竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

僕と長さんは旅に出た。

2005-06-30 22:55:55 | BOOKS
ダニーすがの 「僕と長さんは旅に出た。」 主婦と生活社 2005.04.11. 

長さんはよく「アフリカは世界の田舎だ」という言葉を口にした。「アフリカの片田舎に、僕ほどたくさんの友人を持っている日本人はいない」 この言葉には重みがある。なまじの旅行者が口にできる言葉ではない。 
何の打算もなく、純粋に人間と人間による心の交流。一見簡単なことのようで、実は非常に難しい。天性の才能、長さんにはそれがあった。彼の優れたその才能は、もしかしたらコメディアンとしての才能、俳優としての才能よりも高いレベルのものだったのではないだろうか。
長さんとの記憶の共有こそが、わたしにとってかけがえのない財産である。 
「なあ、ダニー。今度はどこへ行ってみようか」

《荒れ野の40年》以降

2005-06-29 22:21:06 | BOOKS
宮田光雄 「《荒れ野の40年》以降 岩波ブックレット 2005.05.27. 

われわれは、独裁制を、戦争を、不法国家を、ほとんど他の民族が経験しないであろうような仕方で経験したのであります。多くの明暗の章をもつわれわれの歴史の遺産の中でも、これは、とくに重い意味をもつ一章となりました。しかし、これをなおいっそうよく理解し、いっそう明瞭に記憶にとどめ、そのもたらした結果にたいする責任をいっそう明確に担おうとするならば、この過去からわれわれのアイデンティティの危機が生じるということは、それだけ少なくなるでしょう。それどころか、われわれは、いっそうよく自分自身とまた隣人たちにとりましても理解されるようになるのであります。 
罪の有無、老若いずれを問わず、われわれすべてのものが過去を引き受けねはなりなせん。われわれすべてのものが過去からの帰結に関わりあっており、過去にたいする責任を負わされているのです。 
歴史は、なかったものにすることはできません。何事も忘却されはしません。しかし、怒りの感情は干からびていくことも可能ですし、憎しみの思いも克服されうるのです。 
心情と精神とは転換されることが可能です。それこそ和解の力というものです。ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領の1985年5月8日の敗戦40周年演説は今もその輝きを失わない。

明治の庶民に志を学ぶ

2005-06-28 21:29:28 | NEWS
大林尚編集委員 長岡 實(元東証理事長)へのインタビュー「明治の庶民に志を学ぶ」 日本経済新聞 2005.06.27.  

大蔵省に入った戦後間もないころ、どの先輩も食うや食わずで新しい日本をつくろうという気概に満ちていました。明治維新の志士に通じるものがあった。
恥ずかしいことをしてはいけない。潔くあらねばならない。明治の人びとは現代人が忘れかけている信念を抱いていました。たとえば列強の属国になるのは恥ずべきことだという考えです。この信念は実ははとんどの国民が同じ思いだった。
昭和35年の国民所得倍増計画は立派な政策だし国民に受けた。衣食足りて礼節を知るといけばよかったのですが、物質的な豊かさを求めるあまり、心の問題が置き去りにされなかったか。月並みですが、この世に生まれた以上、やりがいのある仕事を求め努力を傾注すれば、結果として経済的に恵まれなくてもいいじゃないか。


国を憂うエリート官僚がその後輩たちの気概なさを語ったものとお見受けした。それにしても、我が子を芸能界にデビューさせたいなどという親が増えたのは何時ごろからだろうか。恥を重んじるこの国において、河原乞食と蔑まれる境涯に我が子を落とすなど言語道断。世間様に顔を向けられない筈だったのに。職業差別がなくなったということか、それとも収入が全てと成り果ててしまったのか。

逆説のアジア史紀行

2005-06-26 21:53:40 | BOOKS
井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」 小学館 2005.03.20.

