スザンヌ・ムーア 「神々のハワイ」 早川書房 2004.08.20.
1820年から44年にかけてアメリカからキリスト教の布教のために12回にわたって宣教団が異教徒の魂を救うため、この太平洋の真ん中の孤立した火山列島にやってきた。彼ら[宣教師]は布教にもカナカの文明化にも成功し、カナカは2世代か3世代あとになると事実上絶滅してしまった。これは福音の種、宣教師のまいた種が実を結んだものだが、その結果として宣教師たちの子供たちの代になると、無邪気なほど物惜しみしないハワイ人から島そのものを占有し、土地も、港も、町も、さとうきび農園もわがものにした。ハワイ人は根っから怠惰だと思われていたため、農作業の人手か足りなくなり、労働力を海外から導入した。最初は中国人、のちに日本人(1885年)、スペイン人(1898年)、プエルトリコ人(1900年)、フィリピン人(1907年)が収容施設に寝泊りして農作業に従事するようになった。こうしてハワイは移民の国になった 伝道師の影響力はあまりに大きすぎた。1959年の統計によると、ハワイの総出生数は17,050人、うち白人は4,673人、純血のハワイ人は114人だった。
1946年生まれの著者は、けっして上流を鼻にかけた人種差別社会の側にいたわけではないが、1970年代にピンクのギンガムのビキニを着た日本人の娘たちがマカブウ・ビーチにくりだすようになると、誰もが自由であるべきだと思いながら、一方で相反する気持ちをどうしても抱いてしまう。と正直に告白する。 無意識の人種差別はそうとうあったが、ハワイ人に向けられたものではなかった。どのみちわたしたちは彼らに近づけるものとは思っていなかった。会員制のクラブばかりでなく特定の地域からも非ハオレを締めだす規則や条例を認めていた。たとえばダイヤモンドヘッドやカハラといった一等地に住めるのもハオレだけだった。
1820年から44年にかけてアメリカからキリスト教の布教のために12回にわたって宣教団が異教徒の魂を救うため、この太平洋の真ん中の孤立した火山列島にやってきた。彼ら[宣教師]は布教にもカナカの文明化にも成功し、カナカは2世代か3世代あとになると事実上絶滅してしまった。これは福音の種、宣教師のまいた種が実を結んだものだが、その結果として宣教師たちの子供たちの代になると、無邪気なほど物惜しみしないハワイ人から島そのものを占有し、土地も、港も、町も、さとうきび農園もわがものにした。ハワイ人は根っから怠惰だと思われていたため、農作業の人手か足りなくなり、労働力を海外から導入した。最初は中国人、のちに日本人(1885年)、スペイン人(1898年)、プエルトリコ人(1900年)、フィリピン人(1907年)が収容施設に寝泊りして農作業に従事するようになった。こうしてハワイは移民の国になった 伝道師の影響力はあまりに大きすぎた。1959年の統計によると、ハワイの総出生数は17,050人、うち白人は4,673人、純血のハワイ人は114人だった。
1946年生まれの著者は、けっして上流を鼻にかけた人種差別社会の側にいたわけではないが、1970年代にピンクのギンガムのビキニを着た日本人の娘たちがマカブウ・ビーチにくりだすようになると、誰もが自由であるべきだと思いながら、一方で相反する気持ちをどうしても抱いてしまう。と正直に告白する。 無意識の人種差別はそうとうあったが、ハワイ人に向けられたものではなかった。どのみちわたしたちは彼らに近づけるものとは思っていなかった。会員制のクラブばかりでなく特定の地域からも非ハオレを締めだす規則や条例を認めていた。たとえばダイヤモンドヘッドやカハラといった一等地に住めるのもハオレだけだった。