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ガラパゴス通信リターンズ

3文社会学者の駄文サイト。故あってお引越しです。今後ともよろしく。

『ザ・コールデストウインター 朝鮮戦争』

2009-12-17 06:00:19 | Weblog
本書は、アメリカの大ジャーナリスト、デービットハルバースタムの遺作となった大著である。まだ上巻を読み終えたところだが、いくつか発見があったので記しておきたい。

 ①朝鮮戦争勃発当時のアメリカ軍は装備と兵員の質においてひどく劣化していたという記述には、はっとさせられた。厳しい戦争が終わったのは5年も前のことである。大量の軍人が復員し、平和な時代になれば当然軍事予算は削減されていく。兵士の能力も士気も第二次大戦当時とは比べ物にならないほど落ちていた。

 ②アメリカ軍の士気が上がらなかったことにはもうひとつ理由がある。アメリカにとって軍事的重要性の高い国であり、戦後一転して親米的になった日本の価値を多くのアメリカ人は認めていた。そして宣教師を熱烈に歓迎したかつての中国に対しても、アメリカ人は深いシンパシーを抱いていた。ところが韓国とアメリカはそれまで何のつながりもなかった。韓国のために戦うモチベーションが上がらぬ道理である。

 ③マッカーサーという人は、歴史に名を留める偉人たらんとする欲望に取りつかれていた。アメリカ国内政治においては、極度の保守派で徹底したニューディル嫌いであったにも関わらず、日本の戦後改革においてはニューディラーを重用したのも、より革新的な改革を行い、劇的な変化を日本社会にもたらせば、自らの名を不朽のものとすることができるという計算に基づくものであった。

 ④マッカーサーは、朝鮮戦争においても戦略的戦術的合理性より、自らの名声を高める劇的効果という観点から作戦を採用していった。そのために戦局は混迷を極めていく。そして、マッカーサーだけではなく、この戦争に関わった共産側の指導者ー金日成、毛沢東、スターリン―たちは、みな狂気にとりつかれた人たちであった。。人格に異常性をもつ人たちが、歴史を動かす判断を下していたかと思うと恐ろしい。
 

陳謝

2009-12-14 00:00:00 | Weblog
恵まれた四季をもつ日本がいかに勉学に適さない国であるかについては、先日の日記で完膚なきまでに論証した。そして驚くべきことには、一日の上で勉学に適する時間もまた皆無なのである。

 朝早い時間が勉学に適さないことはいうまでもない。早朝は夜の続き。まだ眠いのである。村上春樹は朝の4時に起きて机に向かっているという見習いたいものだ。しかし早朝は睡魔より、もっと恐ろしい魔が住んでいる。朝の4時から8時までの間は人間のバイオリズムは最低の状態にある。この時間帯に死ぬ人がもっとも多いのだ。「早起き生活」を称揚することも考えものだ。

 昼が近づけば、お腹がすいてくる。空腹時に人間は覚醒すると考えるものたちよ。おのが人生経験の乏しさを恥じよ。私が骨髄移植で入院中、6人部屋で仔細に観察した結果次のような知見に到達した。朝10時半から正午までの間にうつらうつらしている人がもっとも多いのだ。

 昼食後は魔の時間帯だ。私はかつて午後1時から始まる3限にゼミを開いたことがある。これが大きな間違いであった。気がつくとレポーターと余以外のすべての参加者が居眠りをしている。そのうちレポーターも居眠りを始めた。そこで余の記憶は途絶える。余も終了のチャイムが鳴るまでの時間、深い眠りに落ちてしまったからである。学生たちのレベルにあわない本をテキストに選んだのがよくなかったとも思っている。わけのわからない本はお経みたいなもの。お経ほど強力な子守唄は思いつくこともできない。

 夕方は疲れて眠い。当然頭は働かない。夜に勉強をしてはいけない。頭が冴えて眠れなくなる。手塚治虫は睡眠をおろそかにしたから早逝したと水木しげる大先生は言っておられた。1日24時間、常に睡魔に立ちはだかれるのである。しかし、書かねばならない原稿は山とある。原稿を落として「すいません」ですむほど、世の中は甘くはない。

ロストジェネレーション

2009-12-11 06:51:04 | Weblog
  恒例の合同ゼミが、今年も終った。H大のあるゼミは、担当の先生がかつて教えていた大学の30代OBのインタビュー結果を報告していた。「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代だが、なるほど、みな非常に苦労している。

