竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

会津武士道

2007-06-30 04:11:54 | BOOKS
中村彰彦 「会津武士道」 PHP研究所 2007.01.12. 

会津藩は、江戸幕府が開かれてから約半世紀後の17世紀半ばには、徳川将軍と幕府を佐けて260余年におよぶ徳川の平和の基礎を築きました。中期の18世紀後半には、天明の飢饉の被害も加わって藩財政が破綻同然となったにもかかわらず、財政、軍事、教育などの改革を断行して他藩の模範となるほどでした。そして、19世紀に入ってからはみずから進んで唐太や稚内などの北辺警備につき、国家に貢献しょうと心掛けました。ペリー来航前後には江戸湾警備も担当して国家を守ったにもかかわらず、その後、戊辰戦争に敗れたため賊軍と貶められ、滅藩処分になってしまうのです。 会津藩主松平容保は京都守護職として、御所を警護していた文久3年(1863)、「8月18日の政変」が起きます。長州藩と過激な尊王攘夷派の公卿たちが偽勅を全国に送って攘夷親征の大軍を起こすことを画策。孝明天皇が不忠きわまりないと内命し、開戦に至ることなく、尊攘激派の七卿と在京の長州藩士が京から追放されました。孝明天皇は容保の忠誠に喜び、10月9日宸翰と和歌2首を下しました。翌元治元年(1864)激昂した長州藩は、7月19日、約3,000の兵をもって御所へ攻め寄せ、「禁門の変(蛤御門の変)」が勃発。もっとも熾烈な戦いとなったのが御所の蛤門で、会津藩は死傷者50余人を出しています。これは公武合体派兵力のうち最多の死傷者数です。孝明天皇はこれに激怒して、7月23日、長州追討の勅命を発しました。長州は3人の家老、国司信濃、福原越後、益田右衛門介を無理やり切腹させてその首を差し出し、謝罪しました。のちに戊辰戦争で彼らが「家老の首を3つ持って来い」と厳命したのは、あきらかに私怨を晴らすためでした。 明治時代に靖国神社が創設され、禁門の変で天皇を守った会津藩の戦死者が合祀されたのは明治時代末になってから。逆に、御所に大砲や鉄砲を発砲した側の久坂玄瑞(長州藩士)や真木和泉(元久留米藩士)らは、靖国神社に早くから祀られています。 会津藩では藩主も藩士も会津武士道をまっすぐに貫き通した結果、徳川家と天皇家からもっとも信頼される藩となったわけです。しかし、禁門の変から第一次長州追討戦の頃を境にして、歴史のベクトルが変わりました。慶応2年(1866)12月25日、孝明天応が享年36で崩御しました。いまだに毒殺説が根強く囁かれて居ます。 会津に押し寄せた新政府軍は約3万の兵力で鶴ヶ城を包囲攻撃し、9月22日、会津藩は降伏開城。禁門の変以降の会津藩の戦死者は3,014人。旧幕府軍および奥羽越列藩同盟の戦死者総数は4,650余名ですから、会津藩だけでその実に3分の2を占めていました。 藩士や家族が死屍累々となっていたとき、半年以上も遺体の収容を許さなかったのは福井藩士久保村文四郎でした。酷薄な久保村は、ある庄屋が白虎隊士の遺体を埋葬したところ、「もう一度掘り出して捨てて来い。またやったら打ち首だ」とまでいったのです。 明治政府は白虎隊十九士の忠孝精神を称揚し、野矢常方の歌とともに国定教科書に紹介するなどして、会津武士道を巧みに教育に利用しました。国定教科書『小学国史』の中では会津藩を“逆賊”呼ばわりし、会津人を差別しつづけたにもかかわらず、です。 会津人は徹底的に差別され、警察や軍隊で採用されるようになると、会津人を薩長土肥の出身者が監視するシステムができあがっていました。長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は、会津出身者はどんなに功績を立てても大佐までしか昇進させないという大方針を採っていました。 秋篠宮と紀子さんの御成婚が決まったとき、「かつて会津松平家から勢津子さまが秩父宮家へ嫁いだら、今度は旧藩士池上家から妃殿下が誕生した」と会津の人たちは喜びました。天皇家が会津藩は賊徒ではなかったと認めて下さったのです。

皇室外交とアジア

2007-06-29 05:52:14 | BOOKS
佐藤考一 「皇室外交とアジア」 平凡社新書 2007.02.09. 

