竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

後藤田正晴の遺訓

2007-04-29 08:56:06 | BOOKS
津守 滋 「後藤田正晴の遺訓」 ランダムハウス講談社 2007.02.21. 

後藤田は、米国の「覇権主義的」行動に極めて批判的である。特にイラクに対する武力攻撃などについて、かなり激しい意見を述べてきた。日米安保協力との関係では、このような覇権主義的戦略に日本が巻き込まれ、引きずられることを極度に恐れた。日米安保条約の運用ぶりをめぐって後藤田は、日本は米国の「半保護国」であるという表現をしばしば使ってきた。 イラク・イラン戦争の最中の86年、海上保安庁か海上自衛隊の掃海艇の派遣を、職を賭して阻止した話は有名である。「イランとイラクが交戦状態のときに、日本の船が機雷を除去した場合、その機雷を敷設した側は、日本は敵方に加担したとみなすであろう。この結果日本は戦争の当事者にされてしまう。そんな危ないことは出来ないし、憲法の規定上も認められない」。 90年代に入って後藤田が、特に「米国の戦略に巻き込まれる」危険があるとして問題視してきたのは、「日米新ガイドライン」と「周辺事態法」である。さらに自衛隊法附則の拡大ないし類推解釈のいくつかのケースについても、「きちっとした立法措置を講じないショートカットは、許せない」として問題視してきた。また集団的自衛権の行使については、「あきまへん。こんなのやったら、アメリカに地球の裏まで連れて行かれる」と一蹴している。 後藤田は、専守防衛という基本原則の後ろ盾である日本国憲法のおかげで、戦後今日に至るまで数十年間、日本の自衛隊が一人の外国人も殺さず、また一人の自衛隊員も殺されていない事実を特に重視する。 後藤田は、国際協力の手段としても、自衛隊を海外に出すことには極めて消極的だ。いったん自衛隊を海外に送れば、なし崩し的に、現在政府が否定している武力行使に行き着くのではないかと、危惧していた。「軍事的貢献をしないと国際社会で日本がもたないということにはならない。食糧の問題、人口の問題、疾病の問題、公害の問題……人類そのものの幸せを守るために各国が協力して取り組まなければならない課題は、今日の地球上にいくらでもある」。


ウラ金 権力の味

2007-04-28 07:55:52 | BOOKS
古川利明「ウラ金 権力の味」 第三書館 2007.02.15. 