 数名の男女にインタビューをしていたが、みな一様に解雇されたり、会社が潰れたりした経験をもっている。しかし現在、正規雇用の仕事に就いている人が多かった。ある仕事がだめになっても、仕事の上での知り合いから誘われて、次の仕事が見つかることが多いのだという。流行りの「社会関係資本論」の用語でいえば「ウイークタイズ」に救われたといったところか。

 彼らは「団塊ジュニア」でもある。寄らば大樹の陰。彼らにとって親の世代は、教員や公務員など「官」に連なる安定した仕事に就くことを子どもに勧める、「昭和な価値観」の体現者だ。そうした親世代の価値観と時には対立しながらも、うまく折り合いをつけて彼らはここまで生きてきた。基本的に彼らと親世代との関係は良好で、経済的に苦しい時には家族に支えてもらっている。

 失業中の人もいたが、過去にも何度かそうした経験があるので「そのうちなんとかなるだろう」と鷹揚に構えていたという。「自分なら自殺を考えるかも知れない状況なのに…」とH大の学生さんは驚いていた。

 いま社会学者たちは、「個人化」ということをいう。国家や企業や家族でさえ個人のセーフティネットにはならない。個人は膨大なリスクを背負って一人で巨大な社会をわたっていかなければならない。現代とはそうした時代だという言説が流布している。しかし家族は窮境に置かれた彼らのセーフティネットとなっていた。そして、「わたる世間に鬼はない」・「義理と人情」・「捨てる神あれば拾う神あり」といったことばも死語になってはいない。「しゅうかつ」と直面している学生たちは力づけられたと思う。

♪赤いお鼻のトナカイさんは♪(恐慌下に果たしてクリスマスは?・声に出して読みたい傑作選97)

2009-12-08 06:56:59 | Weblog
 サンタクロースの原型となったのが、セント・ニコラウス。もともとはローマ正教の聖者で、トルコのあたりで活躍していた人のようです。セント・ニコラウスのお祭りはキリストの生誕ではなく冬至を祝うものでした。二コラウスが貧しい子どもの靴下にコインをめぐんだという逸話がサンタクロースのプレゼントの起源だとか。二コラウスは、悪い子どもを罰するなまはげのようなところもあって、子どもミをンチにして食べたという、恐ろしい伝説も語られています。

 セント・二コラウス祭のもう一つの特徴は、その夜には若者たちの性的放縦が許されていたことです。靴や靴下といった小道具が登場することも、それと無関係ではありません。フロイトを持ち出すまでもなく、これらは性的なもののメタファーであるからです。

 中世のヨーロッパでセント・二コラウス祭は共同体の祭りでした。それが、子ども中心の近代家族が築かれた17世紀のオランダで、家族の祭りに変貌を遂げます。そしてオランダ移民とともに海を渡ったクリスマスは、アメリカで商業主義のお祭りへとさらなる変貌を重ねます。日本でも高度経済成長期以降、クリスマスは大衆化していきました。そして80年代以降、日本のクリスマスは若者のお祭りの様相を呈していきます。

 キリスト教信者が全人口の1%しかいない日本で、クリスマスの狂騒が繰り広げられているのは不思議な話です。しかし、若者のお祭りとしてのクリスマスが、セント・ニコラウス祭の精神に忠実なところもあります。それは性的放縦の習慣を受け継いだところです。バブルの時代のイブの夜、東京のシティ・ホテルの部屋は、一年前から予約で一杯でした。他大との合同ゼミの時、ぼくのゼミ生たちが当時の若い男の子むけ雑誌の記事を紹介しながら、「彼らは、一夜の快楽を手に入れるためにあらゆる手段を尽くしていたのです」と報告した時、バブル世代に属する教授たちが顔を赤らめて下を向いてしまった場面が印象に残ります。

ベーシックインカムの方へ(日本海新聞コラム潮流・11月30日掲載分)

2009-12-05 08:21:10 | Weblog
ベーシックインカム(所得保障)ということばをよく耳にするようになりました。最低限生活に必要なお金を所得の多寡に関わりなく、個人単位で保障する政策がベーシックインカムです。こうした議論は一昔前までは、「共産主義だ」とか「働かざる者食うべからず」という反論に出会ったはずです。もちろんいまでもそうした反応を示す人は少なくありません。しかし銀行系のエコノミストから、左翼の論客に至るまでの幅広い層の識者たちがベーシックインカムを肯定的に論じています。この変化は、やはり注目に値するものです