皇室外交は一人の天皇の生涯にわたって展開される壮大なドラマだ。明仁天皇の皇太子時代の皇室外交の努力は、タイやマレーシア、インドネシア、シンガポールのように天皇としての再訪にもつながり、若年時の経験が皇室の国際親善のための貴重な資産となっている。 国別に見ると、1996年までで回数が一番多いのは、イギリスの21回。続いて、タイが20回、ベルギー18回、インドネシア17回、スウェーデン14回、デンマークとオランダとヨルダンが共に12回、ルクセンブルクとネパールが共に11回、フィリピン10回の順となるが、個人として一番皇室の接遇を受けたのはインドネシアのスカルノ大統領だ。 経済大国日本との協力強化を重視する諸国の首脳や王族たちは、次々と外国賓客として、あるいは実務訪問者の形で訪日し、昭和天皇と会見して誼を通じた。外交儀礼上、東アジア諸国への答礼の訪問が必要になった時、宮内庁が最初に戦争責任のない明仁皇太子と才色兼備の美智子妃を名代に立てたことは、まだ戦争の記憶が生々しかった当時に、被害者に対する謝罪の問題をかわすことを可能にした。 昭和天皇崩御の際の、そして明仁皇太子が天皇に即位してからの東アジア5ヵ国訪問の新聞報道や相手国側の対応を分析してみると、被害者側の感情の問題は消えていないし、先方の対日観や皇室観は、各国のエスニック・グループ毎の多文化的な状況と、日本軍政時代とそれ以降の日本人の接し方の違から、天皇が代替わりしても多様であることがわかる。 そのうち、友好親善の意味合いが強かったのは、日本の皇室と自国の王室が親密な関係にあるタイであり、ついで在留邦人の多いシンガポール、政治的意味合いが強かったのが、共産党政権が天皇訪問をアメリカ牽制の外交戦略に用いようとした中国である。インドネシアとマレーシアは、それらの中間といったところだ。 1978年10月に訪日した中国の小平副首相との会見で、天皇から先に謝罪したとする説がある。その時の天皇の言葉は、「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です…」という内容だったという。これは天皇が宮内庁側の用意する会話のプロットを無視して、自分の意思を表明したものと考えられる。会見後中国大使館に戻った小平は、予想外の天皇の言葉に「今日はびっくりした」と感想を述べたという。 そうであれば、1994年5月の永野茂門法相の「南京大虐殺」デッチアゲ発言などは、やっと実現した天皇訪中による両国の関係強化の努力を台無しにするものであり、「天皇陛下に対し奉りこれに過ぐる不忠はない」というべきだろう。 天皇夫婦。そして徳仁皇太子・文仁親王に、いまだに未訪問の韓国を含め、これからも「大使百人分の働き」のある皇室外交の担い手としてアジアで活躍してもらうためには、政府と国民が友好親善の雰囲気作りと平和国家日本のイメージの浸透に努力することが大切だ。

関西人の謎でんねん!

2007-06-28 06:16:14 | BOOKS
博学こだわり倶楽部 編 「関西人の謎でんねん!」 KAWADE夢文庫 2007.01.05. 

神戸っ子の体には、「神戸体操」という独自の体操が刻み込まれている。戦後生まれの神戸っ子の多くが、この神戸体操を習ってきた。体育祭でも、ラジオ体操の代わりに、皆で神戸体操をしてきた。この神戸体操は、音楽に合わせて行なうもので、内容的にはラジオ体操に近い。しかし、船をこぐような体操や腕立て伏せなどが盛り込まれ、グリコのランナーのポーズのような動きも入っている。さらに、両腕を開いて胸を張るポーズがやたらと多いのが特徴である。 神戸でこの体操が制定されたのは、1951(昭和26)年5月のこと。神戸っ子の健やかな成長を願って、ひとつひとつの動きが決められた。両腕を開き、胸を反らせるポーズが多いのは、当時の神戸っ子の胸囲が、全国平均を下回り、胸板を厚くすることが「神戸体操」制定の目的のひとつだったからだという。


神戸の小学生の大半が使っているのが「神戸ノート」。表紙に神戸の街のモノクロ写真が印刷され、国語、算数、理科、社会用はもちろん、連絡帳に白紙の自由帳、百字練習帳、二百字練習帳、そしてローマ字練習帳まである。さらに、低学年用と高学年用の2種類が用意されている。 じつはこのノート、「関西ノート」という民間企業が発売元。神戸市内の文房具店、コンビニやスーパーでも売られている。そもそも、神戸ノートは、戦後の物不足の時代、すべての児童にノートが行き渡るようにと、市の肝いりで製造されたもの。安価で販売されたことが、普及のきっかけとなり、神戸の小学生は神戸ノートを使うことが当たり前だ。


農業は有望ビジネスである!

