竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

平凡な私が月300万円稼ぐ7つの理由

2005-07-29 20:49:51 | BOOKS
右近勝吉 「平凡な私が月300万円稼ぐ7つの理由」 東洋経済新聞社 2005.04.12. 

私が便利屋で成功しているという話を聞きつけて、数多くの人たちが私のところで修業して全国各地で便利屋稼業をはじめました。 
そういう人たちの中で、便利屋として成功しているのは、例外なく凡庸な人ばかりです。月に100万円以上売り上げるような便利屋になっているのは、何の才能もなく、不器用で気の利かない人間だけなのです。 
器用で、気が利いていて、才気を感じさせるような人は、本当に見事なくらい失敗しています。彼らは、その才能や自信のあまり、やらなくてもいいことをしてしまったり、逆にやらなければいけないことをおろそかにしたりして、やがては商売が成り立たなくなってしまうのです。
便利屋は「どんな仕事でも喜んで引き受けます」という姿勢でなければ続かないのです。専門職としての才能やプライドは一度きれいに捨てて、「自分は凡人だ。凡人だから何でもやる」という決意をしてから便利屋の仕事をはじめなければ成功できないのです。
人が嫌がる仕事だろうが、才人がバカにするような仕事でも何でもやる。 
こんな時代に、自分でもできそうな雑用にお金を払ってくださるというお客さんがいるのだから、喜んでやらせてもらう。それが便利屋です。 
才能幻想や自己幻想にとらわれている凡人の不幸は、2つあります。ひとつは、いつまでたっても届かない才能を追い求めて一度しかない人生を消耗してしまうことです。もうひとつは、自分が凡人だと気づいたとたんに「自分はダメだ」と思ってしまうことです。 
自分は凡人だと気づいたときは、本当は最大のチャンス到来なのです。届かない才能を追い求めたり、あるはずもない「本当の自分」を追いかけていると膨大な時間を費やしてしまいます。 
自分が凡人だと悟れば、『天才バカボン』のパパのように「これでいいのだ」と言って、自分の人生を肯定してエンジョイすることができるのです。

ニッポンの食卓 新・常識

2005-07-28 22:07:54 | BOOKS
齋藤 隆 「ニッポンの食卓 新・常識」 日経BP社 2005.05.30.

「食のプロ」の方々は、自分の仕事については豊富な専門知識を有していますが、最も重要な「現代日本人の食卓事情」については、意外に知識がない。 そこで筆者は『食MAP』というシステムを考案、「日本人の365日の食卓事情を毎日、欠かさず観察するデータベース」です。 
このデータを活用すれば、現代日本人の「食卓の新常識」が明らかになります。
市販のおにぎりが夕食卓に一番よく登場する時はいつ?
実は元日の夕食におにぎりが売れています。料理としてのおにぎりと買ってきた市販おにぎりが、両方とも元日にピークの山を作っています。おにぎり料理は普段の2倍、市販おにぎりは普段の3倍、元日の夕食卓に登場しています。 
市販のおにぎりの最大の販売チャンスが元日にあるのです。元日の夕食卓で、おにぎりが出たとき、同時によく出る料理を調べてみました。主食…クロワッサン、デニッシュなどパン類 おかず…焼き鳥、とりの唐揚、チキンナゲット、チキンソテー、鶏肉のクリーム煮おにぎりが登場する元日の夕食卓には、全くといってよいほど雑煮とお節料理が登場しません。ほとんどが軽食感覚の洋風料理です。この方たちをアンチお節派と呼ぶことにします。  
アンチお節派には、もう1つのタイプが存在します。ピザ派です。元日の夕食にピザがでる回数はわずか1%の確率ですが、ピザ派が存在しています。そのうち6割近くがケータリングを利用しています。テイクアウト利用が1割程度います。そして元日の夕食、ピザといっしょによく登場する料理は次のとおりです。主食…ドーナッツ主菜…フライドポテト、マカロニグラタン、冷奴 
元日から冷奴とは、なかなかマニアックです。ファーストフード感覚、おつまみ感覚の食卓です。またアルコールが結構飲まれています。とりわけ赤ワインが普段の2倍、シャンパンが普段の6倍飲まれています。

アンチお節派でアルコール嫌いはおにぎりにはまり、アルコール好きはピザにはまるのでしょうか。

40年間石綿むき出し

2005-07-27 21:05:49 | NEWS
JR新大阪駅 40年間石綿むき出し 朝日新聞 2005.07.27.