過去においては、中国の文化を朝鮮がかみ砕いて日本に流した。近代史における日本の役割というのは、非常に取りつきにくい西洋文明を、まず日本がいろいろ翻案し、アジアに向かってフィットするように形を変えて、台湾や朝鮮半島、中国、そして全アジアへと発信したことだと思っている。
現在の韓国文化はかなり日本のコピーが多い。日本も昔は、様々な分野で中国から文化を取り入れてコピーし、それを発展させてきた。 
ハングルを作ったのは韓国史上最大の名君とされている「世宗大王」である。15世紀のことだ。この時まで朝鮮民族は民族固有の文字というものを持たなかった。漢字(中国語)があり、文化とは「中華」のことだった。
朝鮮民族の識字率は低く、一部の上流階級だけが本来外国語にあたる中国語を「読み書き」に使い、母国語を表わす文字(記号)は一切なかった。そこで世宗は民衆の識字率の低さに憐れみを覚えて、「訓民正音」つまり「愚かな民衆に正しい発音を教える」ためにこれを作らせた。だから「偉大なる文字」ではなく発音記号「訓民正音」なのである。
韓国側の最大の歴史歪曲は「かつて朝鮮半島の国家は中国の属国であった」という歴史上の事実を「国辱」あるいは「民族の恥」として徹底的に隠蔽している点だ。 
朝鮮(李氏朝鮮)が中国(清)から独立することができたのは、日本が日清戦争で勝って下関条約で「朝鮮国の独立」を認めさせたからだ。

黄文雄
「日本は韓国や台湾を属国化したが、それは西洋列強が行なっていたような、収奪するだけの植民地支配とは質的にかなり異なり、鉄道網など社会インフラや国民教育の制度の整備など、近代国家を建設する基礎をつくつている。韓国の身分制度を廃止させたのも日本だ。
古くから朝鮮農民の多くは、収穫した米を翌年の春までには食い尽くしてしまい、その後麦ができるまでの3か月ほどは、草の根、干し草、団栗などで食いつなぐという生活を、李朝以来数百年間にわたって続けてきた。それを朝鮮総督府が土地改良、耕法改善、品種改良などの努力を重ね、有史以来1000万石を超えなかった米生産量が、昭和時代には常に2000万石を突破するようになった。」

進歩の触手

2005-06-26 21:43:05 | BOOKS
D.R.ヘッドリク 「進歩の触手」 日本経済評論社 2005.02.25. 

西欧技術に対する非西欧政府の反応はさまざまで、近代化の選択の仕方によっては、19世紀のエジプトや中国の清王朝からイランの王に至るまで多くの体制が没落した。 
西欧の技術は熱帯地方に、鉄道、プランテーション、電信網などのように別々の事業の形で伝わった。しかし、産業革命のきっかけとはならなかった。なぜ西欧の技術が限られた結果しかもたらさなかったのか。 
鉄道時代はほぼ一世紀にわたり、1830年からの最初の30年間は実験の時期で、イギリス、西ヨーロッパ、およびアメリカ合衆国東部で急速な発展がみられた。鉄道に対する需要は、多くのヨーロッパ人が植民している諸国でもっとも大きく、非ヨーロッパ人で、鉄道に熱狂していたのは日本人だけであった。1914年まで、鉄道は植民のための新天地を開発し、通商を発展させるものと期待された。
インドは二つの理由で特殊なケースだ。第一に主権国家にあってインドだけが植民地であり、第二に、鉄道ブーム期の工業化に失敗した唯一の国であった。インドの鉄道には、イギリスとインドの二つの政府が関係し、イギリスがインドの掌塩を強めるのに役立った。 鉄道は、予期に反してインドの人々が熱狂的に飛びついた。乗客数は、1880年の8000万人から1904年には2億人、1920~21年には5億人、そして1945~46年までに10億人に増加した。その一つの理由はおそらく世界でもっとも低い運賃であった。 鉄道旅行はカーストの障壁を侵食しながら、何百万人という乗客の目の前で、その障壁に代わるより単純な社会区分を示した。三等単には最底辺の仕事に従事するヒンドゥー教徒やイスラーム教徒、一等尊には管理的地位にあるヨーロッパ人、二等車にはインド生まれのイギリス人が乗るという社会区分であった。亜大陸の新しい国民を形成する宗教・民族意識の覚醒に、鉄道は知らず知らずのうちに役割を果たしていたのである。 
日本では、鉄道建設の着想と資本は国内にあった。最初の路線である東京-横浜間19キロメートルは、政府の事業で、1872年に天皇の臨席のもとで開業した。初期の鉄道建設において、日本人はイギリス人技師長を含む多くのヨーロッパ人を雇用したが、鉄道時代が始まってからわずか7年後の1877年に、京都-大津間の路線が外国の援助なしに建設された。当初から、日本の産業発展に貢献するものとして国会で討議され、海外から押し付けられたものではなかった。 
中国は鉄道時代を通して理論上は統一国家、独立国家であった。しかし、実際には分割され、外国の干渉に従属していた。干渉の一つに、ヨーロッパ人の利益に供するためのヨーロッパ企業による鉄道建設があった。鉄道は、中国の支配階級の抵抗を受け、民衆の怒りをかい、動乱の中で破壊され、損害を被り、放置された。結果的に、中国は1942年にわずか1万9300キロメートルの線路を有するだけで、それはインドのおよそ4分の1、一人当たりでは5分の1であった。 
第3の事例は、マラヤ、インドシナ、アフリカ植民地のような、さらに小さな熱帯の従属国にあった。これらの地域は19世紀の終わりにほとんど植民地化されたので、鉄道は1890年代以降、純粋に原料を輸出するために建設された。
「インドの経済生活が外国に方向づけられ限られた資源を浪費していたのと、日本経済が国内的な方向づけをし日本人が利用し得る限られた資本を用意周到に倹約していたのとは、鋭い対照をなしている。鉄道政策の相違は、自国の問題を処理している国と、外部の列強によって問題を管理されている従属国との方向性と強調点の差異を示している」
結局、インドにおけるイギリスの鉄道政策の主要な関心事はインドをイギリスに役立つようにすることであった。