2007-06-27 00:18:11 | BOOKS
涌井 徹 「農業は有望ビジネスである!」 東洋経済新報社 2007.01.26. 

かつて琵琶湖に次ぐ日本第2の湖だった八郎潟の干拓事業は、「機械化一貫体制の大規模稲作農業を確立し、古い習慣に支配されない新しい農村を創り、将来の日本のモデル農業・モデル農村とする」という目的のもと計画・実施された、食糧増産のための国家的ビッグプロジェクトだった。 1964年(昭和39年)に完成した干拓地に、まったく新たな秋田県73番目の自治体として大潟村が誕生した。そして、歴史上初の「米余り現象」が1965年頃から始まり、政府の減反政策が開始する頃には600~800万トンもあまるようになり、新時代のモデル農村・大潟村に過酷な生産調整が実施された。「指導」の名を借りた行政側の「命令」は農民に「死ね」といっているに等しいものだった。大潟村の米作り農業に夢をかけ、住み慣れた故郷を離れて来た入植者には帰るところもない。大規模稲作機械化一貫体制の米作り農業を目的として、全国から大潟村に入植した農家は、生産調整に納得がいかず、行政や農協と血みどろの対決を20年以上も繰り返した。自分の田んぼに米を作り、売ったことで「ヤミ米」と呼ばれた。 そして30年以上続いた生産調整の後に国が選んだ農業政策は、「自分たちが作った米を自分たちで販売できる農業」を日本の将来の農業の姿とすることだった。国の態度が変わったことで、日本農業を破壊する犯罪者が、いつの間にかモデル農業の先駆者になっていた。新規就農者の激減、農業従事者の高齢化など、日本の農業の将来が危機的な状態になり、どうしても農業政策を変えなければいけないように、世の中が変化したからである。 すべての原因は、農家に経済力、つまり自分で作った米を自分で販売する力が存在しなかったことにある。1942年(昭和17年)、戦時立法として食糧管理法ができて以来、米価は国が決めるものとされ、自分たちが生きるも死ぬも、国の政治を動かす政治家たちの決定次第。そしていつしか、「生活が苦しいから米価を上げてくれ」と毎年、米価決定の時期になると、全国からたくさんの農家が動員され、ムシロ旗を立てて値上げを主張する。一般の国民には、そうした農家の姿勢は理解してもらえなかった。戦後50年以上もの間、農家の人々は、ただひたすら国と農協だけを見て米を作ってきた。国が作れといえば作り、作るなといえば作らない。それさえ守っていればすべて自動的に買上げてくれる。そんな状況下で、「消費者のニーズを探る」とか、「サービスを充実させる」という発想が生まれるはずもなかった。 結局1995年(平成7年)、食糧法の施行で、食管法は正式に廃止された。これにより、生産調整をしなくても農家は自由に米を販売することができるようになった。そしてこの政策転換を受け、全国の米作り農家の中にも、個人産直による販売を手掛けるところがどんどん増えていった。 現在、大潟村には個人産直を行っているおよそ80社が、健全な競争原理の中で、会社同士が農薬や化学肥料の使用基準を定め、少しでもおいしく安全な米の栽培技術の向上に努めている。

「9.11」の謎

2007-06-26 16:45:17 | BOOKS
成澤宗男 「9.11」の謎-世界はだまされたか- 金曜日 2006.09.01. 

