竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

VANストーリーズ

2007-01-23 19:51:58 | BOOKS
宇田川 悟 「VANストーリーズ-石津謙介とアイビーの時代」 集英社新書 2006.12.19.

1951年(昭和26年)、石津謙介はレナウンを円満退社し、退職金代わりに北炭屋町(今のアメリカ村)の社宅を貰い受けて石津商店を創業した。敗戦から6年の商品飢餓状態。そこに朝鮮戦争の特需景気で成金が台頭した時代に薄利多売ではなく、高価でもデザインの優れた高品質な服作りをめざした。そして、1955年(昭和30年)、石津謙介は満を持して東京に、株式会社ヴァンヂヤケットを設立する。一面焦土と廃墟の岡山から出奔して大阪経由ではや10年。大阪に製造部門を残し、活躍の舞台を東京に移した。日本人の生活レベルはめざましく向上したが「衣」に関しては遅れていた。とりわけ男性のオシャレ意識は低く、オシャレしようにもモデルとなる洋服がなかった。1959年、石津はアイビー・リーグの視察に渡米。これがVANにとって大きなターニング・ポイントになった。帰国した彼は、鋭い直感を発揮して、それまでの裕福なシニア向けの高級紳士服メーカーから、若者をターゲットにマスプロダクト・メーカーへと大胆な転換を決断する。アイビー・ファッションの現場を仔細に研究した石津はこのアイテムを日本の若者相手に仕立て直し、製造・販売すれば彼らの支持を得られるのではないかと確信した。当時、VANのPR誌的存在になっていた「メンズクラブ」で、アメリカの学生のあいだでアイビーが流行していると喧伝し、徐々にアイビーという言葉が日本のオシャレ人間に浸透していく。 親子代々着古したスーツやパッチのあたったジャケットを譲り受け、必要以上に華美や奢侈に走らず、良き伝統に敬意を払うアイビー・リーグの学生。このアイビー・スタイルが、石津に旧制高校のバンカラ・スタイルを髣髴させ、アメリカのワスプ型エリートが着ているカジュアルなアイビーを、日本の若者は粋で洗練された日常服として受け入れるだろうと考えた。彼の先見と洞察はものの見事に的中し、日本の若者たちはVANの魔力に魅了・呪縛され、ボタンダウンとコットン・パンツにまつわる数多くの物語を紡いだアイビー・ルックは、社会的現象となった。 アイビーは、日本の若者に定着し、そこからアイビー・ルック、アイビー・スーツ、アイビー・ストラップ、アイビー・スラックスなど、アイビー関連のネーミンングはすべてVAN主導によって定義された。イラストッレーター穂積和夫が描いた永遠の「アイビー坊や」がVANのポスターに登場し、人気キャラクターに成長する。 石津謙介67歳の1978年(昭和53年)4月6日にVANは倒産した。年商450億を超えた75年のピークを最後に大幅赤字へと坂を転げ落ちての倒産だ。負債総額は当時で500億円。戦後、アパレル業界最大の大型倒産だった。