15年ほど前のことである。鳥取で新聞記者をやっている友人から電話がかかってきた。徳永進医師の主宰する文化施設、「こぶし館」でユージン・スミスの写真展をやる。ついてはスミスの解説を地元紙の文化面に書いてくれというのが依頼の内容だった。
ホスピスムーブメントの旗手としての声価の高い徳永医師は、子どものころから「大きくなったらシュバイツァーのような偉大な医者になれ」とお母さんから言われ続けて育っていった。高校時代に徳永少年はユージン・スミスの写真と出会う。スミスが映し出したシュバイツァーからは、「偉大な人物」たらんとする彼の臭みを感じて好きになれなかった。むしろ「カントリー・ドクター」という一連の写真に描かれた、アメリカの田舎医者、エルネスト・セリアーニに徳永少年は強くひかれたのである。徳永さんは後に、セリアーニと同じ田舎医者としてのキャリアを選びとっている。
自分の人生の方向付けを与えてくれたスミスに、徳永さんが深い思いを寄せるのは当然のことだ。何度かこうした作品展を徳永さんは鳥取で開いていた。この時ぼくが何を書いたかはいまは覚えていない。記事が新聞に載った数日後、父から電話がかかってきた。
父はいう。「徳永さんのところの文章、読んだで。なかなかよう書けとった」。まずはぼくの文章をほめてくれた。「ただなあ、新聞は天下の公器なだけえ。軽々によそ様のことを『友人』ちゃあなんで呼んだらいけんだ」。?!一瞬ぼくは耳を疑った。「お前がなあ、なんぼ『友人』だと思とっても、あのスミスっちゅう人はお前のことを『友人』だとは思っとらんかもしれん。文化の違いちゅうこともあるだけえ。よう気をつけないけんで」。
驚いたことに父は「ユージン・スミス」のことを「友人スミス」とぼくが書いたと勘違いしていたのだ。こうした不思議でとんちんかんな心配を、父は大真面目でする人だった。それから10年近くの後に、徳永医師のホスピス「野の花診療所」で、母のあとを追うように人生の幕を閉じることになるとは、この当時、ぼくにも父にも予想だにすることはできなかった。
ホスピスムーブメントの旗手としての声価の高い徳永医師は、子どものころから「大きくなったらシュバイツァーのような偉大な医者になれ」とお母さんから言われ続けて育っていった。高校時代に徳永少年はユージン・スミスの写真と出会う。スミスが映し出したシュバイツァーからは、「偉大な人物」たらんとする彼の臭みを感じて好きになれなかった。むしろ「カントリー・ドクター」という一連の写真に描かれた、アメリカの田舎医者、エルネスト・セリアーニに徳永少年は強くひかれたのである。徳永さんは後に、セリアーニと同じ田舎医者としてのキャリアを選びとっている。
自分の人生の方向付けを与えてくれたスミスに、徳永さんが深い思いを寄せるのは当然のことだ。何度かこうした作品展を徳永さんは鳥取で開いていた。この時ぼくが何を書いたかはいまは覚えていない。記事が新聞に載った数日後、父から電話がかかってきた。
父はいう。「徳永さんのところの文章、読んだで。なかなかよう書けとった」。まずはぼくの文章をほめてくれた。「ただなあ、新聞は天下の公器なだけえ。軽々によそ様のことを『友人』ちゃあなんで呼んだらいけんだ」。?!一瞬ぼくは耳を疑った。「お前がなあ、なんぼ『友人』だと思とっても、あのスミスっちゅう人はお前のことを『友人』だとは思っとらんかもしれん。文化の違いちゅうこともあるだけえ。よう気をつけないけんで」。
驚いたことに父は「ユージン・スミス」のことを「友人スミス」とぼくが書いたと勘違いしていたのだ。こうした不思議でとんちんかんな心配を、父は大真面目でする人だった。それから10年近くの後に、徳永医師のホスピス「野の花診療所」で、母のあとを追うように人生の幕を閉じることになるとは、この当時、ぼくにも父にも予想だにすることはできなかった。
徳永さんの本は昨年まとめて読み、徳永ファン(?)のおふくろにも結構送ってやりました。そしたら、「あの人の手にかかって死にたい」と、おふくろは人聞きの悪い妙な誉め方をしておりました。
わはは。こりゃ人聞きが悪いですね。うちの学生に徳永さんの本を読ませたら、「自分が死ぬときにも徳永先生にみとってもらいたいと思いました」という感想文を書いてきたのがいます。これは日本語としては別に変ではないのですが、彼女が日本女性の平均寿命まで生きたら徳永医師は、120歳近くになるんじゃないのかな?!目指せ、泉重千代!どうも徳永さんの存在はおとぼけな発言を誘発する力があるようです。なんでだろ??