「9・11」事件でハイジャックされた4機の旅客機の搭乗者名簿が今だ公式に公開されていない。唯一確認できるのは、捜査機関からリストを転載したと思われるCNNのホームページだが、そこにはなぜか犯人の名が一切見当たらない。通常、航空機事故の調査は連邦航空局が行なうが、今回は、すべての関係書類はFBIが管理しているといが、なぜ一般の航空機事故のように全員の名前が公表できないのか。 そればかりか、02年4月29日、FBIのマラー長官は「(犯人がやったという)確たる証拠を見つけることはできなかった」と言い出したのだ。それなら、7ヵ月間捜査して証拠を見つけだせなかったFBIが、なぜ実質48時間で全「犯人」を割り出せたと発表したのだろうか。そもそも「実行犯」を特定できたからこそ、アフガニスタンへの空爆を始めることができたはずだ。 2000年9月、ブッシュ政権を牛耳っているネオコンが結成したシンクタンク「米国新世紀プロジェクト」は、圧倒的軍事力による世界一極支配を目的とする『米国防衛の再構築』を発表した。目的実現のために、今後「真珠湾攻撃のような破局的、かつ何かを誘発するような事件」が必要であると強調されていた。「9・11」がその後、「対テロ戦争」と称して、アフガニスタンとイラクへの侵略の端緒となったことを考えれば、この文書の持つ意味は軽くない。そしてこの執筆者の一人が、チェイニー現副大統領であった。 よく知られている事実として、第三国の諜報機関からも米国に対し、攻撃についての事前警告が寄せられてきた。とくに注目されるのは、英国がすでに1999年の時点で攻撃計画を掌握していたという報道だ。 「いまや、議論の余地のない事実からうかがえる政治的にまともな解釈がただ一つだけ存在する。米国の軍事諜報複合体内部の強力な勢力が、国内でテロリストによる事件が起きるのを望んだのだ。それは、中央アジアと中東への以前から計画されていた軍事介入作戦を開始する上で必要な世論の誘導を実現するためだった。そうした勢力が差し迫った攻撃の規模やターゲットを知っていようがいまいが、彼らは事前に分かっていたテロリストの逮捕を妨害して計画を実行させたのである」(Patrick Martin 9/11 commission told of Atta cover-up)

坊主白書

2007-06-25 06:04:04 | BOOKS
井上暉堂 「坊主白書」 社会評論社 2006.08.25. 

寺院の経営を支える基本のシステムは、タイなど同じ仏教国でも例を見ない檀家制度にある。サンスクリット語で、物を与えることや布施を意味した「檀那」が、日本でお布施する人、施主、仏教の後援者を意味するようになった。そしてお布施を行う信徒の家が「檀家」となり、檀家が属する寺を檀那寺と呼ぶようになった。檀家とは、いわば墓地や葬祭を媒介として寺院と長期的な取引契約を結んだ、檀家の布施と寺の法施という関係だ。 既存の日本の仏教は、僧侶は内部世界にこりかたまって、檀信徒や信者に対して、この世で日々生起しているさまざまな問題に対して、何ら指針を下すことができず、まさに「真風地に堕ち」ている。 現在の仏教教団の腐敗堕落の最大の原因は、檀家制度及び本末制度にある。そして、日本国中にこの制度を布いたのが天台宗の天海である。そして、それ以上にこの制度を立案し、実施させた人物が臨済宗南禅寺の崇伝である。崇伝は、慶長13(1608)年以来、徳川家康の政治・外交・宗教面でのブレーンとして辣腕を振るい、「黒衣の宰相」といわれた。その崇伝が、家康から三代将軍家光の代にかけて、寺院諸法度、紫衣法度、宗門人別帳制度・寺請証文制度などを立案した。檀家は菩提寺への定期的な参拝や布施を義務化され、寺院は行政機関の仕事を肩代わりする見返りに財政基盤を得た。 お上から強制的に与えられ、自由に信仰を選べない財サービスに、誰が関心を惹くだろうか?こんな状態が260年もの間続いたのである。多くの日本人には宗教心がないといわれるその大きな遠因が、実はこの寺檀制度の確立にあった。 今のお寺と坊主は、葬式・法事・拝観観光株式会社に成り下がり、既得権益を握りしめ、体制べったり、権力べったりとなっている。そんなところに、真の魂の救済を求めることはできない。檀家制度がなかった時代、坊主たちは自ら厳しい修行をし、かつ人々を助けるなかでその信者からお布施を貰っては飯を食うという、出家と在家の関係をちゃんと保っていた。 仏教が堕落の坂道を転がり落ちる前に、もう一度生まれ変わるチャンスがあったとすれば、それは明治初年の廃仏毀釈だった。このとき檀家制度が否定されたのだから、日本独自の宗教改革、真の仏教の再生のチャンスがあった。ところが、このとき坊主たちは完全に国家権力と妥協したのである。国家神道を権力の「法」として容認し、これに対して絶対服従を誓った。1875(明治8)年の「信仰の自由の保障」とは、その反対給付にすぎなかった。やがてなしくずしに檀家制度が復活を遂げ、今日に至っているわけである。

マニラ好き

2007-06-24 00:31:48 | BOOKS
日名子 暁 「マニラ好き」 太田出版 2007.05.24. 

