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「開発」の変容と地域文化

2007-01-19 22:20:21 | BOOKS
大門正克 「開発」の変容と地域文化 青弓社 2006.10.07.

高度経済成長期とは1955年から72年までの17年間をさす。年平均で10%以上の高い経済成長率が続き、この時代を通じて日本の社会は根本的に変わった。60年に首相になった池田隼人は、60年の所得倍増計画、61年の農業基本法、62年の全国総合開発計画(全総)。この3つの政策を通して農業を近代化して農村を変えるというバラ色の将来像を描いた。いわゆる農業近代化路線である。 政府の農業近代化路線には3つの内容が含まれていた。1つに、工業化の進展によって農村に滞留している過剰な労働力が流出すると考えた。離農した人の土地を集めて規模を拡大すれば、農業経営は合理的になり、農産物価格を引き下げることができる。2つ目には、都市の消費者の所得が上昇するだろう。そうすれば、農産物への需要が増大し、米以外の疏菜や果樹、畜産の需要が増大し、農家は複合農業経営に変わって豊かになる。3番目は農業技術の高度化である。農業の機械化が進み、農薬や化学肥料によって生産力が上がり、少ない人数で規模を拡大して農業経営を多角化できる。こうして農業は近代化するに違いないと政府は考えたわけである。 確かに農村の人々が大都市、地方都市に向けて大量に流出した。しかし、土地に対する農民の所有意識は非常に強く、複合経営は必ずしも容易でなく、規模の大きな安定的農家が多数出現するには至らなかった。機械化はかなり早いピッチで進んだが、機械化のための借金を返すために人が出ていかなくてはいけない。そのため、できるだけ機械化によって省力化し、稲作だけを残した兼業農家が多くなった。農薬や化学肥料は確かに多労を改善する効果はあったが、そこから連作障害が起きることもあった。都市には多くの人々が集まり、過密問題がいわれるようになった。その後、人口が減少した農村については過疎ということがいわれるようになった。1960年代前半までは、農業の機械化や化学化、あるいは共同化といった新しい方式を試みる機運もあった。この機運は、都市での生活水準が上がっていくなかで、農村の古い生活スタイルを変えていきたい、生活水準を上昇させたいといった願望と一体であった。機械化や化学化・共同化は、農家の比較的若い人たちが率先して取り組む傾向にあった。 当時の農村の資料を見ると、頑固なオヤジと機械化を熱望する青年という図式がしばしば登場する。親子関係や父子関係の対立を乗り越えて、若い人たちが機械化や化学化・共同化に取り組むという話である。頑固と描かれた父親は、いまでいえば有機農業を実践していることになる。土地がもっている自然の治癒力や経験、カソとコツを生かそうとしたのだが、当時はカンとコツが古いものとして排斥され、新しい技術や機械の導入が優先されたわけである。しかし自給率の低下や経営規模の限界などで、化学化や機械化によっても農業経営は好転しない。とくに機械化の場合には借金の負担が大きかった。他方で農村でも生活革命が進行し、都市的な生活スタイルが基準になっていく。また都市の生活スタイルを望んで都市へ流出する人々の流れは止まらず、農村では高齢化が進行していく。過疎化の背景にはこのような農村側の意向もあった。

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