Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

『魔法少女まどか☆マギカ』とうとう見てしまった

2011年06月26日 | アニメ
ウワサの『魔法少女まどか☆マギカ』、ニコニコ動画の一挙放送でついに全話見てしまいした。

どーもあのキャラの絵柄と「魔法少女」ってのが自分にあわなくて敬遠してましたが、ちゃんと見てみれば
世間で高く評価されてるのも納得のデキですね。
しかし劇団イヌカレーの絵って、めちゃくちゃシュヴァンクマイエルっぽいよなぁ・・・。

(以後、けっこうネタばれしてます。作品を未見の方は要注意!)

アニメって節目節目の時期に実験的作品が出てるので、映像面のすごさや新しさなどはそれほど感じませんが、
むしろ短い話数でコンパクトにまとめ、かつ伏線を最大限回収した構成のうまさには参りました。
ただし「魔法少女」を「極道」に置き換えて考えてみると、魔法少女が守る地域の安全とかシマ争いの構図は
まさに虚淵玄の得意とするダークな裏社会モノ(笑)という気もしますけどね。
特に杏子の序盤での振る舞いなどは、その典型だと言えるでしょう。
あと、終盤の決戦に関しては、戦闘シーンも含めて「魔法少女らしさ」がかなり薄かった気もします(笑)。
とはいえ、私にとってはああいうドンパチ主体な感じのほうが受け付けやすかったですが。

またSF者の目線では、ソウル・ジェムに関する「“身体”から外部化された“精神”」というギミックが
特に興味深いものでした。
「人間をハードとソフトという側面で整理する」という捉え方をすれば、サイバーパンク以降の人間観を扱った
『攻殻機動隊』などに代表される「ポスト・ヒューマニズム」の流れを受けた作品のひとつともいえますが、
この最新のテーマを古典的な魔法少女の設定と結びつけたのは、なかなか新しいかも。
(まあ士郎正宗氏は既に『戦術超攻殻ORION』や『攻殻機動隊2』で、科学と魔法が等価になった世界を描いてますが)

ただし、作中でヒロインに「身体と切り離された精神」に対する不快感をはっきりと表明させた点については、
「ポスト・ヒューマニズム」系の作品としてはかなり異色ではないかと思います。
これは男性よりも身体に対する意識が強く出る女性ならではの反応、ということになるのかな?
思春期の少女が主人公という設定も、このあたりとリンクする部分じゃないかな?とも思ったりして。

また、この「ポスト・ヒューマニズム」的な視点に加えて、人類より上位の知性体であるキュウべえの語った
「感情とは知的生命体にとって本来不合理な精神疾患で、自分にはそれが理解できない。人類は例外的存在。」
というくだりには、伊藤計劃氏の『ハーモニー』にも通じる「人間の、あるいは人間らしさの基準とは何か?」
という問いかけが込められているようにも感じました。

上位知性体によって宇宙への供物として捧げ続けられる魔法少女たちと、その悲しみの連鎖を止めようとして
最後にまどかがたどり着いた願い。
このへんの展開は、まるでハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』をアニメで見た気分でした。
エリスンの名作短編と同じタイトルを掲げた作品では、『まどか☆マギカ』と作風の類似性でも取り上げられる
『新世紀エヴァンゲリオン』が有名ですが、本家エリスンの原作をうまく取り入れたという点では、間違いなく
『まどか☆マギカ』に軍配が上がります。
もともとノワール系のPCゲームで腕を振るい、『BLACK LAGOON』の小説作品でも評価の高い虚淵氏ですから、
犯罪小説も得意とするエリスンとよく似た資質を持っているのかもしれませんね。

物語の最後に一番重い運命を背負うのはまどかですが、彼女の対となる存在のほむらをはじめ、終盤まで動かない
(動けない)まどかの役割を、個々の魔法少女が担う形になっていました。
言い換えれば、登場した全ての魔法少女がヒロインだったということになるのかも。
(追記:まどかがなれなかった“可能性”の一部には、彼女を見守る詢子ママと和子先生も含まれるはず。)
その中でも群を抜いて印象に残る存在はやはりほむらなのですが、自分の場合は時計(のムーブメント)を見ると、
自動的に『ウォッチメン』を連想しちゃうというのも影響してそうです。
人知れず孤独に戦うヒロインって、アメコミのヒーローが持つストイックさとも近いものがありますしね。
泣くまいとして上を見上げる癖とか、細かいしぐさに裏の意味があるのもいいですなー。

そんなほむらが魔法少女になった理由が、1話で彼女を見たまどかと全く同じなのは見逃せないところ。
出自が同じであるまどかとほむらは、存在意義としては表裏一体と言ってもよさそうです。
そして、同じところから出発した別々の存在がぐるりと回って最後にひとつにつながるという物語の全体構造は
ループというよりも、むしろメビウスの輪に例えたほうがいいかもしれません。

繰り返される闘いの中で強さを身につけたほむらと、自分の中に秘められた真の強さを最後に引き出したまどか。
どちらの強さも本物だとは思いますが、そこに決定的な差があるとすれば、ほむらが「たった一人を救うために」
戦い続けることでは見い出せなかった答えを、まどかは「すべての魔法少女を救うために」という発想によって
導き出せたことではないでしょうか。
考えてみれば、まどかの本質はほむらとの最初の出会いから全く変わっていないわけで、その変わらなさこそ
最後に奇跡を起こすことができた原動力ではないかと思います。

そして、そんな「本質的な気高さ」を持ったまどかとの思い出を、世界でただ一人覚えていられるという事が、
ほむらにとってただひとつ許された(そして究極の)幸せなのかもしれません。

確証はないけど、恭介の態度やホストの会話、そしてキュウべえの傲慢さを考慮すると、
『魔法少女まどか☆マギカ』が本当にやりたかったことって、やや大げさに表現するなら
「歴史を通じて男性原理に殉じてきた全ての女性に対する鎮魂歌、そして彼女達の魂の解放」
ということだったんじゃないのかなぁ、とも考えてしまいます。
知久パパが専業主夫なのも、実は「彼ら」に対するアンチテーゼではないでしょうか。
まあ、そもそも魔女という概念自体が、男性原理の産物でもあるわけですが。

しかし、世間でキュウべえがあれほど嫌われている理由もよくわかったよ・・・。
確かにウソは言わないけど、肝心なところも言わないってのが本物の悪徳訪問販売っぽい。
一部で残虐描写が非難されてるらしいけど、むしろ「契約なんて安易にするもんじゃない」という教訓が
身につくという意味では、これから世に出る青少年にこそ見せるべきアニメなのかも(笑)。
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