残照日記

晩節を孤芳に生きる。

小学校の閉校

2010-12-24 12:48:38 | 日記

∇報道によれば、実際に使われているものとしては全国で最も古いとされる校舎がある岡山県高梁市の吹屋小学校が、児童数の減少を受けて、再来年の3月末で閉校する見通しとなった。鉱山が稼働していた最盛期には、300人を超える生徒数を誇ったこの小学校も、現在は1年生と4年生、それに5年生の6人が学ぶだけ。説明会に出席したおよそ30人の住民から反対する意見は出されず、教育委員会の提案どおり閉校が決ったとのことだ。吹屋小学校の木造校舎は、明治33年(1900)に建設され、中央本館が2年後に完成した。そしてその2年後の明治37年に日露戦争が勃発した。当時の世相、小学校の普及状況などを岩波日本史年表や、「新聞記事で綴る明治史」(荒木昌保編)「明治東京逸聞史」(森銑三)「日本教育史」(佐藤誠実)「夜明けあと」(星新一)等々から幾つか拾って往時を回顧してみたい。

∇先ず人口規模だが、推計によると、明治5年に日本の総人口は約3500万人、明治33年頃は4500万人、5000万人を超えたのが明治45年だという。当時世界人口は約10億6500万人、米国は7600万人。平均寿命は40歳~45歳だった。小学校開設の布告は明治2年(1869)。<諸道府県ニ於イテ小学校ヲ設ケ、人民教育ヲ普ク施行>すべしと通達されたが、実際設置に着手したのは京都府が第一号だった。その後度々教育令の改正があったが、軌道に乗り始めたのが明治19年の「小学令」から。義務教育として年齢6歳から4年間を修業年限とした尋常小学校、更に4年就学する高等小学校が設置された。学科は、尋常小学校が修身、読書、作文、習字、算術、体操とし、高等小学校はそれに地理、歴史、理科、図画、唱歌が加わった。そして明治33年に再び「小学校令」が改正され、明治児童教育の骨格が固まった。

∇上述の吹屋小学校が建設されたのも丁度その時期に当る。当時全国小学校の総数は26,856校、生徒数は418万人余だったという。(「日本教育史」) 因みに政府の2008年統計では、小学校総数が22,476校、生徒数は約712万人である。学校総数が変わらない処から鑑み、明治33年頃にはほゞ全国に小学校が行き渡っていたことが知れる。尚、別統計で小学校の就学率は、明治33年時点で男子が90.4%、女史70.7%、即ち国民の約8割が初等教育を受けていたことになる。明治維新以来、日本の近代化が短期間で成就された背景には、こうした児童教育の徹底が寄与していると断言してよい。全くの余談になるが、岡山県高梁市といえば、我が崇拝する陽明学の泰斗で財政家の山田方谷の出身地だ。幕末に松山藩財政を建て直し、借金10万両を返済、かつ余財10万両を蓄財した。地元住民の嘆願により、昭和3年「山田方谷駅」ができた。方谷談はいずれ又──。

∇さて、明治33年といえば、中国での「義和団」騒動で喧しかったり、国内では伊藤博文が立憲政友会を土台として第四次伊藤内閣を発足させたりと政治的に話題の多い年だったようだが、教育面では「鉄道唱歌」が作曲されて大流行した。「鉄道唱歌」は、第一集「東海道編1」(新橋~岐阜)が5月、9月に第二集「東海道編2」(大垣~神戸)、10月に第三集「山陽・九州編」(神戸~長崎)、第四集「奥州・盤城線編」(上野~青森~上野)……と、第六集まで矢継ぎ早に刊行された。歌詞は膨大量の節からなるが、関東で流行ったのが「東海道編1」の一、二番。<1.汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として><2.右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも>。「奥州・盤城線編」に<7.次に来るは古河間々田 両手ひろげて我汽車を 万歳と呼ぶ子供あり おもへば今日は日曜か>などがあって面白い。