JR新大阪駅の天井の鉄骨梁に毒性の強いアスベストの青石綿が使われ、同駅が開業した64年以降、約40年間むき出しになっていたことがわかった。JR西日本は今年2月以降、天井をシートで覆う措置をとっていたが、早急に除去などの対策を講じるという。
同社は92年から毎年、大気中の石綿濃度を測定しているが、1リットルあたり最大でも2本で、大気汚染防止法に基づく排出基準値を下回っているという。
一方、同じ3階の改札内の新幹線コンコースでも梁に青石綿が使われているが、管理するJR東海は「天井板で覆っており、問題はない」としている。

東海さんの言うとおり「問題ない」なら西日本も補償で大変でしょうから天井板で覆ってみては。
震災後、建物を取り壊す粉塵で目が充血し、鼻が真っ黒くなった記憶があります。相当な量のアスベストが拡散していたでしょうね。

日本の視野から消えたアジア

2005-07-25 21:41:39 | NEWS
ジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学教授) 「日本の視野から消えたアジア」朝日新聞 2005.07.25.

日本占領がなぜあれほど平和的だったか。
日本占額で抑圧的な軍国主義国家が、民主主義に生まれ変わった。日本人は長い戦争に疲れ果て、敗戦は死からの解放だった。どの国も日本と戦争を戦った米国が日本を占領することに疑義を唱えず、多くの日本人も占領を正当と認めた。戦争をしかけたのが日本だったから。 
2番目に、占領初期から冷戦が始まったことに対処するために、米国が日本の戦争責任を徹底的に追及せず、日本は中国から切り離され、歴史問題がうやむやになった。結局、日本はアジアを侵略した過去と向き合うチャンスを逃してしまった。 
最後に、占領が日米安保体制を通じて、米国に対する依存関係として今も続いている。イラク戦争で明らかなように米国の政策がいつも賢いわけではない。日本がそういう戦争を支持し、米政府に協力しているのは、歴史の皮肉かもしれない。

トウモロコシが魚になる日

2005-07-23 22:01:24 | BOOKS
マーク・L・ウィンストン 「トウモロコシが魚になる日」清流出版 2005.07.07. 

収穫量の多いハイブリッド・コーンは、その種の系統を農家が自力で保持することはできず、トウモロコシ農家は、種子を企業に依存するようになった結果、アメリカでは、1903年の時点で栽培種として入手できるトウモロコシが786品種もあったのに、1983年になるとその93パーセントが姿を消して、たったの52品種しか残っていなかった。 
緑の革命ののろしがあがった1950年代から1960年代にかけて、主にフォード財団とロックフェラー財団から資金援助を受けながら、生産性向上につながる新種の小麦とコメの開発が始まった。それらの新品種が十分な成果をあげるためには、大量の水と比較的多量の肥料と農薬を投入しなければならなかった。 
ほとんどの貧しい農家には、緑の革命の牽引役となった作物を栽培できる余裕などなかったし、新種の作物を栽培していた農家も、何千年にもわたる淘汰の過程で在来の害虫と病気への抵抗力を培ってきた従来種の作物から手を引いたせいで、結果的に収穫高を減少させてしまった。 
害虫や病気、土壌の養分不足、水不足などはいずれも、GM作物によって解決できる管理可能な問題ばかりである。GM種子を利用すれば、費用のかさむ農薬や肥料を投与することなく、高価な水利施設に頼らなくても、うまいこと生産力を向上させられるはずだし、実際、バイオテクノロジーは、資力に乏しく、教育を受けていない農民でも、簡単に取り入れることができる。
GM作物は、新製品を供給し、経済成長や作物の増産、農薬の使用量の軽減、多種多様な農法の選択といった利益をもたらすうえに、貧困に苦しむ世界中の人々の食と健康の問題も改善してくれる。
もつとも、遺伝子組換え作物はリスクが皆無というわけではない。自然界の生態系を傷つけて、在来種の有害生物を淘汰してしまうおそれがあるし、食品に混入した場合には、アレルギー反応をはじめとする健康被害をも引き起こしかねない。
さらに遺伝子組換え作物が、開発途上国の貧しい市民や、全世界の人間からも不当に利益をむさぼるための手段として利別される場合もあるだろう。

