Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

宇田鋼之介監督作品『虹色ほたる~永遠の夏休み~』感想

2012年06月03日 | アニメ
東映アニメーションの新作『虹色ほたる』を見てきました。

実は絵柄や登場人物が完全な子ども向けに見えたので、見に行く予定はなかったんですが、
ちょうど深夜に再放送があった宇田鋼之介監督のTVシリーズ『銀河へキックオフ!!』を
たまたま見て、そのテンポのよさと演出センスにハートを鷲づかみにされてしまいました。

この監督の作る劇場作品なら、かなり期待できるんじゃないかなーという気持ちが高まったところへ、
twitterに『マイマイ新子と千年の魔法』のファン仲間から寄せられた賞賛の声が続々と到着。

やっぱりこれは見るべき作品かも・・・とあわてて上映館を探したのですが、近所では上映してないし、
一番近い上映館でも1日1回のみ、しかも近々終了とか。
ネット上で良い評判が続々と出ている最中だというのに、それが世間に広まる前に興行を打ち切られる
映画界のシビアな現状を、痛いほど思い知らされました。

ようやく見つけた劇場で『虹色ほたる』を観た感想ですが・・・とにかくおもしろかった!
“こどもの世界”を生き生きと描いている点で、先に観ていた『ももへの手紙』よりも、
自分にとってはしっくりくる感じでした。

個性的な作画にばかり話題が集中してますが、物語自体はとてもわかりやすい、実に普遍的なもの。
しかし、それを緻密に組み上げられた設定と繊細な演出、そして優れた美術で支えることによって、
他とは違った独自の良さを生み出したのが『虹色ほたる』という作品です。

とにかく見どころが多いので、映像と物語に分けて紹介してみましょう。

まずは、映像の持つ魅力について。
筆描きのように強弱があって、関節部で途切れる線で描かれた動画には確かにクセがありますが、
この線はどこかで見た気がする・・・と思ったら、日本の絵巻物の描線によく似ています。
(絵巻物との類似については、twitter経由で評論家の永瀬唯氏からもご教示いただきました。)

とりわけこれを強く感じたのは、ヒロインのさえ子たちが浴衣を着ている場面。
和服が作るひだや身体のラインが、柔らかい線で美しく表現されています。

絵巻物の異時同図法が、日本アニメに影響を与えている・・・という意見への賛否はさておき、
『虹色ほたる』がこうした発想に自覚的な作品だとすれば、欧米的な作画とは違う表現への
ひとつの試みとしても、高く評価できるのではないでしょうか。

一方で、雨や日差しの描写は、欧米の個人製作アニメを思わせるような手描き表現によって、
それ自体が生き物のように脈動しています。
このへんは、ノルシュテインやフレデリック・バックの作品を観たことのある人なら
「あ、こういうの好きだなぁ」と思うはず。

さらに背景も実に多彩で、印象派的な強いハイライト表現や水墨画を思わせる夜の描写など、
美術好きならハッとする表現がいくつも見られます。
特に山中や切り株の描写には、ワイエスや犬塚勉のような写実作家の作品を思い出しました。

とまあ、アニメに限らず多種多様な映像表現を、それこそ貪欲なまでに盛り込んでいるのが、
『虹色ほたる』という作品なのです。


映像の魅力ばかり書くと、いかにも「作画アニメ」のように思われそうなので、続いては
物語の魅力についてご紹介します。

詳しいあらすじは公式サイトを見ていただくとして、要はみんなが好きな定番ストーリーである
「タイムリープ+ボーイ・ミーツ・ガール」ですから、見ていて特に悩むこともありません。
むしろ同種作品の先輩であり、いまやこのジャンルの代名詞ともいえる『時をかける少女』よりも、
さらにストレートで純粋な「小さな恋の物語」という感じ。

