竹林の愚人  WAREHOUSE

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武侠映画の快楽

2007-01-27 22:09:32 | BOOKS
岡崎由美・浦川 留 「武侠映画の快楽」 三修社 2006.10.10. 

白髪三千丈のお国柄、武侠映画の剣戟が荒唐無稽に見えることは確かで、極めつけは武芸者が宙を飛ぶ。一跳びで数十mは軽く滑空している。宋代に科挙が完全に官僚選抜制度として定着し、文人官僚による統治形態が確立すると、武は民間人による郷土防衛部隊や、権門貴顕が私的に無頼の集団を傭兵とすることもあり、民間化した武芸は、武装化した民衆の反乱とも深く結びついている。日本では武芸は、「武士道」というメンタリティを支える手段として統治階級と結びついて磨かれ、中国では武芸は「侠」という在野のメンタリティと結びついて多様化した。 空飛ぶ武芸者の伝聞、伝承、物語は山ほどある。「嘘なんだろう」と言われるとそれまでだが、武芸が現実の統治階級のステイタスとして囲い込まれた日本と、無名の在野の遊民、無頼、侠の中でこそ存在感を発揮した中国とでは、リアリティの制約が相当に違う。 唐代には神仙や妖怪、幽霊の美女や動植物の精霊が登場する話が数多く作られている。その中に、『聶隠娘』(じょういんじょう)という空飛ぶ侠女の話がある。秘密のトレーニングセンターで特訓され、体内に武器を装着した空飛ぶ美少女改造戦士。こんな物語が誕生していた。この時代、超絶の武芸を身につけた侠客刺客の話は少なからずあり、その武芸描写の特徴は、空を踏んで飛鳥のように跳ぶことである。「軽功」という言葉もなく、映画もワイヤーワークもない唐代の昔から、人間業とは思えない滑空が、侠客の身体技のイメージとして定着していた。 中国の剣術のイメージは、宋代以降急速に道教化を進め、道士が耳から剣を取り出し、その剣に乗って空中を飛行するとか、剣がリモートコントロールでひとりでに飛んで行き、妖怪の首を切り落とすといった剣術描写が盛んになる。そうなると、剣術の使い手も神仙術を収めた「剣仙」が登場し、剣術はますます幻想的になる。 現世の生きたままの肉体が精神修業と薬によって神仙に変じるという発想は、究極の身体改造である。仙人になることも空を飛ぶことも、現実とまったく別の世界の話ではなく、むしろ現実と地続きの発想、現実に手を加えた改変・発展の結果である、という発想であろう。そう考えれば、人間がたかだか20mや30m跳躍することが、なんであろうか。 このような発想に基づく中華武術の描写に対して、宮本武蔵や柳生十兵衛、塚原卜伝など実在の剣豪剣客を題材にする日本の時代劇の視点から、「肉体のリアリズム」を云々してもかみ合わない。中国の武術描写は、伝統的に現実の肉体の限界を超越しょうとしている。むしろ、新派武侠小説はあれでもさすがに神仙術は排除し、なんとか気功の理屈をこじつけて、武芸者をあくまで生身の肉体を供えた人間として描いているのだ。