園韓神社(そのからかみしゃ)という神社があります。
平安京大内裏は宮内省の北西に鎮座しましたいわゆる官衙神というやつで、現在には姿を消した神社のひとつです。一般に(といっても一般にこの神社知ってる人なんてマァいませんし業界でも園韓神社、ゆうてハイハイあれねと即答できる方はマレです)「園韓神社」と通称されておりますが、延喜式神名帳によりますと、宮中神の筆頭に「園神社一座、韓神社二座」とありまして、二つの神社をひとまとめにしたものだということがわかります。
この神社、平安京遷都以前からこの場所に位置し、平安京造営にあたって他所に遷座されようとしたのですが、この地にあって都を護る、と託宣したため、引き続き平安京大内裏内に鎮座することになったという由緒があります(『江家次第』という平安後期の儀式書より)。11月に行われる天皇家の年中行事・新嘗祭の前日に行われる準備祭としての鎮魂祭、の前日にこの神社の例祭が行われることから、平安京鎮護の神としての性格が強調されてきたわけですね。
その一方で、「韓神」という名前から外来神であることが早くから取りざたされ、神話、儀礼や神楽の研究をされている業界では一昔前にプチ流行したこともあります(神楽の採物で「韓神」というのがあるのです)。また、山背国(現在の京都市とその周辺及び南部の古称)北部には韓半島からの渡来人・秦氏一族が古くから居住していたため(平安京内裏は秦河勝の邸宅跡である、なんて伝説も中世からすでにあるぐらい)、場所柄、園韓神社も秦氏の奉祀する神社のひとつであろうと言われてきたわけです。
『古事記』掲載の大年神の系譜に、大年神が神活須毘神の女・伊怒比売に生ませた子として、「大国御魂神、次に韓神、次に曽富理神、次に白日神、次に聖神」の5柱が出てくるのですが、園韓神社の韓神をこれにあて、園神は曽富理神にあてるという考え方が本居宣長の頃からあります(宣長は懐疑的ですが)。この『古事記』における大年神の系譜は、前後の話の流れからはやや唐突にあらわれることから本来の神話への部分的な挿入であるとの指摘されており、西田長男さんなんかがいうにはこの大国御魂神以下の5柱の神は秦氏系の神さんである可能性が高いとか。
なんでまた急に、という感じですが、何を隠そうこの園韓神社、ワタシの修士論文のテーマでした(笑)。ちょっと思うところがありまして、問題点の整理をかねてこちらで紹介させていただくことにしましたわけです。
そもそもの興味の出発点は多くの先達同様「韓神」の名の響き。外から来はった神さんが、平安京のしかも大内裏内にあるってどゆこと?という単純な謎に単純に魅せられたのですね。
しかしながら、いろいろ調べているうちに、注目されているのが「韓神」だけであることに違和感を感じはじめたのです。『古事記』での神さんの列挙に従うならば「韓園神社」となるんじゃないのか、秦氏の氏族神だというのならなおさら韓神のほうが先に来てもいいじゃないか。にも関わらず、「園神」と「韓神」が併称される初見から、順番は園神が先。それだけじゃないんですよ、園韓神祭での儀式でも、園神を祭ってから韓神を祭る。神戸だって園神は一座で20戸、対する韓神は二座あってようやっと10戸なんです。なのに園神に対してなされる説明は、秦氏の家の園池神だったのだろうとかその程度。
ですから、「園神」って何ヨ、というのがワタシの最大の疑問点だったわけでして。
懐かしき園神・韓神について、しばらくシリーズでご紹介してみようかなぁと思っております。
平安京大内裏は宮内省の北西に鎮座しましたいわゆる官衙神というやつで、現在には姿を消した神社のひとつです。一般に(といっても一般にこの神社知ってる人なんてマァいませんし業界でも園韓神社、ゆうてハイハイあれねと即答できる方はマレです)「園韓神社」と通称されておりますが、延喜式神名帳によりますと、宮中神の筆頭に「園神社一座、韓神社二座」とありまして、二つの神社をひとまとめにしたものだということがわかります。
この神社、平安京遷都以前からこの場所に位置し、平安京造営にあたって他所に遷座されようとしたのですが、この地にあって都を護る、と託宣したため、引き続き平安京大内裏内に鎮座することになったという由緒があります(『江家次第』という平安後期の儀式書より)。11月に行われる天皇家の年中行事・新嘗祭の前日に行われる準備祭としての鎮魂祭、の前日にこの神社の例祭が行われることから、平安京鎮護の神としての性格が強調されてきたわけですね。
その一方で、「韓神」という名前から外来神であることが早くから取りざたされ、神話、儀礼や神楽の研究をされている業界では一昔前にプチ流行したこともあります(神楽の採物で「韓神」というのがあるのです)。また、山背国(現在の京都市とその周辺及び南部の古称)北部には韓半島からの渡来人・秦氏一族が古くから居住していたため(平安京内裏は秦河勝の邸宅跡である、なんて伝説も中世からすでにあるぐらい)、場所柄、園韓神社も秦氏の奉祀する神社のひとつであろうと言われてきたわけです。
『古事記』掲載の大年神の系譜に、大年神が神活須毘神の女・伊怒比売に生ませた子として、「大国御魂神、次に韓神、次に曽富理神、次に白日神、次に聖神」の5柱が出てくるのですが、園韓神社の韓神をこれにあて、園神は曽富理神にあてるという考え方が本居宣長の頃からあります(宣長は懐疑的ですが)。この『古事記』における大年神の系譜は、前後の話の流れからはやや唐突にあらわれることから本来の神話への部分的な挿入であるとの指摘されており、西田長男さんなんかがいうにはこの大国御魂神以下の5柱の神は秦氏系の神さんである可能性が高いとか。
なんでまた急に、という感じですが、何を隠そうこの園韓神社、ワタシの修士論文のテーマでした(笑)。ちょっと思うところがありまして、問題点の整理をかねてこちらで紹介させていただくことにしましたわけです。
そもそもの興味の出発点は多くの先達同様「韓神」の名の響き。外から来はった神さんが、平安京のしかも大内裏内にあるってどゆこと?という単純な謎に単純に魅せられたのですね。
しかしながら、いろいろ調べているうちに、注目されているのが「韓神」だけであることに違和感を感じはじめたのです。『古事記』での神さんの列挙に従うならば「韓園神社」となるんじゃないのか、秦氏の氏族神だというのならなおさら韓神のほうが先に来てもいいじゃないか。にも関わらず、「園神」と「韓神」が併称される初見から、順番は園神が先。それだけじゃないんですよ、園韓神祭での儀式でも、園神を祭ってから韓神を祭る。神戸だって園神は一座で20戸、対する韓神は二座あってようやっと10戸なんです。なのに園神に対してなされる説明は、秦氏の家の園池神だったのだろうとかその程度。
ですから、「園神」って何ヨ、というのがワタシの最大の疑問点だったわけでして。
懐かしき園神・韓神について、しばらくシリーズでご紹介してみようかなぁと思っております。
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