しかしその定番の恋物語の中に、様々なひねりや仕掛けが施されていて、それに気づいた瞬間に
物語の見え方が劇的に変わったり、キャラクターの感情により深く共感できる・・・というのが、
この『虹色ほたる』の、一筋縄ではいかないところでしょう。
小道具やセリフにも多くのヒントが隠されていたり、小さなしぐさに重要な意味を持たせたりと、
観るたびに新たな発見があります。

さらに「過去と未来」「大人と子供」といった対比や、同じ風景を時代ごとに描き分けることで
変わるものと変わらないものを暗示するなど、様々な部分に作り手の意図が読み取れますから、
普通に映画が好きな大人の観客が見ても、十分以上に楽しめると思います。

さて、既に何度も『虹色ほたる』を観ている人には無粋な話かもしれませんが、
作品に込められたテーマ性の部分についても、少々触れてみます。

『虹色ほたる』の舞台となっている深山井は、間もなくダムの底に沈むという設定です。
ここは確かに、子供時代や古きよき時代を思い出させる懐かしい場所として描かれていますが、
一方では「近いうちに確実に失われる」ということが明らかな場所でもあります。
つまり、深山井は誰しも失ってしまう少年時代そのものであり、さらには私たちが便利さや
経済成長を求めるあまり、水中(そして記憶の底)へと沈めてきた、日本の原風景なのです。

だから、失ったものにノスタルジーを感じるだけではなく、自分たちの選んだ「現在」への
忘れがたいステップとして受け止めながら、今ある「現在」を生きなくてはならない・・・。
それこそ『虹色ほたる』という作品が、最後に伝えたかったことではないでしょうか。

これを強調しようとするあまり、最後にいわずもがなのメッセージが示されるのはやや興ざめですが、
それが『虹色ほたる』を単なる懐古趣味と思われたくないスタッフからの意思表示であるとすれば、
その思いを否定したくはない・・・という気持ちもあります。
まあ、あれがなくても十分に伝わってますよ・・・とだけは、あえて言わせてもらいますけどね(^^;。

劇中でもうひとつ、作り手側の思いがあふれ出してしまったところを挙げるとすれば、やっぱり
「灯篭まつりでの疾走シーン」でしょう。
ここでは作画がリアリズムに傾斜するあまり、それまでのキャラデザインを完全に無視していて、
これはさすがにやり過ぎだし、あとで作画崩壊とか言われそうだな・・・とも思いました。

全体の整合性を考えれば、あのシーンは確かに暴走だと思います。
しかしこれを、慎重に組み立てられたそれまでの枠組みから噴出してしまった「抑え切れない衝動」と
捉えるなら、これもまた『虹色ほたる』という作品の個性なのでしょう。


そして『虹色ほたる』の興行的な苦戦と、『マイマイ新子と千年の魔法』の時にも繰り返し言われた
「この作品は、どの客層を狙って作られているのか」という意見を目にするたびに思うこと。
それは、実写映画では子どもを主役にした「一般向け映画」の傑作が山ほどあるのに、アニメの場合は
なぜそういう見方をされないのか?という悔しさです。

・・・これこそ、アニメという表現に対して誰もが持つ「先入観」の、典型的な事例ではないでしょうか。

確かに、自分も「子ども向け作品だから」という理由で観てない作品は、たくさんあります。
でも、実際にその作品を観て、自分が感動した後なら、その時にはもう「客層」とか関係ないし、
ましてや「大人が泣ける児童アニメ」というレッテルすら不要なはず。
そのときは普通に「少年少女が主人公の、一般映画の良作」という認識を持って、その作品に
どんな魅力があるかを、その人なりの表現で語ってみせればよいと思います。

これはアニメファンに限らず、特に配給会社の宣伝部門にも、きちんと考えて欲しいところ。
そして、アニメ作品の売り方や媒体への露出方法について、もっと真剣に取り組んでいただきたいです。

・・・こうした考え方が当たり前になった時、ようやくアニメは本物の「文化」になれるのかもしれません。
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