竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

メトロ誕生

2007-12-31 16:40:22 | BOOKS
中村健治 「メトロ誕生 地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防」 交通新聞社 2007.07.15. 

1927(昭和2)年12月30日、東洋で初めての地下鉄が浅草~上野間はわずか4分50秒の運転時間でスタートした1934(昭和9)年には新橋まで延伸した日本最初の地下鉄『東京地下鉄道』である。一方、東京での2番目の地下鉄である『東京高速鉄道』は、渋谷駅から青山6丁目、赤坂見附、虎ノ門などを経て、新橋駅までの6.3キロ、13分の路線を1939年1月15日に開通した。 新橋の地下に衝立のような壁をはさんだ「2つの新橋駅」を舞台に激しい攻防が繰り広げられ、人々から「地下鉄騒動」と呼ばれた東京貫通地下鉄の開業を巡る攻防は、1939(昭和14)年9月16日、五島慶太の勝利で終幕し、早川徳次の長年の願望であった、浅草~新橋~品川間の直通地下鉄は夢と消えた。 慶太が東京地下鉄道を買収することが世間に伝わると、人々は「苦心惨憺して、日本で初めて地下鉄を創り上げた徳次を、五島は容赦もなく叩き出した」と、徳次を「地下鉄の父」と呼んで敬愛する一方、慶太に対しては「強盗・慶大」と批判した。 2人の攻防が終わった1941(昭和16)年9月に発足した『営団地下鉄』は、2004(平成6)年4月に『東京メトロ』となり、名称も組織も一新された。 一つの線路でつながれた東京地下鉄道と東京高速鉄道の路線は現在『東京メトロ・銀座線』となり、浅草、上野、神田、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、赤坂見附、表参道、渋谷など、日本を代表する東京の繁華街を東西に縦横断しながら直通で結んでいる。

ボロ物件でも高利回り激安アパート経営

2007-12-30 12:57:05 | BOOKS
加藤ひろゆき 「ボロ物件でも高利回り激安アパート経営 激安アパート経営 借金不要!」 ダイヤモンド社 2007.06.14. 

激安物件は古い物件が多く、リフォーム代がかかる。だが、リフォームの支出は一時的なものだ。多少、条件の悪い建物でも、入居者が決まる。母子家庭、生活保護、家庭内暴力、ワーキング・プア、離婚。必ずしも、ナウでヤングな新築物件に、高い家賃を支払って住む人ばかりではない。 日本では、まだ残存価値を残したまま、空き家として放置プレイを実施され、その後、解体される物件が多すぎる。もったいないことだ。 国家と住宅メーカーは、新築を建てることを奨励し、善良なつとめ人が巨額のローンを組んで、夢を抱いて自分の家を新築で建てる。 しかし、かつて暮らしたアメリカで、住宅を新築している場面には遭遇しなかった。築50年以上の物件が平気な顔をして売買されて、住みながら自分で物件を修理する。アパートメントを借りるときも、築年数を問いたことはない。 長期の住宅ローンを組むと、つとめ人をなかなか卒業できない。病気やケガをしても無理して出社しなければいけない。アクマの悪い上司の変な作戦にも従わなくてはいけない。また、転職した場合も、自宅から通える範囲で新しい職場を探さなければいけない。 もう、ここから絶対に動かないと決めた時点で、自分の家を購入しても遅くはない。それでも、どうしても家が欲しい時は、1,000万円以下の中古住宅を購入して、100万円くらいかけて自分好みにリフォームして住めばいい。 自分で住む家を買う前に、まず、激安&高利回り物件を購入して、早くつとめ人を卒業しよう。そして、自分で自分の人生をコントロールしよう。

定年バックパッカー読本

2007-12-29 10:51:16 | BOOKS
大嶋まさひろ 「定年バックパッカー読本 団塊は、世界をめざす!」 ブックアート 2007.08.29. 