「坂の上の雲」では分からない日本海海戦

2005-07-17 12:02:22 | BOOKS
別宮暖朗 「坂の上の雲」では分からない日本海海戦 並木書房 2005.04.25. 

東郷平八郎は、日本海海戦は勝つべくして勝てた戦いであるが、黄海海戦は本当に生死をかけた戦いだった、と生涯語っている。 
日清戦争の黄海海戦は距離3000メートル以内で砲戦たけなわとなったが、日露戦争の黄海海戦では1万2000メートルで開始されており、砲戦たけなわでも5000メートル以上の距離があいていた。 
ロシアの長距離射撃能力は、当時のイギリスやドイツよりも進歩した中央管制による射撃だった。 
試射を一門の砲でおこない、熟練した弾着観測員が前後を的確にみてとり、距離を推定する。艦橋にいる砲術将校グループは、黒板手書きなどの方法により、距離を各砲台・砲塔に知らせ、各砲門は艦速に応じて苗頭をマトの前方とみなして一発ずつ発射した。 
これに対し、連合艦隊は完全な斉射法、すなわち試射を複数の砲門でおこない、そのパターンを分析し、連続射撃につなげる方法を実行していた。これでは、連合艦隊と旅順艦隊の命中率の差が大きかったのは当然である。日本の砲術が上回っていたのだ。
艦砲の命中率とは、ハードやそれの訓練だけでは簡単に得られない。つまり砲術計算というソフトが死命を制する。日露戦争全期間を通じて、日本の命中率がロシアを常に上回っていたのは、砲手の訓練だったり、大和民族が優秀であったりしたわけではない。
日露戦争において日本の海軍が用いた方法(ソフト)と装備(ハード)は世界第一級、さらにその上を行くものであった。 
海戦のためのハードの大半はイギリスからの輸入品だった。だが、輸入したイギリス製品はイギリス海軍も十分使いこなしていないような最先端品ばかりだった。造れなくとも技術評価はできていた。明治維新から30年ほどしか経たず、このようなことができるのかと驚くと同時に、明治人の受容性、応用力に脱帽せざるをえない。 
ところが、日米戦争におけるハードの大半は国産だったが、世界第一級といえるものではなく、また新技術にしばしば対応できていなかった。 
艦砲は最大30キロしか弾丸を飛ばせないが、飛行機は500キロ以上飛ぶことが可能である。海戦における艦砲の時代は第二次大戦の太平洋では終了していた。 

華人社会がわかる本

2005-07-17 00:15:38 | BOOKS
山下清海 編 「華人社会がわかる本」 明石書店 2005.04.15. 

