竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

太田茶臼山古墳 茨木の古墳⑲

2008-03-31 18:25:15 | 史跡

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茨木市には古墳が結構あります。太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)の後円部を囲むように、宮内庁が継体天皇陪冢とする墳墓が数箇所あります。

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西国街道に面して、宮内庁の高札が掲げられています。それによると、「繼體天皇 三嶋藍野陵」とあります。

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拝所までの参道は綺麗に整備されています。

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拝所。天皇の御陵としての格式を感じます。

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古墳を望む。
『延喜式』に「三島藍野陵、磐余玉穂宮御字継体天皇、在摂津国島上郡」と、所在地を島上郡としており、
島下郡にある茶臼山を継体陵に比定するのはおかしいと天坊幸彦氏が指摘。
今日では島上郡(現・高槻市)の今城塚古墳が継体陵であるというのが定説となっています。


木の国ニッポン

2008-03-31 07:29:57 | BOOKS
鈴木啓三 「木の国ニッポン 木と森がもつかけがえのない働き」 グラフ社 2008.01.10. 

日本は木材消費大国で、平成17年に8,700万m3の木材が毎年供給されています。その消費される木材の8割が輸入したものなので、欧米諸国からは貿易上の不均衡の問題や開発途上国の環境破壊の問題とからめて批難されています。 地球上の森林面積は減少の一途をたどり、アジア・太平洋地域では、現在の森林の半分が失われる、と予測されています。その原因は国全体が貧しく、植林を行う余裕がない一方で、燃料として、また焼畑農業によって、樹木の生育する環境を破壊している状態です。「富める北」と「貧困の南」の南北問題が、地球の緑という全世界の環境問題に立ちはだかってきたわけです。 日本は木材輸入大国ですが、ミズナラ(ブナ科ナラ属)はインチ材として北海道産を主体に、イギリス、ベルギー、スウェーデン、オランダ、ノルウェー、デンマーク、フィンランド、西ドイツ、アメリカ、韓国、台湾など12か国以上に輸出されています。ビールやウイスキー、ブランデーなどの樽材。装飾用材のドアや手すりに、内装用の合板。それに家具です。北欧特有の白木玩具にも日本産のナラ材が多く使われています。ミズナラの木肌に表われる柾目の斑である「虎斑」「牡丹斑」などの紋様は、世界にも「ジャパニーズオーク」として珍重され、オークの主産地であるアメリカやカナダ、ユーゴスラビア、ポーランドなどのものにもヒケをとりません。 日本は"森林の王国"といってもよい国で、世界平均の約2倍の降水量と高温多湿な気候は、森林の生育に最も適した条件です。日本の国土に占める森林面積が67%と、全世界の森林面積比率(30%)の倍以上もあり、また、日本の人工林率は45%近くで世界一です。それなのに、どうしても木材の輸入が必要です。 なぜかというと、全森林の51%が伐ってはいけない制限林(山崩れを防いだり、水源滴養林)で、全体の木材生産力が決して高いとはいえないからです。 また、過去に過伐の歴史があり、その後植林した人工林もまだ幼く、伐採期に達していないからです。 つまり、私たち日本人は、世界の緑の保持のためばかりでなく、自国のためにも、森林資源の節約を心がけなくてはなりません。個人段階では木や紙製品のムダ使いを減らすこと。大きな規模では植林・林業技術の技術輸出です。日本の技術力は抜群で、技術協力の効果はたいへん大きいのです。たとえば砂漠に木を植える技術などもその1つです。

鉄腕アトムを救った男

2008-03-30 05:40:38 | BOOKS
巽 尚之 「鉄腕アトムを救った男」 実業之日本社 2004.11.15. 

