空と無と仮と

1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り② 糸数分室(アブチラガマ)①

糸数分室というよりも、
糸数の「アブチラガマ」といったほうが、
認知度がどちらかというと高いかもしれません。
南城市の糸数にあるガマ(自然洞窟)です。
平和学習では必ず訪れる場所ではないでしょうか。

もっとも、1990年代は南城市というのは存在せず、
玉城村(たまぐすくそん)の糸数でしたね。
近隣の町村が合併して南城市になりました。
また、その当時は「アブチラガマ」というよりは、
「糸数壕」という名称がよく使われていた記憶があります。

南城市の公式サイトによると、
全長は270mほどあるそうです。
ガマとしては大きいほうに入るのではないでしょうか。

そのガマと「ひめゆり」に何の関係があるかといえば、
それをごくごく簡単に説明すると、
沖縄戦当時、
南風原陸軍病院壕に収容できなくなった負傷兵を、
このアブチラガマに移動させたということなんですね。
だから「糸数分室」なのです。

負傷兵を収容したのですから、
当然、軍医や従軍看護婦等が移動するわけですが、
同時に「ひめゆり」たちもこの糸数分室へと、
少数ながら移動してきたということなんですね。

最初から軍の施設だった南風原陸軍病院壕に対し、
アブチラガマには住民たちが既に避難していて、
軍民共同で使われていたガマでもありました。
さらに詳しい情報をお知りになりたい方は、
インターネットや書籍等で検索してくださいな。
比較的簡単に見つかるはずですよ。


さて、
この糸数壕=アブチラガマに初めて訪れたのは、
90年代中盤の頃でした。

書籍などで事前にある程度の予備知識だけをもって、
とりあえず現地に向かったのですが、
最初はなかなか見つからなかったんです。

予備知識といっても、
現在のようにグーグルマップで一発検索なんてありませんし、
インターネットの情報なんて、
まだまだ影が薄い時代でした。
第一、90年代の後半までパソコンすら持っていませんでしたから…

それにアブチラガマについての詳細な地図だって、
持ち合わせていませんでした。
内部がどうなっているかについては、
詳細に調査したものが既にあり、
書籍化されたものまであります。

ま、地元の人ならすぐにわかるのでしょうけれども、
自分は沖縄に移住していたわけではありません。

その時は自分と友人二人で、
その中の一人は沖縄出身でも北部出身です。
南部地域には親戚もいなくてわからないということで、
場所を特定するために自動車でグ~ルグルしていたのを、
おぼろげながら思い出すことができます。

今回のアブチラガマに限らず、
場所が不鮮明な南部戦跡を一カ所一カ所、
ほとんど一人でコツコツと地図を広げて探していたので、
たとえ見つからなくても「次でいいや」って感じでしたから、
グルグルしてても特に不満はないし、
飽きませんでしたよ。

事前にある程度調べていたのに、
場所がどこだかわからなかったのですが、
意外と役立った情報が一つありました。

なんの書籍か忘れてしまいましたが、
アブチラガマ近くの食堂で、
懐中電灯や長靴を無料で貸してくれる、
確かそのようなことが書かれていたのです。

そういうわけですから、
たとえアブチラガマがわからなくても、
その食堂を探せば何とかなると思いまして、
自動車でグルグルしていた時、
比較的簡単に見つけることができました。
ま、道路沿いでしたからね…

こじんまりとした食堂というか定食屋というか、
比較的小さな建物があり、
その壁面には「懐中電灯・長靴貸します」というような文字が、
手書きの塗料で書かれていましたよ。

南城市の公式サイトによると、
アブチラガマには年間13万人が訪れるそうです。
1990年代も同じかどうかわかりませんが、
懐中電灯や長靴の無料貸し出しがあるってことは、
それなりの人数が訪れていた場所だということかもしれません。

それとも、
その食堂はアブチラガマの訪問客を見込んでいたのでしょうかね。
もしそうだとすれば、
既に大勢の人たちが慰霊や観光や平和学習で訪れていたのかも…

2020年現在では南城市が運営する「糸数アブチラガマ案内センター」が、
懐中電灯やヘルメットの貸し出しをおこなっていますが、
1990年代当時はそのような施設がなく、
食堂経営のついでにやっていた感じもしました。
ちなみに「糸数アブチラガマ案内センター」は2002年開館で、
以前は「南部観光総合案内センター」という名称でした。

とにかく中へ入って懐中電灯を借り、
「糸数壕はどこですか?」みたいなことを尋ねたら、
「自分で探してください」と言われたのをハッキリ覚えています。

文章で書くと「冷たい対応」だと思われるかもしれませんが、
勘違いなさらないでくださいね。
少なくとも自分は「冷たい対応」だと思っておりません。

実を言うと、ちょうどお昼時の時間でして、
カウンター席には作業服を着たおっちゃん、
あんちゃん連中がぎっしり座っていました。
多分、道路の拡張工事なんかをしていた、
建設作業の人たちじゃないかな。
現に大規模な道路工事をしていましたから。
それに対して、
厨房では女の人がたった一人で切り盛りしていたのです。

そんなクソ忙しい時に聞いたもんだから、
タイミングが非常に悪すぎましたね。
誰だってそうなると思いますよ。
そういうわけですから、
たった一人で立ち回る相手のことを考え、
懐中電灯を借りただけですぐに退散しました。

しかし困りました。
結局自分たちで探さないといけません。
しかも、これまたタイミングが悪く、
夕方の便で東京に帰る予定でしたから、
それに合わせて那覇空港へ行かなければなりません。
だから出来るだけ早く見つけたかったのです。
「次でいいや」なんて余裕なことを言ってはみましたが、
やはり時間の制約からは解放されませんね…

ガマというより自然洞窟の入口なのですから、
それなりの特徴があるのではないかと思い、
自動車から降り3人で周囲を見渡しながら、
ブラブラしてみることにしました。

なんか、わかるんですよね。
整地された畑に囲まれていても、
そこだけが木々に覆われているというか、
鬱蒼とした茂みがある、っていうような、
そんなイメージなんですよね、
南部地域のガマっていうのは…
慰霊碑とかが建立されていたら、
遠くからでも見つけやすくて、
非常にわかりやすいんです。

村道というか農道というか、
畑や民家の間をキョロキョロしながら、
細い道路を5分ぐらい歩いたでしょうか、
幸運にも木々が鬱蒼とした場所に出くわし、
すぐにそこが入口だとわかりました。

現在のアブチラガマは「入口」と「出口」が設定されていて、
「入口」は住宅地のすぐそばにある細い通路で、
「出口」は木々が鬱蒼と茂っている広い場所です。
その「出口」を見つけたということになります。
当時はそんな設定はされていませんでしたね。
「南部観光総合案内センター」ができた2002年以降だと思います。

後でわかったことなのですが、
懐中電灯を借りた食堂を起点とするならば、
「入口」側のほうが近かったのです。
ちょっと振り向けばすぐ見つかるほどの距離ですが、
自分たちは真逆の方向を歩いていってしまったので、
結果的に「出口」のほうへ向かったというわけでした。

でも、当時は案内板がなかったような気がするんですよね。
それとも見落としただけなのかなぁ…
ま、いいか。


次回以降に続きます。



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

最新の画像もっと見る

最近の「1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り編」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事