県立高校を卒業した1964(昭和39)年、松尾は外務省のノンキャリアの事務官として入省。74年7月本省の北米二課の庶務班長に引上られた。直属の上司は、後に外務省の事務次官、駐米大使のポストにあった斉藤邦彦だった。北米二課には川島裕がいた。川島もその後事務次官を務めている。そこで、松尾はノンキャリアとしての「汚れ役」の仕事を全うした。外務省は各課・室ごとに「プール金」と称したウラ金が存在し、その捻出・管理を担当する「庶務担」にノンキャリアの「仕事のできる人間」が充てられていた。 このプール金の「原資」に外交機密費が充てられることが多かった。松尾が頻繁に使った手口は首相外遊旅費の「水増し請求」だ。通常であれば国家公務員等の旅費に関する法律によって規定されているが、首相が外遊する場合は、警備上と体面から現地でも最高級クラスのホテルに随行職員と一緒に泊まるので、旅費法の規定額を上回る。その穴埋めに必要な額を官房機密費から持ってくる理屈だ。ホテルの宿泊費は世界主要15都市で一泊あたり、総理大臣は40,200円、最下位の3級以下の国家公務員でも16,000円が支給される。これに加えて、背広やスーツケースなどを新調する費用として「支度料」の名目で、総理大臣の海外出張では1回あたり129,000円が支給される。この「支度料」は国家公務員すべての海外出張に適用され、領収書の添付による事後精算は不要。「時代遅れの公費による事実上のウラ金支給」だ。 松尾は外遊に同行する職員らの一人あたりの宿泊費用と滞在日数を粉飾して「差額分」を官邸に請求していた。松尾が自分の複数の預金口座に入金していた機密費の総額はトータルで16億円を超える。次々とマンションや競走馬を購入し、競走馬の馬主として松尾の名前がスポーツ新聞の競馬欄に頻繁に登場するようになる。 首相の外遊は「大名旅行」と称され、首相をはじめ同行する大臣らも地元の選挙区対策として土産物を現地で購入し、政府専用機に積み込んで日本に帰ってくるわけだが、その費用についても水増しして官邸から受け取っていたのが松尾だった。 外務省の公金不正流用事件では、「松尾克俊」という存在が目くらましとなって、外務省が守り切った「聖域」があった。それが「在外公館」である。在外公館にもウラ金が存在している。在勤手当をはじめ「非課税の掴み金」が館員には支給されており、「大使」に至っては「大使公邸」という超豪華な官舎まで用意されている。在外公館にはこの他にも「渡切費」が01年度予算で総額約73億円、「諸謝金」が総額約137億円、「ODA(政府開発援助)」の予算に潜り込ませる形で支給されている。02年1月に、アフガニスタン復興支援会議へのNGO出席を巡って、填末な問題で鈴木宗男と一緒に、外相田中真紀子を葬り去ったのは、田中がこの「在外公館の膿」にメスを入れようとしていたからだ。 機密費流用事件で逮捕された「松尾克俊」という存在を、一言で説明するとするなら、それは「機密費」という、権力のウラ金の「究極のマネーロンダリング装置」であろう。 桧尾は自らの事件の公判で自分以外の個人名は一切口にせず、罪をすべて自分一人で被り、機密費流用事件の捜査は「松尾個人の犯罪」ということで幕引きがなされ、政権中枢の腐敗にメスが入るということはなかった。


アメリカ産牛肉から、食の安全を考える

2007-04-27 07:41:17 | BOOKS
岡田幹治 「アメリカ産牛肉から、食の安全を考える」 岩波ブックレット 2007.03.06. 

日本政府はBSEの発生が確認された24ヵ国からは輸入を認めていません。しかし、その他の「未発生国」からの輸入は認め、05年度の貿易統計によれば、オーストラリア、ニュージーランド、メキシコ、チリなど全部で14もの国から合計45万8,100トンもの牛肉が輸入されています。BSEの発生がこれまで確認されたのは25ヵ国ですが、発生が確認されていないからといってその国がBSEに汚染されていないとは限りません。イギリスは世界中に大量の肉骨粉を輸出しました。イギリス税関によれば、輸出先はヨーロッパだけでなく、アフリカや中東、さらには日本を含むアジアにまで及んでおり、世界保健機関(WHO)は少なくとも100ヵ国にBSEが潜在すると警告しています。 いま日米の関係者の間では、「国内の検査基準をまず31ヵ月齢以上に緩和し、それに対応してアメリカからの輸入条件を緩和する」というシナリオがささやかれています。しかし、厳しい対策でBSEのリスクが年々小さくなっている日本と、リスクがいまなお拡散中のアメリカを同一視することはできません。食品安全委員会がアメリカの要求を満足させるリスク評価をするならば、その存在意義を失ってしまうでしょう。 BSEのリスクから人間を完全に守る方法は、牛を牛らしく健康に育てることです。BSEは、草食動物である牛に肉骨粉などの動物性タンパク質飼料を与えたことから発生しました。そのような飼育方法を改め、草だけで育てればBSEの心配はありません。 牛に肉骨粉などを与えたのは牛肉や牛乳をできるだけ安く大量に生産するためです。いま広く行なわれている「工場式畜産」では、牛は生き物というよりも「牛肉を生産する装置」として扱われます。最優先されるのは効率です。現代の食品供給システムは私たちの食生活をとても多彩にしましたが、同時に深刻な問題も生み出しました。過密な飼育場で家畜は病気にかかりやすくなり、鳥インフルエンザやBSEといった病気が毎年のように大問題になりました。また、病気の予防や成長促進のために使われた大量の抗生物質やホルモン剤が人間の健康を脅かします。 国連食糧農業機関(FAO)は2006年10月、家畜、なかでも牛が世界一の環境破壊者になったという調査結果を発表しました。工場式畜産は、地球温暖化の原因となる温室効果ガスを大量に排出するうえ、世界の森林破壊の張本人でもあります。ブラジルのアマゾンでは、牛飼育のための大牧場建設と飼料用の大豆畑の開墾のために森林が急速に破壊され、2050年にはアマゾンの森林の40%が消えるといいます。また、牛などの排泄物や飼料作物に散布される農薬が各地で水資源を汚染させ、生き物の命を脅かしていると指摘しています。 工場式畜産の見直しと、同時に肉の消費を減らすことが、人間の健康にも自然や環境を守るためにも有効であることを教えています。