∇滝廉太郎が「花」を作曲したのもこの年だ。作詞は武島羽衣、廉太郎21歳の時の作品である。彼は東京音楽学校在学中からピアニスト、作曲家として評判が高かった。「花」は組歌「四季」として出版され、日本初の芸術歌曲と呼ばれた。滝は、既存の唱歌集を<程度の高きものは極めて少なし>と批判、自ら日本の詩に合せた曲を発表し<以て此道に資すあらんとす>と述べた。この言葉を裏付けるように、「荒城の月」「箱根八里」などの傑作を次々発表している。(岩波「唱歌・童謡ものがたり」) 「荒城の月」は「中学唱歌」に収められた。廉太郎23歳の時の作品だが、作詞は明治詩壇の雄で30歳の土井晩翠。かくして当時一流の詩人、文人、作曲家、科学者が総動員されて児童教育に参画した。それは、当然ながら教科書作りにおいても然り、だった。明治33年の「小学校令」改正に伴い「国語読本」が続々発刊された。就中富山房版の坪内逍遥編の読本は秀逸である。二宮金次郎、徳川光圀、菅原道真らが語られ、「正直の徳」が推奨されている。活発発地な躍動とえもいわれぬ風韻に満ち、真摯に生きる国民を醸成した日本の良き時代「明治」は、最後の小学校の校舎と共に消えてゆくのだろうか。

<第七課 皇后陛下の御歌>(尋常小学校「国語読本」巻五)

金剛石も磨かずば、玉の光は添はざらん。人も学びて後にこそ、誠の徳はあらはるれ。時計の針の絶え間なく、めぐるが如く時の間の、日かげ惜しみて励みなば、如何なる事か成らざらん。──此の御歌は、皇后陛下(昭憲皇后)が、我々どもに、勉強をすすめたまふ御歌なり。

敬天愛民

2010-12-23 08:53:25 | 日記
○うけつぎて 国の司の身となれば 忘るまじくは 民の父母  
(上杉鷹山公が藩主就任時に詠んだ歌。時に公は17歳)

>雲洞庵にて、通天存達和尚から「敬天愛民」の教えを賜った、と現地では伝わる。(「国を成すには人を成すを以てす」の教えも)、又、上杉家には、謙信公の頃からお抱えの儒学者がいた。(元領民氏コメントより)

∇先ずは「元領民」殿の嬉しい情報提供に深謝申上げます。有難うございました。以下はそれをヒントに駄文を……。NHKドラマで加藤武が演じた通天存達禅師は、下野(栃木県)にある日本最古の最高学府・「足利学校」に学んだ俊僧だったそうである。ここでのカリキュラムの中心は儒学であった。「四書五経」は勿論のこと、兵学、医学も教授されたので、全国の英才がこぞって学び、それぞれの国許へ質の高い文化を持ち帰り、自らも戦国大名らに取り立てられて活躍した。「敬天愛民」「国の成り立つは民の成り立つを以てす」等は、特定される典故は見当たらないが、禅師自身が儒学の根幹をなす思想を自得・敷衍したものであろう。いずれにせよ「詩経」・「大学」に、<楽只の君子は民の父母=君子たるものは、「民の父母」たるべく民を愛すべし>、とあるように、「下民への愛」が為政者たる者の使命。直江兼続が少時にその教えを禅師から受けたことは想像に難くない。

∇又、「元領民」氏ご指摘のように、上杉謙信公にはお抱えの儒者がいた。名を山崎秀仙、号を専柳斎と称した。元は佐竹義重に仕えていたのを謙信公に認められ、奉行職も務めたようだ。「四書五経」は勿論、老荘思想も講じたという。岡谷繁実著「名将言行録」に、「上杉謙信公家訓十六ヶ条」が載っているが、始めの三箇条はまさに儒経の教えそのものである。<一、心に物なき時は心広く体泰(ゆたか)なり><一、心に我儘なき時は愛敬失わず><一、心に欲なき時は義理を行う>。「心広く体胖(ゆたか)なり」は「大学」、「愛敬」は「孟子」、「義理(義)」は仁・義・礼・知・信の「義」だ。尚、「愛敬」は「愛と敬」の意で、<孟子曰く、人君が賢者を招致するには、高禄を与えるだけではいけません。賢者を愛しかつ敬しなければ、獣を養うのと一緒ですから、と。> 「人を愛す」は、「人を敬す」が伴ってこそだ。

∇幕末、会津戦争・東北戦争を指揮したのが西郷隆盛。彼の思想に有名な「敬天愛人」がある。「西郷南洲遺訓」に曰く、<道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり>と。「敬天」は「愛民」「愛人」のバックボーンを支える儒学思想の根幹である、と言っていい。「元領民」氏の故郷には、南洲翁より先に「敬天愛民」を実践した直江兼続がおり、その没後150年、上杉家第十代藩主に上杉鷹山という名君を高鍋藩より迎えて、「領民」は再びその慈愛を受けることになる。──蛇足に蛇足を加えるが、直江兼続の逸話が載る言行録を幾つか紹介しておくことにする。先ずは新井白石著「藩翰譜」・上杉家に挿話が載る。入手しやすい歴史読物は、湯浅常山著「常山紀談」(岩波文庫)、岡谷繁実著「名将言行録」(教育社)、山田三川著「想古録」(東洋文庫)などである。