60年代にアジアでも有数の経済成長国であったフィリピンは、その後マルコス独裁が続き、戒厳令を施行して国内体制固めにエネルギーを集中して、自国の産業は停滞。そこで国民に海外出稼ぎを勧める始末。以降、今日まで政権は代わってもフィリピン経済は低迷を続け、国民の海外出稼ぎに頼らざるを得ない状態で、フィリピンの人口約8,500万人のうち1割弱に当たる男女800万人が、海外へ出稼ぎに出ていて、その送金額も100億ドルを超えている。 出稼ぎ先は「男はアラブ、女は日本」と、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、そして日本である。約20年間も続いた「興行ビザ」の時代に約100万人のフィリピーナが来日している。フィリピンにおける家族の絆は強固で、日本に出稼ぎに行くフィリピーナの稼ぎに残った家族は依存し、当人も当たり前と受け止める。 「ノー・マネー。ノー・ハニー」ではあるが、相手の国籍、出自、職業、年齢にまったく偏見を持たないフィリピーナと恋愛関係になりたいと、日本から年間約42万人(06年)がフィリピンを訪れている。フィリピーナを買うのなら、マニラならエドサコンプレックス、エルミタゾーン、パサイゾーンに行きさえすれば願いが叶う。ところがここ10年来、フィリピーナにハマっている日本のお父さん、お兄さんは、恋愛の延長線上として「結婚」まで考えている。フィリピーナをめぐる状況は、「買春」から「結婚」へと大きく流れが変わってきた。ちなみに、国際結婚カップルで最も多いのが日本人と中国人の組み合わせで13,019件(04年、国際結婚全体の33%)で、第2位が日本とフィリピンのカップルで8,517件(21・6%)。興行ビザの取得が困難となり、日本人との「偽装結婚」で来日という例も多く、またなまじ経済格差があるだけにファミリーが登場すると二人の間がこじれ、離婚率は約33%と、カップルの3組に1組強が離婚している。正式には結婚していないが日本人男性がマニラに通うという形式の、統計には表れない内縁関係も多い。 しじゅう自然災害が起きる上に保険金殺人、泥棒など治安が悪く、“アジアのゴミ溜め”といわれるほどにどうしようもない国ではあるが、地価は格安であり、日本では信じられないような自然に恵まれたリゾート物件が日本価格の10分の1で入手できる。さらに運転手、メイド付きの生活も夢ではなく、リタイヤ後の暮らしの場としても魅力的である。

やっぱり差別が好きなアメリカ人

2007-06-23 00:12:26 | BOOKS
山下邦康 「やっぱり差別が好きなアメリカ人」 経済界 2005.01.03. 