なぜイノシシは増え、コウノトリは減ったのか

2007-04-26 17:35:56 | BOOKS
平田剛士 「なぜイノシシは増え、コウノトリは減ったのか」 平凡社新書 2007.03.09. 

イノシシはシカやサル、クマと並んで人間の農業生産にとって最も強力な競合相手である。農作物への食害は1970年代以降に激化した。このころ全国で増大し始めた耕作放棄地にススキやクズ、ワラビといったパイオニア植物が繁茂し、それらを好むイノシシたちが爆発的に繁殖した。駆除や懸命の防除策にもかかわらず、被害はあらゆる作物に及び、過去15年間で本州・四国・九州の農業被害面積は1万5,000ヘクタールから2万ヘクタール、被害金額にすると40億円から50億円の間で推移している。 狩猟は野生動物を山奥に追い上げるためのアプリケーションだ。深刻な農作物食害が続くなか、狩猟は欠かせない「ツール」なのだ。 2004年に全国で捕獲されたイノシシ約25万3,000頭のうち、7割近くは「狩猟」で捕殺されている。この高い狩猟圧は、いま比較的旺盛な牡丹肉需要によって維持されているが、近年のハンター人口の高齢化で近い将来激減してしまう可能性がある。 狩猟者が減ると窮地に立たされるのは、各地の農家や林業家たちだ。作物に鳥獣害が出て自分や家族の手に負えない場合、捕獲(駆除)を委託するのは地元の猟友会所属のハンターたちだが、その担い手が地域からいなくなってしまう。農村・山村の景観をはじめ、生産に限らない農林業の「多面的機能」の保全が叫ばれながら、野生動物に対する”防衛力”は弱まるいっぽうだ。 鳥獣保護法に基づく特定鳥獣保護管理計画を進める地方自治体にとっても、地域のハンター人口の高齢化や減少は悩みの種だ。 たとえば北海道庁は、農林業や森林生態系に深刻な影響を与えている「増えすぎたシカ」の個体数を1980年ごろのレベルに押し戻すことを目標に、1998年から保護管理事業を進めてきた。道内で人為的な捕獲圧力がかからなければ、道内のシカは年率約2割で増加し続け、6年放置すれば3倍に増える。そんな状況で、今後、生息数を現状維持させるには年間7万~10万頭を捕獲し続ける必要があり、今後シカの増加と、生息地周辺における森林生態系の荒廃は避けられないだろう。 これからは質の高い狩猟者の育成が重要だ。


夢いっぱい!昭和の食卓レシピ

2007-04-25 11:02:38 | BOOKS
主婦の友社 編 「夢いっぱい!昭和の食卓レシピ」 主婦の友社 2007.03.20.  

