パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

公平な報道と批判の目

2016年01月11日 08時13分40秒 | Weblog

先日(1月9日)の中日新聞に「今こそ希望を語る」のタイトルで
芥川賞作家中村文則氏のインタビュー記事が載っていた

とても興味深い内容だが、その最初にメディアについてサラッと述べている部分がある

「政府のへの賛成意見と反対意見の両方を紹介しなくちゃいけない先進国なんて考えられない。
 政府は権力なんだから、メディアは常に批判の目を向けないといけない。それでバランスがとれる。
  なのに、「反対意見ばかり報じるのは公平ではない」「放送法違反だ」とメディアの本質的な役割を
  考えない人がいる。世の中がおかしくなってきている」

これは安保法に対する報道の部分だが、常々「実質的な公平」とは何か
と考えざるを得ない状態に身をおく立場の人間として(少し大げさか?)
この指摘は大いに賛同できる

話が政府まで大きくならないでも、一地方自治体でもメディアの公平性を
考えることがある 
政府は権力なんだからの言葉は、自治体に置き換えると
 市長は権力なんだからとなる
そして実際のところ
市長(市)からのニュースの提供は、そのまま報道される
市長あるいは市が発表したこととして

しかし、その発表したことに間違いや勘違いを起こさせるような内容があった場合
メディアは内容についてしっかりした知識が無いと鵜呑みにするだけとなる
そして結果的に、その報道された内容が不確かなものであっても
市長や行政が発表したことには変わりなく
一般の人は報道されたことを信じるしかないのが現実だ

市長が発表した内容は「市民に誤解を招く言い方}をしていても
それを指摘し発表し、それを広めるには口づて、独自の媒体を使い
自らの力で行うしかない

この部分にいつも不公平感を感じる

新城市の庁舎見直しについて、市側は一般市民にポツンポツンと
記者発表をして経過報告をしている
普通の人はそれで経過報告を知る
しかし、庁舎問題の市側に見直しを求める側は
経過報告をポツンポツンどころか頻繁にしており
それを自前の媒体とイベント(集会)で行っている
でもメディアの報道はない
またあったとしても市の発表するくらいの
内容の詳しいところまでは行かない

政府は権力なんだから、
という部分を実感するところ

やはりメディアに批判の目を求めるのが
正常だし、そのほうが全体として公平なのではないか
と思ったりする
媒体の方々は、伝えるテクニックだけでなく
伝える内容の本質、問題点を自分で理解して批判の目で
捉えてくれないかな 

朝っぱらから愚痴になってしまった
いかん、いかん! 

追加 一旦アップしてからいろいろ見てたらこんなのが見つかった

報道倫理 ウィキペディアから
客観報道  抜粋

客観報道は、現代ジャーナリズムの基本原則となっている[20]。客観報道は多くの場合、1,報道事実を曲げずに描写すること(事実性原則)、2,報道する者の意見を含まないこと(没論評原則)、3,意見が分かれる事柄は一方の意見に偏らず報道すること(不偏不党原則)と定義づけられる[21]。客観報道を実現するために、記者と編集者は、1,事実を十分集めたか、2,事実の裏付けはしたか、3,偏った立場から見ていないか4,当初の仮説に合わない事実があれば、ストーリーを変更する柔軟さを持っているか、5,記事の客観性を組織として確認しているかを確認することが求められている[22]

官庁や捜査機関の発表を、発表したという事実としてのみ報道する安易な客観報道は、十分な裏付けを行わなければ「発表報道」に陥る危険がある。原寿雄は、発言者の世論操作や宣伝に利用される可能性を指摘している[† 8][23]

 発表報道が客観報道とされていないか
残念ながら、そうなっていると実感する 

 



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