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竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

郡山古墳 茨木の古墳⑳

2008-04-11 07:08:28 | 史跡
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郡山古墳 郡山2丁目阪急バス下井下車、すぐ。もう一つの馬塚とされる新池西の小高い塚です。
明治12年の郡村村史には「茶臼塚 一名郡氏墓  
天正元年八月二十八日 和田伊賀守・茨木佐渡守等義昭公ノ命ヲ奉シ耳原村ニ陣ス 池田筑後ノ守・荒木信濃守等信長公ノ命ヲ奉ジ郡山村ニ陣ス 此時郡兵太夫ナル者池田氏ニ縁故アルヲ以テ此日ノ先鋒タリシニ軍遂ニ破レ 戦死スル者六十六人此ニ葬ル其墓形タルヘノ字形ヲナス 因テ世人竃塚トモ言フ」とあります。

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神社になっています。

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愛宕大神(あたご)  京都嵯峨清滝 愛宕神社末社。

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日吉大明神(ひえ) 祭神:大山咋神(おおやまくい)、比叡山(日枝・日吉山)延暦寺の守護神。

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六地蔵

馬塚

2008-04-11 06:37:48 | 史跡


馬塚 茨木市郡5丁目12
阪急バス下井下車、徒歩5分。郡小学校の東、郡コミュニティセンターの東隣、郡区画整理1号公園にあります。



鍋をかえしたような土盛りの上にもちの木が1本立っています。かつては周りが田圃で、四方からよく見えて、目印となっていました。



区画整理で当たりは一変しましたが、ここだけは昔のままです。



摂陽群談(1701)に朝鮮出兵の折り、豊臣秀吉の愛馬を葬った所であるとか、明智光秀の馬だったとか記され、大阪府全誌(1922)には、白井河原の合戦のとき、郡兵太夫と家来を葬ったのが茶臼塚で、馬を葬ったのが馬塚だと書かれている。郡小学校の北側が馬塚とする説もあるようです。





南塚古墳 その2

2008-04-10 13:57:03 | 史跡
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[関連したBlog]南塚古墳(みなみつか) 室山1丁目北大阪けいさつ病院の職員の方に案内して頂き、石棺を見ることが出来ました。南向き前方後円墳で、全長50m、後円部径30m。横穴式石室で、玄室は6.4m×2.5mw×2.5mh。4枚の天井石で覆われていた。凝灰岩の組合せ式石棺が2個、T字型に安置されていた。

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昭和52(1977)に石棺のみ移築されました。前棺内法:1.09m×0.8mw×0.71mh。家型の石棺で、石室の主軸に沿って置かれています。

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棺内には水銀朱が塗られ、今でも赤く見えます。

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奥棺内法:1.85m×0.95mw×0.54mh。長持型の石棺。こちらは内側に酸化鉄の朱が塗られていました。

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内部に塗られた赤色顔料の種類や、石棺の形式が違うことから、奥棺を先に埋葬し、その後、前棺を納めた、6世紀の古墳と考えられています。


郡山城跡

2008-04-09 08:38:12 | 史跡


郡山城跡 茨木市郡山1丁目 
郡神社の脇を上がり、左に行くと茨木法務総合庁舎。まっすぐ行くと浪速少年院。かつての郡山城の上に少年院と庁舎が建っています。





浪速少年院 郡山1-10-17
浪速少年院は大正12年に創立、多摩少年院とならぶ我が国初の少年院。1996年に改築。職業訓練を中心とした教育を行う施設です。



城石 少年院のゲート右手に城の石垣に使用されたと思われる石が残っています。案内板によると、三ツ鱗・三ツ星印が刻まれているそうですが、見当たりません。「郡氏由緒書」によれば、高利平太夫(郡兵太夫)は、摂津国高槻城主和田伊賀守につかえ、この郡山城にいて、近郷7か村を支配していたといわれています。



茨木法務総合庁舎 郡山1-11-1
ここには全国に3ヵ所置かれた入国者収容所、西日本入国管理センターがあり、入管法に違反した外国人を収容しています。1995年11月にオープン。