岸 朝子 「食事づくりは家族と自分の健康を守り、なによりも心を豊かにした」 
飢えの時代だった昭和20年代が終わり、食情報の大衆化が始まった昭和30年代はテレビの創成期。NHK『きょうの料理』や日本テレビ『奥様お料理メモ』など、料理書のスタイルもできました。料理を教えるプロとされたのは調理師学校の先生であり、料亭やレストランの調理人が中心で、材料の分量は目分量。そこで、大さじは15cc、小さじは5cc、カップは200ccと計量の基準が定められ、家庭科の教科書にとり入れられ、NHK『きょうの料理』や各出版社にも導入されました。表記の統一にかかわったのは、女子栄養大学前学長の香川綾先生をはじめ、お茶の水女子大学の先生がたです。 昭和30年代後半から40年にかけての高度成長期に登場されたのが料理研究家。江上トミ先生、若林春子先生はフランス、飯田深雪先生はイギリス、河野貞子先生はアメリカと、いずれもご主人の赴任に伴って外国で暮らしたり、現地の料理学校で学んだりして帰国し、本場の料理を紹介されたのです。外国帰りの名士夫人たちは料理だけでなく、食卓のTPOからテーブルマナー、テーブルセッティング、インテリアまで、暮らしてみなければわからない本場の食習慣や生活文化をまるごと紹介したのです。撮影用の食器もテーブルクロスも、プロセス用の調理器具もすべて、先生たちの持ち物でした。 東京オリンピックのころ、すでに栄養状態は満たされ、電気炊飯器や電気冷蔵庫など、台所用家電が普及し、台所がダイニングキッチンへと変貌。当時の料理ブームはそうした道具を手にしたものの、親から子へと伝えられる家庭科理の伝統が戦争で絶たれてしまったまま結婚した女性たちの、料理を学びたいという意欲が背景にありました。目ざすところは、アメリカの中流家庭の食卓。アメリカのホームドラマで見る、豊かでアットホームな食卓に、みながあこがれました。 それにつけでも昨今の日本人の食生活を見るとまだまだ。外食も中食もけっこう。でも、自分で作って食べることがいかにたいせつかよく考えてほしい。他人が作った料理は味覚で味わうだけで終わります。自分で作ろうとすれば、体に必要な食品を選び、それをいかにおいしく食べるかを考えなければなりません。料理は人の命に直接かかわるもの。男女を問わず、自分の健康を守る命綱である食をどうととのえるか、ちゃんと考え、実行できることが、ステータスとなる時代がやってきているのです。


国産車の愛し方

2007-04-23 08:46:51 | BOOKS
小沢コージ 「国産車の愛し方」 小学館 200702.20. 

日産の片山豊は60年に50歳でアメリカにダットサンを売るために渡った。現地法人を作って17年、Zだけでも142万台売り「Zを生んだ男」として有名になる。Zを造ったのは70年からで、その前はダットサン510とかトラックを売っていた。510にしろトラックにしろスポーツカーだった。ダットサン・トラックはソフトトップのボディにハードトップを載せただけだから軽くて速い。実際に乗ってみるとよくわかる。アメリカのハイウェイは70マイルも出すとオープンだと頭がホコリを被ってしまうのでクローズドじゃなきやダメなのだ。グランツーリスモタイプのクローズドトップのクルマじゃなきゃダメだからZが当たった。スポーツカーはカタチじゃなくって乗る人の気持ちだ。アメリカの人たちは手軽なスポーツカーを求めていたのだ。その気持ちをZが汲むことができた。それがあれだけZが売れた一番の理由だ。 ダットサンが売れたもうひとつ理由がサービスだ。クルマも人間と同じで病院とお薬がないとダメ、要するにディーラー整備だ。結局、しっかりそれをアメリカでやれたのはVWとダットサンだけだった。75年にはダットサンが輸入外国車販売のナンバーワンになる。 95年、アメリカのZオーナーたちに呼ばれてZ25周年の大会をやった。みんなでアメリカをZの字型にドライブし、「やっぱりZは絶やしちゃいけない」と思った。240Zを思わせるカタチで、手頃な価格で、装備は単純なのがいい。クルマは人に見せるものじゃないから。呼吸が合うかどうかが一番大事。馬と同じだ。98年、片山はアメリカの自動車殿堂に選ばれた。日本人では本田宗一郎、豊田英二、田口玄一に続き4人目である。 ゴーンさんが来て「Zを復活させてください」って言ったら、しばらく考えて「やりましょう」。Zが復活した。本当に乗って楽しい。この車は。帰ってきた自分の馬、それに勝る乗り物はこの世にない。

アインシュタイン丸かじり

2007-04-22 15:28:46 | BOOKS
志村忠夫 「アインシュタイン丸かじり」 新潮新書 2007.03.20. 