虫プロには、アニメ1本を作るのに綿密な原価計算をした上で、採算をはじく“番頭さん”が不在だった。昭和48(1973)年8月、キャラクター商品を扱う虫プロ商事が倒産、続いて11月には虫プロが、負債約4億円を抱えて倒産した。 虫プロダクションの倒産という、手塚治虫の人生最大の危機を、精神面でも物質面でも支えたのが葛西健蔵だった。従業員60人ほどの乳母車などを卸す典型的な大阪の小企業の創業社長、現在のアップリカ葛西会長だ。 葛西は手塚に代わって、債権者の矢面にたった。手塚は葛西の献身的な助力を得て倒産騒動から立ち直り、その交流がのちに異色作『どついたれ』に結実する。 『どついたれ』の連載は「週刊ヤングジャンプ」の創刊号、昭和54(1979)年6月7日号からスタートし、第1部は同年12月20日号まで続いた。舞台は大阪、戦後の混乱期。 第1部に登場する八尾の「ヒロやん」と河内の「トモやん」は、あるときはともに悪事を催いて警察に追われ、またあるときは庶民のために一肌脱ぐなど、義侠心の強いヤクザもののコンビとして登場し、波乱万丈の人生模様をユーモラスに繰り広げる。第2部は戦争孤児の「哲」が主人公で、「葛城健二」の会社の創業を手伝うという展開をたどるが、結局、連載は昭和55年(1980)11月20号で、未完のまま幕を閉じる。 『どついたれ』の主人公になった広瀬昭夫、津田友一、そして自ら登場人物であるとともに原作者である手塚自身も、昭和50年代から60年代にかけて相ついで逝った。 不条理が通る世の中で虐げられて苦しみ、ときにはとんでもないハプニングを巻き起こしながらも、「いまに見とれぇ」という持ち前の負けん気をバネに生き抜いた広瀬と津田。そして、広瀬や津田の歩んだ軌跡と同じ大地に立ち、人々が貧苦にあえぐ戦後ニッポンの風景を心に焼きつけ、作品に昇華させた手塚。 絶体絶命のピンチに陥った天才漫画家の手塚を、その窮地から精神的に救い出すことができたのは、広瀬も津田も葛西も、手塚と同じ風景を見て育った、いわば「同士」だったからではなかったか。

水道記念館

2008-03-29 18:47:42 | SIGHT
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大阪市の柴島浄水場にある水道記念館に行きました。
大正3年の、赤レンガと御影石の第一配水ポンプ場を保存し、記念館として活用しています。

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記念館は北側が淡水魚水族館で、琵琶湖と淀川水系の魚が展示されています。

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イタセンパラ 上からのショットで、細身に写っています。

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南側の水の博物館にはどぶ板長屋に水売り屋が来ていました。

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浄水場の高度処理水で点てたグリーンティを頂きました。

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水道記念館の裏には淡水魚飼育研究棟があります。

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研究棟内は水槽がぎっしり。

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ムクドリ 広い浄水場内には桜が多く植えられ、例年、「桜並木通り抜け」で近隣に親しまれています。

地域の力

2008-03-29 07:04:19 | BOOKS
大江正章 「地域の力」 岩波新書 2008.02.20. 

中心市街地や古い商店街のさびれようは、都市・地方を問わず深刻だ。多くの場合、買い物に来てほしい商店街と買い物に行く市民の利害は一致しない。魅力ある商品がないから買いに行かないし、そもそも関心がないという市民も少なくない。 JR常磐線亀有駅から歩いて10分弱。東京都足立区の東和銀座商店街(アモール東和)の最盛期は70年代。人をぬって歩かなければならず、自転車では通れないほどの賑わいだったという。当時は101軒あったが、商店街80年代前半に次々とスーパーが進出し、売上げは半分以下になっていく。いまでは65軒程度だ。 89年に商店街の近くに東部地域病院が開設されるとき、振興組合理事長を務める田中武夫がその売店の出店に手を上げ、賛同者41人と株式会社アモールトーワを設立した。 これを皮切りに、病院のレストラン経営、学校給食の受託、高齢者への弁当宅配、大型スーパーの清掃事業、廃業した魚屋の経営などを行なってきた。どれも、責任者は本業と二足のわらじである。いま学校給食はお茶屋さんが、宅配は花屋さんが、レストラン・売店はレコード屋さんが担っている。宅配やレストランの食材は基本的に商店街で、正価で買う。パートで働く人は約200人、2005年度の売上げは4億8,000万円だ。2003年からは空き店舗を利用して学童保育も始めた。 こうしたつながりがあれば、子どもに携帯電話や安全確認のベルを持たせたりする必要はない。究極の安全策である。 田中は、まちをよくするのは商店街の義務であると語る。「商店街はまちに根を張っている植物で、大型店やチェーン店は獲物を求めて生きる動物です。動物が来て、食い荒らし、植物を枯らして去っていけば、まちは荒廃します。でも、植物が自分の役割をきちんと果たし、林や森をつくっていけば、まちは残れるでしょう。」 実際、ジャスコを見れば明らかなように、彼らは創業の地でさえ意に介さず撤退する。そうした大型店への規制が諸外国と比べて著しく弱い日本では、植物が生き残るのは容易ではない。それでも、地域に貢献する店であれば、お客はつくというのが、田中の信念だ。そのためには、大型店やコンビニのせいにするのではなく、お客のための商売をしなければならない。だから、田中は朝の9時から夜の8時まで店を開けている。休みは元日だけだ。 特別な知識や資金がなくても、人とまちを愛する人間の熱意と、それを支える人材や仕組みが存在すれば、地域は元気になる。 大規模スーパーもコンビニもファストフード店も、生命と生活への配慮に欠けてきたし、今後もたいして変わらないだろう。その意味で、それぞれの店には、素材の安全性へのこだわりや使い勝手、さらには地場産素材の使用率拡大などへの一層の配慮が求められる。 そうすれば、地域に生き、地域を活かす商業の存在価値は高まり、コミュニティ・ビジネスとして生活者からの応援を得られるにちがいない。