団塊世代のオヤジは各種アンケートで、定年後の暮らしの中で海外旅行への強い関心を持っていると答えています。 バックパックと呼ばれるリュックを背負い、可能な限り低予算で、長期間、世界中を旅する、バックパッカーという、いってみれば究極の個人旅行があります。この個人旅行のノウハウと、団塊オヤジの人生経験が合わされば、新しいバックパッカーが誕生するのではないでしょうか。 定年バックパッカーの心得として、一人で旅に出る。両手プラプラで、スーツケースは持たない。荷物はひたすら小さく。目的地までスパッと飛んで、あとはゆるゆると。旅は1カ月サイクルとする。勘を磨いて自分で宿を見つける。現地の日常食を食する。贅沢と質素を使い分ける。数日滞在し、きっぱりと旅立つ。誰とでも喋る。そうすれば、一人旅の途上で、自分の第2の人生の場所を見つけてしまうかもしれない。それも旅だ。


博物館学を学ぶ

2007-12-28 10:22:15 | BOOKS
水藤 真 「博物館学を学ぶ-入門からプロフェショナルへ」 山川出版社 2007.11.15.
 
博物館は今日では約5000館もある。フランスやイギリスはおそらく2000館ほどであろう。アメリカ合衆国はこれよりも多いかもしれないが、日本はすでに博物館天国である。問題は中身である。 大英博物館・ルーブル美術館・メトロポリタン美術館などは,幾多の収蔵品もさることながら,スタッフも数千人いる。一方、日本では平均8、7人に過ぎない。なかには学芸員のいない博物館もある。これではもう博物館とは名ばかりだ。 足立美術館(島根県安来市) 足立全康が一代で財をなして建てた個人美術館。若い頃に横山大観の作品「蓬莱山」を見て感動し、そして事業に精を出して財をなし、大観の絵を収集して建てた。 博物館明治村(愛知県犬山市) 初代館長谷口吉郎と元名古屋鉄道会社会長土川元夫の2人が、失われゆく明治時代の建築物を犬山市郊外に移築・復元した。 トヨタテクノミュージアム産業技術記念館(名古屋市西区) 豊田佐吉が自動織機の研究開発した実験工場の場所と建物を利用して、1994年にトヨタグループが、織機と自動車の発展歴史を展示。 大塚国際美術館(徳島県鳴門市) 大塚製薬が創立75周年を記念して、縁の地に美術陶板による複製品の美術館を1998年に開館した。 名和昆虫博物館(岐阜県岐阜市) ギフチョウの発見者として知られる名和靖によって1896年に名和昆虫研究所が作られ、1919年にできた昆虫標本がぎっしりと並んだ個人の博物館である。 日本玩具博物館(兵庫県姫路市) 井上重義が1963年に1冊の郷土玩具の本と出会い、一念発起して収集して自宅を展示室にして開館した。 函館市立博物館(北海道函館市) 開拓使顧問のポーレス・ケプロンが大学・博物館・図書館の必要性を建言したことを受けて、1879年函館公園内に開拓使函館仮博物場を開場した。 博物館は面積ではない。内容と熱意,これが基本だ。これを作ろう、これを見てもらおう。この意気込み・情熱が大切なことだと思う。


勲章と褒章

2007-12-27 14:06:00 | BOOKS
佐藤正紀 「勲章と褒章」 時事画報社 2007.12.10. 

日本国憲法第7条第7項には、天皇陛下の国事行為について定め「栄典を授与すること」とあり、天皇陛下から授与される栄典には、位階、勲章、褒章があります。 功績を挙げた者に対してそれを表彰する方法として、領地を与える、物を与える、感謝状を与えるなどの方法がとられてきましたが、より組織的に表彰する方法として、勲章という制度が作られていったのです。 勲章制度を検討する際に参考にされたフランスでは、1802年に軍人及び民間人のフランス国に対する功績に対して授与するものとして「レジオン・ド・ヌール勲章」が制定されました。受章者には、創設当初は全員に年金が支払われていましたが、現在では、戦争において功績を挙げて受章した軍人に対してのみ支払われるように改められています。金額は、シュバリエで年額40フラン、グラン・オフィシェで160フラン程度と象徴的に過ぎず、ほとんどの人が帯勲者互助会に寄付しているそうです。 わが国でも明治9年10月に「勲等年金令」が定められて、受けた勲章の勲等に従い、年金を支給することとしましたが、金鵄勲章の年金も勲等年金も昭和16年に廃止され、以後の受章者には年金が支給されまぜん。 日本国憲法施行と同時に、金鵄勲章を廃止。昭和39年4月21日、「叙勲基準」が閣議決定されて、官吏及び軍人中心から、国民の各界各層を対象とする叙勲制度となりました。 春秋叙勲と危険業務従事者叙勲でそれぞれ概ね4000人と3600人、また、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬、藍綬の褒章で概ね800人の受章者が年2回選定されます。国家公共に対して功績のある方々を特定の分野に偏ることなく、公平に選定するために、地方自治体や経済団体などから推薦を受け、内閣府賞勲局が審査を行い、選定された候補者が閣議決定を経て受章者として発令されます。 また、国の機関の視点だけでは人目に付きにくい分野が見落とされることから、平成15年5月16日に一般推薦が決定され、推薦書と2名の賛同書を内閣府賞勲局宛に提出することとされています。

