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死刑制度の歴史

2007-01-24 20:51:16 | BOOKS
ジャン・カルバス 「死刑制度の歴史」 文庫クセジュ 2006.12.10. 

国際連合に参加する半数以上の109国が事実上死刑を廃止している。ヨーロッパ諸国は、ユーゴスラビア連邦(セルビア)とボスニアを除いて、すべて死刑を廃止した。残りの国々の86国は法律上死刑を存続しているが、その適用の仕方には大きな違いがある。2000年には、4つの国だけで死刑執行数の88%を占める。中国、サウジアラビア、アメリカ合衆国、そしてイランである。死刑の執行件数は28カ国で1,457件あるが、うち1,000件以上は中国で行なわれている。1999年は1,263人。2001年には「厳打」といわれる犯罪撲滅キャンペーンの4月11日~20日のあいだに342件の死刑が執行された。1996年では、死刑執行数は4,367件に及んでいる。一方、アメリカ合衆国は、2000年には執行数85件、2001年半期で34件であった。 カブール、リヤド、テヘラン、バルトゥームなどでは公開処刑が問題となっている。中国では受刑者の家族は死刑執行に用いられた銃弾の費用を国に返済しなければならない。 ここ数年、死刑をめぐる議論は高まっている。アメリカの世論の圧倒的多数は死刑賛成で、指導者層の多くは国民感情に反することはできないと信じている。こうした「死の崇拝者」精神はヨーロッパ人には理解しがたいものがある。 アメリカでは「汝殺すなかれ」の古典的な解釈に従って、聖書が死刑を認めているとする。「人の血を流す者は、人によって血を流される」という同害報復の法理は民衆の心の「原理」としてありつづけ、西部開拓者たちはこの原則を適用することをためらわなかった。これが有名な「私刑法」である。庶民階級に深く根を下ろした武器の携帯は個人の基本的自由、みずからの安全保障をなすという確信も憲法修正第2条によって承認されており、今なお刑事陪審員たちが持っている正当防衛の観念を説明してくれる。学説理論でも「死刑は犯罪を予防するだけでなく、犯人の行為にふさわしい応答、均衡の回復でもある」と本質的に応報的なものと見なされる。 古代以来、死刑をめぐる論争の言葉遣いがほとんど変わっていない。死刑の2つのおもな正当化理由は、一方でその応報的ないし贖罪的性格(人を殺した者は死ななければならない)と、その有用性(罪人は死ぬことで二度と危害を加えることができなくなり、公的処刑が犯罪予備軍にとって抑止的に働く)である。一方、死刑廃止論者は誤判の危険性を持ち出す。死刑は取り返しがつかない性質から、すべての誤判は修復不可能となる。 アメリカ合衆国の場合、陪審員たちは不充分な証拠で満足することが多すぎる。この何年の間にも、幾度も無実の人間が電気椅子に送られた。疑わしきはつねに被告人の利益にというすばらしい規則は、被告人が唯一取り返しのつかない刑、つまり死刑を受けるときには絶対的な規則でなくてはならない。死刑執行の記録を持つ中国は、処刑された遺体や堕胎された胎児から取られた臓器密売が猛威を振るっている国でもある。「汝殺すなかれ」、個人または集団の正当防衛の場合は除かれるとしても、野蛮にかわる選択肢はこれ以外ない。