1905年の3月から9月の半年間にアインシュタインは革命的な物理学の論文を次々に発表した。?光の粒子説(3月論文)?分子の大きさの決走法(4月論文)?ブラウン運動(5月論文)?特殊相対性理論(6月論文)?質量とエネルギー(9月論文)である。 すべての物質が原子から構成されているということは、紀元前5世紀の古代ギリシャ時代以来信じられていたが、アインシュタインが登場するまで、原子実在の確かな証拠はなかった。このような状況下で、「原子の実在」に対する有力な説得力を与えたのがアインシュタインの論文であった。 「特殊相対性理論」から導き出された方程式「E=mc2」は、エネルギーと物質との関係についての常識を一変させた。物質の源である質量とエネルギーは互いに別次元のもので、同じ土俵で扱うことはできないはずだ。また、質量(物質の本質の量)は、化学反応などの過程を経ても、絶対に不変であると信じて来た。それが「質量保存の法則」で、エネルギーについても同様に「エネルギー保存の法則」がある。特殊相対性理論は「動いている物体の質量は大きくなる」「物体の速さが光速に達すると質量が無限大になる」という。この発見こそ、アインシュタイン一人の独自の革命的独創といってよい。 物質に潜んだ巨大なエネルギーが実用化された最初の例が原子爆弾であった。 ノーベル賞委員会の記録によれば、アインシュタインは1910年から毎年物理学賞の候補に上っていた。ノーベル賞受賞が遅れた理由は2つある。一つは、1905年、陰極線の研究でノーベル物理学賞を受賞したドイツのナチス体制に与したレーナルトが、ノーベル賞委員会に絶大な影響力を振るって、アインシュタイン自身を攻撃した。相対性理論で世界的に有名になったアインシュタインは、反ユダヤ主義のドイツ人にはどうしても攻撃しなければならない標的だった。 もう一つの理由は、アインシュタインの相対性理論(特殊、一般とも)が難解すぎて、ノーベル賞選考委員に十分理解されなかったのである。後になって、相対性理論は間違っていたというようなことになった場合を恐れたのだ。 ノーベル賞委員会はさんざん悩んだ挙句、アインシュタインにノーベル賞を授与することを決定した。賞授与は一度は「授賞なし」とされた1921年に、1年さかのぼって行なわれた。1922年の受賞者は「量子論の父」のボーアだった。ノーベル物理学賞受賞の公式の理由は、「理論物理学の諸研究とくに光電効果の法則の発見」であり、アカデミーは、アインシュタインにノーベル賞受賞講演では相対性理論に言及することなく、光電効果について行なうよう要請した。

トヨタとインドとモノづくり

2007-04-20 11:29:31 | BOOKS
島田 卓 「トヨタとインドとモノづくり」 日刊工業新聞社 2007.03.15. 