プラネタリウム

2007-12-26 09:56:12 | SIGHT


科学館のプラネタリウムは地下にあります。世界5位の直径26.5mのドームです。



光学式のコニカミノルタプラネタリウムのインフィニウムL・OSAKAが約9000個 を投影し、デジタル映像式の五藤光学のバーチャリウム?がCG画像を照射します。



渡部学芸員の解説を伺いながら、フランス製のシートにうまり、すっかり熟睡してしまいました。


大阪市立科学館

2007-12-26 09:41:17 | SIGHT

所在地:大阪府大阪市北区中之島4-2-1 設計:竹中工務店 延床面積:8,920.79m
大阪市制100周年事業として、関西電力から65億円の建物設備の寄付を受けて1989年に開館。


昭和12年(1937)、電気科学館として四つ橋に誕生。日本で最初にプラネタリウムを備えた日本初の科学館だった。



日本初のプラネタリウムカールツァイスII型モデル第25号機。 世界中で3基しか残っていないうちの1基だそうです。ドーム 直径18メートル、投影星数6,000個。



展示場3階科学プラザでは、岳川有紀子学芸委員によるサイエンスショー「電気びりびり」が行われ、強力な静電気発生マシンを使った静電気の実験を楽しませて頂きました。



来年は西村真琴が80年前に制作した「学天則が再び動き始める」そうです。

プラネタリウムを作りました。

2007-12-26 00:43:31 | BOOKS
大平貴之 「プラネタリウムを作りました。 7畳間で生まれた410万の星」 エクスナレッジ 2003.06.01. 

通常のプラネタリウムやアストロライナーは、天の川を投影するために、専用の「天の川投影機」をつけている。天の川の透過パターンを描いたフィルムを円筒形に作り、その中心に電球を置くものだ。ところが、このやり方ではぼんやりとした像しか得られない。 そこで、浮かんだのがいっそ天の川を全部星の集まりで表現してしまえというアイデアだった。高校時代にオーストラリアで見た星空、壮大な天の川の感動が、脳裏に蘇ってきた。この構想を実現すれば、誰もが実現したことのない、壮大なスケール感のある星空を再現できる。そのように思えてきたのだ。 5作目になる「メガスター?」の再現できる星の数は410万個。これは通常のプラネタリウムが投影する星の数の100倍から1,000倍に相当する。「メガスター」に比べても、2倍以上というモンスターマシンだ。メガスターは直径12メートルまでのドームにしか投影できなかったが、?は、25メートルまで投影可能になり、国内のほとんどの大型プラネタリウムドームで使用可能だ。本体の重量約35キロ、サイズは46センチ経・60センチ高のメガスターとほぼ同じで、運搬のしやすさは変わらない。一方、方位軸を省いたため、複雑な動きの再現力は、メガスターのほうが勝っている。また、LEDの昼光照明や、朝焼け、夕焼けの投影機も省かれた。 メガスターは、宇宙シミュレータとしてのプラネタリウム機能を完備し、効果演出も備えている。本体一式のみで、番組を上映できる構成になっていた。一方メガスター?は星空の投影に特化しており、必要な付加機能はその場で適宜用意するというコンセプトだ。 メガスターは移動式プラネタリウムとして、メガスター?は、星の明るさや圧倒的なリアリティを生かして、大型プラネタリウムやドームに限らず、ホール演出やコンサートなど、さまざまな場面で星空を演出する。 星空を作りたいという願望の根本はなんだろうか。それは美しいものを作りたいという願望だと思う。そしてプラネタリウム作りには、多くの人々に見てもらう喜びがある。美しいものを作り、それを多くの人に見せたいという素朴な思いがあった。子供のころには、夜光塗料の星空を見せ、手製の矢印ポインターで星を解説して喜んでもらう嬉しさを味わった。美しいものを作り出し、より多くの人に伝える喜び。テクノロジーという絵筆で、思い描いたものを形にする喜び。これこそが、僕のプラネタリウム作りの原動力になっていると今改めて思う。


