太った中年

日本男児たるもの

プロメテウスの火

2011-07-26 | weblog

スタジオジブリの宮崎駿は、東日本大震災後の3月28日に開かれた記者会見で東電原発事故に触れ「考えなければならないのは、プロメテウスの火をどうしたらコントロールできるか。私はこの地を一歩も退かないと決めています」と発言している。プロメテウスの火とは神々から盗んだ火を人間に渡した神プロメテウスはゼウスの怒りに触れて山にはりつけにされ、ハゲタカに肝臓をついばまれ、傷が癒えるとまたハゲタカに襲われるという永劫続く罰を受けることになったギリシア神話による。つまり原子力をプロメテウスの火に擬えて語った。

今月の中旬、菅首相は脱原発会見で「原子力は安全性確保だけでは律するのことできない技術だ」と述べた。まさに原子力は人間の手に負えないプロメテウスの火である。この発言について極東ブログの翁は福島原発が世界に残すかもしれないひどい遺産の記事で呆れたと嘆いている。そしてフィナンシャルタイムズの記事を引用して菅発言について以下の批判を下す。

But these designs are far from perfect, and more research is needed to develop better reactors for the future – for example ones that use thorium rather than uranium fuel, or operate deep underground. And of course there are other issues that need to be addressed, besides reactor safety, notably the long-term storage or disposal of nuclear waste.

それでも、これらの設計は決して完全ではなく、未来に向けて、よりよい原子炉を開発するために多くの研究が必要である - 例えば、燃料にウラニウムではなくトリウムを使う原子炉もあるし、地下深く稼働する原子炉もありうる。そして原子炉の安全性に以外にも問題はある。特に核廃棄物の長期保管や核廃棄物の処理である。

 

しかし、これらを技術の課題として解決していくのが、科学技術というものなのである。

人類の科学的な知見というのは、まさにそれこそが人類を特徴付けるものとして決して後退はしない。原子力発電の安全を求めるなら、技術にこそ注力しなければならない。原子力の安全性を世界に訴えるなら、その技術に踏み出すことが本来なら日本の課題だろうし、そうでなければ世界の人に、"Fukushima will have left the world a terrible legacy(福島はひどい遺産を世界に残したことになる)"。

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極東ブログの翁は「反原発でも原発推進でもない」としているが上記からすれば原発という科学技術の擁護派である。これは翁が影響を受けた吉本隆明にも相当する。原発推進の吉本は科学には不可逆性の問題があり、後戻りすることなく進歩し続けるから人々は科学の進歩による現代文明を享受している、それに逆行するのは愚かな行為だという。これが反原発、脱原発批判の論拠になっているが果たしてどうであろう。

上記フィナンシャルタイムズでは「そして原子炉の安全性に以外にも問題はある。特に核廃棄物の長期保管や核廃棄物の処理である。」とある。原発推進の人たちはどうもこの問題に目を逸らしているとしか思えてならない。原子炉の安全性以上に核廃棄物の処理について科学技術を注力しなければならないのではないか。

 今回の原発事故で今後、日本で原発や核廃棄物処理場を新たに建設することは事実上不可能になった。となれば原発推進の人たちは国内では既存の原発を維持、国外(後進国)で原発推進をすることになる。核廃棄物処理場も同様である。核廃棄物の問題は前エントリー池田信夫が妄言した「核燃料サイクルが破綻している日本は国際法を無視しろ、国際社会の非難を浴びて処分するしない」、これが原発推進派の本音である。

冒頭、宮崎駿の発言に戻れば人類の手に負えない「プロメテウスの火をどうしたらコントロールできるか」とは原発事故処理、核廃棄物の処理のことである。科学が失敗から進歩したことを考えれば、まず、それらに科学技術の知力を結集してパラダイム転換を図るのは決して後退ではないと考える。むしろ進歩幻想に囚われて原発事故以前の原子力の安全性に依拠していることこそ科学の後戻りではないか。ではまた。