∇<越後の侍大将直江山城守兼続は、朝日将軍義仲の乳子、樋口次郎兼光の末孫である。謙信に仕えて景勝に至る。景勝が奥州にて百万石を賜りし時、米沢三十万石を直江に与えられ、陪臣の中では第一の大録であった。長(たけ)高く容儀骨並びなく、弁舌明らかに、殊更大胆なる人なり。且つ文芸にも暗からず、五臣注の「文選」はこの人版行させたるなり。>(注:「直江版文選」と呼ばれる貴重本。呂延済、子良、張銑、呂向、李周翰の5人が注をつけた「五臣注文選」が原本。兼続は大変な蔵書家であり、宋版「史記」「漢書」「後漢書」は、いずれも国宝に指定されている。) 又、漢詩も能くし、春雁似吾吾似雁 洛陽城裏背花帰(春雁吾れに似て、吾れ雁に似たり。洛陽城裏、花に背(そむ)きて帰る)などという句も世に聞こえたり。>

∇<伏見の城で諸大名が並びいる中、伊達政宗が懐中から金銭を取り出して皆にみせていた。当時は貨幣が出始めたばかりで、珍しいものとしてもてはやされていた。兼続にも、「これみられよ」と言葉をかけた時、兼続は扇の上にその金銭を置いて、打ち返し打ち返し女子供らが羽根突きでもするようにして見ていた。伊達政宗が「気にせず手にとってみられるがよい」と言いも終わらぬうちに、兼続は「我が主謙信の時から、先陣を承り、采配を振るったこの手に、金銭如き賎しい物に直接手に触れては、汚れます故、このように扇に載せたのです」と言って、金を政宗の方にぽいと投げて戻した。>(以上「常山紀談」)→<政宗は非常に赤面した、ということである。>(「名将言行録」)→<家康は満面に怒気を含んで、舌鋒鋭く問責したので、終身人に屈することのなかった兼続も流石に答弁に窮し、その場で平伏したそうな。>(「想古録」) 嗚呼、今、世紀末、「敬天愛民」の為政者の出んことを!


直江兼続の愛

2010-12-22 12:13:40 | 日記
<元旦> 直江兼続作

楊柳其賓 花主人 
屠蘇挙盞 祝元辰 
迎新送旧 換桃符 
万戸千門 一様春 

<新春の楊柳は其の賓(客人)で、さながら花は主人。屠蘇(とそ)の盞(杯)を挙げて元辰(元日)を祝す。 新年を迎え、旧年を送って神棚の桃符(どうふ=御札)を交換する。嗚呼、万戸千門(すべての家々)、陽光が差して一様に春だ。>

<「愛」について、天地人の「直江兼続の愛」と、「現代の我々の言う愛」 (両者の愛を同一と考えていない)の、生涯にわたっての芽生えから終焉までの変遷を、心の持ち様や努力>について語れ。(「一陽来復」への12月21日の林氏のコメントより)

∇上杉景勝に仕え、名家宰と謳われた直江兼続を主人公とした、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」(火坂雅志原作)は大変なブームを呼んだ。老生もほゞ全編を見た。豊臣秀吉に、小早川隆景、堀直政そして直江兼続を以て「漢の三傑に比すべし」と激賞された智謀勇武なる彼は、上杉謙信の元で「義」の精神を学び、「愛」の字の兜の前立を付けて戦ったといわれる。“愛と義に生きた直江兼続”というのがドラマのモチーフであった。

∇「直江兼続の愛」とは何か。喧喧諤諤の論争があるが、趨勢は以下の如くのようである。<この「愛」の字については、俗説として「仁愛」や「愛民」の精神に由来するとも言われるが、上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した「毘」の字を旗印に使用するなど、当時、神名や仏像を兜や旗などにあしらうことは広く一般に行われていたことから、軍神である「愛染明王」または「愛宕権現」を表したものとの理解が大勢である。>(フリー百科「ウィキペディア」)