陳來幸 神戸華人社会の形成と特色 
神戸の華僑社会が形成され始めるのは横浜から遅れをとること9年。その歴史は、1868年1月に開港した神戸港とともに始まる。 
居留地の北限は旧西国街道、東限が生田川まで。正式な条約関係を持たないことを理由に、居留地での営業と居住は許されず、西側の制限的雑居地であった元町通から海岸通一帯に店を構えるようになった。神戸では居留地外に南京町が形成されていく。 
神戸の華僑社会は港神戸が持つ特異性を反映し、広東、福建、新江・江蘇など広範な出身地別構造を持つ。  
開港後の日本社会は、中国および東アジア各地の輸出入商と取引ができる才覚ある華商を必要とした。さらに、欧米系銀行や保険会社、商社が居留地を通じ日本市場へ進出を果たすためには、漢字を介する交易の仲立人として、英語を話す中国人買弁(ばいぺん)がなくてはならない存在であった。 
中華会館はじめ、三江公所、福建公所、広業公所、学校などの公産が生み出されたのは、神戸が海産物とマッチ輸出の魅力で華商を惹きつけた1890年代から20世紀初めの頃。神戸港および神戸華僑の最も華やかなりし繁栄期であった。 
神戸の華僑社会の構成は、歴史的に見て大きく3回の変動期があった。
第1は開港で華商が神戸港に惹きつけられ、華僑社会が形成された時期。
第2は、戦後、旧来の華僑とほぼ同数の規模で、「新華僑」台湾人が新たに華僑社会の一員となった時期。
第3は、改革開放後新移民が来日し、一部の者が「新華僑」として日本に定着するようになる、1980年代半ば以降、現在進行形の変動期である。
留学生からスタートし、ハイレベルの知識を身につけて定着した人びとが新華僑の特色を彩っている。また、「日本人の配偶者」資格の新華僑の多さにも注意を向けるべきであろう。 
神戸華僑の特徴を説明するのに、「共生」は重要なキーワードだ。
第1に日本製産品の販路を広げたパートナーとしての華僑貿易商の存在。
第2に1995年の阪神大震災での体験。華僑コミュニティがホスト社会とともに「共死」と「共生」を体験した。
第3は、大陸系と台湾系の共生である。

A級戦犯には「結果責任」

2005-07-13 21:20:24 | NEWS
後藤田正晴 A級戦犯には「結果責任」 朝日新聞 2005.07.13. (聞き手 論説副主幹・宮田謙一) 

46年4月に復員したとき、『一億総懺悔』という言葉を聞き、どういうことなのかと強い疑問を持った。一般の国民は国の方針に従って命令されて戦に赴き、あるいは銃後を守った。国全体が戦争に負けた無念さを共有するというのはわかるが、全国民が責任を負うというのは納得できなかった。 
A級戦犯といわれる人たちが戦争に勝ちたいと真剣に努力したことを、だれも疑っていない。しかし、天皇陛下に対する輔弼(ほひつ)の責任を果たすことができなかった。国民の多くが命を落とし、傷つき、そして敗戦という塗炭の苦しみをなめることになった。そのことに、結果責任を負ってもらわないといけない。 
東京裁判にはいろいろ批判もあるし、不満もあった。ただ、裁判の結果を受け入れた以上、それにいまさら異議を唱えるようなことをしたら、国際社会で信用されるわけがない。条約を守り、誠実に履行することは、国際社会で生きていくために最低限守らなければいけないことだ。 
合祀されているA級戦犯のご遺族が、それぞれの家庭に引き取って静かに慰霊なさることもだめだというなら、新施設をつくるのはやむを得ないかもしれない。  
サンフランシスコ講和条約は戦後日本が国際社会に復帰し、新しい日本を築く出発点だ。それを否定して一体、どこへ行くんですか。 

Q&A リフォーム経営はおもしろい!

2005-07-05 21:23:46 | BOOKS
中村正實 「Q&A リフォーム経営はおもしろい!」2005.06.07.

