡とみられる」と発表しました。 この寺は舒明天皇の命令によって建立された、国家の威信をかけた大寺院です。クダラの名称を誇らしげに持つ大寺が大和朝廷の権威の象徴だったのです。 飛鳥の住所は昔も今も高市郡飛鳥です。飛鳥のもっとも奥まった土地が檜前(ひのくま)で、渡来人が多く住んでいた場所です。『続日本紀』に、「檜前忌寸の一族をもって、大和国高市郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主が、軽嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御代に、朝鮮から十七県の人民を率いて帰化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜わり居を定めたことによります。およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と十七県の人民が全土いたるところに居住しており、他姓の者は十のうち二 二割程度しかありません‥…」とあり、飛鳥を含む高市郡の住民のほとんど全部が渡来人の末裔だったことになります。これらの人々が飛鳥の仏教文化を下支えしたことでしょう。 わたしたちが「心の故郷」としている飛鳥は渡来人の都であったのです。この『続日本紀』の記述は、当時の列島住民の過半数以上が縄文人ではなく弥生人(渡来人)であったという現代科学の指摘と符合しています。