美術の核心

2008-03-28 07:44:59 | BOOKS
千住 博 「美術の核心」 文春新書 2008.01.20. 

アメリカの美術館においてひときわ目に付く質の高いものが印象派の作品です。20世紀初頭のアメリカ人が共感をおぼえ、かつ比較的容易に入手できる作品が印象派の作品だったのです。当時、印象派はまだ必ずしもヨーロッパの画壇中心部から評価を受けているわけではなく、評価も定まっていなかったのです。ですから良い目を持っているコレクターや画商は、その画家の代表作を初公開と同時に手に入れられました。現在、アメリカの主要な美術館を廻ると、印象派の画家の代表作が相当数アメリカにあることに驚かされます。 アメリカ人が印象派を好む理由の一には、アメリカの文化人にはアンチヨーロッパ的意識があるということです。ヨーロッパで価値があるとされる金や絢欄たるブルジョワ趣味に対するアメリカ文化人たちのある種の醒めた視点やアイロニカルな意識は、今日の現代アート、現代文学にまで及ぶ一つの傾向です。その流れともあいまって、普通の何気ない人々や風物に目を向けた印象派にとても親しみをおぼえ、共鳴したのです。 貴族の肖像や天使が空を飛んでいる歴史画は、あこがれはしても、苛酷な労働に明け暮れながら新大陸で暮らしていくには何の役にも立ちません。光や風の肌ざわりを感じ、草のこすれるにおいをかぎながら生活し、苦労して成功した彼らだからこそ、印象派の描く世界観は、リアリティーある理想そのものとして、理屈を超えて受け入れられたのです。 印象派は自分たちの新しい世界の代弁者だったのでしょう。 特に移民として新大陸に渡ったアメリカ人にとっては、自分たちの力で切り拓いた新しい世界こそが開拓時代の真実ですし、その時、目の前に広がっていた光と希望あふれる風景こそが、印象派の世界だったのです。まさに両者は同時代に響き合う形で存在していたと言えるのです。 アメリカを旅することがあれば、ぜひとも美術館を廻ってアメリカ建国200年の激動の歴史と、その時ヨーロッパで描かれていた現代アート、つまり印象派の画家たちの精神との共通項に思いをはせ、印象派の名作の数々にふれていただきたいものです。

京都南座物語

2008-03-27 06:46:10 | BOOKS
宮辻政夫 「京都南座物語」 毎日新聞社 2007.06.30. 

南座は、京都の四条大橋東話に建っている、日本最古の劇場である。鉄筋コンクリート4階建て、客席は3階まであり計1,086席。日本で最初に公許された「7つの櫓」の1つとして、南座が歴史に現れる最初が元和年間(1615~1624)である。つまり歌舞伎の発生(1603年)直後から、歌舞伎を上演してきた最古の劇場でもある。以来400年近く、改築を重ねながら、同じ場所で劇場として存在し続けてきた。このような劇場は、日本で唯一つ、南座だけである。 お国が演じた「かぶき踊り」は当時のレビューだったが、多くは売春と結びつき、女歌舞伎は風俗を乱すという理由で1629(寛永6)年に禁止され、代わって人気を集めたのが美少年レビュー、若衆歌舞伎だった。舞台が終わってから出演者の美少年たちを屋敷の宴席へ呼ぶ大名もいて、大名や旗本の間に同性愛が流行し、若衆歌舞伎は1652(承応元)年、禁止されてしまう。以後、大人の男だけで上演する「野郎歌舞伎」が始まった。今の歌舞伎の原形である。 「」。江戸時代の役者のもう一つの呼び名である。芝居や役者は、庶民の憧れの世界だったが、身分は「士農工商」の下に置かれた「制外者」。社会の仲間に入れてもらえない者達だった。 元和年間(1615~24)、7つの櫓(公許の劇場)が出来て始まった芝居町も、その櫓の数が次第に減っていった。坂田藤十郎らが活躍した、京の歌舞伎の全盛期、元禄年間(1688~1704)にはまだ7軒あったが、少なくとも1716(正徳6)年には6軒になったようだ。 大和大路の浄瑠璃の宇治加賀操の芝居小屋だった劇場は1740(元文5)年に廃絶。翌1741(寛保元)年11月、大火があり、大和大路のもう1軒も焼失し、南側芝居に3軒あった劇場も、最西端の劇場だけになってしまった。これが現在の南座である。 文化・文政時代(1804~1830)には南側芝居と北側西芝居の2軒だけとなり、それぞれ「南側の芝居」「北側の芝居」と改称された。 京の政治・経済的地位の低下により、宝暦年間前後から上方の演劇界の中心は、京から大坂へ移り、京の芝居町は幕末の激動から「明治」を迎える。