1997年、インド・プロジェクトがスタートした。トヨタがパートナーに選んだのは創業は農具メーカーのキルロスカ・グループであった。産業用ディーゼルエンジンではインドナンバーワンだが車づくりの経験は全くない。モノづくりの心を持っていることが大きな決定要因となった。生産車種は多目的車キジャン。インドネシア工場が生産するブランドで、排気量がディーゼル車は2500cc、ガソリン車では1500ccとカローラ・クラスだが、車内が9人乗りと広いため、個人用だけでなく、タクシーや小型バスとしても人気があった。しかし、デザイン面の古さが目につく一世代前のモデルである。要は型落ちだった。 今回のプロジェクトはどんなに試算し直しても採算が成り立たない。インド市場を握る国内メーカーによって車の市場価格が極めて低く押さえられてしまっているためだ。そこで窮余の一策として考え出されたのが、他国の工場でつくられていた車種をプレス型ごとインドへ持っていく、というセコハン活用計画だった。発売名は『クオリス』。ずばり?品質″を看板にした。工場立ち上げには3つの要素が必要だという。1つはハードであり、設計し、建物をつくり、設備を入れ、それに使う型やツールを用意する。次はソフトで、ハードを使ってどのように生産するか、その仕組み(システム)、方法を考える。最後は人で、ハードを用い、ソフトに則って車をつくれるように、教育・訓練を行うのである。トヨタがインドに持ち込むのは、自動車という単なる一商品ではない。材料から生産、販売、サービスと、一貫した自動車社会をつくるのだ。 インドという国はルールにはかなり無頓着で、安全のための行動指針や4S(整理・整頓・清潔・清掃)の徹底については相当な時間がかかった。4Sと安全のための行動指針はトヨタの車づくりにとって、技能・技術と同じぐらい根幹的なものとされている。トラブルや危険を事前に徹底排除するというだけでなく、皆がルールを守るという暗黙の秩序があってこそ、トヨタ生産方式が初めて成り立つから、それを守るための教育は時間をかけ繰り返し行われてきた。 2006年、トヨタ自動車は次年度のグローバル生産台数を847万台と発表した。この数値が達成されるとトヨタは世界一の自動車生産企業となる。バンガロール工場の生産台数は年間数万台とグローバル生産の1%にも満たないが、2015年にはインド自動車市場の15%、45万台を取りに行く。このため、小型車市場への参入と、いよいよ第2創業期に突入する。 グローバル化には、その社のモノづくりの思想をしっかり守りつつ、現地の人材を育て上げるという作業が必要で、人材を日本人にだけ限定していては真のグローバル企業にはなり得ない。少子高齢化が進行する日本では、人材の確保も国際化しないことには、産業事態がやがて成り立たなくなる。しかし、インドを有効な人材資源の国と考える日本人はきわめて少ない。インドにはまだ多くの人材がその能力を活かされないまま眠らされている。

癒しの島、沖縄の真実

2007-04-18 17:05:51 | BOOKS
野里 洋 「癒しの島、沖縄の真実」 ソフトバンク新書 2007.02.26. 

沖縄は明治、大正、昭和と、ひたすら日本本土への同化に力を注ぎ込み、「完全な日本人」になろうと努力してきた。その頂点にあったのが本土防衛の沖縄戦であった。戦闘に一般市民までが巻き込まれ、4人に1人が犠牲になる悲惨な戦争だったが、それは強いられたものであると同時に、「日本のために」という意識、使命感が招いた悲劇でもあった。にもかかわらず、戦争が終わると沖縄は、一方的に日本本土から施政権を分断され、米国の軍事統治を受けることになる。日本人としてのアイデンティティーを血を流すことで確立しょうとしたのだが、果たし得なかった。明治以来、日本人になろう、なりきろうと努力を続けてきたのが沖縄の近代史だった。 ところが、復帰が実現してしばらく経って社会が落ち着いた頃、ひたすら追い求め続けた本土との「同化」に異変が生じ始めた。基地や経済振興などなお解決すべき大きな問題があるとはいえ、経済的にも豊かになり、なによりも沖縄の文化や芸能、あるいは沖縄そのものに県民が自信を持ち始めた。本土と同化する必要はあるのか、いや、沖縄は沖縄でいけばいい、と多くの県民がそう思い始めた。みんなが沖縄を見直すようになった。 復帰する前は本土志向が強すぎて沖縄独特の歴史が語られることは少なかったが、アイデンティティーに自信を持ち始めてから、琉球王国時代について語られることが多くなった。復帰して20年前後から顕著になった。 沖縄の自然、歴史、文化など沖縄そのものに自信を深め、かつては揺らぐことが多かったウチナーンチュとしてのアイデンティティーも以前に比べるとかなりしっかりしてきた。「沖縄」から「琉球」へ、県民の意識も大きく膨らんで、いま沖縄は、現代版「琉球王国」 の雰囲気が全県を覆い、元気がいい。 これまで、沖縄の「異質性」「辺境」「巨大な米軍基地」は、どちらかといえば負の面で見られてきた。しかし、これからはその価値が逆転して、それらが沖縄の魅力となり、大いなる力を発揮するに違いない。