負ける建築

2005-06-26 19:58:23 | BOOKS
隈研吾 「負ける建築」 岩波書店 2004.03.25.

公・ブランド・私 
東京の建築家は苦境にある。一般誌がこれほど建築を特集する時代はかってなかった。実はブームだからこその苦境がある。
建築家の苦境、挫折を象徴する一つの建築がある。1976年に安藤忠雄が大阪の下町に設計した「住吉の長屋」と呼ばれる住宅である。この建築は「公」の時代から「私」の時代への転換を象徴している。
まずこの建築が正規の建築教育を受けていない「アンドーという元ボクサーが作った」。さらに安藤自身この建築を都市や社会に反抗するゲリラとして作ったと説明した。それらのストーリーがこの作品の「私」性を何倍も増幅した。 
それまでのスター建築家は公的なエリートであった。有名大学の正規の建築教育を受けたエリートが、公的な主体から依頼され、都市の中で一番目立つ公的な場所に、公的な建築を設計する。建築にはこのような王道が存在していた。安藤はこの公的システムに異議を申し立てたのである。道路に対して窓がない。一切の表情がない。コンクリートの壁にただ入り口があいているだけの、きわめつきな私的デザインを、彼は社会につきつけた。 
1950年代の一群のモダニストの建築家達は70年代の安藤と同じく、個人住宅に目をつけた。鉄骨造の軽く明るく透明感に溢れた彼らの小住宅は、戦後という時代を象徴するモニュメントであった。しかし、彼らのムーブメントは60年代には急速にしぼんでいく。 
建築を工業化し、高いデザインレベルのものを安く大量に供給するという図式で建築を「私」のもとに取り戻す彼らの基本的テーゼを実際に担ったのは、彼ら建築家ではなく、プレファブメーカーやゼネコンなどの大企業であった。大企業という新しい「公」がわりこみ、建築を「私」のもとに取り戻す試みは失敗に終った。 
そこに満を持して主役として登場したのが「公」のチャンピオン丹下健三であった。東京オリンピック、大阪万博などのきわめて「公」的性格の強い建築を、この「公」のチャンピオンが一手に設計した。技術力のある大企業の前に挫折していくモダニスト達の前で、丹下、磯崎と続く「公」的建築の担い手達は建築の王道を復活させた。一種の王政復古の如くであった。 
その王政復古的閉塞のさなかに安藤が諷爽と登場した。彼は安藤というブランドを作った。コアとなる強固なブランド・イメージさえ確立すれば、大企業の技術力だろうが販売力だろうが目ではない。安藤は安藤というブランドを作ることに成功した。彼の建築はルイ・ヴィトンのバッグのような強烈なアイデンティティーを発散し、安藤は建築を「公」の領域から「私」の領域へと取り戻すことに成功した。
「公」のおすみつきだけで仕事をしていた公的建築家は用済みとなった。世界ブランドになりおおせた建築家だけに仕事が集中する。安藤、ゲーリー……、各都市がこれらの世界ブランドを買いあさる。ブランドも期待通りのお約束スタイルを提供する。どこかで見たことのある風景が各都市で反復される。そして建築から創造性が消えていく。 
しかし、最大の危機はさらにその先にある。等身大の「私」達は既成のブランドに頼らずに、自分の建築を自分で考え、自分自身の手でデザインしたいと思いはじめている。一般誌における建築ブームの根底にあるのは、この願望である。建築ブームゆえの建築家の危機とはその意味である。
第二次大戦以前の日本では、木造住宅という領域に成熟した建築文化が存在した。大工という名の謙虚でしかもすぐれた専門知識を持つ建築家が建て主をサポートしながら、上質の建築をデザインし建設していた。しかもそこでは見事に「私」が主役の座をしめていた。 
現代の状況を、この建築文化の数十年振りのリカバリーと捉えることも可能であろう。まだ小住宅や店舗という限られた領域の中とはいえ、「私」の方法で作られた繊細な建築が少しずつ回復しつつある。残された課題は、この「私」という建築手法を、大きな計画、大きな建築にまで拡張できるかである。「私」という地道で着実な方法を鍛え、一歩ずつ広い領域へとひろげていく以外にこの都市という「公」を再生させる道はない。

