竹林の愚人  WAREHOUSE

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はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語

2007-01-18 22:01:08 | BOOKS
吉田 武 「はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語」 幻冬社新書 2006.11.30.

糸川英夫は中島飛行機で設計グループの中核として活躍。1941年(昭和16年)、一式戦闘機隼がデビュー。零戦の設計者・堀越二郎と共に糸川の名前は広く知られていた。戦前、中島飛行機はドイツからの技術情報を受け、ロケットエンジンも開発していたが、占領軍の徹底的な破壊工作によって、その全ては失われた。ポツダム条約には、日本のあらゆる航空機関連の研究、開発を禁止する条項があった。「生涯を捧げるべく決意した航空機研究」は、糸川から奪われ、占領軍に身辺を徹底的に監視された。1952年、糸川は米国の図書館で『Space Medicine(宇宙医学)』という雑誌を見、「アメリカは人間を宇宙に送り出す」という強い意志を感じた。 ジェットエンジンによる航空機を今さら作っても、米国には勝てない。しかし、ロケット航空機ならまだ米国にも確たるものはない。これなら後発の日本でも勝てるはずだ。ロケット機のアイデが、糸川の脳内に溢れた。そうだ、これなら勝てる。 当初、糸川は、戦中からロケットの液体燃料を研究していた三菱に、その協力を期待したが理解されず、固体燃料の日本油脂が非常に積極的に関わってきてくれた。この事が、我が国の宇宙開発を決定的に方向附けた。 液体と固体、この燃料形式の違いは、ロケット設計の全てを変える。固体燃料は、充填したままで放置出来るので保守もしやすく、ロケットの機構も簡潔になるが、出力の調整が全く出来ない。一旦点火した燃料を消す方法は無く、火力の調整も出来ない。その点、液体燃料はバルブの調整によって、出力を変えることが出来るが、ロケット全体の機構は複雑で、保守も面倒でもある。しかし、糸川には、固体燃料以外に選択肢は無かった。 宇宙の真理を求め、観測の方向性を決める理学者と、観測装置を作り、具体的な物として、それに応える工学者。さらにその物作りを支えている企業の研究者。実際に機械を動かし、道具を駆使して開発の実行部隊となる多くの技術者等々。ロケットを作り、観測装置を設計し、それを運んで、打上げる。理念の提案から実際の打上げまで、全てが一ヶ所で議論され、まとめあげられていく場所は、世界に唯一相模原の宇宙研だけである。世界に数ある研究所の中でも、これほどの総合的なものはない。カッパが本格的な観測ロケットとして、世界が注目する存在となった。これを米国が快く思わなかった。ペンシルロケットの頃、米国は、あたかも子供の成長を見守るような心地であった。しかし、極めて短期間に、高い憧能と高い信頼性を持ったロケットを、廃屋の裏で、まさにタダ同然の予算の中で作り上げてきた、日本の開発陣の能力の高さに、彼等は脅威を感じ始めた。戦中、米軍を苦しめたのは、日本の戦略ではなく、その高度な技術だった。あの悪夢が再び、と感じたのかも知れない。米国は自分達が世界のリーダーであることを強調し、日本の独自開発を切り崩そうと、あらゆるチャンスを窺って、陰に陽にその発言を強めていく。 一方国内でも、こうした動きと連動するかのように、様々な所で様々な立場の人間が、何故か同じ方向性を持って動き出した。 科学技術庁は、1962年(昭和37年)4月に航空宇宙課を設置した。研究体制を整え、「国家としての宇宙開発」に乗り出すべく、1963年8月10日、防衛庁新島試験場でロケットの打上げ実験を開始した。ロケットそのものは委託であり、その全ては三菱重工が開発したもので、液体燃料によるエンジンを搭載していた。関係者のほとんどは、企業からの支援隊であり、自衛官であった。 科技庁の宇宙開発は、糸川らに対する、或いは東京大学に対する、或いは文部省に対するハッキリとした対抗軸として始まった。彼等は一刻も早く、その立場に相応しい優秀なロケットを欲して、その為には米国からの技術移転、技術供与が必要だとした。移転技術は「ブラック・ボックス」として提供され、中身は教えて貰えない。内部は企業秘密、国家秘密で、購入者の方が一言も文句を言えない仕組なのである。彼等もまた、この手法に長く泣かされることになった。 1965年(昭和40年)、朝日新聞の木村繁記者は米国に行き、NASAの施設を見学すると共に、ジェット機の弾道飛行中に生じる無重力状態を体験して記事にした。帰国後、目立った発言をするようになった。雑誌『科学朝日』において、無誘導ロケットを完全否定し、あれでは人工衛星は上げられない、と断言した。1967年3月1日からは朝日新聞の猛烈な反糸川キャンペーンが始まった。3月20日、糸川はアッサリと東京大学教授の職を辞した。これ以後、我が国の宇宙開発史に、糸川英夫の名前が登場することは一切無い。その身の引き方は、余りにも突然で、また余りにも鮮やかであった。 1970年(昭和45年)2月11日、ラムダ4S型5号機が打上げられ、日本初の人工衛星「おおすみ」が誕生した。しかも、ロケットは世界最小、世界一簡便なシステムによる衛星打上げ、というオマケの世界記録まで附いた。 ペンシルを打てば、まるでオモチャだとヤジられた。カッパの性能の高さが世界的に注目され、輸出までされるようになると、武器の輸出ではないか、と国会に呼び出された。慎重に、誠実に取り組んできた漁民との友好関係も、アッという間に破壊され、実験が全く出来ない状態になってしまった。一大学の分際で、国家を代表した気になるなと言われ、「一元化」を迫られた。本来なら堂々と発表するべき人工衛星計画も、出来る限り慎ましく告知しなければならなかった。経理の問題、組織の運営、人間関係、ありとあらゆることを採られ、記事にされた。そして、糸川は宇宙研を去った。 日本が、ソ連、米、仏に次ぐ、世界4番目の衛星自立打上げ国になった、というニュースを、糸川は中東の砂漠をドライブ中に、カー・ラジオで聞いた。走馬燈のように様々な想い出が駆け巡った、涙が止まらなかった。