ハワイのゴルフ場は日本人で満杯で、白人の姿を見かけない。驚くほど高いビジターやグリーンフィーが理由なのか、日本人と一緒にプレイするのがイヤなのか。彼等は日本人の寄りつかない案外辺鄙なゴルフ場で静かにプレイを楽しんでいる。 たとえどんな人であれ、潜在的に持つ感情が意識の底辺に轟いている。始末に悪いのは、階級社会にいる人々は有識者を自認し、普段は差別的な表情を一切見せない。表面は親近感をもって接し、にこやかに対応してくれる。鈍感な日本人はこれにコロッと気を許して、なんてアメリカ人は優しく親切なのだろうと“アメリカファン”になってしまう。 社会の底辺では今でも「差別と偏見」が渦巻いている。これがアメリカ社会の隠された実態である。昔の純粋な黒人解放と自由民権運動は、黒人やカラーズの個人的な資質の問題にすり替えられ、政治的課題でさえなくなってしまった。 平民宰相・田中角栄はアメリカの仮想敵国でもあった中国に出向き、日本との国交回復を為し遂げ、世界を驚かせた。アメリカの頭越しの外交は彼等の激怒を買った。さらに懸案の日米繊維交渉では官僚の敷いた手順を無視し、見事交渉を日本に有利に決着させた。煮え湯を飲まされたアメリカは、田中を失脚させるべく罠をしかけた。これがあの有名なロッキード事件であった。アメリカの思惑通り田中角栄は獄中の人となり、日本の政治家はすっかり震え上がった。 同様に、橋本龍太郎首相はアメリカのアキレス腱である米国国債を「順次売却してもよい」と口を滑らし、首相を辞任した。 政界の暴れん坊ハマコー元議員が、TV番組で「アメリカに楯突く日本なぞ考えられない」と蛮声をあげているが、案外、これが日本の政治家の本音なのだ。 かつて日本が経済の絶頂期に、欧米系資本が触手を伸ばした時、大蔵省は彼等の危険な企てを見抜き、外資進出を防ぎ、日本の企業が彼等の草刈り場になるのを守った。今は財務省や金融庁がみずから率先して、銀行や企業の売買斡旋に精を出す始末だ。 彼等は同民族間のビジネスに際しては、あまり露骨なことはしない。ところがアジア人相手となるとなんでもありで容赦しない。それは相手に能力がない結果であって、何の同情も示さない。まるでアングロ・サクソンは人間だが、日本人やアジア人はそれに値しないと言っているようなものだ。 かつてアドルフ・ヒトラーはアーリア人種の優位性を説き、文化創造の主は我々だと狂気と妄想の世界を創ろうとした。白人の優位性という見えざる意識がそれを助長したのだ。今日、ヒトラーの狂気の精神構造は本当に死に絶えたと言えるのだろうか。


きものという農業

2007-06-22 06:45:22 | BOOKS
中谷比佐子 「きものという農業」 三五館 2007.05.30. 

初夏を迎えると、天皇陛下が稲をお手植えし、皇后陛下が宮中の桑園から桑の葉を採集し、蚕に直接与えられる。稲作において休眠反が増え、養蚕農家が日々姿を消してゆくなか、皇室は稲づくりや養蚕に力をそそいでいる。それは不思議な光景である。 養蚕は明治の文明開化をささえた産業で、日本の絹は海外から最も質が良い高級品との評価を受け、蚕糸業は日本の外貨獲得の要だった。この時代背景を受け、明治天皇の妃・昭憲皇后は、養蚕を次代に受け継いでゆくとの覚悟のもと、「皇后御親蚕」として歴代の皇后のお役目にされた。さまざまな蚕が飼育され、明治38(1905)年、ときの皇太子妃(後の貞明皇后)が小石丸をお気に召され、現皇后陛下も「日本の純粋種を絶やさず」にと、今日まで小石丸の飼育が続いている。 麻は苧麻と大麻の2種類ある。苧麻は別名からむしと呼ばれるイラクサ科の多年草。大麻糸より細い糸は上質な布が織れるということで、“上布”という名が誕生した。大麻は衣服の素材だけでなく、この茎・花穂・種・実から生まれる製品は5万種類以上にも及ぶ。さらに麻には霊が宿り身の穢れを浄化するとして、神の前に出るときの神衣となっている。 大麻の栽培場所はしっかりと囲われている。その理由は「大麻取締法」による規制で、第二次世界大戦に敗れた日本は、昭和23年7月に、アメリカのGHQによって、一方的に大麻の栽培が禁止され今日に至っている。表向きは、幻覚症状をもたらす植物の廃止だが、アメリカの石油繊維の消費をうながし、さらには日本の神道をないがしろにした。地球上で大麻を育てられないのは日本のみで、国産の麻は高額となり、禁止したアメリカの麻が輸入されている。 ワタには、「棉」と「綿」の二文字があり、植物として畑にある間、収穫して種がついている段階までを「棉」とし、繊維になった段階から「綿」と呼んでいる。日本に棉の種がインドから輸入されたのは、平安時代の始まり頃。いったん中断され、室町時代に再度棉種が輸入されてからは棉の栽培は全国規模で盛んになり、庶民の着るきものや寝具、調度品、風呂敷、おむつにいたるまで、木綿が愛用され、江戸時代には稲作と肩を並べ、東北以南の農村の重要な農作物となった。 しかし明治時代になると、“富国強兵・殖産興業”の国策により、綿を中国から輸入しての紡績産業となり、化学繊維が全盛になると、日本で生産する綿のきものは姿を消し、今は一100%輸入の綿糸のものが店頭に並んでいる。

ユリ

2007-06-21 00:37:02 | BOOKS
肥土邦彦 ユリ (NHK趣味の園芸-よくわかる栽培12か月 )  日本放送出版協会 2002.06.15. 