学校給食食べ歩記 1

2008-03-26 08:26:54 | BOOKS
吉原ひろこ 「吉原ひろこの学校給食食べ歩記 1」 サテマガ・ビー・アイ 2007.08.31. 

今、日本全国では、3万校を超える小中学校で学校給食が実施されています。 「学校給食 食べ歩き」を始めた頃はまだ食育はおろか、学校給食はあまり注目を浴びてもいませんでした。スポットが当たるときと言えば、0157や食中毒やBSEなど、気の毒なほどマイナーな話題ばかり。 業界誌などは別として、学校給食の目覚しい進化や心温まるエピソード、そこで繰り広げられる人間模様について、一般の人が親しめる情報はほとんどありませんでした。だから、食べ歩きの話を聞いた人たちからは、「すごくおもしろいなぁ」と、思わぬ反応が返ってきました。 学校給食はもちろん学校教育の一環です。 その学校給食は、一見、学校の中でだけのことのように思われがちですが、それを取り巻く一連のつながりを、「学校給食をめぐるパイプライン」として表してみると、実はいろいろな人が幅広くかかわって動いていることがわかります。 最近の子どもたちの「食」事情を検証してみると、栄養バランスは学校給食頼み、伝統食や家庭で作らないものについての食経験は学校給食で、といった新しい社会現象が生まれてきているのが現実です。 艮きにつけ、悪しきにつけ、学校給食が子どもの食生活にかかわって、頼りにされていること、そして大きな存在になりつつあることは、まぎれのない事実なのです。


ホントは知らない日本料理の常識・非常識

2008-03-25 04:58:05 | BOOKS
村田吉弘 「ホントは知らない日本料理の常識・非常識」 柴田書店 2007.07.20. 

世界の日本料理に対する注目度は、今、過去最高に高まっている。クリームもバターもオイルも使わずにおおかたの料理を作ることができる国は、世界中で日本だけ。それに加えて少量多品目で、食物繊維が多い。850キロカロリー程度の会席のコース料理で、味的にも量的にも満足できて、視覚的にも十分に楽しめる。そういう意味で、世界中で日本料理が注目されるのはあたりまえや。 最近、予約のとれない店が何かとマスコミに取り上げられるが、これはようよう注意せなあかん。 日本料理屋なんて、単体ではほんまになかなか儲かる商売やない。4割、5割の原価率をかけんと勝ち抜いていかれへん時代が、もうすぐそこまで来てる。 今、京都の祇園あたりの小規模な店では、8000円とか1万円とかで夜の会席を売ってる。原価率なんか5割以上。1人か2人若い子を使いながら、主人が自分で朝から買出しに行って、昼も夜も営業して、朝から晩までへとへとになって働いて。やってもやっても利益の出えへん構造を自分で作ってしもうて、「主人より若いやつらのほうが給料ええんですわ」てなことを自慢気に言うとる。 そら、お客さんにとってはえらいお値打ちで、評判になって、満席で、予約がとれん。でもそういう人気はいつか必ず落ちる。上った階段は必ず降りんなん時が来る。それにだんだん店も老朽化してくる。その時に、利益構造がちゃんとできてなかったらアウトやね。修繕したり改装したりする設備投資もままならんと、先の展望のないマイナスのスパイラルに入っていってしまうわけや。 飽食の限りを尽くし、肥満やら動脈硬化やらの生活習慣病を心配する現代人にとって「見習うべきは日本料理」が常識になってきている。 今、日本料理を勉強している若者たちは、世界中で働けるチャンスがあると思う。世界中でシェフになれる可能性がある。そやから、日本料理の技術と知識をしっかり身につけて、日本人として恥ずかしいないように、胸を張って世界に羽ばたいてほしい。