竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

いま、胎動する落語

2007-01-10 22:39:40 | BOOKS
春風亭小朝 「いま、胎動する落語」 ぴあ 2006.09.03.

落語界に限らず、本当に巨匠といわれる方が少なくなってきた。歌舞伎の世界でも、料理の職人さんたちの世界でも、クラシック音楽の世界でも、理由はいろいろあるが、まず一番に考えられるのは時間でしょう。多くの人たちが人間の生理に合っていないテンポの速さに合わせていくのにきゅうきゅうとなっている。今は皆さん、結果を早く求めたがる。それと飽きっぽい。すぐに次は、今度何やるの?となり、多少あやしくてもやらなきゃいけない。人気のある人は、そのような悩みを抱えている。 次々と仕事をこなしていく人はやっぱり仕事が増え、仕事が増えてくるから余計に時間がなくなってくる。 稽古という字があります。稽古の「稽」という字は、比べるとか、学ぶ。「古」は古いことですから、古いものと比べる、古いものを学ぶというのが稽古だという。いろいろな文献を調べたり、過去の人たちはこの噺にどういうふうにアプローチしたのか、どういうところに苦労したのかということに思いをめぐらせ、自分はどうしたらいいのかを試行錯誤していく、これが稽古だと思う。練習というのは、習ったものを繰り返しやって、スピーディーに話せるようにするとか、かまなくするとかだと思う。どっちかというと、皆さん、練習はよくするが、稽古というのはあまりしてない。とにかく感じ方が浅い。それと、どうしてもこれで成功しなければという鬼気迫る状況にない。ハングリーさに欠ける。何かやっぱり体からにじみ出てくるものがあまりない。若手の落語家には香りがない、においがないと昔から指摘されているが、そうだと思います。やはり多少不器用でも、おれにはこれしかないというこだわりを守っていかないと、なかなか巨匠というのは生まれづらいと思います。 今、皆さん、なにごとも本当に待たなくなっている。このストレスがくせ者です。ストレスがたまってくると、人間、こらえ性がなくなり、当然のことながら、短気になってきます。こらえ性がなくなると、あまり自分の頭でものを考えなくなってくる。そうすると、わかりやすいものが良くなってくる。こちらで考えなくて、向こうから提示してくれるもの、それで感覚的に、ああ、そうかもしれないと思えればそれでいいわけです。 お客さんは、わかりやすいもの、つまり極端なもの、色でいうと原色だとか、うんと熱い、うんと冷たい、うんと辛い、うんと甘いというものに走りたくなる。日本人らしい暖昧さよりも、パッと見てわかる、はっきりしたものが好まれているかもしれません。何か、日本人の持っている中庸の美学というか、程の良さを味わうという感覚がなくなってきています。 寄席のお客さんも極端にわかりやすいものを求めている気がします。人情噺だと、僕らサイドからするとあまりやりたくない手を使って、とてもわかりやすく泣かせてしまう。こちらはちょっと恥ずかしいわけです、こんな手を使ってと。ところがお客さんは結構、泣いたことによってカタルシスを感じ、満足して、ああ、よかった、感動したと。あるいはうんと演出を過剰にして、相手の何か胸ぐらつかむような演出をすると、迫力があると勘違いをするお客さんがいる。すると、おっちょこちょいな演者は、それに合わせてどんどん演出が過剰になる。そうしてないと、やる方も物足りなくなってくる。これが怖い。そういうへんてこなお客さんに合わせていくと演者の方もおかしくなって、実は何をやりたかったのかわからなくなってしまう。 けれど、原因をお客さんに押しっけるのは本当に失礼な話で、こちらの実力と意志の強さが低下しているというのが一番の原因だと思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。