∇要するに、儒教ではなく仏教に由来するものだ、との見方である。上杉謙信の「毘」は、謙信が信仰していた毘沙門天の一字から来ていることは明白である。毘沙門天は仏法守護の神で、東方を持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天(=毘沙門天)が守護するとされた。都から見た北方を守る越後の謙信が、毘沙門天を祭り尊崇した所以であろう。だが、直江兼続の「愛」は愛染明王(あいぜんみょうおう)、または愛宕権現の愛だろうか。

∇辞書によれば「愛染明王」は、<愛欲の煩悩がそのまま悟りにつながることを示す明王。像は一般に、全身赤色、三目六臂で弓矢などを持ち、顔には怒りの相を表す。恋愛成就の神として水商売の女性や、「藍染」に通じるところから染め物業者の守り神として信仰される。>(「大辞泉」)とあり、「愛宕権現」は、もともとは防火の神であるが、「愛宕神社」には雷神や勝軍地蔵が祀られ、祈ればかならず戦に勝つとして武将の間に信仰されたという。(小学館「日本大百科全書」)──己の軍神として兜の前立に「愛」の字をあしらう直江兼続では、イメージがダウンする。

∇老生の推測は、寧ろ儒教思想からの「愛」を想定する。──周知の通り、直江兼続は幼少の頃から優秀で、それが上杉謙信の姉で上杉景勝の母・仙洞院に認められ、上杉景勝の近習として仕えた。二人は幼少時「雲洞庵」で勉学に励み、時の住職・通天存達に鍛えられた。雲洞庵は越後ではじめての曹洞宗寺院だそうだが、坐禅の傍ら、当然儒教の経典である「四書五経」、就中「大学」「中庸」「論語」「孟子」の「四書」は誦習したに違いない。老生は「大学」や「論語」「孟子」に説く「愛」の影響が大きいと考える。一例を以下に牽く。

∇「大学」に曰く、<唯だ仁人のみ能く(本当に)人を愛し、能く人を悪(にく)むと為す>と。<孔子が言うには、千乗の国(大国)を治めるには、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てせよ、と>(学而篇)<樊遅という弟子が仁とは何でしょう、と孔子に尋ねた。孔子曰く、「人を愛することだ」と>。(顔淵篇)<弟子の子遊が孔子に言うには、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易い、と>(陽貨篇)。「孟子」は愛子さま命名の出典となった、<孟子が言うには、仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬す。人を愛する者は、人恒(常)に之を愛し、人を敬う者は人恒に之を敬す、と>(離婁章句下篇)だけを挙げておこう。

∇要するに儒教で使用される「愛」は、「為政者の人民に対する愛」を指している。人民の上に立つ君主、政治家は、民に仁を以て親愛せよ、と。「直江兼続の愛」とは畢竟、「大学」の首章に出る<人民の上に立つ者の道は、己の明徳を明らかにすることであり、民を親(愛)することにあり>とする治国下の民や部下に対する愛であったと思われる。「愛」には、一般的に、<親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち><ある物事を好み、大切に思う気持ち><異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情>などがあるが、兼続の愛は、<個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心>や、キリスト教でいう<神の、人間に対する自発的、無条件的絶対愛>に近い愛ではないか。

∇蛇足ではあるが仏教的愛は寧ろ<主として貪愛即ち自我の欲望に根ざし解脱を妨げるもの。愛欲、愛着、渇愛→迷いの根源>を指し、所謂「愛」には「慈悲」という言葉が近い。(以上「愛」の解説は「大辞泉」) 尚、少年時代の直江兼続は上杉謙信のもとで「目先の利に捕らわれるな。義=正しく生きることこそが ”義”の精神だと、厳しく教えられたと伝わっている。「愛」の精神を内に秘め、「義」を行なう。<子曰く、君子は義を以て上となす>(陽貨篇)<子曰く、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る>(里仁篇)<子曰く、義を見て為さざるは勇なきなり>(為政篇)etcetc 林氏の問、<(直江兼続の)生涯にわたっての芽生えから終焉までの変遷、心の持ち様や努力>は、「義人としての生き方を貫く」ことにあったように思う。


一陽来復

2010-12-21 09:45:19 | 日記
<一陰一陽、之を道という。生々する、之を易という。>
      (「易経」繋辞上伝)

(主旨:一方に陽があり、他方に陰があり、陰と陽とが程よく調和して和合一致しているか、又は時として陰が主となって活動し、逆に陽が主体となる。世の中とはそうしたものである。陰陽が時節ごとに変化しながら運行する。これが天地の道であり、易の道でもある。又、万象を大局的に観察すると、陰極まれば陽を生じ、陽極まれば転じて陰を生ずる。このように陰陽が時々刻々変化し、極まれば窮通していくのが自然の理であり、これを事物にあてはめたのが易の理である。)