〈現代っ子〉ノート

2007-12-25 08:33:27 | BOOKS
梶田叡一 「〈現代っ子〉ノート」 東京書籍 2007.09.10. 

江戸時代の人々は、きわめて実直で合理的な生活様式を持っていました。例えば義理人情。義理人情には窮屈な面がありますが、合理性もあります。でも明治維新を境に、この心情を捨ててしまったのです。 次の大きな歴史的曲がり角は、60年前の敗戦で、日本は、アメリカを中心とした連合軍に占領され、7年間近く主権を失いました。ヨーロッパで広範囲な民衆に対しての教育が始まったのは、フランス革命後の19世紀初頭からです。一方日本では、16世紀に、庶民の子どもまで読み書き計算ができるなど、ヨーロッパでは考えられないほどの教育伝統を持っていたのですが、敗戦ショックの後遺症で、一種の精神的植民地になってしまったのです。 戦後の新教育は、デューイの薄っぺらな解釈に基づいたもので、日本に入って2、3年で破綻しました。「這い回る経験主義」ということで、強く批判されたのです。やり過ぎたということで、今度はきちんとした教育をしようということになりました。それが「教科主義」です。そして、それがひどくなったからということで、次には「教育の人間化」が叫ばれました。その後、「現代化」ということで理数教育が中心になり、1985年前後から、臨教審の報告もあって「個性化」が打ち出されるようになりました。 本当に子どもの側に視点を置いていたら、学校での具体的な活動方針が簡単に右から左へ振れるということはありえません。 明治維新後の森有礼による学制改革以降ずっと、学校は、いわば小さなお役所でした。富国強兵のために、全国津々浦々まで張りめぐらされたお役所だったのです。お役所というのは、いつだって上意下達です。 残念ながら、日本では本当に「子どもの姿を見つめながら教育方針を決める」という姿勢が育たず、結局、上に対抗するものとしては、下からの政治主義的な組合運動しか起こらなかったのです。上の方が常にアメリカの意向で動くのに対し、下の方では、「労働者の祖国・ソ連」をモデルとして、「ソ連のやり方ではそうでない」と主張する。結局は政治的なヘゲモニー争いです。 今地域や父母と連携しながら、それぞれの学校の運営を進めていく必要があります。90年代のゆとり教育の時期に、日本の学力は全体的には低下しました。しかし、私学は例外です。「お受験」が流行ったのは、公立がだめだという認識が広くあったからです。公立では学校にも教師にも当たり外れがひどいから、私学が選ばれたのです。 私学は、アラカルトの料理を出す専門店で、公立はスタンダードな料理を出す定食屋です。スタンダードな料理にその学校独自の個性的な工夫を加えると同時に、どの公立学校に行ってもこの水準以上の教育を保証します、ということにならなくてはいけないでしょう。


今日ですべてがむくわれる

2007-12-24 06:09:04 | NEWS
薬害肝炎、一律救済へ 

首相が方針を転換「今日ですべてが終わる、今日ですべてがむくわれる、と思って頑張ってきたのに・・・」
東京原告の浅倉美津子さんの涙の会見後、やっとその願いが届きましたね。


春夏秋冬 / 泉谷しげる

季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち 愛のない家を出て 愛のない人にあう
人のためによかれと思い 西から東へかけずりまわる やっとみつけたやさしさは いともたやすくしなびた
春をながめる余裕もなく 夏をのりきる力もなく 秋の枯葉に身をつつみ 冬に骨身をさらけ出す
今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる 今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