建設技術 家は少なくとも20年に1度は手を入れなければなりません。住宅着工統計をみますと、1997年までは1,300~1,600万戸台と、20年後にリフォームが必要になる住宅が増えることが分かります。
従来ならば建替えに向かう需要も、循環型社会を目指す背景からリフォームに向かうと予想されます。最近の調査で、「今の家に住み続けたい」と希望する世帯が60%を上回っています。
また、(財)建設経済研究所は、耐震性が不足している住宅が全国で約1,400万戸あると想定して、一戸当たりの耐震改修コスト162万円、全体の市場規模は約21兆円と試算しています。 
さらに、少子高齢化が急速に進み、2010年頃には世帯数の純増が止まる結果、地価を押し上げる要因がなくなり、相対的に建物の評価が高まると思われ、建物に投資するメリットが生まれます。次に社会的環境の変化という面からみると、家庭のこみ処理にも大きな変化が現れるはずで、住宅設備機器も急速に進化することが予想されます。 
別の問題として、犯罪の急増による防犯対策の強化がクローズアップされています。家庭や家族、あるいは個人生活も変化しています。夫婦子供=人という標準世帯の概念が崩れ、DINKS、シングル、未婚の 同居、母(父)子家庭の世帯が増加。インターネットの普及で在宅ビジネスが増加。ユーザーの生活スタイルや嗜好の多様化による、間取りやインテリアテイストの変更に対する要求の増加と、2017年以降も、引き続き活発なリフォーム需要が発生すると予測されています。
リフォーム業には①建材店、住設店などの関連資材業者、②工務店、③屋根・外装、塗装、内装、水道工事などの専門工事会社(サブコン)、④ガス会社、電力会社、住設機器メーカーの直営店、⑤建設、不動産業界の新規事業部、⑥DIY(ホームセンター)、家電量販店、流通業者などの参入が予想されています。
2005~2017年頃までの成長期には参入者が増えても、そこそこ仕事はあります。その反面、淘汰が進み、ビジネスに対するしっかりした方針を持たない企業は脱落する運命にあり、この状態を脱却するためには、それぞれが際立った独自性を打ち出し、特定の顧客層をしっかり獲得する以外に方法はありません。

OSAMU GOODS STYLE

2005-07-03 15:19:34 | BOOKS
原田 治 「OSAMU GOODS STYLE」PIE BOOKS 2005.04.17. 

最初からオサムグッズは、中高生から20代女性を対象にした商品群を整えるという企画でした。そこでぼくの頭の中でなんとなく描いたデザインイメージは、60年代のアメリカの雑誌”seventeenなどで見ていた女のコや、ハリウッドの青春映画に登場する可愛い女優さん達でした。 
オサムグッズのデザインに関して、何故あんなにアメリカナイズされているのか、とよく質問されることがありました。これに答えて、いつもぼくは、戦後日本は現在に至るまでアメリカの植民地であるから、と説明する事にしています。たいがいの人は驚きます。
1946年、戦争のあくる年に東京下町に生まれたということは、東京大空襲で昔の都市の姿は灰燼に帰して、なにもない焼け跡で生を受けたという事でもあります。焼夷弾(ナパーム弾)で焼かれ10万人が死に、木造家屋のほとんどが燃えて何も無くなってしまった直後でした。そして連合国軍として米軍が支配する占領地で育ったわけです。食料も救援物資に頼る時代でした。ものだけではなく、大人達は思想も文化もまた、メイドインUSAを受け入れるしか他になかったのでしょう。そして1950年朝鮮戦争からヴェトナム戦争の頃まで、米国追従の軍需景気のお陰で、日本は廃墟から急に経済復興したのが現実でした。またその間、20世紀において世界最大の先進国はアメリカでした。悲しき植民地の子供であったぼくにとって宗主国アメリカは、丁∨や映画でのみ知る遠い憧れの国でもあったのです。

1950年代、60年代半ばまでは、アメリカ文化大好き少年でした。ところがいざ大人になってみると、70年代以降のアメリカ文化は、すでに終わってしまった感が強くて、もはや好きにはなれなくなりました。昔は良かったなと、まるで年寄りのつぶやきのように失われつつあった時代を懐かしむ側にぼく自身が変化していきました。というようなわけで、75年にオサムグッズを製作するにあたり、デザインコンセプトを、失われた古き良き時代のアメリカにすることを思いついたのでした。若い頃に夢見た、欧米文化全般へのエキゾチシズムと懐古趣味でありました。