∇菅首相と小沢一郎元代表との会談が不発に終わった。首相が小沢氏に自発的に政倫審に出席するよう要請したが、小沢氏は、これを拒否したうえ、政倫審が招致を議決しても出席しないと明言した。さぁどうする? 今朝の新聞各紙は一斉に社説で取り上げ、小沢氏や党の対応に厳しい批判と注文を浴びせた。<小沢氏国会招致 実現には証人喚問しかない>(読売)<菅・小沢会談 もはや証人喚問しかない> (産経)<政倫審出席拒否 小沢氏招致の議決急げ>(毎日)<小沢氏拒否―執行部は強い姿勢で臨め>(朝日)──<残念というより、情けないというべきだろう。>(毎日)<「一兵卒」にいつまで振り回されるのか。>(産経)は、今国民の誰もが抱く、“苛立ち”を代弁していると言っていい。

∇<予想されたこととはいえ、その重い政治責任を果たそうとしない小沢氏のかたくなさに驚く。>(朝日)<三権分立を盾にするかのような(小沢氏の)主張は全く筋が通らない。……政治家には、裁判での法的責任以外に、国民に説明するという政治的責任がある。>(読売)。そして更に、民主党は「セレモニー」「茶番劇」で終わらせるな、「政治とカネ」問題に決着をつけろ、が全紙共通の主張だった。「天声人語」氏曰く、<脱小沢×親小沢の対立軸をいっぺん折らねば、日本の政治は前に進むまい。どうせ戦うならとことん、しかしさっさとお願いする。一年で昼が最も短い冬至。ここからは日が長くなる一方ということで、一陽来復の語がある。すなわち、陰極まって陽戻る。太陽が元気を盛り返すように国政も、と願わずにはいられない。> 同感である。

∇今日は暦の上では「冬至」。二十四節気の一つで、「暦便覧」では<日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也>と説明している。実際の天文学的にはズレるが、慣習的にこの日を、一年中で一番昼が短く夜が長い日のこと、としている。「天声人語」にも出るように、日本では、この日に柚子湯に入り、南瓜を食べると無病息災の効ありとされている。「一陽来復」は「易経」・地雷復の卦から発祥した言葉である。現在流布している易占いは、「周易」をもとにしているが、そのグループは64卦に大別される。そして64卦は、1・乾→2・坤から始まり、23・剥→24・復……63・既済→64・未済と、物事が時々刻々変わるさまに添って順番が決まっている。これを説明したのが「序卦伝」である。

∇その「序卦伝」に、前の卦である「山地剥」からこの卦に移ることを説明して、<物は以て尽きるに終わらず。剥、即ち剥奪・剥ぎ取ることが窮まれば下に反る。故に之を受けるに復を以てす。>とある。大雑把ではあるが若干説明を加えよう。物事は陰と陽の消長(盛衰)で説明できる、とするのが易の世界観である。善いこと(陽)でも悪いこと(陰)でも、それらは少しずつ進む。それが盛んになり頂上に達した瞬間、陰が陽に又陽が陰に変化する。善いことばかりは続かず、悪いことも然りだ。「剥」の卦は陰の勢力に追われて陽が極まった状態を表す。すると易の原理では、この状態はいつまでも続かず、陽が反転する契機を迎える。この陽が復(戻)って来る状態が“一陽来復”なのである。

∇<天下の乱れが頂上に達すると、その瞬間に、天下が復た治まるべき微妙なる萌があらわれるのである。この微妙なる萌の表れている状態が、この地雷復の卦である。地雷復の卦になったからと言って、直ちに陽気が盛んになるのでは無い。一陽来復の冬至の後に、冬至よりも一層寒い小寒大寒が来るのである。しかし冬至より以来、陽気は徐々に且つ確実に盛んになりつつあるのであり、そうして遠からずして春の暖かい季節になるのである。>(公田連太郎著「易経講話」) 確かに節気はこの後、「小寒」(1月6日)、「大寒」(1月20日)そしてやっと「立春」(2月4日)を迎える──今回の菅首相と小沢一郎元代表との会談の破談が、紆余曲折しながらも、新しい日本の未来を開く「一陽来復」になるべく与野党諸氏の善処を願う次第である。