大阪府茨木郡山住宅 新郡山1丁目
新郡山1-9から西一帯が「城の内」で、ここが城の中心となる。門口、山ドイ、物見塚、出シ、二ノ坂、西ノ谷、西ノ町、上ン町、中町、南町、東町などの地名から、郡山全域が城域であったと考えられる。




海軍地下倉庫跡

2008-04-07 20:23:32 | 史跡
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大阪警備府軍需部安威倉庫跡地
筍を盗る者がいるらしく、地主の立ち入り禁止の掲示があり、丘陵脇の道を歩むと、案内標識がありました。

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安威地下トンネル海軍吹田山田倉庫が手狭になったため、安威・桑原に建てられる。本龍寺を本部に、地下トンネル3ヵ所、地上倉庫9棟、兵舎、朝鮮人宿舎、熊谷組事務所などが置かれ、1944年秋から冬にかけてトンネルの掘削が開始された。建設にあたったのは強制連行された朝鮮人だった。

継体天皇陵 陪冢 茨木の古墳⑲

2008-04-07 19:43:26 | 史跡
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継体天皇陵太田茶臼山古墳)陪冢(ばいちょう)茨木市太田3丁目
古墳の被葬者の従者や近親者を葬った小さい古墳で、陪冢を持つスタイルの古墳は三島地区でここだけ。2基の前方後円墳を含め8基あるという。
茶臼山古墳の東側、くすのき公園にあります。



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2つ目の陪冢は少し北の道路に挟まれ、島となって孤立している。



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茶臼山古墳の北西にあるさくら公園に2基並んでいる。

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石山古墳のところに掲載した教育委員会の分布図には5つあるように見えるが、発見できなかった。

石山古墳 茨木の古墳⑱

2008-04-07 13:28:13 | 史跡
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石山古墳(いしやま) 茨木市花園2丁目
まんじゅう型のまるこ山と呼ばれ、古墳として知られていましたが、昭和42年(1967)藤原運輸株式会社が総合ターミナル建設の目的で、附近の耕地と共に買収し、整地作業を開始しました。
この破壊に郷土史家児島武利氏が気づき、茨木市教育委員会に連絡しましたが、職員が駆けつけたときには封土は削平され、完全に破壊されていました。

1961年1969年

急遽、茨木市教育委員会が調査をしましたが、古墳内部は完全に破壊しつくされていました。
工事中に鉄製刀剣類が採集され、移動土中より鉄鋋、鉄、斧頭等を採集し、又トレンチ内より土師器、須恵器の細片、埴輪円筒の細片が出土しました。
その後、藤原運輸は移転。病院がこの地を買収し、昭和61年に再度調査が行われました。
この時の出土遺物は円筒埴輪を中心に形象埴輪と、土師器・須恵器片が10数点、鉄斧1点のみでした。
古墳の規模は径28mの円墳あるいは前方後円墳で、幅10.5mの周濠をもち、その築造時期は5世紀の前半から中頃と考えられ、南に近接する太田茶臼山古墳よりも古いものであることが分かりました。



企業エゴにより貴重な遺跡が失われてしまいました。

鼻摺古墳(耳原方形墳) 茨木の古墳⑰

2008-04-06 18:05:24 | 史跡


鼻摺古墳(はなずり) 茨木市耳原3丁目
耳原古墳の西方200mにあります。



長さ33m、高さ5.5m真四角の方形墳。かつては7m幅の周濠を有していた。







盗掘にあったらしく、石室も副葬品も発見されず。須恵器の破片から、6~7世紀の古墳と考えられている。



墳丘の脇に置かれた石室は、耳原西遺跡のものと思われます。



耳原西遺跡①  ②耳原古墳と③鼻摺古墳の間にありました。


耳原古墳 茨木の古墳 16

2008-04-06 17:53:23 | 史跡


耳原古墳(みのはらこふん) 茨木市耳原3-2
阪急バス耳原下車、北に少し進むと、西側にテイジン大阪研究センター。
ゲートで古墳見学を申し出、手渡された案内図に従い、研究棟を大きく迂回して建物西側の古墳に進む。



もとは径23m、高さ8mの円墳です。



石室は花崗岩で矩形に造られている。玄室は6.8m×2.4mw×3.3m。羨道7m×1.7mw×1.7mh。



細長い玄室に形式の異なる2個の石棺が安置されています。