MOTTAINAI

2005-06-19 20:35:48 | NEWS
全米で食料の4~5割がゴミに、損失1千億ドル  朝日新聞  2005年 5月15日 (日)

アメリカで出回る食料のうち収穫から流通、食卓を通じて40~50%が無駄に捨てられ、経済損失は約1,000億ドル(10兆7,000億円)に及ぶ。アリゾナ大学応用人類学研究所のティモシー・ジョーンズ博士がこんな推計結果を公表した。
農水省が1月に発表した04年食品ロス統計調査によると、国内の食堂とレストランで食事の3.3%が食べ残しになっている。家庭を含めた国内全体では約11兆円分の食べ残しがあるとの政府試算もある。

この記事を見落としていましたが、ASAHI パソコン 5005.07.01.でのコラムで見ることができました。
小田嶋 隆の価格ボム!本日のお値段 1000億ドル
アメリカで無駄に捨てられる食料の経済損失推定額

ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさん(ケニア副環境相)ではありませんが、思わず「もったいない」と叫びたくもなりますね。

僕らの八百屋 チョンガンネ

2005-06-17 22:22:52 | BOOKS
イ・ヨンスク+キム・ヨンハン 「僕らの八百屋 チョンガンネ」 日本放送出版協会2005.05.25. 

ソウルを中心に13の店舗を構え、敷地面積あたり韓国1の売り上げを誇る八百屋「チョンガネン」。
1993年、漢江の河川敷でスルメ売りとの出会いで商売に人生をかけようと心に決めた。ヨンソクは、当時の緑と経験を「幸運」として心に刻んでいる。「商売には踏むべき段階がある」というのがヨンソクの持論だ。 木は、大きな木の下で育つことはできないが、人は、大きな人の元でより大きな人に育つことができる。スルメ売りを師匠として、一年のあいだ全国各地を転々としつつ商売を覚えた。
1994年、トラックを1台購入して、青果業として独立することにした。 質の良い野菜や果物の見分け方、商品の鮮度を落とさない保存法、売れ残った商品の処分方法、お客の関心を引くコツなど、市場の卸売り商人をつかまえてはいちいち教えを請うた。
ヨンソクに特定の取引先はない。お客の味覚を満足させられる商品を毎日選んでいる。仕入れのたびに大量の果物を味見するのである。すいかは半分に切って中心部分でなく皮ごと端の部分を切りとって味を見る。中心ほど糖度が増すので、皮ギリギリのところでも充分な甘みがあれば、そのすいかはまるごとおいしい。りんごは、ダンボールをひっくり返し、いちばんまずそうなりんご3つと、いちばんおいしそうなりんごひとつ、こんな調子で4つずつ味見する。このように選別された商品だから、客はいちいち確かめたりしないで買っていく。仕入れた商品はその日に売り尽くされる。 
チョンガンネのスタッフと客は、ごく自然に冗談を交わす。客のほうでも、自分をよく知るスタッフに相手をしてもらいたがる。 スタッフは、それぞれ200人もの顧客の情報を記憶している。客の容貌、服装、行動、そしてその客と交わした会話の内容などを記憶して、次にその客に出会ったとき、記憶を呼び起こして活用するのだ。  