 いつの間にか日本は、貧困率が先進諸国の中で高い国になってしまいました。日本の最低賃金は先進国のなかで最低の部類。自給700円程度ではフルタイムに近く働いても家族で暮らしていくだけの収入を得ることはできません。「働かざる者食うべからず」といいますが、いくら働いても「食えない」現実があることは明らかです。所得とは勤労に対する報酬ではなく、社会に参加していくための基本的な権利であると考えて、生計を満たすにたるだけの所得を無条件ですべての人に保障しなければ貧困の問題は解決しないでしょう。

 「失われた10年」の若者たちは、「ロストジェネレーション」と呼ばれています。他方、2005年前後からは大学生の就職状況は好転し、バブル期以来という空前の売り手市場が続きました。しかしその間も非正規雇用の仕事に就く若者の数は増加していたのです。このデータは「空前の売り手市場」の恩恵を受けたのが大学生に限られており、学歴の低い若者の就職機会が狭まってきていることを示しています。不安定就労の若者たちが増加の一途をたどっているのです。若者の貧困は、今後ますます深刻化していくことでしょう。

若い世代は将来、膨大な数の高齢者を支えなければなりません。そして、正規雇用の仕事に就くことのできなかった若者たちは将来的に生活保護の受給者となる可能性が高い。正規雇用の仕事に就くことができた若者たちは、この両者を支えていかなければなりません。彼らが担う税や社会保障の負担率は途方もないものになってしまいます。消費が冷え込み、経済は停滞し続けるに違いありません。恐慌が常態化してしまうでしょう。貧しい若者たちのためだけではなく将来の中間層のためにもベーシックインカムは必要なのです。

ベーシックインカムの恩恵を受けるのは若者たちばかりではありません。厳しい経済状況におかれた鳥取のような地方にとっても福音となるはずです。しかしどこにベーシックインカムの財源を求めるのか。これは難題です。ベーシックインカムを実現するためには、消費税率を50パーセントにする必要があるという論者もいます。これでは耐乏生活を強いられます。経済の活性化には、到底結びつきません。ベーシックインカムの財源問題をクリアするためにも、政府紙幣発行の可能性を真剣に検討する必要があると私は考えます。

ぼくは勉強ができない

2009-12-02 00:00:00 | Weblog
私は勉学を生業とする身である。しかし正直に言おう。子どものころからいまに至るまで身を入れて勉強をした記憶がほとんどない。これは一重に自身の怠惰によるものである。だが、日本の風土がそこに影を落としていることは否定できない。50有余年を生きてきてつくづく思う。日本は勉学に適さない国であると。多彩な四季があることが、日本人が勉学に集中することを困難たらしめているのである。

 うららかな春。まさに春眠暁を覚えずの季節である。眠くて眠くて勉強などできたものではない。尋常な神経の持ち主であれば、桜の季節に家にこもって勉強する人間の気がしえrない。そうした輩に限って5月病を発症するのだ。落第坊主は、そんなものとは無縁である。

 そして夏。熱帯も顔負けのあの暑さで勉強などできるものか。しかも気候温暖化の影響でますます酷暑の猛威は増すばかりである。そのうち埼玉の熊谷あたりで、ギネスブックの酷暑記録を更新するのではないか。いまはエアコンがあるだろうって?そんなものを使うから夏の暑さがひどくなる。暑い夏はひたすら暑苦しく、汗まみれの身体を畳に横たえてごろごろしているのにしくはない。

 秋。それは、黄金の季節。気候の良いこの時期に勉強するのは愚か者である。秋の素晴らしさを享受する能力を欠いた人間は不幸と言う他はない。若人よ、秋には書を捨てよ!そして野山に出よう!!たらふく御飯を食べて、あとは呆けたように眠りこけるのだ。

 冬。熊のような猛獣も冬眠をする厳しい日本の冬に勉強などできたものではない。熊よりも体力の劣る人間がどうして冬眠をしないのか不思議でならない。日本政府は法律で国民に冬眠を義務付けるべきなのである。いや、冬といわず年がら年中寝ていればよい。これ以上CO2削減に有効な方法も他にないだろう。勉強は環境の敵であるというのが今回の無理やりな結論でありますまる


潮木守一『職業としての大学教授』 中公叢書1600円+税(「本のメルマガ」11月25日掲載分)