ユリはユリ科(Liliaceae)ユリ属(Lilium)の球根植物で、北半球の亜熱帯から亜寒帯にかけて96種が自生し、このうち日本には15種が分布、その半数が日本の特産種です。 『古事記』や『万葉集』にも記述され、早くからユリを観賞していた様子がうかがわれます。また、日本人はオニユリ、コオニユリ、ヤマユリ、ササユリなどの球根を食用として、飢饉のときの救荒植物としても扱われ、ユリは日本が誇る世界の花です。 園芸品種としては?カロチノイド色素をもつ橙色系の花を咲かせるユリを交雑したアジアティック・ハイブリッド、?マルタゴン・リリー、タケシマユリなどの交雑によってつくられたマルタゴン・ハイブリッド、?マドンナ・リリーとヨーロッパ原産のユリに由来するマドンナ・リリー・ハイブリッド、?アメリカ原産のアメリカン・ハイブリッド、?テッポウユリとタカサゴユリの交雑種ロンギフローラム・ハイブリッド、?中国原産のリーガル・リリー、キカノコユリなどのトランペット・ハイブリッド、?ヤマユリ、ササユリ、カノコユリなどの、日本に自生しているオリエンタル・ハイブリッド、?その他の交雑品種群、?野生種の亜種や変種の9種があります。 「百合」という漢字は鱗茎という、葉の変化した鱗片が幾重にも重なり合ったユリの球根の形態を表したものといわれ、ユリという呼び方はこの植物の花が大きく風に揺れているさまを表したものといわれています。また、ユリの学名はLiliumといいますが、これは古いケルト語のli(白い)とlium(花)に由来し、英名のlily、独名のlilie、仏名のlis、ギリシャ名のlirionも同じ語源によります。 マドンナ・リリーは、パレスチナが原産地とされる純白の美しいユリで、すでにローマ時代には栽培され、ローマ軍の進駐とともに分布域を広げていきました。 キリスト教では、聖母マリアの死後、墓の中にはユリとバラだけが残っていたという伝説から聖母マリアの象徴としてユリが扱われ、中世には「受胎告知」の絵に、純白のマドンナ・リリーが聖母マリアの純潔の象徴として登場し、大天使ガブリエルがユリの花を供物として持つ構図が描かれています。さらにマリアの処女性を強調するために、ユリの雄しべを除いたものもあります。このようにマドンナ・リリーは聖花として使われ、イースター(復活祭)にも欠くことのできない花になっています。 テッポウユリをヨーロッパに最初に紹介したのは1682年に来日したドイツ人マイスターで、1829年、ドイツ人のシーボルトが帰国の際に球根を持ち帰り、開花しなかった為、再度送られてきた球根が、1840年、ヨーロッパで初めて開花し、ヨーロッパの人々を驚かせ、喜ばせました。 日本から多くの球根が輸出され、栽培がやさしかったことも手伝って、この純白の花テッポウユリはマドンナ・リリーの地位に取って代わることになりました。カノコユリも同じく1692年にマイスターによってヨーロッパに紹介され、シーボルトが持ち帰った球根が1832年に開花し、その華麗な姿が人々を驚かせました。ヤマユリも持ち帰るものの開花せず、ベイチェが1861年にイギリスに球根を送り、開花したのが最初です。ヨーロッパのユリにはない豪華で美しい日本のユリは、人々に驚きと喜びをもって迎え入れられたのです。 その後、さまざまな交配が行われ、第二次世界大戦後になると多くの園芸品種が発表され、ニュージーランド、アメリカ、オランダなどで新品種の育成が盛んに行われています。“カサブランカ”は、ニュージーランドで庭植え用の品種として育成されたものが、オランダから切り花用として売り出された人気の園芸品種です。 現在は、従来の交配による雑種の作出だけでなく、バイオテクノロジーを駆使した、本来タネのできない組み合わせの交配も行われています。