戦争指揮官リンカーン

2007-04-17 14:52:29 | BOOKS
内田義雄 「戦争指揮官リンカーン」 文藝新書 2007.03.20. 

リンカーンは、アメリカ国民が歴代の大統領のなかで最も尊敬する大統領だ。戦争を勝利に導くことによって共和国を分裂の危機から救った大統領として、アメリカ史上不動の地位を占めている。 アメリカの大統領は、戦争を行う時、「これは自由と民主主義のための正義の戦争である」と必ず主張する。南北戦争を指導したリンカーン大統領以来の伝統である。正義の戦争はどんな犠牲をはらっても勝利しなければならないという信念は、南北戦争に勝利したリンカーンの成功物語に裏づけられてきた。したがって、国民の圧倒的多数は大統領の戦争を支持する。それは、アメリカのDNAといっていいくらいに、アメリカ人の頭のなかにたたきこまれているようだ。 南北戦争の死者の数は推定で62万人を超えた。北軍は36万人、南軍は26万人、戦傷者は北軍28万人、南軍19万人だった。当時(1860年)の人口がおよそ3,600万人(奴隷400万人をふくむ)だったので、女性、子ども、老人をふくめて、50人に1人は戦争で死んだ。第二次世界大戦の死者40万人よりも、50%も多い。しかし、この異常性の故にこそ、後世のアメリカ及びアメリカ人に与えた影響は大きい。特に、戦争への考え方、戦争のやり方、その原型の多くは、この南北戦争に見出すことができる。 1862年2月16日、西部の要塞フォート・ドネルソン攻略でグラント将軍が南軍の降伏の申し出に対し返答した「無条件降伏」は、アメリカが敵に降伏を要求する際の原則になっていく。80数年後の1945年、アメリカはドイツと日本に対して、この「無条件降伏」を要求する。 リンカーン大統領は1863年11月18日のゲティスハーグの演説で、奴隷解放による「新たなる自由の誕生」、「人民の、人民による、人民のための政治」という民主主義の擁護をかかげた。この戦争はアメリカの内戦にとどまらず、世界における民主主義存続の可否が問われている戦争でもある。つまり、アメリカの民主主義は世界のためでもあり、アメリカの「正義の戦争」は世界のための戦争でもあるというメッセージだ。この理念は、今日のイラク戦争にいたるまで、アメリカで受け継がれてきている。 リンカーン暗殺のあと、1868年の選挙で南北戦争の国民的英雄だったグラント将軍が大統領に選ばれた。この時代、南北戦争で功労のあった北軍の将軍たちの多くはさまざまの栄達に浴し、グラントの右腕だったシャーマン将軍は合衆国軍総司令官に任命された。 グラント政権下で、「もう一つの内戦」ともいうべき戦争、先住民インディアンとの戦争が激化した。南北戦争で戦った将兵たちがそのまま対インディアン戦争に投入され、総指揮官に任命されたのはヴァージニアのシェナンドア渓谷の焦土作戦で名をはせたシェリダン将軍だった。シェリダン配下の騎兵隊による仮借ない討伐作戦によって、先住民インディアンたちは合衆国政府が設けた「保留地」へ閉じ込められていった。彼はのちにシャーマン将軍のあとを継いで合衆国軍総司令官という軍人としての最高位にまで栄達する。 戦争と南部再建の特需で、アメリカ資本主義は飛躍的に発展した。