2009-11-29 00:00:00 | Weblog
私の肩書きには、「教授」とあります。教授といえば「白い巨塔」の財前五郎を連想する方も多いのではないでしょうか。財前は、教授の地位に就くために手段を選びませんでした。医学部の教授は、地域の病院に医者の配置を行う大きな権限を持っています。そして医学部のばあい、助手、講師、助教授、教授と地位が上がるほど定員が減っていく、ピラミッド型の構造になっています。医学部教授の地位に到達することは、並大抵のことではありません。そうした背景があればこそ、財前五郎というキャラクターはうまれたのです。

 工学部のばあいにも、「万年助手」の存在が問題なりました。人事で冷遇した教授に「黄色い砂」をかけて殺した広島大学の事件が思い出されます。ところが文科系のばあい、年限を満たしさえすれば、ほぼ誰でも教授になることができます。ある学科の教員すべてが教授などというケースすらあります。教授になってしまえば、すごろくの上がり。これ以上業績をあげる必要はありません。テニススクールの関係者から、平日の朝から来てくれる大学教員は上得意ですと言われて、「顔から火の出る思いをした」と潮木先生は言います。

 諸外国のばあい、教授になるためには凄まじく狭い門をくぐらなければなりません。独仏のばあい、博士論文を書いただけでは教授にはなれません。助手や講師について、あるいは高校で教えながら長大な教授資格取得論文を書き上げます。それがパスするのが、平均して41歳の時。フランスでは大学ではなく国家(文部省)が資格審査を行い、ドイツでは内部昇格に厳格な歯止めがあるなど、馴れ合いは徹底的に排除されています。しかも、この難関をくぐりぬけても、実際の教授の地位には半分も就けない分野もあるといいます。

 アメリカは日本と似たようなところがあって、大学によっては簡単に終身職に就くことができ教授になるのも容易いようです。しかしアメリカの大学はハーバート等を頂点とした大学のピラミッドが形成されており、より格上の大学を目指す研究者間の競争は熾烈を極めます。またドイツでも教授が3ランクに格付けされていて、ランクごとに給料も違います。教授になれば安泰というわけではありません。教授になれば怠け放題というのは日本だけ。だから日本の大学は国際競争力をもたないのだ。老碩学の悲憤慷慨は止みません。

 日本の大学教授は研究を怠りながら、国際的にみても高い給料をもらっています。他方、学者の卵たちは、経済的な窮境のなかで先のみえない日々を送っているのです。1990年代の大学院重点化によって大学院博士課程の学生数は一挙に数倍に増えました。ところが大学教員の採用はむしろ減少してしまった。その結果大学院は超高学歴ワーキングプアの生産所と化しています。人道的見地からも大学院博士課程の募集を一定期間停止すべきだと著者は言います。老碩学の憂国の提言を現役の大学人は重く受け止めるべきでしょう。



だるま宰相

2009-11-26 00:00:00 | Weblog
 高橋是清の自伝を読んでいる。上巻を読み終えようかというところだが、とても面白い。少年時代、遊学したはずのアメリカで奴隷に売られた話はよく知られているが、「奴隷時代」の記述にも暗さは微塵もない。主人にたてついたり、同じ家で働いていた中国人とあわや殺し合いの騒ぎを起こすなどやりたい放題である。高橋は自伝の冒頭で自分のことを楽天主義者だといっている。楽天的に考えると物事はすべてうまくまわっていくという信念を彼はもっていた。日本史上稀にみるポジティブシンキングの人ではある。

 日本に帰って後の、二十歳そこそこの若さで大学南校(東大の前身)の教師になる。同校の教師時代に彼は、英語と漢学の勉強に熱中するのだが、その一方で毎日酒を3升飲んでいたというから驚く。朝一升、昼一升、夜一升。まさにガルガンチュア的な酒量である。それだけ飲んだ後でも勉強は怠らない。頭と身体とそして意志とが異常に強いのだろう。ある種のモンスターだといわなければならない。

 高橋は昭和の金融恐慌に際して、裏が白地の「高橋札」を発行して取り付け騒ぎを沈静させた。そして国債の日銀引き受けを行い日本を世界で最も早く大恐慌の痛手から立ち直らせたのである。これはやはり高橋だからできた離れ技だろう。ケインズに学んだ秀才であれば、同様の政策を思いついたとしても不思議はない。しかし、それを実行に移す胆力はやはりモンスターならではのものである。

