福井県立図書館で
「バブソン大学で教えている世界一のアントレプレナーシップ」(山川泰弘著)
を借りて読みました。
アントレプレナーシップ(注・01)を、
山川さんはアメリカの大学だけではなく、
帰国されたら日本国内の大学など短期集中講座で
日本の若者に語り続けておられ、その内容がこの本に書かれています。
下記の注・01にありますように日本は世界で
ワーストワンに近い起業活動率で4%で先進国49カ国中ワースト6位。
アメリカ、ドイツ、フランスなどの20%以上という驚くべき差なのです。
これでは、将来、日本は世界に貢献していく企業は、
減少し産業は衰退していくことは確実なのです。
日本企業活性化の原動力は、起業する若者が続出しなければならないのです。
しかし、山川さんの授業で日本の若者をみていると夢がないといいます。
日本の大学生は後半は就職活動にあてられますが、
起業する学生は皆無なのです。
ではそれはなぜなのか、またどうすればいいのか、
山川さんは様々な提案をこの本で展開されています。
そして
1・起業機会に対する認識 世界で最下位
2・起業に対する自信度 世界で最下位
3・過去2年以内に起業した人を知っている 世界で最下位
4・起業失敗への恐怖 世界で11番目
とこの本では書かれていますが、
特に4の「起業失敗への恐怖」は、日本特有のようです。
理由は日本の若者にクラーク博士が残した
「Boys, be ambitious in Christ (God)」(注・02)が
生きていないからにほかなりません。
クラーク博士は札幌農学校の学生に「in Christ (God)」にあって
と語っています。
つまりクリスチャンとは、常にビジョンを持ち、
果敢に夢に向かってチャレンジしていく者なのです。
クリスチャンに恐れはありません。
しかし、日本は、クリスチャンが皆無に等しく、
しかも日本教に縛られていますので、
それができず、恐れが支配する国なのです。
日本の青年の中から、クラーク博士が残した「イエスを信ずる者の契約」に
サインする青年たちが続出しない限り、
いつまでも世界で最下位のアントレプレナーシップが続き、
日本経済は沈没するのは確実です。
アントレプレナーシップ(注・01)
アントレプレナーシップ(entrepreneurship)は,日本語では「起業家(企業家)精神」と訳されることが多く、起業する人に特有の資質であると誤解されがちです。しかし、実際は、新しい事業を創造しリスクに挑戦する姿勢であり、あらゆる職業で求められるもので、精神というよりは「起業家的行動能力」と訳すことが、より基本概念に近いと言えます。その語源は、フランス語のentrepreneurから来ており、東西貿易が盛んであったマルコポーロ時代に生まれたentreprendreという動詞から派生した言葉で、「仲買人」を意味していたと言われています。そしてそれを、経済学者シュンペーター(Shumpeter,J.A.)が「イノベーションを遂行する当事者」を指す経済的用語として定義し、経営学者のドラッカー(Drucker,P.F.)が、「アントレプレナーシップという言葉は、経済の世界で生まれはしたものの、経済の領域に限定されるものではない。人間の実存に関わる活動を除くあらゆる人間活動に適用される。」「イノベーションとアントレプレナーシップの原理と方法は,誰でも学ぶことができる。」「社会的機関も,むしろ企業以上にアントレプレナーシップが必要である。」等と述べて、その概念を一般に広めました。そして、ここ数年、日本でも、イノベーションをもたらし新しい価値を生み出す思考・行動要素として、アントレプレナーシップが頻繁に言及されるようになり、大学の経済・経営学部等を中心に、アントレプレナーシップのコースが出来て来ています。しかし、残念ながら、日本は、他国と比較すると起業率やアントレプレナーシップの素養を持った人材が少ないことがGlobal Entrepreneurship Monitor等の国際的な調査結果で指摘されており、その大きな要因として、学校教育(得に初等・中等教育)での学習経験の少なさが上げられてきました。アントレプレナーシップは、働く上でもキャリア発達の中でも重要な能力であるにも関わらず、日本の学校教育では殆ど実践がされてこなかったのです。(特定非営利活動法人アントレプレナーシップ開発センターから引用)
「Boys, be ambitious in Christ (God)」(注・02)
ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日[1])は、アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので[3]、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。
イエスを信ずる者の契約
ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主に愛と感謝を捧げるためにキリスト者としてのすべての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光のため、および主が代わって死にたもうた人々の救いのために、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを、神に対し、また相互に対して、厳粛に誓約する。さらに、ふさわしい機会があればいつでも、試験、洗礼、入会のため福音的教会に出向くことを約束する。
我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。
我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。
我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。
我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。
あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。
あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。
あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。
安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。
あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。
あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。
あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。
絶えず祈りなさい。
我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。
— 1877年3月5日 札幌にて ウィリアム・スミス・クラーク
(ウィキから)