空と無と仮と

1990年代の沖縄旅行 「白梅」戦跡巡り① 「白梅」の簡単な説明です


沖縄戦の代表的存在としての「ひめゆりの塔」は、
圧倒的知名度がありますが、
それに対し「白梅の塔」はどの程度の知名度、認知度なのか、
自分にはちょっとわかりません。

1990年代の戦跡巡りで思い出すのは、
糸満市国吉にある「白梅の塔」に行くと、
観光客や平和学習と思しき児童、
あるいは生徒さんたちのグループと遭遇したことです。

しかし「ひめゆりの塔」より圧倒的に少なく、
いつも閑散としていた印象がございます。

そういうわけでありますから、
現在はどの程度平和学習に取り入れられているかも、
ちょっとわかりません。

そういったことを含め、
今回「白梅」を取り上げる前に、
この「白梅」がどのようなものであったかを、
まずは説明したいと思います。





上記の画像は「白梅同窓会」が発行した書籍です。
一見すると違うものに見受けられますが、
「平和への道しるべ」は平成7年(1995年)発行で、
「白梅」は平成12年(2000年)発行の改訂版ということになり、
ほぼ同じものであります。

少し長くなりますが、
これらの文献に解説が掲載されておりましたので、
以下に引用させていただきます。



白梅之塔

 「白梅之塔」は、沖縄県立第二高等女学校の沖縄戦戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄戦に動員されて戦死した二十二名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員(十二柱)、同窓生(百十三柱)、計百四十七柱が合祀されています(一九九八年六月現在)。
 塔は、糸満市字国吉の南約一キロほどの地点にあります。字真栄里と字真壁そして字国吉の三か字の中間ほどに、周りを農地で囲まれた小さな雑木林(通称ウテル原)があり、その静かな佇まいの中に建てられています。

(中略)

 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六名で編成された白梅学徒看護隊(白梅隊)は、一九四五(昭和二十)年三月六日、第三十二軍(沖縄守備軍)司令部の要請により、東風平(こちんだ)国民学校に開設されていた第二十四師団衛生看護教育隊(符号・山三四八六廉嵎(かどおか)隊)に入隊し、連日、補助看護婦としての特別集中教育を受けました。

 沖縄本島南部への米機動部隊の攻撃が激化した三月二十四日、衛生看護教育は打ち切られ、急遽、東風平村(現在の東風平町)富盛の八重瀬岳中腹に置かれていた、第二十四師団第一野戦病院本部へ配属されました。その日から、白梅隊員は、軍属として軍と運命を共にすることになり、補助看護婦として傷病兵の看護をすることになりました。

 四月一日には、米軍が沖縄本島中部西海岸の読谷、北谷、嘉手納一帯の海岸に上陸。住民を巻き込んだ地上戦に突入。絶対的な戦力に勝る米軍の進撃に対して日本軍は次々と敗退し、五月末、首里攻防戦に破れてからはじりじりと沖縄本島南部地域への後退を余儀なくされていきました。

 六月三日、山第一野戦病院は八重瀬岳の病院壕を放棄し、高嶺村(現在の糸満市)国吉への撤退を決行。翌四日、ついに白梅隊員に解散命令が下ります。

 「最後まで軍と行動を共にしたい」と訴えましたが、叶いませんでした。白梅隊員は、陸と海そして空から容赦なく打ち込まれる鉄の暴風雨のなかを彷徨し、一人また一人と戦火に斃れて二十二名の犠牲者をだしました。

 白梅学徒看護隊は、引率教職員の参加も許されず支柱を失った形の動員でした。それが生徒たちに与えた心理的影響は、計り知れないほど大きなものがあります。

 解散後、国吉の通称ウテル原に後退した山第一野戦病院壕に、国吉付近を逃げ惑っていた白梅隊員十六名が、再び迎えられて勤務に就きました。折りしも、米軍の攻撃の標的が国吉台地へと向けられた頃です。六月二十一日から二十二日にかけて、国吉台地は米軍の猛攻撃に曝され山第一野戦病院は壊滅。白梅隊も多くの犠牲者を出しました。
 

白梅学徒看護隊

 「白梅学徒看護隊」とは、一九四五(昭和二十)年三月六日から六月四日まで、学徒勤労動員令によって第二十四師団第一野戦病院(符号・山三四八六安井隊)の従軍補助看護婦として、沖縄戦に動員された沖縄県立第二高等女学校の四年生、五十六名編成の学徒隊のことです。

(中略)
 
 県立第二高等女学校(略称、第二高女)の学徒隊を「白梅学徒看護隊」、または「白梅隊」と呼ぶようになったのは戦後のことで、沖縄戦に動員された県内各女学校学徒隊の、学校別を表して呼ばれるようになったものです。

 沖縄戦に動員された女子学徒隊は、図書や映画で紹介され、広く知られている「ひめゆり学徒隊」の他に、「なごらん学徒隊」(県立第三高等女学校──引用者注)、「ずいせん学徒隊」(県立首里高等女学校──引用者注)、「梯梧(でいご)学徒隊」(私立沖縄昭和女学校──引用者注)「積徳(せきとく)学徒隊」(私立積徳高等女学校 ──引用者注)などがあります。

(中略)

 白梅は、沖縄県立第二高等女学校のシンボルとして、校歌に謳われ、校旗、校章には清楚な白梅の花がデザインされていました。

(中略)

 一九四五(昭和二十)年二月、県立第二高女の稲福全栄校長(戦没)は、第三十二軍司令部より、「生徒に看護教育を受けさせるように」との要請を受けました。

(中略)

 那覇近郊や本島中・南部で避難生活をしていた生徒たちに、軍の陣地構築作業のかたわら、焼け残った知事官舎で、球(たま)部隊の衛生兵による看護教育が始まりました。正確な記録もなく、今となっては実数を摑む術もありませんが、七十名ほどだったでしょうか。三月に入って「四年生を補助看護婦として入隊させるように」との軍司令部からの命令で、稲福校長から生徒たちへ軍の命令が伝えられました。

 「疎開する者や家庭に事情がある者、身体の調子が良くない者は無理をするな」
 校長は入隊を強要はされなかったものの、訓話の端々には、若い君たちがこの沖縄を守らなければ誰が守るか。君達は是非居残ってお国のために働いてくれ…とのニュアンスを、生徒たちの誰もが感じ取っていました。


白梅同窓会編 『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』
(クリエイティブ21、2000年)


次回以降に続きます。


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