 いまの民主党政権に「平成の高橋是清」はいるのだろうか。心もとない感じは否めない。高橋は江戸末期に生まれた人だ。近代日本の偉業をなしたのは、実は江戸期に生まれた人であったという鶴見俊輔さんのことばが思い出される。あの福沢諭吉も体術の名手で暴漢を遠くに投げ飛ばしたことがあるという。痩せこけた近代日本の土壌からは、高橋や福沢のようなモンスターは生まれてこないのではないだろうか。

思い出のアルバム3(太郎もはや中学生・声に出して読みたい傑作選96)

2009-11-23 17:00:24 | Weblog
太郎が幼稚園に通っていたころ、11月23日の勤労感謝の日は、「お父さんと遊ぶ日」だった。父と子が幼稚園から、市の境を超えて6キロの道を歩き、森のなかの大きな公園で遊ぶ。これが大変な苦行だった。
 
 幼稚園児と歩くのだ。6キロといえば2時間近くかかる。おしゃべりをしていれば別に辛くもないだろう。しかしまわりはお父さんばかり。「男はだまってサッポロビール」の人たちである。何も話題がない。ただ黙々と歩くのみだ。とても辛かった。

 それでも努力をして周りの人に話しかけてみたことはある。太郎が年少組の時、たまたま隣にはいあわせたお父さんは大企業のエンジニアで、国分隼人のテクノポリスで働いていたという人だった。よかった。ぼくも鹿児島暮らしが長かったからこれで接点ができたと思った。「どこにおすまいでしたか」。「加治木です。あなたは」。「谷山です」…。これで終わりだ。全然話がはずまない。ぼくも含めて日本の大人の男というのは社交ができない。肩書きや地位を抜きの、裸の人間同士の付きあいということができない動物なのだと思った。

 寒風吹きすさぶなかを歩き続け、ようやく公園にたどり着くと、今度は「お父さんは強い」系のゲームが待ち受けている。太郎が年少の時にはクラス対抗でお父さんが子どもをおんぶして走るリレーをやらされた。骨髄移植を受けた翌年である。まだ免疫抑制剤を飲んでいた。死ぬかと思った。これをお父さんたちは必死の形相でやるのである。「お父さんは強い」。いついかなる時でも負けてはならないのだ。

 帰りは電車で帰る。公園から駅までの道すがら、何人かのお父さんが「ああ、今日は楽しかったな」と顔面神経を引きつらせながら言うのが例年のことだった。一体どこが楽しかったのだろうか。太郎が卒園して、この行事から解放されて正直ほっとしている。近年の勤労感謝の日は、太郎と一緒にヤクルトスワローズのファン感謝デーに行く日になっている。

マンガを読む大学生

2009-11-20 00:00:00 | Weblog
「少年ジャンプ」が生み出した傑作群は、まさに枚挙に暇がない。このジャンプという雑誌は、1968年の創刊である。その約10年前に生まれた「サンデー」・「ジャンプ」に比べて後発であった。後発の不利を克服して、一時は600万部を超える部数を誇るお化け雑誌に何故成長することができたのであろうか。

 60年代、大学の大衆化とともに大学生がマンガを読むようになった。大学生の鑑賞に耐える「劇画」が隆盛となり、子どもだましの「漫画」は衰微していく。大学生の読者としての参入は、マンガの質的向上に貢献したともいえるのだが、そこには問題があった。大学生受けを狙って性表現や政治的主張、暴力の描写等がエスカレートしていったのである。人肉を食べる場面が出てくる「アシュラ」が問題になったのは60年代末のことだ。

 大学生が読めば「アシュラ」のようなマンガも面白いだろうが、小学生にとってみれば面白いものではない。70年代に入ると先発の2誌は急速に売り上げを落としていく。「ドラえもん」のような幼児向けのマンガは存在したものの、マンガの本来の読者であるはずの小学校高学年向けのマンガは空白地帯になっていた。そこで登場したのが「友情・努力・勝利」をスローガンに掲げる「少年ジャンプ」だった。小学校高学年の男の子の綿密なマーケットリサーチからこのスローガンは生まれた。

 「サンデー」・「マガジン」が大学生に占領されてしまった様は、子どもたちが遊んでいる川原に大学生のお兄さんがやってきて、バイクをぶっ飛ばしたり、アジ演説をしたり、エッチなことを始めた光景を想像させる。無名の新人しかいない「ジャンプ」は、何もなければ大家をずらりと並べた先発2誌にたちうちできなかったのではないか。大学生読者の登場が、先発誌の編集方針を狂わせたことによって、「少年ジャンプ」の時代は到来したといえなくもない。