言葉が軽い

2010-12-20 06:24:42 | 日記

<民主党の鳩山由紀夫前首相は18日午後、北海道苫小牧市で開かれた地元後援会の会合で「国益に資する政治を行うため、皆さまの期待を頂けるなら、次の衆院選でも行動を共にしたい」と述べ、首相退陣の際に表明した政界引退の意向を正式に撤回した。鳩山氏の方針転換に対しては、党内外から「言葉が軽い」などと再び批判が出そうだ。>(12/18 時事通信)<民主党道連の佐野法充幹事長は「(鳩山氏の引退発言は)『綸言(りんげん)汗のごとし』というのか。どういう経緯で、そういうこと(引退撤回)になったのか、詳しく聞かなければコメントしようがないと述べた。>(12/19 毎日新聞)

∇まったくまぁ、という感じだ。呆れてものもいえない。ところで、佐野道連幹事長が適切に引用した古語、「綸言汗のごとし」は、「漢書」(劉向伝)が典故である。<出た汗が再び体内に戻り入ることがないように、君主の言は一度発せられたら取り消し難いこと。>(大辞林)──劉向(りゅうこう又はりゅうきょう)は、今から2000年以上昔の前漢末時代の学者。「列女伝」「説苑(ぜいえん)」「新序」等の著作で知られる。元服したのち、品行方正につき、抜擢されて天子を諌め忠告する役目である諫議大夫になった。宣帝崩御後、元帝にも尊任され、散騎宗正に出世し、帝の輔弼役を担った。だが権力をほしいまゝにしていた宦官らに疎まれ、上奏した書翰が逆利用されて讒言され、投獄・免官の憂き目にあう。

∇劉向はめげずに今度は密封の上書を元帝に献じた。その長い諫言文中に出るのが「綸言汗のごとし」である。小竹武夫訳「漢書4」(ちくま学芸文庫)から当該部分を引用させて頂く。劉向曰く、<『『易』に、「渙するときに其の大号を汗にす」とあり、号令は汗のごとく、ひとたび流れ出た汗は元に反らぬという意味であります。いま善い命令を出しながら、そのあとですぐ撤回するなら、これは流れ出た汗を元に戻すことであります。云々> 「綸言」は君主が下に対して言うことば。みことのり。即ち、艱難の時、君主たる者が、天下を救済すべく号令を発するに当っては、一度肌から出た汗が元に戻らぬよう、断乎として変更しない覚悟でなければならないと、元帝の変節極まりない“言葉の軽さ”を諫言したのである。

∇鳩山前首相は6月に首相を辞めた時に、「首相は影響力をその後も行使し過ぎてはいけない」と、格好の良い言葉を弄して、次の衆議院選挙への不出馬を表明していた。それが僅か半年でコロリと変わる。「旧約聖書」箴言に曰く、<愚かな者も黙っている時は、知恵ある者と思われ、その唇を閉じている時はさとき者と思われる>と。もと/\軽い人なのだから、余計なことを言わなければ良かったのだ。言葉の軽さは、イコール人間の軽さなのだから……。たま/\切り抜き資料の整理をしていたら、故周恩来夫人が亡くなる前に中国共産党中央に宛てた遺書の要旨が載った記事が出てきた。周恩来氏と共に清廉な印象で親しまれ、それを最期まで貫いた御仁である。現在の中国に対して、日本人の86%が中国嫌いになっているそうだが、学ぶべき大人は沢山いる。

<人間はいつか死ぬものだ。私の死後の処理について、党中央が以下の要求を受け入れるよう心よりお願いする。一、遺体は解剖後、だびに付す。二、遺骨は残さず、まき捨てればよい。周恩来同志と約束して決めたことだ。三、遺体の告別式は行なわない。四、追悼会は行なわない。これらは、一九七八年七月一日に書いたものだが、さらに二点を付け加える。一、私の住んでいた建物は、かつて周恩来と一緒に住んでいた国有のものであり、間違っても旧居だとか記念館だとかに使ってはならない。二、周恩来同志の親類、めいなどへの扱いについて、周恩来同志との関係または周恩来同志への思いゆえに、組織原則と組織規律を越えた配慮をして欲しくない。これは周恩来同志が生前一貫して実行してきたことだ。私には親類はまったくおらず、唯一遠くに住むめいも、本分をよくわきわめており、私との関係をもとに、なにか要求や配慮を求めたことはない。穎超 一九八二年六月十七日書き直す>(平成4年7月11日朝日新聞)── 夫婦共に言を守り、「一貫」した廉清な人。学ぶべきなり!