ガラパゴス通信リターンズ

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号泣する準備はできている2

2007-01-22 21:03:27 | Weblog
4年生の卒論審査が終わり、今度はいまの3年生が卒論にとりかかる番になった。Hさんという学生のテーマは、「感動作品で泣く人たち」。彼女の話だと、ネット上に「みんなで集まって泣く会」というのがあるのだという。みんなで集まって「セカチュー」みたいな「感動作品」をみる。どこでどうやって泣くのだろうか。映画館の暗がりのなかで泣くのか。はたまた映画をみた後に喫茶店や居酒屋で集団で泣くのだろか。前者だとみんなで集まる意味がよく分からない。後者なら相当不気味だ。

 「死のう団」ならぬ「泣こう団」!なんだかネット自殺と似ていなくもない。彼女じしんも「感動作品」で泣くことが大好きなので、この人たちのオフ会に参加してみたいといっていた。参与観察大いに結構。だが怪しげな集団でなければよいが。

 何故「感動作品」で泣くことを求める人がかくも多いのか。ぼくはスポーツが現代社会に果たしている役割についての、ノルベルト・エリアスのことばを思い出した。現代に生きる人間は、大きな自己抑制を強いられている。日々の仕事のなかで感情を激発させることはご法度だ。公然と興奮することが許されるスポーツは、みるにせよやるにせよ、社会の「抑制解除の装置」とし大きな役割を果たしている、とアリエスはいう。

 現代人はみな感情労働者だ。ネガティブな感情を表出することは強いタブーとなっている。だからオフの時間には、思い切って泣きたいのだろう。笑いだけではなく、泣くことも身体にはよいのだと彼女はいっていた。『週末号泣のすすめ』という本まであるらしい。本のタイトルには驚くが、感情を不自然に抑制することが身体によいはずはない。

 「セカチュー」など腹がたつほどくだらない話だった。しかし、くだらないからよいのかもしれない。深みのある映画では、逆に考えこんでしまって感情を抑制してしまうだろう。くだらない映画なら何も考えずに泣くことができる。朝鮮半島では葬式で派手に泣くことが礼儀だから、涙をさそうために、フォンフェという催涙効果のあるエイの料理が出されると聞いた。Hさんいうところの「感動作品」は、現代日本における形をかえたフォンフェなのだとぼくは思う。