帰国と極東軍事裁判
1946年になってやっと、晃一家の帰国がかなった。ロッテルダムを出てほぼ一年間の避難行だったが、無事に祖国の地を踏むことができたということは、全くの幸運だったと言えるだろう。晃が持っていた強運と、持ち前の楽天的な性格がプラスに作用したのかもしれない。
奉天を汽車で出発して胡慮(ころ)島へ移動し、日本への引き上げ船に乗った。やがて船は博多港に着き、汽車に乗り換えて郷里の沼津へ向かった。しかし、晃の実家は焼け野原になっていた。親族も行方が知れなかった。仕方がないので東京の虎の門近くにある、知人の家に転がり込んだ。
「鳥沢晃さん、いらっしゃいますか。」
ある日、外務省の役人とアメリカの軍人が一緒にやってきた。いったいどこで晃の居場所を聞いたのだろうか。不思議に思う晃に対して、彼らはこう述べた。
「極東軍事裁判所の最高司令官の命令でお迎えに来ました。これから市ヶ谷の元陸軍大本営に来ていただけませんか。」
何のことか全くわからない。自分が軍事裁判にかけられるようなことはしていないつもりだった。予想もしない事態に不安を感じながらも、彼らと共に元大本営に出頭した。すると、大広間に通され、軍事司令官に会うことができた。司令官は丁寧な言葉で言った。
「鳥澤さん、あなたの名前をオランダ大使館より聞きました。あなたは、オランダ語、英語、中国語、マレー語に堪能なただ一人の日本人だそうですね。オランダ大使からの推薦もありますので、ぜひ極東軍事裁判所で働いてもらえないでしょうか。」
話を聞くと、住居も与えてくれるということだったので、渡りに船と引きうけることにした。こうして、晃たち家族は元大本営内の住居に約二年間暮らすことになった。そして、ほぼ毎日、出廷して通訳をするとともに、日本兵が捕虜に対して行った虐待に関する宣誓供述書をオランダ語から英語や日本語へ翻訳をしたりする生活が始まった。
この時から、軍事裁判が終結するまでの約二年間は、晃にとっては多くの教訓を学んだ貴重な体験となった。私情をさしはさまないで、淡々として処理しなければならない仕事であったが、一方で、次々と有罪を宣告され処断されていく日本人に対する同情も湧き上がってきた。
人が人を裁くことは、法律の世界ではできるかもしれないが、心の世界や宗教の世界ではできない。救いは、必ずあるものだという信念。まさに、勝てば官軍であるが、勝者は正義を知ることがなく、反省するという絶好の機会を失ってしまう。人間には、元来、罪はないということ。裁く者は、いつか必ず裁かれる。そういった思いが湧き上がってきたが、声に出して言うことができないもどかしさがあった。
「正義のない国家が栄えたことはある。しかし、そういう国は、内と外のどちらかに攻められ、長くはもたずに倒れた。悪が裁かれるからではない。国民自身が、正義でないことに耐えられないからである。人は、生まれながらにして故郷を持つのではないにしても、生まれながらに正義を求める生き物である。だから、国家は民衆に正義を示さなければならないし、それよりはるかに困難でも、実際に正義でなければならない。長期的に益になるのは、正義である。」
書物で読んだ言葉が、晃の脳裏に浮かんできた。英語で言えば「justice」だが、この言葉の意味は重い。営利事業であれ、慈善活動であれ、戦争行為であれ、正義という言葉に支えられない行為は、人の心を動かさない。
つづく
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