2005年現在、独立した当時の仲間たちはみな独立してそれぞれ別の店舗を構えている。「まるごと大自然」という屋号を掲げた一種のチェーン店だが、ヨンソクにロイヤリティを支払っているわけではない。ヨンソクにとって重要なのは、後輩たちが足場を築き、自分の力で成長してゆくこと。彼らが独立して商売している姿を見るだけで、充分満足なのだ。今現在、チョンガンネで働いているスタッフたちも、みなそうした夢を持っている。
今でも、八百屋の社会的な位置づけはけっして高いとは言えず、それを生業とすることに、若者たちは二の足を踏む。自己実現の場と考えるよりは、世間から低く見られる職業だという先入観が強い。 しかし、チョンガンネのスタッフたちは、この仕事に自分の夢を見出し、情熱を傾けている。

阪神大震災 流通戦士の48時間

2005-06-16 21:49:27 | BOOKS
流通科学大学震災研究会 編「阪神大震災 流通戦士の48時間」 -街の明かりを消したらあかん- メタモ出版 2005.01.20.

「神戸が震度6…」 神戸は創始者・中内功の生誕の地ということの他に、大阪の千林商店街の小さな個人商店から新生ダイエーとして本格的にスタートしたダイエーイズムの発祥の地である。ダイエーマンの言わば聖地であり、ダイエーを象徴する場所なのだ。その神戸がかつてない規模の大震災の直中にある。
三宮界隈は倒壊したビルが道路に重なって倒れ、至るところで車や人の行く手を阻んでいた。夕暮れ間近、男たちは19店の前に立った。無言で自分たちのシンボルを眺めた。ビルの中央が屋上から下の階に向かって激しく潰れ落ち、店舗としてすべての機能を消失した姿。その痛々しさは、男たちの心にもまた大きな痛 みを与えた。 
震災当日からダイエーとローソンは、できる限り店を開けた。倒壊した店は、軒先で商売を始めた。彼らが用意した商品は被災 者にとってなくてはならないものばかりだった。地震による停電は当初260万軒に及んだが、72時間後には11万軒に減少した。ダイエーは電力の復旧から 直ぐに各店舗の照明を24時間点灯し、被災者に復興へのエールを送り続けた。
中内功は「タダで配るのは国の仕事だ、我々小売は店を開けていつもの値段で販売し続け安心感を与えることが使命だ」と言った。電気、水道、ガス、電話、それだけじゃなく、販売も大事なライフラインだ。プロとしてライフラインを守れ。
ダイエーはいち早くヘリを確保し、地震発生から極めて早い段階で神戸に入ることができた。初動が早かったから物資の到着もどこよりも早かった。政府の災害対策本部設置より3時間も早く対策本部が設置され、地震発生から間髪入れずに中部、関東から要員や商品を送った。
『すべてはお客様のために』、『地域のお客様に喜ばれる店をつくろう』という歴史を積み上げた企業理念、『お客様に喜ばれるダイエーになる』という経営理念が あったから、地震が起ころうが火事が起ころうが何があろうが、どんな状況でも商品をちゃんと準備して、店を開けて、正しく売った。24時間体制での営業の 中、ダイエーマンは必死に働き、使命感を感じ、この会社にいてよかったと思った。